第30話 披露
「……殉教は、一人の人間によるものとしては最大級の信仰だ。その行為には、部分的にでも、信を一柱顕現させられるほどの信力が宿る」
焔の言葉が静かに響く。
目の前の海神の、依然ぼんやりとした輪郭に、それでも先ほどとは比べ物にならないほどの存在感が宿っていることは誰が見ても明らかだった。空気の密度が濃くなって、空間を形作る膜が厚くなって、外側に感じていた淀みの気配が遠くなる。海神は剣を持っている。ようやく形の見えたそれは一振りの太刀だった。刃先は葉のような、中ほどに厚みがある、白を帯びた両刃の剣だ。海神の全身には目があった。頭に二対、体に二対、両腕と両足に一対ずつ――合計十六個、八対の目がゆるりと動いて、言葉を発した焔を見た。びくりと、焔の体が緊張に強張る。
海神が、微笑んだ。
《あの子の信仰で、君の力を受け取れるだけの地盤が整った。神憑きの子、君の蓄えた力を少し分けてくれないか。何、食いつくしはしないよ。私はひとが好きなんだ》
変わらず優しい声だった。つい先程、命を食らったその口は、穏やかな笑みを湛えていた。嘘の気配は、感じられなかった。
「……、どの道、こうなった以上お前に力を明け渡さなきゃ俺達はここから出られねえ。生殺与奪の権がそっちにある。……クソ」
苦々しく焔が呻く。溜息をついて、自分を納得させるように首を振った。
「必要最低限だけだ。今回の分だけ、それ以上は許さない。お前のために溜め込んだ力じゃない」
《約束しよう》
焔が手を差し出した。海神は穏やかに、その手を取った。海神の輪郭がさらに濃くなって、剣に白く光が渦巻いた。やがて海神はその手を放して、空間の先に歩いて行って、剣を掲げる。光が、底から沸き上がる。膝をついてただ見ているしかできない荒川は、そこで初めて、この空間の青の濃さが取り囲む淀みの影によるものだったのだと知った。
彼等が薄れて消えていく。薄れて、光と一体になって、それは粒となって舞い上がる。青が下から明るくなって、それは底から見上げる太陽の光を蓄えた水面の色だ。蛍が一斉に舞い上がるように、光の粒が込みあがってくるのだ。あの中に、きっと流人の姉がいる。あの中に、きっと流人はどこにもいない。
その景色は泣きたくなるくらい美しくて、悲しいくらいに優しかった。
《――もうこの景色を見ることはないのだろう。それだけが、すこしばかり寂しいね》
海神がそう呟いた。遠く、懐かしむ、惜別の声だった。空間が光に包まれて、白に飲まれた。
白い空間だった。そこに荒川は揺蕩っていて、周囲に焔も中嶋も見当たらない。
白だけが広がって何も見えないその場所で、荒川は、目の前に海神がいることだけ感じていた。
《私の名前を呼んでくれないか》
神がそう、穏やかに言った。その静かな声が――空っぽに凪いだ荒川の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。込みあがる激情が目の前を真っ赤に染めた。息が詰まって、声が上手く出せなくて、頭をかき混ぜて息を吸い込んで。
「――ッ知らねえよてめえの名前なんか!!」
それが覚えられていたらこんなことにはならなかった。流人ですら名前を知らなかったのだ。伝えられずに忘れられて、消えた信仰が淀みを溜めて、家族を亡くした人が手段を無くした。あのおびただしい赤色が目に焼き付いて離れない。何故こうなったのかなんて、考えるだけで途方に暮れそうだ。島の人間が信仰を忘れたのが悪い。淀みを溜めやすい地形が悪い。
荒川が、何もできなかったのが悪い。
「畜生、許さねぇ、……ッ許さねぇぞ!」
心がぐちゃぐちゃになって、ただ感情のままに叫び散らす。何を許さないというのか。信仰を捨てた昔だ。無知な島民だ。呑気に生きてきた自分自身だ。
こんな島見捨ててしまえば良かった、あいつが命をかける必要なんかなかった――それはきっと、そこに全てをかけた流人への侮辱だ。それくらいは、幼い荒川にも理解ができた。だから、きっとこれは。
《悲しいのだね》
海神が静かに言う。
頭をかきむしってうずくまった荒川が、少し動きを止めて。ゆっくりと、身を起こした。
――そうだ、悲しい。
ただ、悲しいのだ。生きていてほしかったのだ。
友達だったとは、きっと言えなかった。荒川は今の今まで幼少期のことなど忘れていたから。思い出すまで、“早乙女流人”の振る舞いに軽蔑すら覚えていた。だからこの感情に、涙に、道理をつけることができるのかは分からない。荒川は、口を開いて、閉じて、また開いた。
「――四ツ谷」
「ネーミングセンスなんかねぇよ。勝手にしろよ。お前なんか、地形名で十分だ」
口に出したのは、この島を取り囲む谷のこと。島の海流を形作り、島の歴史を産んだ地形の因果。その名で、呼んだ。
《――ああ。それはとても――君の想いが詰まった、良い名前だね。後悔、悔しさ、悲しみ、すべて、“彼”への愛に起因する、きっと、忘れようにも忘れない》
海神が笑う気配がして、それが無性に腹立たしくて、何も返さず荒川は目を閉じた。
波の音がして、どっと疲れが押し寄せる。酷く眠くなってしまって、考えることも疲れてしまって、ただ、遠くなる意識を手放した。
視界の端で、流人が笑っている。
*
校外学習は急遽中断になり、生徒達は全員即座に家に帰されることとなった。それは、班行動をしていた二人の生徒が不審者に傷害され、救急車で搬送されたからである。共に巻き込まれた天城も無事本来の居住地に帰ったらしいとだけ、伝え聞いた。
不自然に空いた帰りのバスのひとつの席は、初めからそうであったように誰にも気にされることは無い。信の生贄になるとは、こういうことなのかもしれなかった。それとも海神が何かをしたのか、流人が望んだのか――確かめる術があったとしても、荒川はするつもりもなかった。それを確かめたところで、意味などないと知っている。
何も知らない生徒達がご都合的に作られた不審者の未逮捕を嘆いて、怖いねと囁き合う。隣のクラスの生徒が「なんでうち委員長いないんだっけ」などとぼやきながら何事かの事務処理をしているのを見かけた。副委員長などというものはいなかったから、新たな委員長が決まるまではてんやわんやとするに違いない。本当のことを知っているのは巻き込まれた四人だけだ。
当事者である荒川達のクラスは生徒の心理的負担を考慮し、一週間の休校措置が設けられた。
図太い者ならチャンスとばかりに遊びにでも行くのだろうが、荒川はといえば、何をする気にもなれずに家のベッドに寝転んでいる日々だった。入院している中嶋と焔の顔を見に行きたいとも思いつつ、どうにも体が動かない。連絡など寄越すわけが無い焔はともかく、中嶋の方は怪我の調子などを電話で教えてくれるので、心配する必要は無い。それに甘えて、荒川はまた無為にベッドで寝返りを打った。
目を閉じれば、中嶋の言葉を思い出す。
「刺される前にな。早乙女……いや、流人にちょっと話をされたんだ。あいつには憧れの人がいて、お揃いの名前に恥じないように生きたいって」
自分の怪我の調子を報告した後、少しの間を置いてそう話し出した中嶋は、また少しばかり迷うような間を置いてから、「多分さ」と付け加えた。
「憧れの人って、荒川のことだったんだな」
そう称されるようなことをした覚えは無い。流人との関わりはあのサッカーくらいで、あとは彼の両親の離婚だクラスが別だと関わる機会も少なかった。きっとその背景に、流人には色々なことがあったのだろう。
寝転がったまま、ぼんやりと自分の机を見る。最近買ったブリーチ剤が封を開けられないまま置いてあった。そろそろ染め直そうと思って買ったものだ。
とんとんと階段を上る足音がする。母親の足音だ。いつもは口うるさい彼女は、今回に関しては流石に慮ったか荒川が部屋から出なくともあまり文句をつけては来なかった。
「竜一! 人が来てるよ」
が、今回はそうではなかったらしい。無遠慮に扉を開けて、「いつまでパジャマでいんの!」と小言をつける。
「人ぉ……? 何だよ」
「何だよってアンタ約束してたんじゃないのかい? 一緒にお友達のお見舞い行くんだろ?」
覚えがない。怪訝な顔のまま荒川が身を起こすのを、母親は「とにかく下で待ってるから行ってきな」と背を叩いて急かした。
「はぁ……? 誰だよ、桜とか宋閑か?」
彼等にはまだ何も伝えていないはずなのだが。そう首を傾げると、母親は首を横に振る。
「アタシも知らないけど。アンタ知り合いなんだろ? ええと、確か――
四ツ谷、って名乗ってたよ」
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