第27話 落下

「天城さんは無事に辿り着いたかな……」

 崖の上、自分達の周りを渦巻く人影のような何かと目を合わせないように俯きながら、中嶋はぽつりと呟いた。天城に預けたお守りは、中嶋が焔から貰っていたものだ。何かあった時のために、焔の居場所を指し示すようになっている。怒られるだろうなぁ、と中嶋は一人苦笑した。手放すなと口酸っぱく言われているというのに――いや、まんまと危険に踏み込んでこうして取り囲まれている時点で今更だろうか。

 

 天城が先導し、早乙女に急かされるまま進んだ海岸沿いの砂利道は、崖に近づくにつれて岩肌を増やしていったが、さして険しい道でもなく見晴らしも良い、危険など見当たらないような場所だった。

 それが――一瞬のことで、予兆も無かった。突如、中嶋達を黒い人影が取り囲んだのだ。前後左右はおろか、上空さえ覆い隠すその軍勢に、途端に周囲は暗く包まれた。逃げる道を塞がれた三人ににじり寄るそれらは中嶋の持つお守りの効果のおかげか即座に接触してくるようなことは無かったが、じわりじわりと人数を増やし、三人に近付いてきていた。

 早乙女が「天城さんだけ逃がそう」と提案したのは、そうなった、少しの後だった。

「あいつら中嶋のことすげー見てる。そのお守りを持ってなら、天城さん一人ならこの囲まれてるのから抜けられると思うんだ。天城さんはマジで完全に巻き込まれだし……ホント申し訳ないんだけど、ほら、焔ってなんか訳知り顔だったろ? 呼んできてくれたらこれも何とかならないかな」

「でも、」

 そうしたらお二人が、と天城は不安と心配をその目に宿した。だが、彼女の体は酷く震え、涙を溜めたその人が怯えていることは誰が見ても明白だった。中嶋はそんな女の子を見捨てられるような人間でも、無かった。

「わかった。そうしよう」

「中嶋さん……」

 躊躇わず頷いた中嶋を、天城が眉を下げて見つめる。できるだけ不安を和らげたくて、中嶋は笑みを返した。

「大丈夫、俺こういう……恨みつらみみたいな幽霊には強いらしいんだ。俺自身が結界みたいになるって……焔は本当に頼れるやつだから、大丈夫。このお守りも、きっと君を守ってくれる」

 懐からお守りを取りだして、中嶋は天城に握らせた。冷えた彼女の指に、少しでも温度が分けられるように。

「早乙女も天城さんと一緒に……」

「さすがに俺は最後まで責任持つって! 伊達にオカルトオタクやってないからさ、軽くお祓いとか結界の儀式とかやれるぜ!」

 早乙女が明るく声を張り上げる。常備しているのか懐からそれらしい札を取り出してみせたのには状況に似合わず笑ってしまいそうになったが、だが確かにそれを出した瞬間周囲の人影が揺らいだように見えた。

「わかった、頼もしいな。じゃあ、ごめん天城さん、頼めるかな」

「俺達は天城さんと反対方向の、崖の方に向かおうぜ、少しでも注意が逸れるだろ!」

「……わ、わかりました。急ぎますから……!」

 ――三人で合意し、天城が駆け出す。お守りを持つ彼女から人影を引き離すように、中嶋もまた、早乙女に引っ張られて崖先へと駆け出したのだった。


 ――そして、冒頭に戻る。崖先は何故かすこし人影が薄く、それでも逃げる隙は無いほどに取り囲まれていた。早乙女の結界と、中嶋の聖域に効果はあるようで、お守りが無い今先程より近くに詰め寄られてはいるものの、人影が中嶋達に触れることは無かった。とはいえやはり少しずつ濃度を増し、二人を取り囲んでいく。時間の問題ではあるだろう。

 早乙女はといえば、札を四方に撒いてから、俯いて黙っているばかりだ。いつもの元気な姿との落差が大きく、流石に責任を感じてしまっているのだろうかと中嶋に心配がよぎる。どうにか元気づけたくて、彼に笑いかけた。

「早乙女。大丈夫だよ、焔ならきっと来てくれる。まあ多分すごく怒られるけどさ、そこは今後の反省に活かそう。天城さんにも後で謝らないとな」

「――そうだな」

 早乙女の背中を軽く叩けば、彼は静かに呟く。


「俺、自分の名前が好きなんだ。姉ちゃんが清めて、俺は流す人。悪いものから、人を守る人。

 それに、俺、憧れた人がいるんだよ。その人とお揃いなんだ。“りゅう”ってさ。だから、俺は俺の名前が好きで――恥じないように生きるんだって」


 次に続いた言葉の意図が取れず、中嶋は目を瞬かせた。早乙女は俯いたまま、ぽつぽつと言葉を落とす。

「子供なりにどうにかしようとしてたんだ。でも無理でさ。だから、やらないとな。名残惜しいけど、そろそろ来ちまうだろうから」

「早乙女……?」

 彼が顔を上げて、中嶋に微笑みかけた。静かな笑みは、これまでの印象とはまるで違っていて――その手には、いつから握っていたのか、銀色が光っていた。

 熱いものが、腹部に走る。

 ごぽりと、喉奥から生温い液体がせりあがった。

「中嶋が優しくて良かった。お前ならあの邪魔なお守りを無関係の女の子に譲って、残ってくれると思ってた」

 中嶋の肩を、軽い力が押した。だが腹部にナイフを突き立てられ、ぐらつく身体は、それだけで簡単に傾いて――崖先から、海へと落ちる。

 

「その綺麗な魂なら、海神様にも満足していただけるはずだ。きっと力だって取り戻される。

 頼むよ中嶋。この島のための贄になってくれ」

 

 呆然と目を見開いた中嶋が最後に見たのは、薄く笑う学友の姿だった。



「――中嶋に突き立てたナイフは印だ。退魔の術も刻んでる。淀みに呑まれる前に、海神様の元に届くはずだ。

 ちゃんとその辺は考えてるんだぜ。捧げてもらう命なんだ、無駄にならないようにしないとさ」

 崖の先にいた人影――淀みは全て落ちていく中嶋を追って海に溶けた。その場には晴れ渡った青空と、一人の少年だけが立っている。

 ――そして、息を切らした焔と荒川が、その光景を睨みつけていた。

「ッ早乙女……、いや鬼鎮……クソッややこしいな!」

 天城を図書館で保護してもらった後。荒川達が走って崖に辿り着き、中嶋達の姿を視認できたのと、中嶋が突き落とされるのは同時だった。息が切れるほど走っても崖に辿り着いた時には既に全てが終わったあとだ。無力感か苛立ちか、荒川はとにかく叫んだ。

「流人! テメェ最初っから……!」

 崖の先の少年――鬼鎮流人が振り向いて、薄く笑う。

「荒川が俺のこと覚えてなくて良かったよ。昔は姉ちゃんに頼ってばっかで情けない奴だったからさ、目立たなくて、それが上手く転がったかな」

 凪いだ顔。あのお調子者だが憎めない委員長の姿はもうどこにもなかった。気圧されて、荒川はぐっと黙り込む。

 焔は、険しい顔のままただ流人を睨みつけている。だがやがて、ぽつりと独り言のように呟いた。

「……なるほどな、ここが神社の跡地か。確かに、信の気配が残ってる」

 薄いがな、と付け加えながら、煙草とライターを取り出した。一本咥えて、火をつける。荒川には焔が何をしようとしているのかは分からないが、何か、対抗策があることは今までの経験から察することが出来た。

「荒川、アレが余計なことしねぇように抑えてろ。中嶋あのお人好し引っ張り戻す」

「ッ、わか」

 だからその一方的な言葉にも頷こうとして――不穏な、鈍い音に言葉を遮られたのだ。

 独特の臭いがした。荒川は嗅いだことの無い臭いで、表現ができなかった。花火の臭いに似ているような気もした。視界の端に煙が上がっている。

 目を見開いた焔の黒い学生服、その脇腹のあたりに液体が滲んで色が濃くなって、どこから伝ったか、赤色が落ちた。その、焔自身が作った血だまりに火が付いたままの煙草が落ちて、ジュッと音を立てて種を失う。

「海神様の力を取り戻すためにいろいろ調べたよ。どうにかできるんなら何でもした。父さんが姉ちゃんを見捨てて逃げたって、俺だけは鬼鎮の使命を果たすんだ。

 ……その過程でちょっと危ないとことも繋がりができたりしてな。これは副産物ってやつ」

 薄く笑う流人の手に握られているのは、煙をあげる拳銃だった。実物など初めて見たそれに、荒川はさっと血の気が引く。

「危ないぜ荒川。どいてろよ」

「テメェ何……、ッ!?」

 躊躇いなど見えなかった。流人はまた二発三発と銃を撃つ。咄嗟に焔はふらつく体で避けようとしたのだろう、なんとか足をもつれさせながら何歩か横に逸れて。

 その先は崖の端だった。痛みに顔を歪ませたまま、焔の体がバランスを失う。ぐらりと、傾いて深い青色へと――

「焔!!」

 ――それを視界に捉えて、荒川は、考えるより先に落ちていく体に手を伸ばした。


「あーあ。……まあ、あんたならそうするよなぁ」

 ぼちゃん、と鈍く音が鳴る。波打つ水面を、流人はそうとだけ呟いて、見下ろしていた。

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