第28話 進停
荒川が髪を金に染めたのは中学に入ってしばらくのころである。その校区はややガラが悪いことで有名で、持ち前の目つきの悪さのために荒川は中学入学のあたりから不良に絡まれることが増えた。その鬱陶しさに荒川はすっかりグレ――たついでにちょっと悪い格好が格好いい、という年齢相応の“イキり”というもので、髪を染めてピアスを開けた。
――だから、それは、もっと前。小学生の低学年か中学年か、そのあたりの頃だったのだろう。まだ元々の黒い髪を母親に適当に短くされて、外を駆け回っていた頃だ。荒川は、河川敷の端に蹲る少年に声をかけたのだ。
「なあお前! ヒマだろ?」
急に声をかけられて、少年が飛び上がる。そんなことも気にせずに、荒川はにかりと笑った。遊びに夢中な子供にとって、何もせず座ったままの少年は酷く退屈そうに見えたのだ。
「俺たちサッカーしてんだけど、一人たんねーの! お前俺のチーム入れよ!」
「あ、えと、おれ、ねえちゃん待ってて」
「じゃあねーちゃん来るまで! な!」
半ば強引に引っ張って、向こうで待つ友人達の方へと少年を連れて行く。サッカーボールを急に持たされた少年はといえば、困ったように目線をボールと荒川の顔に行ったり来たりとしている。
それでもその頬は、驚きの中に湧き上がったらしい期待に少し赤らんでいた。
「なあ俺、あらかわりゅーいち! お前は?」
その反応に気を良くして、荒川は少年の手を取って笑った。その日は、結局少年の姉が迎えに来たのを待ってもらって、空が赤らむまで遊んだのだ。
「(――なんで、今、そんなこと思い出してんだっけ……)」
随分と冷えた体を身震いさせて、荒川はぼんやりと独りごちた。
今、彼はただ歩いていた。焔の腕を自分の肩に回させて、肩を貸すような、半ば背負うような形で、何処ともしれぬ暗い道をだ。周囲は酷く冷えきって、光など見えないほど暗いのに、辺りに人影が大勢いることだけは嫌になるほどよくわかった。
荒川は焔を追って海に落ちた。その後のことは、荒川自身よく覚えていない。どうにか焔の腕を掴んで、引き寄せて、波に飲まれて、少し水を飲んだ気がする。意識が遠くなって、いつの間にか、こうして焔を連れてこんな場所で歩いているのだ。あの世ってやつだろうかとも、少し思った。歩いた先に三途の川でもあるのかと。
「……大丈夫かよ、焔」
その考えは、まさしく荒川が海に落ちた理由でもあり、肩で項垂れるその彼の様子が否定していた。脇腹を抑えた手には赤色が滲む。最初こそ新たな煙草を取りだしてライターでカチカチと何度も火をつけようとしていたのだが、すっかり湿気ってしまったのか、その努力が実を結ぶことは無かった。だから今は、もう煙草をしまってしまって、俯いたまま荒川に連れられていた。
あれが無ければ、焔は力を使えない。浅く、断続的な息をする彼の体は酷く――ガタガタと震えている。出血も相まった寒さのせいなのか、それ以外か。深くは、あえて荒川は考えなかった。ただ、きっと自分達はまだ生きているのだろうと思った。そうでなければ、こんなにも震えることはないだろう。痛みも、寒さも、生きているから感じることだと荒川は思った。死んでなおそれが続くなんてあんまりだから。
焔の返事はない。その代わりに、周囲の人影たちが何かをずっと言っている。一体どれくらい囲まれているんだと、歩いてはいるがこの先でいいのかと――ふと、荒川は顔を上げて見渡そうとした。
「見るな」
低く、震えた、きっぱりとした焔の声が荒川を引き戻す。
「目を閉じずに見るな、耳を塞がずに聞くな。認識するな」
ぜえと焔が苦しげな息を吐き出して、それでも言う。こんな状況でその言葉の端的さと命令形を指摘する気にはなれないが、かと言って荒川にとってそれは無謀に思えた。
「認識すんなって……、それはさすがに無理だろ、見えちまうし耳塞がなかったら聞こえちまうって……」
「……教室の、周囲の話し声なんか、意識して聞かなきゃ雑音だ。そういう意味だ」
一拍切って、焔は言う。
「見ようとするな、聞こうとするな。名前をつけるな。太助の時の、逆だ。名前は認識の最たるものだが、固有のものとして認識することこそが、その本質だ。知覚を向けるな。『定義』してしまえば、あっという間に飲み込まれるぞ」
荒い息混じりに、焔が歯を食いしばる。そこでやっと、荒川は焔の目を見た。痛みと警戒に顰めた顔の、その目は、まだ諦めてはいない。戦いの術を奪われてなお、打開策を探している。
荒川は再び前を向いた。焔の言葉に従って、周囲から必死に意識を背ける。ただ、歩く足にだけ意識する。歩く方向が正しいのか分からない。それでも、足が進むままに、何となくという名の本能で、歩いた。
「――う……?」
ぼやりと、意識が浮上する。次いで、中嶋は腹に走った痛みに声も出せずに身を強ばらせた。刺すような痛み。いや、実際に刺されたのだった。
《動かない方がいい。血は止めたけれど、治った訳では無いからね》
――そんな声が、上から降ってきた。はたと、目を開ければ周囲に見えるのは青だ。まるで海の中のドームに入ったような、深く、濃い青が周囲に漂っている。だがそれだけで、魚も、貝も、海藻も見当たらない。生命限界、という言葉を中嶋は思い出した。この場所には、なんの命もないのだ。酷く冷たく、寂しい場所だった。
意識を先程の声に向ける。どうやら自分は、誰かの膝に寝かされているのだと思った。その誰かは、よく見えない。大人の人のような気もするし、大きな蛇のような気もする。たくさんの目に見下ろされているような感覚もある。分かるのは、その誰かが、薄く微笑んでいることだけだった。
《私の信奉者が無茶をしたようだ。ごめんね》
冷たい手が頭を撫でた、気がした。感触はなかった。
「……あなたは、海神様……なのか?」
落ちていく視界で、聞こえた流人の言葉を思い出す。彼は、中嶋を神の生贄にするために刺したのだ。多分、最初から。この岬に来たいと言ったのも、強引に海辺に残ったのも、全て計画通りだったのだろう。
「俺を、食わないのか」
焔から、“そういうもの”に自分が好かれるのだということは中嶋はよく聞いていた。自分の魂が、空気が、その存在が、欲しくて欲しくて数多の魑魅魍魎に神仏に、そういうものが手を出したくて手を出されたくなくて睨み合っているのだと。実感は無かったし、自分にそんな価値があるとも思えなかったが、焔が下らない嘘をつくような人でなかったから、中嶋は信じている。
そして自分は、この海神に食われるために落とされたはずなのだ。
《君は博打ってやるかい?》
神は、変わらず穏やかに問いかけた。
《私はあまり好きではない。ローリスクローリターンと言ったかな、のんびりしているのが好きなんだ。君はとても美味しそうだけれど、君を食べたりしたら、きっとこの海は戦場になってしまうし、私は酷く消されてしまうだろうね。君にはそういう価値がある。どの道もうじき、私は消えるのだから、穏やかに過ごしたい》
私は消える。その言葉に、少し中嶋は身じろいだ。流人の凪いたその顔に、滲む切実さを思い出した。
「淀みは、どうにかならないのか。力は戻らないのか? ――俺を、食べても?」
《どうにもならない》
神は穏やかなまま、切り捨てた。びく、と強ばった中嶋を、変わらず神は見下ろしている。
《君がここに来てくれたおかげで、人間的に言うと少し息がしやすくなってね。こうして話せるようにもなったけれど、力が戻ったわけじゃない。
私にはね、もう、力を受け入れるだけの土台が無いんだ。信の土台は信仰によって作られる。君は私を信奉するわけではないだろう》
神の手が、中嶋の頭を撫でている。そんな気がするだけで、感触も形もないから分からなかった。
《私の力では、淀み達を振り切って、君を地上に返すことも出来ない。お話するのがやっとなんだ。
やがて君はここで淀みに飲まれるか自害するだろう。衰弱して死ぬのかもしれない。そうなれば、君を欲しかった数多のもの達が、この島に怒りを向ける》
穏やかな声だった。男とも女ともつかない、老人のような子供のような、諦めたような声だった。それでも、中嶋は知った。
《この島は滅びるのだね》
多分神は、守り神だったのだ。
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