第4話 噂
夜のしじまに十七刻の鐘の音が聞こえてくる。
ダレーナの街が眠りに落ちる音だ。
セリカも綿のパジャマを着て、自分の部屋の木のベッドに横たわった。
はぁ~、今日は色んなことがあったなぁ。
あの人…ダニエル・ラザフォードだっけ。
貴族のくせに、うちの料理を「美味い美味い。」って言ってたくさん食べてたな。
変な人。
セリカは、なんとなく左手の指輪が気になって、引き抜こうとしてみた。
「やっぱり外れないな。」
― 侯爵によると指輪の意思なんでしょ。
「うん、そんなことを言ってたね。でも最終的に外れなかったら困るよね。どーすんだろ、あの人。魔法でなんとかできるのかな。」
― 本人が焦ってなかったから、なんとかなるんでしょうね。
本当に、この世界には変わったことがいっぱいだね。
十七時に寝るのも変だし。
「『
― 十進法には慣れてるけど。
一日が二十刻とか、一年が十ヶ月というのは、どうもねぇ。
何年暮らしても、変な感じ。
「ふふ、魔法もあるしね。」
― そうそれ。日本とは一番違うところだな。
それはそうとセリカ…とうとう貴族に魔法のことバレちゃったね。
「うん。でも養子にするって話にならなかったから良かったかも。」
― でも、
養子じゃなくて、妾にするつもりなのかも。
「平民を?!」
寝る前に奏子がそんなことを言ったので、何だか色々考えてしまってセリカはすぐに眠れなかった。
◇◇◇
小鳥の声が朝もやを晴らすように、チュンチュンと
ダレーナの街にパン売りの独特なラッパの音が聞こえてきた。
「あふぁ~。父さん、今日は
大あくびをしながら、セリカは財布を手に持った。
「おすすめは、スパゲッティだ。」
「じゃあ、五斤でいいね。」
「ん。」
今日のおすすめがスパゲティになるので、スパゲティを食べない人に出すパンの量を考えると、このくらいで丁度いいだろう。
おすすめがおかずの時には、パンの量は倍になる。
普通の店は七刻~十三刻までの六時間営業だが、飯屋は仕込みや片付けの時間もあるので、どこもお昼の食事時である、九刻~十二刻までの三時間だけ店を開けている所が多い。
飯屋が店じまいする十二刻から、陽が落ちる十五刻までの三時間は飲み屋の営業時間だ。
「セリカ~、おはよう!」
「あら、レイチェル。おはよう。今日はパンにするの?」
「うん。昨日はショートパスタだったから。」
はす向かいの服屋のレイチェルが、セリカを見つけて追いかけてきた。
基礎学校の同級生だ。
職業柄、レイチェルの所にはご婦人方の情報が集まって来る。
この目のきらめきを見ると、また何か面白い情報を仕入れてきたらしい。
「ねぇねぇ、農業特区のボブ・レーナンって覚えてる?」
「ボブ? 街に近いからって、こっちの基礎学校に来た子でしょ? ソバカスの。」
「そう、その子。ボブがね、今度の春のダンスパーティーを主催するんだって!」
「えっ?! ダンスパーティーを農業特区でやるのぉ?」
いつもは街に五か所ある公会堂のどこかでダンスパーティーをしていた。
農業特区という街の外にある田園地帯でパーティーをするなんて、いままで聞いたことがない。
セリカの驚く顔をたっぷり楽しんだレイチェルは、困った顔を装って話を続ける。
「どうもそうらしいわよ。ハリーのお姉さんがそんなことを聞いて来たって、クロウの奥さんが教えてくれたの。」
「クロウの奥さんねぇ。」
「あの人の話は大げさなものが多いけど、元の話の出所がハリーのお姉さんでしょ。
「そうね。」
セリカは心の中で『ハリーに聞いてこの話の裏を取ること』とメモをした。
「それでね。どうも納屋を会場にするらしいのよ。飾りつけをすればそこそこ見られるものになるんですって。」
「でも納屋だったら、下が土でしょ。」
「そう。だから春のパーティー用のドレスは、
…これが言いたかったのね、レイチェル。
パン売りの馬車がいる所に着いてレイチェルのお喋りは止まったが、セリカがお金を出すために財布の口を開けたところで、レイチェルに左手を掴まれた。
「セリカ、ちょっと何?! この指輪!」
それを聞くよね。
…まぁ、私でも誰かがこんな指輪をしてたら尋ねる。
レイチェルなら根掘り葉掘り尋ねるだろうことは予想がついていた。
「昨日、お礼に貰ったのよ。ブレドさん、今日は少ないから持って帰るわ。カゴをいつもの所に出しとくから。」
「まいど。助かるよ、セリカ。お父さんに
「はぁい。」
セリカが籠を両手で抱えて先に歩き出すと、レイチェルが自分のうちのパンを掴んで、慌ててセリカを追いかけてきた。
「ちょっと待ってよ。お礼って、何をしたのよ。そんな高価なお礼なんてある?」
セリカは家に帰る道々に、昨日家族に話したようなことをレイチェルにも話して聞かせた。
「信じられない!!」
「そうよねー。私も驚いてるの。貴族って初めて会ったけど、金銭感覚がおかしいのよねー。」
「セリカ、私が言ってるのはそういうことじゃないわよっ。平民は指輪を贈る習慣なんてないけど、貴族は結婚の約束に家に代々伝わる指輪を相手の女の人に贈るんだってよ。」
……やっぱりそうなんだ。
「もしかしてプロポーズをされたんじゃないの?」
いやこれは、ただのお守りだし。
それを言えないのは辛いなぁ。
「それは違うと思う。さすがにプロポーズだったら、私にもそうとわかるでしょ。それに侯爵ともあろうお人が平民にプロポーズするわけないじゃん。」
「…それは、そうか。」
「でしょ? 私も外しておこうと思ったんだけど、ちょっとつけてみたらきつくて外れなくなっちゃて。」
「なるほどね。それはかえって災難だったわね。」
レイチェルの頭の中をいろんな情報が飛び回っているのがわかる。
嬉しそうにセリカの方を見てニヤリと笑うと、レイチェルはそそくさと家の方へ身体を向けた。
「じゃあ皆にも気にしないように言っとくね。」
「そうしてくれると助かる。」
いちいち説明して回るよりも、レイチェルに噂を広めてもらうほうが早い。
レイチェルにもセリカのそんな考えは解っているだろうし、何より街中にセンセーションを巻き起こせるのだ。
ダンスパーティーの話と並んで当分の間楽しめるに違いない。
セリカもレイチェルに頷いて別れると、店の中にパンを運んだ。
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