04: 天使殺し 【BL/R15】

 日の出の鐘とともに、何かが自分の上を乗り越えていくのを感じて、スィグルは目をさました。

 すぐ隣から聞こえる、押し殺した争う声に目を向けて、スィグルは何度か目を瞬かせる。まだ眠気でまぶたが重かった。

「なにやってんの、イルス」

 ぼんやり問うと、白い体を押さえ込もうとしていたイルスが、こちらに彼の褐色の肌をした顔を向けた。

「天使殺し」

 笑って答えるイルスの下にいるのは、確かにシュレーだった。

 痛い、と天使はしきりにイルスを叱責していた。

 シーツを波打たせて争うふたりは、まるでチョコレートとクリームのようで、甘い味がしそうだった。

「おはよう猊下。なんで逃げないの」

 寝台にうつぶせに半身を起こし、乱れた黒髪に手櫛を入れながら、スィグルは小さく喚いているシュレーの顔を覗き込んだ。

「足が痺れているんだ」

 その通りらしい顔で、シュレーは答えた。イルスがシーツの中で彼の脚を押さえ込んでいる。シュレーがまた悲鳴をあげた。

 楽しそうだなあ、と、スィグルは眺めた。

「助けてくれ、レイラス」

 スィグルの上腕をつかんで、シュレーが頼んだ。スィグルは薄く笑って首をかしげた。いい眺めだった。

「シェルは今日は、そっち側に落っこちたのかなあ」

 ぼんやりシュレーに尋ねると、天使はきゅうに、鋭い笑い声をあげた。

「やめろ、くすぐったい」

 自分を跨ぐイルスを睨み上げ、シュレーが怒った。イルスがシュレーの脇をくすぐっている。

 シュレーは案外、くすぐると弱いらしく、身をよじって笑った。

 いつのまにそんなことを発見していたのか、スィグルは感心してイルスを見上げた。

「シェルはさっき、あっち側に落ちた」

 寝台の反対側を顎で示して、イルスが答えた。

 気づいたんなら、止めてやりゃあいいのに。

「レイラス」

 寝台から抜け出ようとしたスィグルに、笑いながら、シュレーはどこか怒ったような声で強く呼びかけてきた。助けろと言いたいんだろう。

「水持ってきてくれ、スィグル」

 暴れる天使を押さえ込んで、イルスがのんびりと頼んだ。そういえば喉が渇いている。

 シュレーが突然、痛いのとも、くすぐったいのとも違う、短い声をあげた。

 いいなあ、と呟きながら、スィグルは裸足のつま先を、寝室の絨毯に下ろした。

 床に散らばっている誰のかわからない服を、避けずに歩いて、スィグルは寝台の反対側に落っこちて眠っているシェルのほうへ行ってみた。

 まだシーツにくるまったまま、シェルはうつぶせに落ち、ぐうぐう寝ている。

 落ちて顔を打っても起きないなんて、どんな眠り方してるんだろう。スィグルはあきれながら、寝息をたてているシェルの、安らいだ横顔を見下ろした。

 水差しは寝室の小卓のうえにあった。昨夜は冷たい汲みたての水だったが、もうすっかり夏の朝の空気に温められていた。

 そばにあった錫製の酒杯に水を注いで、スィグルはそれを寝台のもといた場所に運んだ。

 口元に酒杯をやると、イルスはものも言わずに、そこから飲んだ。傾けすぎた杯から、水がこぼれて、イルスの裸の胸を伝い落ちた。

「猊下も飲むかな」

 本人にとも、イルスにともなく尋ねたが、どちらも忙しそうで答えなかった。

 スィグルは、どことなく昨日の葡萄酒の匂いがする水を口に含んで、横たわるシュレーの唇に接吻した。水をやると、天使はおとなしく、それを飲んだ。

 喉が渇いているらしいシュレーに、スィグルは何度か水を与え、残ったぶんを自分の喉に流し込んでから、酒杯をそこらに放り投げた。

 隣に横たわって、シュレーの肩口に頬をすり寄せ、抱擁をねだると、半ば無意識のような長い腕が、どこか縋り付くようにスィグルの体を抱いた。スィグルはシュレーの顔をこちらに向かせ、もう一度唇を重ねた。

 シュレーには拒む様子がなかった。いつも初めはうるさそうにされるが、気が乗ってくると接吻を拒まなくなる。

 揺れを感じて、スィグルはシュレーの首を抱き寄せながら、イルスを見上げた。目が合うと、イルスはかすかに笑ったが、すぐに目を閉じた。

 こぼれた水で濡れているシュレーの胸を、褐色の指が拭うように撫でていく。

「朝から絶好調だね」

 スィグルがほめると、イルスは笑い声をたてた。シュレーはなにも答えなかった。日頃はとりすまして涼しげでいる彼の顔が、汗をかいていた。

 面白くなって、スィグルは蒸れたシーツの中に腕をのばした。

 シュレーが驚きとも悲鳴ともつかない、低い声をあげ、目を開いてこちらを見た。どこか視線の定まらないその表情の意味を、スィグルは知っていた。

「もう一押しで天使は死にそうだよ」

 シュレーの喉に鼻先をこすりつけ、スィグルは天使殺しに教えてやった。今度はイルスも答えなかった。

 いいなあ、と、スィグルはシュレーの耳元に囁いた。それが聞こえたのか、シュレーは応じるように低く呻いた。

 その、どことなく甘い声は、それきり止まなくなった。自分を抱く腕が、ひどく強くなり、シュレーの指が肌に食い込んだが、スィグルはそれを許してやった。

 天使の最後の声を接吻で舐めとりながら、スィグルは彼が確かに殺されたのを、自分の指で確かめた。

 ややあって、シュレーがおとなしくなると、イルスの満足げな長いため息が聞こえた。スィグルは艶めいた彼のこの声を聞くのが好きだった。

「僕も死にたくなってきた」

「シェルを起こせよ」

 まだ微かに熱っぽい声で、イルスが答えた。

「イルスはいつ復活するの」

「俺は腹が減った」

 すげなく答えるイルスを、スィグルはぽかんとして見上げた。白い腕がまだスィグルを固く抱いている。

「冷たいなあ。どうせ君は自分さえよければそれでいいような奴だよ」

「今はその通りだな」

 ぼんやりと息を吐いて、イルスが寝台の反対側に腰掛ける。見下ろす目をしているのは、たぶんシェルを見ているのだろう。

 すぐ上でこんなことがあって、よく寝ていられるなあと、スィグルはシェルの眠りの深さに感心した。なにをされても気づかないんじゃないか。

 自分を抱く腕が、ふと緩んだのを感じて、スィグルは間近にある白い顔に目を向けた。まだ半眼の緑の目が、自分の顔を覗き込んでいる。

「おぼえてろレイラス……」

 恨みがましい囁き声が、朦朧としたまま呪いの言葉を吐いた。

「逃げなかったくせに」

 スィグルは微笑して答えた。

 もっとなにか言ってやろうとしたが、スィグルは言葉をのんだ。

 寝台の向こう側で、唐突にシェルが立ち上がったからだ。

 こちらに裸の背を向けて、シェルは呆然としたように、部屋の中になにかを探している。きょろきょろする彼を、三人で見守ったが、シェルはこちらに気づかなかった。

「こっちだよ、シェル」

 気がついて、スィグルは呼びかけてやった。

 するとシェルはびっくりしたように、くるりと振り向いた。

「みんないないかと思った」

 恥ずかしそうに口元をぬぐって、シェルがそう言った。

 よだれ。スィグルは内心でだけそう呟いた。

「おはようございます」

 照れ隠しのように挨拶し、シェルはいつも変わらない満面の笑みを見せた。

「おはよう、シェル」

「おはよう、マイオス」

「よく寝るよ、そんなところで」

 えへへ、とシェルは笑った。

「みんな、いま起きたところですか」

 それが愚問と気づかないところが、シェル・マイオスだった。

 そんなところがいい。

 スィグルは彼の飛び跳ねた金の巻き毛を見やりながら、最近そう思えるようになった自分に苦笑した。


END



▼昔なつかしい掲示板を借りてきました。

http://www3.rocketbbs.com/731/teardrop.html

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