03: 懺悔室

 礼拝の刻限だった。

 学院の聖堂が、扉が開かれたことを告げる、独特の鐘を鳴らしている。

 行こうか行くまいか、まだ漠然と迷いながら、スィグルは薄暗い石造りの通路を歩いていた。

 赤の祭日だったからだ。

 厳密には明日だが、その始まりを祝うための特別の礼拝が、日付の変わるこの真夜中に行われる。赤の祭日は、天使ブラン・アムリネスの誕生日だとされている。

 おしなべて敬虔な山エルフ族の学生たちは、鐘を待たずに聖堂へ行ったようで、通路には人の姿もまばらだった。

 行かないと言って、イルスを先へ遣ったのに、後からのこのこ現れるなんて、かっこつかないなと、スィグルはぼんやりと思った。

 やっぱり、引き返してしまおうか。

 スィグルは迷った。

 天使の誕生日を記念する礼拝だなんて、ばかげた茶番だ。どうして、その本人が、まるでまったくの他人のような顔で、自分を賛美する祭礼に参加できるのか。

 いつも聖堂の最前列に与えられた席で、自分たちと並んで、どこか飽きたような表情をしているシュレーのことを、スィグルは思い出した。

 そういう横顔を見せられると、響く聖歌によって醸された敬虔な気分は、いつもあっというまに白けた。

 やっぱり、学寮に戻って寝てしまおう。真夜中に叩き起こされてまで、跪いて祈るようなことと思えない。今ではもう。

 踵を返して、スィグルは立ちつくした。

 廊下の向こうから、祭祀のために聖堂へ向かう、白い神官服の列がやってきていたからだ。彼らは学院に仕える山エルフ族の神官だった。

 いつもは祭祀を取り仕切っている彼らが、僧冠をかぶった頭をいつになく垂れて従ってくるのを、スィグルは見つめた。その列の先頭を歩いてくる、よく知っているはずの顔を。

「猊下」

 驚いて、呆然とスィグルは呼びかけた。

 神官服をまとったシュレーは、すぐ目の前で足を止めた。

「レイラス、もう始まるぞ」

 金糸で天秤の紋章を刺繍された僧冠に白く飾られた彼の額に、血の一点のような赤い聖刻が、薄暗がりの中でも十分に生々しかった。

「行かないのか?」

 シュレーの問いかけを受けるスィグルを、居並ぶ神官たちは、この異端者めという顔で見下ろしてくる。

 普段の金曜礼拝をさぼる不信心者は、たまにはいたが、祭日にはたとえ真夜中であっても、寝床から立って歩ける者はすべて参加するものだった。歩けずとも、人に運ばれてやってくる。天使の祭日は特別な日で、それを無視できる者は、神殿への信仰がない者だからだ。

「どうしてそんな格好をしてるんだよ。まるで神官みたいじゃないか」

 猊下、と呼びかける皮肉も、今このときには何の嫌みもなかった。シュレーはどう見ても神殿種の正神官だった。

「おかしいだろう。この者たちがどうしても、ブラン・アムリネスの祭日の祭祀を、私が信徒の席から見ている前でやるのは不敬だというので、仕方がないから、祭壇で名を讃えられることにしたんだ」

 背後を気にするように、シュレーは身を傾けてスィグルに囁いた。

 彼はこの部族の宮廷の客人で、向こうがどうしてもと求めることには、根本的に逆らえなかった。もしも我を通そうとしたら、神殿種の顔で命じることになり、それだと事が大きくなる。

 たった一時間の祭祀なのだから、シュレーは折れることにしたのだろう。

 スィグルは、あぜんとしてその姿を眺めた。聖典の挿絵から抜け出してきたような、神聖なその佇まいを。

「髪……ちょっと長いんじゃないの」

「ああ、それか。そうだな」

 話しかけたシュレーの背後で、神官たちが急かすように、猊下、と小さく呼びかけた。聖堂の鐘はもう、残響さえ消えている。

「あとで話そう。祭祀には来た方がいいぞ」

 手袋をした白い手を上げ差し招き、シュレーはまた歩き出した。一緒に来いという意味らしかった。

 一歩遅れて、スィグルはよろめきそうな足で歩き始めた。

 本当は、いつもこうだったのだ。

 学院の制服を着て、友達のような顔をして隣を歩いていたが、本当の茶番はそっちのほうで、シュレーはいつも、こうだったのだ。冒しがたい正神官で、大陸の民を跪かせる神聖な空気を、あたりに発しながら歩く。

 彼に引き連れられて、スィグルは一言もなく歩いた。聖堂の大扉には、黒檀の木地を飾る白絹の装飾に、今日ばかりは金の天秤の紋が掲げられている。

 天使ブラン・アムリネスの紋章だった。



 結局来たのか、という顔で、シェルとイルスがそろって自分の顔を横目に見やるのに、スィグルは黙り込んだまま応えた。

 高く天井を持ち上げた聖堂の中には、荘厳な聖歌を歌い上げる声が響き渡っていた。きょろきょろと祭壇から目を背ける者もおらず、スィグルは目立つのを嫌って、おとなしく自分の席におさまった。

 祭祀のために用意されている、祭壇のまえの金の小卓の傍らで、シュレーは僧衣のすそを引いて立ち、慣れた仕草で祭礼用の翼のような形をした小杖をとった。

 神官たちは祭祀のおわりに、皆に薄く丸い聖餐せいさんを与え、それを含んだ口で翼の小杖に口付けさせる。あれはそのための杖だった。

 日頃、シュレーにあまり好意的でない学生たちも、今夜はただじっと、食い入るように彼の姿を見つめている。

 歌が止み、祭祀のはじまりを告げる聖句を、シュレーの声が唱えた。それは天使の声として響き、聖堂にとじこめられた者たちの脳を、ゆるやかに痺れさせていく。

 神官服を着たシュレーを見るのは、これが初めてだった。そんなものを持っているとも知らなかった。

 なにかひどい裏切りのような気がした。

 天使ではない。跪いてはならないと命じたくせに、今こうして皆を跪かせるとは。

 跪けトーレスと、シュレーが天使の声で告げた。皆が跪いた。

 それは祭祀では当たり前の動作だった。

 しかしスィグルは、苦しかった。まるで身が引き裂かれるようで。

 あれは天使で、友で、気まぐれになじっても良い相手で、服従すべき主で、跪くなと言った、跪けトーレスと命じる、その名はブラン・アムリネスだった。

 二律背反する命令が、聖歌に飾られ、スィグルの頭のなかでぐるぐると回っていた。



 懺悔室から出てきたイルスは、なんとなく曇った顔色をしていた。

「お前の番だぞ」

 席から立たないでいるスィグルに、イルスが小声で促した。

 スィグルは聖堂のすみにある、凝った彫刻をほどこされた木製の小部屋を見やった。あの中は明かりのない暗がりで、人がふたり入れるだけの広さしかない。

 まだ喉の奥で飲み下せないでいる聖餐せいさんを感じながら、スィグルは立ち上がった。白い手袋をした手が差しだした翼の形の杖に、ついさっき跪いて接吻したばかりだった。

 王族たちの順番はすぐやってきて、むかつく胸を鎮める暇もない。

 しかし次々と行かねばならなかった。祭祀の時間は限られていて、ひとりひとりに与えられる懺悔のための持ち時間は僅かだからだ。

 中に天使が待っているはずの小部屋の扉に、スィグルは手をかけた。なんともいえない、恐ろしさがあった。

 扉が開くと、よく見知ったシュレーの顔が、まぶしげに外の明かりに目を細めるのが見えた。

 スィグルは後ろ手に扉を閉めて、自分たちを閉じこめた。

 そして待った。シュレーが、偽りなき言葉で話せ、と命じるのを。

「レイラス」

 ひそやかな声で、シュレーが呼んだ。

「さっきの話の続きだが」

 あけすけに話し出した天使に、スィグルはあんぐりとした。

「明日、私の髪を切りに来てくれないか」

「か……髪?」

 シュレーは頷いた。

 椅子にこしかけている彼の前には、跪く者が膝を痛めないように、赤いびろうど張りの膨らんだ台座が置かれている。

 居場所がなく、スィグルはそこに膝をついた。

「座るな、狭いんだから」

 うるさそうな早口で、シュレーが言った。

「懺悔なんかいい。君の罪なんかいちいち聞かなくても知ってる」

「でも、これは祭祀じゃないか」

 泣きそうな気分がして、スィグルは言い返した。

「次の金曜礼拝のときに、学院の神官に聞いてもらえ。こんなものは茶番だ」

 顔をしかめて不愉快そうにするシュレーは、気安くて、まるで天使ではないようだった。

「学院が寄越した散髪屋がな、この神官服の仮縫いのときに、たまたま来たんだ。それで、髪を切らせようとしたら、恐ろしくてできないと言うんだ」

 ひそひそ声で、シュレーは説明した。懺悔室の中の声は、外の聖歌にかき消されているはずだが、ここは罪を告白する場所で、ひそめた声で喋るのが習慣になっている。シュレーはその癖が抜けないのだろう。

「私の髪を切るのは、いつも恐ろしかったが、神官服を着た姿を見たら耐え難くなったんだそうだ。神殿種の身を傷つけるのは大罪だから」

 話すシュレーが回想にも腹を立てているのが、スィグルには分かった。

「馬鹿らしい。髪を切るだけだぞ。それで困って、皆にもさっき頼んだんだが、やつらも嫌だというんだ」

 眠気があるのか、シュレーは言いながら、手袋をした手で目元に触れた。

「皆って、シェルとイルスのことかい」

「そうだ。他に誰に頼むんだ」

 当たり前のことを聞くなと言いたげに、シュレーは答えた。

「君が切ってくれ。自分じゃできない」

 なにか答えようとして、スィグルは唇を開いたが、息しか出てこなかった。なんと答えるか決めていなかった。

 喉にはまだ、乾いた聖餐せいさんが引っかかっているような気がした。

「いいけど……」

 スィグルは自分の喉もとに触れながら、ゆっくりと言葉を選んだ。

「僕の懺悔も聞いてよ」

 自分の顔色は、きっと青ざめているだろうと思った。さっき懺悔室から出てきたイルスの顔が、そうだったように。

 シュレーはたぶん、全く理解できていないのではないか。自分の姿が見る者に与える気分のことを。天使の権威をことごとに利用するくせに、実はそのことを一番理解していないのは、本人なのではないか。

 スィグルに乞われて、シュレーは妙な表情をした。

「君はまた私の知らないところで悪さをしていたのか」

「うん、あんたの絵を描いたよ」

「それぐらい別にいいだろう」

 少し意外そうに、シュレーは答えた。生きている神殿種の姿を描くのは不敬とされているのを、彼は知らないのかもしれなかった。

「それから、このまえ講義を欠席するから伝えろって言われた時に、教授には猊下がひどい下痢だから来ないって、みんなの前で言っておいた」

「どうしてそんな下らない嘘をつくんだ君は」

 顔を覆って、シュレーは耐え難そうに言った。

「面白いから」

 素直に、スィグルは答えた。ここは偽りなき言葉で話す場所だから。

「面白くない」

 怒った声で、シュレーが呻く。

「面白いって」

 彼をからかうのは、スィグルには心底面白いのだ。ちょっとしたことで、すぐ怒るし、たまに激怒させてしまい、勢いでぶん殴られることもある。

 だけど許してくれる。

 ブラン・アムリネスは赦しの天使だから。

「レイラス、汝の罪を許す」

 そう言えと促すために、スィグルはゆっくりと、シュレーに告げた。

 白い手袋をした手をどけて、そこから現れたシュレーの顔には、「呆れた」と書いてあった。

 懺悔室にこもれる時間は、そろそろ尽きそうだった。外で暗にそれを知らせるため、定期的にならされる鐘の音が聞こえていた。

「レイラス……」

 凄みのある苛立った声で、シュレーが呼びかけてきた。

「汝の罪を許す」

 にやりと微笑んで、スィグルは懺悔室での作法どおり、跪いたまま身を折って、神官服の裾に口づけをした。するとシュレーがうるさそうに、スィグルの大仰な仕草を足で押し返してきた。

「明日行くよ。散髪しに」

「フォルデスにもう一度だけ頼んでみてくれ。君にやらせると、どんな目にあうか怖い」

 去り際の背に、シュレーが愚痴った。

 スィグルは振り返って、意地悪く彼に微笑みかけた。

 喉に張り付いていた聖餐せいさんが、その拍子にふと剥がれた。スィグルはそれを、小さく喉を鳴らして呑み込んだ。

 扉を開くと、聖歌が響いていた。

 赦しの天使、静謐なる調停者、ブラン・アムリネスの名を讃えて。

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