第32話 初夜

 初めて入ったお義母様の居室は、しっとりとした大人の女性の香りがした。


よく磨かれて艶光りしている本棚がすぐに目に入る。

窓際にはマホガニーのライティングデスクがあり、そのテーブルの上には螺鈿らでん細工の裁縫箱があった。

部屋のあちこちにさりげなく置かれている小物類にも、お義母様の上品なセンスが現れている。


「セリカさん、どうぞ。」


お義母様に促されて、セリカは薔薇ばら模様の布地のソファに腰を下ろした。


― なんだか、上流階級の奥様の部屋って感じ。


うん、落ち着かないね。

うちの母さんの部屋とは全然違う。



けれど落ち着かないのはセリカだけではなかったようだ。


お義母様も、持っているハンカチを握ったり畳み直したりしている。


「あの…ね。今夜のことなんだけど……。」


「はい。」


「セリカさんはトレントのお母さまから何か聞かれてるかしら? その…初夜の心得について。」


「いえ、何も聞いていません。」



セリカの返事に、お義母様はがっくりと肩を落とした。


「そう、聞いてないの…。」


「あのぉ、母親には聞いていませんが、初夜に何が起こるのかは近所のハリーのお姉さん、ミランダに話を聞きました。」


「まぁ! ミランダさんはなんておっしゃったの?」


「えっ?! えっと、その…ダギーは服を脱ぐのも待てなかったって言って怒ってました。貴族の初夜の心得には、服を脱ぐことも入ってるんですか?」


「…う、ええ。いえ…何て言ったらいいのか。」


「どうして待てないんですかね。服を脱いでベッドに入らないと子どもが出来ないんでしょ?」


― ちょっと、セリカ。

  それって、あってるような間違ってるような…。


どこが違うの?



「セリカさん、とにかくミランダさんのお話は、一旦横に置いといて。」


「はい。」


「ベッドに入ったら、すべてを侯爵閣下にお任せして、ことが終わるのを待つんです。」


「はい…?」


ことって何? 奏子。

記憶にあったキスのこと?


― う…そうね。

  そんな感じ。


わかった。

お任せしてじっとしとけばいいのね。

頑張ります。




◇◇◇




 自分の部屋に帰ると、エバが着替えのために待っていてくれた。


ドレスの後ろのボタンを外してもらって、手が届かないパニエの紐も解いてもらう。

セリカがドレスを脱ぐと、エバが衣装室にドレスを吊るしてくれた。


「バスルームに今夜着る下着とネグリジェを出しておきましたので。」


「ありがとう。うちの両親がくれた下着なの?」


「いえ。今日のものはクリストフ様とマリアンヌ様からの贈り物でございます。」


「まぁ、マリアンヌさんも贈り物をくださってたのね。後でお礼を言っとかないと。」


「…それでは失礼いたします。明日の朝の授業はないそうですので、ゆっくりとお過ごしくださいませ。」


「ありがとう。おやすみ、エバ。」


「おやすみなさい、セリカ様。」


授業はないのか。

ゆっくり寝られそう。

春は朝が眠たいもんねー。


― …そうね。



セリカは身体をグッと伸ばしながら、一人でのんびりとお風呂に入った。


「はぁ~、いい気持ち。正式なドレスは肩が凝るね。今日は疲れたー。」


― でも家族に会えて良かったわね。


うん。

この前はマリアンヌさんが心配でゆっくり話も出来なかったから、今日会えて良かった。

母さんやベッツィーともたっぷり話ができたし。


― ダレニアン伯爵家の人たちって、優しいね。

  普通は平民の家族をここまで受け入れてくれないと思う。


「いい人たちで…良かった。侯爵様も喜んでたみたい…だし……。」


― そうね。

  こんな風に手放しで祝ってもらったこともないのかも。

  あ、セリカ! こんなところで寝ちゃダメだよ。

  初夜があるのよ。


「…あふぁ、ん…そうだね。」



お風呂からあがって下着をつけてみたのだが、いやに生地が少ない。

ほとんどがレースなのだ。

ネグリジェも透けていて役に立たない感じだ。


…そうか。

服を脱がなくてもいいようになってるんだな。

さすが貴族は考えることが違うな。



今までは鍵がかかっていた奥のドアを開けて、隣のベッドルームに入っていく。


そこでは侯爵様がベッドに腰掛けてガウン姿で本を読んでいた。


あ、眼鏡。

侯爵様って眼鏡をかけるんだね。


― それよりガウンの下…。


あれ? 着てないね。 

やっぱりこのネグリジェも脱がないといけないのかな?

ちょっと恥ずかしいな。


「ゆっくりだった………な?!」


侯爵様は顔をあげてセリカを見ると、ギョッとして読んでいた本を取り落とした。


「落ちましたよ。はいっ。」


「ん…あぁ。」


「服は脱いだ方がいいんでしょうか、このままでベッドに入った方がいいんでしょうか?」


「……え? ああ、そのままでいい。」


ふぅ~、良かった。


「失礼します。」


セリカは侯爵様が座っているのとは反対側の布団にもぐり込む。


ドキドキしていたが、肌触りのいいふかふかの布団がセリカの身体をしっかりと包んでくれた。


あ~、いい気持ち。

やっぱり布団はいいなぁ。


侯爵様も本を読むのを止めて、魔電灯を消すと眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。


「セリカ。」


「はい。」


「私は今日、君の家族やクリスの家族がしてくれたことを見て、反省した。」


「…はぁ。」


「結婚が避けられなかったこととはいえ、君の気持にもう少し配慮すべきだったと思う。」


「……うぅん。」


「今日、君が私の家族になったと言ってくれて嬉しかった。これからよろしく頼む。」


「………えぇ。」



「セリカっ。」


侯爵様が奏子の言ってたキスをしている感じがする。


息が苦しい?


― セリカ、鼻で息をするのよ。


そ…うか。

なん…だか、眠い……。


クゥ~クゥ~


「…セリカ。嘘だろ……。」



セリカは疲れて寝てしまったが、明け方に侯爵様に叩き起こされて無事に夫婦になることができた。


そして先生方が午前中をお休みにした理由を、侯爵様に教えてもらうことになったのだった。

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