第29話 殉教
歩いて、歩いて。黒い人影達に付き纏われながら、ただ歩いた。焔の震えは止まっていた。その代わりに、体は随分力が抜けぐったりとしていて、温度を無くしていた。浅く、僅かな息が荒川の肩にかかることだけが、まだ彼が生きている証左だった。
「おい、焔……、くたばんじゃねぇぞ」
荒川もまた、やっとの思いで吐き捨てる。彼自身の体からも酷く温度が奪われ、せめてもの肉体の維持機構が震えを起こしていた。荒川の足を何かが掴む。周囲でずっと何かを囁きかけられている。それを見ないように、聞かないように、存在などしないように、出来るだけ一定の速さで歩いていた。
「……くたばる……かよ、んな、ところで……こんなのに、呑まれるために、生きてたわけじゃ、ねぇ」
消え入りそうな声が、憎々しげに落ちる。真っ青に血の気の引けた顔で、焔は先を睨みつけていた。死人のような顔をして、それでも怒りに似たその声が放たれたことに、荒川は少しの安堵を覚えた。
人影は囁いている。多分、諦めろとか、無理だとか、こちらにおいでだとか、そういうことを。は、と荒川は呼吸混じりに笑いを吐き出した。
「同感だぜ焔、んなとこで、お陀仏なんてごめん、だよなぁ……ッ」
ここで死んだらきっと彼等の仲間になって、仏にはなれないだろう。そんな下らない考えに荒川は笑って――一歩進んだ先、落下する感覚とともに、意識が沈んだ。
《今日はお客さんの多い日だ》
そんな、穏やかな声で再び意識が浮上する。
はっと飛び起きれば、そこは青い空間だった。すべての生き物が死に絶えた後の深海のような、そんな寂しい場所だった。荒川の隣で、焔は先に目が覚めていたらしく、腹を抑えながら蹲るように座り込んでいる。そして目の前には、人間のような、大きな蛇のような、ぼんやりとしたものと、その傍で横たわる中嶋がいた。
「焔、……ッ中嶋!?」
《気絶しているだけだよ。傷を治せた訳ではないし、体力も精神力も削られただろう。無理もない》
慌てて中嶋に駆け寄った荒川に、そう声がかかる。見渡して、そのぼんやりとしたものがそれを発したのだとわかった。思わず中嶋を抱えて後ずさると、くすくすとそれが揺れた。笑われた、と、荒川はやや顔を顰める。穏やかな声が、また響いた。
《失礼。……だけれど、困ったね。三人もこんな場所で死なせてしまうのは、少し心苦しいな》
「死な……って、あんた例の……、カミサマなんじゃないのかよ!? ここどこだ!? ヨドミだかってさっきのやべー人影は!? どうにか帰れねぇのか!?」
畳み掛ける荒川に、ぼんやりとしたそれが少し困ったように笑う気配がした。代わりに、荒川の背後から答えが返る。
「ここは、神域だ。淀みを浄化する役割に生まれた、信の、領域。流石にここには、淀みは、入ってこれねぇ、んだろ」
その声は焔のもので、途切れ途切れの弱ったものだが、その目はしっかりと荒川と“それ”――もとい、海神を見ている。海神が微笑んだ、気がした。
《君は神憑きの子だね。何度かこの島でも見かけたことがある。君ほど“力”を蓄えた子は初めて見たけれど》
「俺を食う気はない……いや、食えるだけの力も、残ってない、ようだな。まだ話せるのが不思議なくらいだ……」
《それはその子のおかげだね。その子が落ちてくるまではここにも随分淀みが侵食していて、私は意識もおぼろげだった。彼の清い魂が、少しだけ私に力をくれた》
海神がぼんやりとした形で中嶋に指を指す。中島は依然目を閉じて、静かに息をしていた。
《でもその通り、今の私では君の力を食らったとて受け入れられるだけの地盤がないんだ。私にはもう淀みをどうにも出来ないし、君達を帰すことも出来ないんだよ》
「……できない?」
その時、誰もいないはずだった方向から声がした。
そこに立っていたのは、流人だ。呆然と目を見開いて、焔や中嶋には目もくれず、ふらふらとこちらに歩みよってくる。海神が振り返る気配がした。
なんでここに、とは、荒川も言わなかった。そもそも中嶋を海神の元へ届くようにする仕掛けを組める人間だ。彼自身が――言わば正規のルートで――海神の領域にたどり着く方法を知っていてもおかしくはない。その推測は、荒川にもすることができた。
流人が海神の前にふらりと膝を着いて、手を組んで仰ぎ見た。
「かみさま、……かけまくもかしこき海の大神。大前を拝み奉りて、かしこみかしこみも白さく……、贄を、贄を捧げました。御身、お力を取り戻し、罪、穢れ、淀みあらむをば、きよめたまえ、はらいたまえ……きこしめせ、かしこみかしこみも……」
縋るような声だ。目を見開き、口に浮かぶ笑みは絶望に似ていた。その顔は必死に、目の前の神の肯定を待っていた。
神は言う。
《私の最後の信奉者。私の名を呼べるかい》
流人の口角が落ちる。彼は、あ、だとかう、だとか、そんな、意味の無い言葉を漏らすだけだった。神が、目を細めたような気がした。諦めのような声だった。
《君のせいではないよ。私の名すら捨て去ったのは、君よりずっと前の島の人間達だ。君に残されなかったのは、信仰を取り戻せないのは、君のせいではない》
そうとだけ、神は言った。優しいような、それでいて残酷な声だった。流人が項垂れる。おねがいしますと、無意味に繰り返した。舌打ちが空間に響く。その主は焔だった。
「おい、そうらしいぜ、諦めろ。お前が降りてきた道で俺達を上に帰せ。お前にできるのは、それくらいだ」
焔の声に、流人は振り向かなかった。その代わりにただお願いしますと繰り返して、再度海神を仰ぎ見た。おねがいします、おねがいします、島をお救い下さい、おねがいします――そう言って。
「おねがいします、姉ちゃんをお救い下さい。贄が足りないなら、俺の命を捧げます」
「だからそういう問題じゃねえんだって――ッ」
痺れを切らした荒川が声を荒げかけて、ふと、――その流人の一言が、場の空気を変えたことを感じた。焔が目を見開いている。海神が、流人を見下ろしている。ぞわ、と荒川の背筋に冷たいものが走った。嫌な予感がした。
神が、流人に少し近付いた。
《――命を、私に捧げられるかい?》
どくどくと、荒川の心臓が嫌な音を立てる。猛烈な嫌な予感に今すぐ叫び出して駆け出したかった。どこにとか、どうするとかではないそんな衝動とは裏腹に、声も動きも何一つ形にならなかった。
ぽかんと神を見上げた流人の顔は、酷くやつれていた。何故今まで気づかなかったのだろうと思うほど、それは数日程度で蓄積したような疲労の様相ではなかった。痩けた頬、濃い隈、血走った目。今まで、誰にも気取られないように隠していたのだろう。誰にも邪魔されずに島を――姉を救うために。彼はそんな顔で、手を組み直して、安堵したように笑った。
「はい神様。俺の命を、すべてをあなたに捧げます」
海神が微笑んだ。それは剣を振りかぶって、それは大きな蛇として、それは。
「――待てよ、」
やっと絞り出した声は酷く震えていて、そんな荒川を、やっと流人が見た。ふは、と噴き出したように彼が笑った。その頭上に影がかかる。剣のような、蛇のような、津波のようなそれがなんなのか、荒川には分からない。ただそれが、全てを奪い去っていくようなものだということだけ本能で理解したのだ。
「やっぱ君さ、金髪は似合わないなあ」
流人は笑う。委員長の早乙女のようなおちゃらけた顔でも、崖の上の凪いだ顔でもなくて、それは、主張の弱い大人しい子供がそれでも照れくさく笑うような、そんな懐かしい顔だった。
きっと対峙する自分は、情けない顔をしていたんだろうと――それも、荒川がわかる少ない事だった。
「じゃあな竜一くん。サッカー楽しかったよ」
影がその全てを飲み込んで、そのまま下に沈んでいく。その場にはおびただしい量の赤色が滲んで、それすら青に溶けて消えてしまう。
「……地盤が、整った」
そう焔が呟くのを、荒川は、ただ呆然と聞いていた。
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