第5話「readiness」

「おい、春日君。起きるんだ。春日君っ!全く…これでは昨日と同じではないか」


早朝午前五時に起床した双葉は…実際は隣で眠るれむが気になって眠るに眠れなかったのだが…さっさと身支度を済ませて、まだ幸せな夢の中にいるれむを起こしにかかる。

ところがれむは一向に起きる兆しを見せない。

それどころか更に布団を目深に被って芋虫のように丸まり、また本格的な眠りに入ろうとしている。


「な……何て寝起きの悪いヤツなんだ」


どうやら今の双葉の実力では彼女を起こす事は出来ないようだ。朝からどっと疲れを感じた双葉はヨロヨロと奥の応接ルームへ行き、しばらく吸ってなかったタバコを取り出した。


「ふぅ……」


白い煙がゆらゆらと上がっていく。

それを眺めながら昨日の事をぼんやりと思い出す。

昨日は身構えていた怪異らしきものは特に感じられなかった。

問題の大浴場へも行ってみたのだが、耳障りな物音もなかった。気配にも注意してみたが、何も異常はなかった。


ただ脱衣所で好色そうな親父にジットリと絡みつくような視線で身体を見られた以外は気になるものもなかった。


………しかしここには必ず何かあるはずだ。


タバコの紫煙を肺一杯に取り込むと、朦朧としていた思考がクリアになっていく。

双葉が周囲の健康志向に逆らうようにして愛煙家なのは、この感覚がたまらなく好ましく感じているからだ。


そして双葉は感じていた。

昨日から気配は感じられないが、何か陰湿な「視線」がずっと背後にある事を。

勿論それは脱衣所で感じた好色親父の視線ではない。


「あ、所長。おはようございます~。早いですね」


その時、奥の部屋でモゾモゾと動く気配がして振り返ると、れむがようやく顔を覗かせた。

布団からずり落ちた肩に引っかかるようにして浴衣が見える。

そこから見てはいけないものが見えそうなので、双葉はすぐに視線を彼女から外す。


「おはよう。ねぼすけくん」

短くなったタバコを灰皿に押し付け、不機嫌そうに立ち上がる。

「あらら。所長。朝からご機嫌ナナメですね。あ、もしかしてあたしイビキでもかいてましたか?」

「あぁ。かいていたとも。それに盛大な歯ぎしりもな。おかげで夜は退屈しなかったよ」

「えぇぇぇぇっ!そんなっ」

顔を真っ赤にして俯き、れむはそそくさと顔を洗いに洗面ルームへ向かう。


「ねぇ、所長。昨日って怪異みたいなのありましたか?あたしぐっすり熟睡しちゃってて何も分からなかったんですが……」

れむはオヤジのようにジャブジャブと水音を立てて顔を洗っているようだ。

双葉はそれを耳に入れないように窓を開けて、外の喧騒に耳を傾けながら口を開く。

「別にこれといってなかったよ。それより君の朝寝坊のせいで余計な時間を取ってしまった。早くここを出るぞ」

「えっ、待って下さいよ~っ。朝食だってまだじゃないですか」

「君、朝食なんて摂るつもりなのか?」

信じられないという顔で双葉が洗面ルームから口に歯ブラシを咥えたままのれむを凝視している。


「えぇ~っ、まさかとは思いますが所長、朝食食べないんですか?朝食は一日のうちで最も重要なんですよ」

朝食がどう重要なのかも知らないような匂いをプンプンさせながら訴えてくる半人前の助手を見て双葉は小さく息を吐いた。


「うむ。私は朝はいつもコーヒー以外は摂らないのだが…。胃が受け付けない……」

「駄目ですっ。そんな軟弱な食生活じゃ、この東京砂漠を生き抜くなんて無理です。それでなくても所長、細いんですから、今日はきっちり食べましょう」

「……って春日君っ。私の目の前で着替えを始めないでくれないか」


レッツ朝食っ!と息巻いたれむは、双葉が目の前にいるのにも関わらず、漢らしくパパっと浴衣を脱ぎ捨てると、デニム地にアーミー柄のサロペットを着始める。

双葉はやれやれと再び彼女に背を向けて、荷物を手に部屋を後にした。


「先に出てるぞ」

部屋を出るとまた、ため息を吐いた。

「ああっ、ちょっと待って下さいっ。今行きますから~っ」

ドタドタと騒々しい音が扉の向こうからでも聞こえてくる。

「どこの怪獣だよ……」



「やぁやぁ、おはよう。双葉にれむちゃん。れむちゃん、今朝もラブリーだねぇ」

旅館の朝食は一階にある大広間にある。

内容は和洋中が交ざったバイキング形式だ。

そこの窓際のテーブル席にこちらへ大きく手を振る男性が一名。

昨日会った黒崎希州だ。

今日は例の墨染めの山伏装束ではなく、黒のTシャツに同色のチノパンといったスタイルだ。

さすがにこの場であの恰好をする気はないようだ。


「おはようございます。黒崎さん。あれ、夜斗くんはどうしたんですか?」

広間には相変わらず年配の宿泊客たちがゆっくりと朝食を摂っている。

その間をすり抜け、二人は希州の前までやって来た。

希州はすぐに席を立って、れむの為に椅子を引いてくれた。

まるで礼儀正しい執事のように。

れむはちょっとしたお嬢様気分で有り難く腰を下ろした。

後に続いた双葉は希州の顔を見て一瞬厭な顔をしたが、すぐに表情を消してれむの隣に座る。

するとすぐに昨日いた豆シバの夜斗の姿がない事にれむが気づいた。


「あぁ。あいつはちょっとこの辺りの事を調べに出してるんだ。多分昼には合流できるさ。夜斗のヤツ、近くに若い女がいないとわかるとすぐこれだからなぁ。あ、夜斗が出かける前に君によろしくとさ」

れむは立ち上がると、すぐに皿を持って料理を物色し始める。

「えっ、そうなんですか。あたしたちもこれから聞き込みと調査なんですよ」

「春日君、勝手にベラベラとうちの指針を話すなと……」


しかしれむはテキパキと様々な料理を皿へ盛り付けていく。しかも双葉の分もだ。

それを見た双葉が青ざめる。


「お…おい、春日君。私はそんなに……」

「もぅっ、所長ならこれくらい食べなくちゃですよ~。さぁ、どうぞ。れむちゃん特製朝食です」

それを見た希州が楽しそうに笑う。

「おっ、なかなかしっかりした奥さんじゃないか。良かったな。双葉」

「やめて下さい。そんな冗談。朝っぱらから余計に胃が痛む……」

顔を顰めつつ、双葉は目の前に置かれた朝食とも思えない量の料理を見て目を泳がせた。


……朝からこんな重いパスタ…。それに油こってりのスパイシーチキン…うぐっ。


「あら、所長。どうかしたんですか?さっきと比べて顔色が更に悪くなりましたよ」

「誰のせいだ、誰のっ」

双葉は強引にそれらの料理を口に押し込み、後は味わう前にコーヒーで流し込んだ。


「さぁ、そろそろ出発するぞ」

まだ何もする前から既に満身創痍な双葉は、れむを外へと促した。

希州はそんな二人を笑顔で見送りながら、美味そうにコーヒーを飲み干した。

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