第21話 隠匿

「……焔?」

 横断歩道を超え、T字路の向こう。焔の姿は直ぐに向かいの塀に隠れて見えなくなる。考えるより先に、荒川はその姿を追っていた。

 追いかけて、塀まで辿り着いて姿を探す。焔はと言えば、少し先、誰かと話しているようだった。無意識に塀に隠れながらその様子を伺うと、どうやらその相手は初老の男性である。そこで、彼等が話している場所が、孤児院の門の前だと気が付いた。

 焔は男性に何か渡そうとしているようだった。男性は遠慮している素振りだったが、暫く後、根負けしたように受け取る。それを確認し、焔は何か一言二言話してから、男性から離れた。帰るのだろう。幸い、荒川の隠れている塀とは反対方向である。

 焔の姿が見えなくなってから、荒川は、自然とその孤児院に歩み寄っていた。

「……おや? 君、何か御用ですか?」

 初老の男性が荒川に気が付いて振り向く。人の良さそうな彼に見覚えを感じて、荒川は少し考え――気付いた。彼は、中嶋に雰囲気が似ているのだ。顔立ちが似ているわけではないが――その纏う空気が、近いものを感じる。穏やかで、人に安心感を与えるような、優しい空気だった。おそらくは彼は院長なのだろう。

「あー……用っていうか、あの……今の」

「もしかして、圭太君のお友達ですか?」

 何も考えずに近付いてしまったために言葉を探す荒川が、焔の制服と同じものを着ていると気が付いたのだろう。そう問われ、焔本人からは否定されそうだが、とりあえず頷く事にした。すると男性は嬉しそうに笑う。

「そうですか、圭太君にお友達が! あの子はここに居た時からなかなか子供達と馴染めなくて心配していたんです」

「……あいつ、ここの出身なんすか?」

「ええ」

 頷いて、男性は少し沈んだ顔で、「少しの間だけだったのですが」と付け加えた。

「あの子は……八つほどの歳の頃でしたね、二ヶ月程度、この孤児院にいたのです。養父となってくださる方が見付かって、本人の強い希望もあって彼の元へ養子縁組をして院から出ていったのですが……短い間でしたが、私にとってはあの子も大事な我が子の一人です」

「あいつがさっき渡してたのは……」

「……高校生になってから、ですね。バイトで稼いだのだと言って、院に寄付をしてくれています」

 男性がその手に持っていたのは封筒だった。それを胸に抱え、彼は悲しげに眉を下げる。その仕草と、言葉で、荒川は先程焔が押し付けるように渡していたものがその封筒なのだと察した。その中に恐らくは寄付――金銭が入っているのだろう。厚さから、それなりの金額であるとわかる。

 烏間高校は原則バイト禁止であるが、家庭的な事情があってやむを得ないと判断された場合は特例で許されると聞いている。そうは言っても、荒川は、そんな特例は何だかんだで居ないものだと思っていた。

「あの子のお金です。あの子の未来のために、あの子自身のために使ってもらいたいのですが――建物の改修工事は、あの子が院を出てから、あの子の養父であるお方の寄付という形でされました」

 男性の顔は未だに暗い。その目のまま、彼は孤児院を見上げた。それなりに長くある院のようだが、建物は綺麗なものだ。

「……あの子が居た二ヶ月間で、院の事故が相次いだのです」

 暗い顔で、男性は呟いた。彼が横を向くと、荒川の方が身長が高いのも相まって、ワイシャツの隙間から首元が見える。歳を重ねた皺が刻まれたそこに、縫ったような傷跡が覗いていた。

「壁が崩れたり窓が割れたり――元々古い建物でしたから、偶然でしょう。たまたまその時期に、続いてしまっただけ。

ですが――院の一部の子供達は、あの子が来たせいだと責めました。……あの子にとって、この院は安心出来る場所ではなかったかも知れません」

 男性は目を伏せる。暫く黙った彼が何を思い出していたのか――何が起こったのか。具体的なことは、荒川に感じ取ることは出来なかった。ただその沈痛な顔持ちが、男性が後悔していることを、よく示していた。

「……随分と沢山のお金を、あの子は定期的に寄付してくれます。あれらの事故はあの子のせいではないのだと、何度も言っているのですが」

 男性がおもむろに顔を上げる。丸眼鏡の奥の人の良さそうな瞳が、荒川を見ていた。

「本当は、こんな風に勝手にお話するべきことではないと分かっています。あの子は自ら話さないでしょうし、本人が話さないことを違う人間が話すべきではないことも。

……ですが、あの子を友達と言ってくれた方に、初めてお会いしました」

 そして――男性が、深く頭を下げる。ぎょっとした荒川が顔を上げさせようと口を開く前に、彼は言葉を続けた。


「優しい子なんです。自分のことよりも人のことを優先してしまう子なんです。……どうか、よろしくお願いします」



 優しい子。

 自分のことよりも人のことを優先してしまう子。

 男性と別れて帰路に着いた荒川は、その言葉を反芻していた。

 正直な所、そんな風には全く思えない。面倒だと言って猿の山神に1、2本の電車分の乗客をそのまま食わせようとした男だ。確かに桜子の救出は彼が居なければ成されなかったが、その協力が善意からかと言われれば微妙な所である。

 だがああして孤児院に寄付していることは事実だ。中嶋には妙に甘い所もまた。

 ――そこまで考えて、やはり荒川には分からなかった。


「視線がウゼェ」


 ――やっぱこいつ絶対優しくないだろ!?

 内心で叫びつつ、荒川は目の前で昼食のパンを咀嚼する焔を睨む。

 翌日の昼休み。ぐるぐると悩んで寝付けもしなかった荒川など素知らぬ顔で、焔は相変わらずの冷たさである。テメェのことで悩んでんだよと言ってやりたいが、孤児院でのやり取りを見てしまったのは――別に故意に後をつけた訳では無いのだが――流石に言いづらい。そういう訳で、荒川は文句をつけることも出来ず、ぐううと唸ることしか出来なかった。

 唸りつつ、最早荒川に視線すら向けない焔を見る。相変わらずのふてぶてしさだ。果たしてこんな男が、焔が来たから孤児院で事故が起こったのだと謂れの無い文句をつけられて傷付くような繊細な心など持っているだろうかと思ってしまう。ふてぶてしく、素知らぬ顔で、院の屋上でも陣取って本でも読んでいそうな気がした。

 ――それでも彼が孤児院を出て、さらに多額の寄付を院に行っていることは事実で、だから混乱するのだ。この男が本当に分からない、と、荒川は深く溜息をついた。

「ああ焔と荒川、今日も一緒に昼を食べているのか。仲良しでいいな!」

 ――今だけは心から、仲良しじゃねぇと叫びたかった。

 それをぐっと堪え、荒川は声の方を見る。ニコニコと人の良い笑顔を浮かべるのはこのクラスの委員長である中嶋だ。確か今日は昼の委員長会議がある日である。それを終えて戻ってきたのだろう、その手には幾つかの紙が握られている。

「何か用か、中嶋」

「そうそう、24日の校外学習の行き先が決まったんだ。俺も焔も荒川も同じ班だから、よろしくな」

 焔の言葉にそう言って、中嶋は紙束のうちの二枚をそれぞれ荒川と焔に渡す。

「俺達が行くのは海だ。知ってるか? 鬼流おにながし岬ってところなんだが」

 ――その言葉を聞いた瞬間、焔の顔が分かりやすく顰められる。

 ぱっと中嶋の手から紙をひったくり、中を見て――焔は項垂れ、「なんでよりによってここなんだ」と呟いた。その反応で、もう既に、荒川は厄介事の気配を察知してしまう。心配そうにどうしたと問うてくる中嶋の声が心做しか遠い。

 そういえば、他のクラスの委員長に、オカルト好きな生徒がいたような、いなかったような。


 渡された紙――校外学習のしおりである――には鬼流岬の概要が書かれていた。

 鬼流岬。

 かつて神隠し伝説が語られたという――知る人ぞ知るパワースポットである。

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