第6話「wish」
「やれやれ…。予定よりもかなり遅くなったではないか。あと二時間で正午だぞ」
「そ…そんなぁ~っ」
聞き込みをする為に町へ下りるには、切り立った崖の上に建てられた旅館から伸びた急勾配な坂道を通る事になる。
行きは車で逆方向の緩やかな坂道から入ったのだが、町へ下りるには急な坂を下りた方が早いのだという。
それは山道といっていい程の悪路なので、関係者や宿泊客たちも行きで使った緩やかな坂道を通り、ぐるりと迂回して来るらしい。
だが今の双葉たちにはその迂回する時間すら勿体ない。
しかも双葉がその悪路を見て、愛車に傷をつたたくないと言い張って、歩いて町へ下りる事にしたのだ。
そして調査に必要な機材一式は全て半人前の助手であるれむが背負って運んでいる。
険しい山道を双葉は涼しい顔で下りていく。
その白磁の額には汗一つ浮かんでいない。
その上、着ているものは仕立ての良いスーツなのだ。
完全に山道をなめているようなスタイルである。
更にれむがおとなしく荷物持ちに徹したので、機嫌も回復したようだ。
「春日君、もうすぐ着くぞ。町が見えてきた」
振り返った口もとにはいつもの貴公子然とした笑みが浮かんでいた。
朝露の残りでぬかるんだ道をようやく渡り終え、れむがやっと荷物を下ろす事が出来た時には全身汗でびっしょりだった。
「ふ~っ、重かったぁ」
「ご苦労さん。しっかり水分補給をしておけよ。それでは中から風水羅盤を取ってくれ」
「ふぁ~ぃ。所長」
木陰にあるベンチに腰を下ろし、双葉は日焼けという言葉から無縁のような真っ白な手をれむへ差し出した。
その指先はまるで女性のように長く細くて繊細だ。
そして驚く程、肌理の整った肌をしている。
それを心の中で羨ましく思いながら、れむは先ほどまで肩に食い込む程重かった白い大きなカバンを開ける。
しばらく中を探って、やがて掌に乗るくらいの丸い板を取り出し双葉へ渡した。
「それでは早速見てみるか……」
そう言うと双葉は立ち上がり、板を手にあちらこちらを歩き回り、時折立ち止まって何かを手帳へ書き込んでいる。
双葉の手にしている風水羅盤とは、星座表にも似た作りをしていて、中央に方位磁針が埋まっている。その中央には目盛りと梵字が描かれている。
これを使って風水師たちはその土地に眠る力の方向を読み解くのだ。
その板には宇宙の理が詰まっている。
双葉が一度この仕事を始めると、れむは何もする事がなくなってしまう。
本当はれむも何かを手伝えたらいいのだが、風水の知識は非常に複雑で難解である為、一朝一夕で会得出来るものではない。
それに会得してからも勉強は必要で、一生を費やしても完全に理解出来る学問ではない。
双葉もそれは日々怠っていないようで、毎日古い書物と格闘している。
「ふぅ。荷物持ちしか出来ない半人前かぁ………」
ベンチに腰掛け、れむは双葉の整った横顔を眺めていた。
「いつかあたしも所長の隣で仕事をお手伝い出来たらいいのに」
その願いは叶う事があるのだろうか。
そんな事をぼんやり考えていると、不意に背後に何か温かい吐息のようなものがかかった。
「れむは双葉に懸想しておるのか?」
「はうっ、や…夜斗くん?びっくりしたぁ」
いつの間にかれむの横には、昨日見た萌黄色の髪をした細身の少年がこちらを覗き込んでいた。
フワフワと風に揺れる髪の間からは可愛らしい犬耳が伸びている。
「先ほどのれむの表情はとても良かった。その表情の意味をオレは心得ているつもりだ」
「ど…どういう事?夜斗くん」
外見はれむとそう変わらない年恰好に見えるのに、やはり希州の言う狗神というものだからか、その言動はやけに重みがあった。
「虚ろわざる者の行く末が常に明るいものであるように、オレはいつも願っている」
「えっ?」
不意に発せられたその声は低く、夜斗のものとも思えない程だった。
夜斗はまるでれむの中にいる別の何かを見ているかのような遠い目を向けている。
「今は分からなくても良い。その時が来れば自然と分かるはずだ。れむはそれを双葉に強く求むと良い」
夜斗はふわりと微笑むと、白い天狗のような山伏装束を翻らせて背後の緑の色彩に溶けて消えた。
「夜斗くんっ!何だったの?」
「どうしたんだ。春日君。突然大声を出して」
いつの間にか目の前には夜斗と入れ替わるように心配げに眉を寄せる双葉がいた。
「あ、所長。あの……今、夜斗くんが…」
「夜斗?あの犬っころの事か?まさか春日君、あの犬っころに何かされたのか?あれは飼い主に似て浮ついているからな……」
「別に大丈夫ですよ。夜斗くんってちょっと変わってるけど、中身は普通の男の子じゃないんですかね。それに黒崎さんだっていい人そうですし」
「……だから君は警戒心がないというか、無防備だというのだ。そうやってすぐに人を信用する」
「むぅっ。あたしそんなに頼りなくなんかないんですからねっ。あ、それよりもどうだったんですか?調査の方は」
少しむっとしたれむは珍しく自分から仕事の話を持ち出した。
その様子に何より驚いたのは双葉だった。
「ほう、珍しい事もあるものだ。春日君も少しは成長したって事かな。まぁ、そうだな…まず、この土地し少々気脈が特殊でな……」
気を取り直して双葉はれむの隣に腰を下ろした。
れむはそのまま双葉の話に耳を傾けた。
「きみゃく……ですか?」
「ああ。ここへ来る前に調査した事なのだが、この土地は「蛇神」という白蛇が制しているという伝承が残っているんだ」
「蛇ですか?竜神様じゃなくて?」
「うむ……。だが現在はその祠は「竜神様」が祀られている」
双葉は胸のポケットすらタバコを取り出すと、一本を口に咥えた。
「どういう事なんでしょう。その「蛇神様」が後に「竜神様」になったとか?」
「いや。そんな話はない。第一両者は全くの別物であって、同一視するのは安直というものだ。まぁ、その辺りはもう少し調査を進めてみない事には分からないがな」
「そうですか……。それじゃあ、これからどうしますか?」
「ここの気脈は読んだ。後は住民に「竜神様」の祠の場所を聞きだそうと思っている」
そう言って双葉は視線をこの先の町の方へ向けた。
「わかりました。それじゃ……」
「おおっ、れむちゃん。元気そうだね。荷物持ち辛くなかったかな?」
「あっ、黒崎さん。何でそれを…」
れむが立ち上がろうとした瞬間、突然目の前の空間が歪み、黒い山伏装束姿の希州が現れた。
「どうせ、そこの犬っころを通して見ていたのだろう」
双葉が忌々しそうに吐き捨てる。
「ま。当たらずとも遠からずってところかな。がははは」
希州は悪びれもせずに豪快に笑い飛ばした。
その懐から豆シバ姿の夜斗もちょこんと姿を現す。
「きゃっ。夜斗くん、可愛い~っ」
れむがその姿を見つけると、すぐに抱き上げる。
「春日君、こいつの正体はもう分かっているはずだろう?」
双葉がきつい視線でれむの胸の中でうっとりとしている夜斗を睨み付けた。
そんな視線に気づいた夜斗は軽い身のこなしでれむの腕から抜けると、すぐに少年の姿をとった。
身長にして170㎝くらい。十代後半くらいの萌黄色の髪をした少年がそこに立っていた。
彼は先ほど別れた時と同じ、真っ白な山伏装束を纏っている。
「だって、フワフワしていて可愛いんですよ。あたし、ペット飼った事ないから嬉しくて……」
「ははは。れむもフワフワ柔らかくて可愛いぞ」
「おい、犬っころ、今どこを想像したっ。言えっ!」
「おいおい夜斗、あまり煽るな。双葉の目が本気で怖い」
希州が笑いながら夜斗を下がらせた。
すると夜斗し軽く舌打ちをして再び犬の姿に戻り、懐へ戻った。
「黒崎さん、これからアンタはどうするつもりですか?まさか私達に付いていくなんて言いませんよね?」
「ははははっ、いいな。それ」
「黒崎さんっ!」
「はわわわっ。所長。落ち着いてくださいって」
今にも掴みかかりそうな勢いの双葉をれむが止める。何とも珍しい光景だ。
どうも双葉は希州が絡むと調子を崩すようだ。
一体二人の過去に何があったというのだう。
「はいはいはーい。邪魔者は消えますって。オレたちは、ちょっくら休憩しに、この辺りの喫茶店で茶でも飲むつもりなんだよ」
「まさか、サボる気ですか。黒崎さん」
れむが半眼で希州を見た。
「れむちゃん、オレの事は「黒ちゃん」でいいよ。それにサボると言ってもなぁ~。今のところ進展もなさそうだし、何かあればれむちゃん達が何かやってくれるっしょ。そういう頭を使う難しい事はキミ達にお任せ」
希州はそう言って軽薄そうにウィンクした。
「アンタなぁ……」
双葉はこめかみに青筋を立てている。
「いいじゃないですか、所長。黒…黒ちゃんさんには黒ちゃんさんのやり方があるんですよ」
「そゆ事。それじゃあな。晩飯くらいは一緒しようや」
「はーい。お二人ともまた後で~」
くるりと二人に背を向け、歩き出そうとした希州だったが、不意に振り返り、れむに手招きをした。
「ん…あたし?」
れむが自分を指さしたところ、希州はうんうんと頷いている。
「所長~」
「行ってくればいいではないか。私は君にそこまで行動を制限するつもりはないぞ」
「は…はぁ。じゃあ、分かりました。何ですか。黒ちゃんさん」
「ははは。ごめんね。呼び止めて。それから「黒ちゃん」でいいって。「さん」はやめてね。それよりさ、これから竜神様の祠に行くんだろ?」
希州は腰を屈め、れむの顔を覗き込んだ。
吸い込まれそうな黒曜石を思わせる双眸だ。
「ええ。これからその場所を聞きこもうって……」
「やっぱりそうか…。でもな。れむちゃん……。それは多分難しいと思うよ」
「えっ、それはどういう事ですか」
急に表情を硬くした希州を見て、れむは不安になり、向こうでタバコを蒸かしている双葉の方を見てしまう。
彼もれむと希州が気になるのか、チラチラとこちらを見ていた。
「あのなぁ、その祠はこの土地の人間にとっては忌むべき存在なんだ。思い出す事や口にする事すらも憚られる。封印したい過去なんだ。だからその場所の事を聞いても恐らく答えてくれる人間はいないただろうね。旅館側からも何も言われてないのがその証拠さ」
顎に手をやり、希州は困ったような顔をしている。
「あの…、じゃあどうしたらいいんですか?それに過去…、その祠に何があったんですか?」
「祠のことはこらからオレたちが何とかするさ。それでね、ここからが本題なんだけど、れむちゃん達はこれからその祠を調べてもらえないかな」
「ええ。勿論で……って、え~っ、今祠を調べに行けって言いませんでしたか?でも調べても分からないってさっき…あれ?」
れむは混乱する頭で必死に考えている。
「れむちゃん、オレは聞いても答えてくれないだろうと言っただけだよ」
「え~、どういう事です?なぞなぞは苦手なんですよ」
「あはは、なぞなぞじゃないよ。オレが昨日、狗神使いだって事は話したよね」
ニヤニヤ笑いを浮かべて希州は懐の夜斗の頭を撫でる。
「あ、夜斗くんを使ったんですか?」
「正解。そう。コイツにこの辺りの精霊に聞きこんでもらったのさ」
「なるほど~。狗神って凄いんですね。あぁ、さっき夜斗くんに会ったのは、その聞き込み中だったんですね」
「あぁ。ちょうどコイツに探らせてたんだよ」
豆シバ形態の夜斗は希州の手に鼻を摺り寄せている。
こうして見ると普通の犬にしか見えない。
「それで話が長くなったけど、ここにその祠への地図が書いてある。後はよろしくな」
希州は手帳の一頁を切り離すと、れむの手に握らせた。
「ありがとうございます。黒ちゃんって親切なんですね」
その言葉に希州はいきなり大声で笑いだした。
すると向こうの双葉にも耳に入ったのか、怪訝そうな眼でこちらを見ていた。
「どうしたんですか。黒ちゃん」
「いやいや。ごめんごめん。ただ「親切」なんて言われたのはずいぶん久しぶりだったんでね」
「そうなんですか?ても黒ちゃんは親切だなって本当に思いますよ」
れむの無邪気なその言葉に、希州は眩しいものでも見るかのように目を細め、れむの頭に手をポンと乗せた。
「ありがとうな。れむちゃん」
そう一言残すと、希州の姿はまた唐突に消えた。
頭にはまだ彼の手のぬくもりが残っていた。
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