第19話 嚥下

 視界に、灰色の天井が広がっていた。

 ――その『奇妙さ』に、荒川は飛び起きる。そうして周りを見渡して、己が六花代学園の例の鏡前、階段の踊り場に倒れていたのだと理解する。鏡は割れていて、傍に宋閑と桜子が倒れていた。宋閑は呻きながら起き上がるが、桜子は目を閉じたままで、慌てて荒川は駆け寄ってその痩せ細った身体を抱き起こす。

 どうやら、眠っているだけ、らしい。小さく息をしていて、荒川は一先ず安堵の息を吐いた。

「忙しないのね」

 そんな荒川に、少女の声がかかる。意識が途切れる寸前に聞いた声だった。弾かれるように顔を上げると、割れた鏡の前に、ゆるくウェーブのかかった長い金髪とその後頭部を飾る青いリボンが特徴的な少女を見る。歳は十に至るかどうかで、長い金の睫毛に縁どられた青い瞳はくりくりと愛らしいが、その足は地面に付かず身に纏った古めかしいドレスを揺らしながらふわふわと浮いているので、『それ』が人間ではないと理解するのは容易かった。

「……『メリーさんの電話』」

「正解。まあ当然ね、私有名だもの」

 顔を顰めた宋閑の言葉に、少女は得意げに笑いながら空中でくるりと回る。そうして、誇らしげに胸を張った。

 荒川は、猿の駅での出来事を思い出す。都市伝説という形で人間の認知に広がって形を成す――怪奇の一種。メリーさんの電話、という都市伝説自体は、荒川も知っていた。

「圭太のオトモダチだものね、特別にメリーって呼んでもいいわよ」

 焔を名前で呼んで、少女――メリーは笑う。彼女を見上げて、荒川は顔を顰めた。

「……どういうことなんだ? お前、焔の知り合いなのか? あの空間で俺や宋閑に電話かけてたのはお前――、だよな」

「あら、圭太ってば全然何も言ってないのね」

 メリーは息を吐いて、いいわ、説明してあげる、と笑う。

「そうね、まず……私は怪奇『メリーさんの電話』。都市伝説としては色々パターンがあるけれど、基本的には『電話を繰り返しながらどんどん近付いて最後には背後にやってくる』存在よ。私は自我もしっかりしてるでしょう? 有名だから、信力が安定してるのよ。これって凄いことなのよ?」

 ウフフと、メリーは笑って言葉を続けた。

「私は怪奇として、沢山の人間を喰らってきたわ。私が背後にやってきたらどうなるか、知ってるかしら? 私の空間を広げて――いいえ、『あなたの周囲を私の空間に変えて』、呑み込んでしまうのよ。飲み込まれたらおしまい、うふふ、それが私の糧」

 笑いながらあっさりと恐ろしいことを言うメリーに、荒川の顔が引き攣る。宋閑は慣れているのか溜息をつくのみだった。気にした様子もなく、メリーはくるくると宙で回る。

「圭太のことも、昔そうやって食べようとしたのよ。でも空間に引きずり込んだ時に返り討ちにされちゃった。あの煙草怖いわよね、小間切れにされちゃって。神憑きの子とはいえ人間に刻まれたのは初めてよ! 信力がある限り消えないはずなのに殺されるかと思ったわ!

圭太とはそこからの付き合いね、最初は脅されて手伝わされたりしてたんだけど、お菓子とかくれるし案外悪くないわ」

「……で、今回も焔に呼ばれたってことか?」

「そういうこと」

 荒川の問いに笑って、メリーは手を広げた。

「あの空間は悪魔が都市伝説として契約を積み重ねて作り上げた固有結界。逆に言えば悪魔が契約をひとつでも放棄したらその支配権は弛むわ。その瞬間を狙って――私はずぅっと、あそこに近付いていた。悪魔が圭太の挑発に乗って契約を手放す瞬間に『メリーさんの電話』があの空間を奪えるように、あの空間の中に電話を鳴らし続けた」

 くつくつ、少女は笑う。その笑顔に、ぞわりと背筋が凍る心地がして、思わず荒川は抱き起こしたままの桜子をより強く抱き締める。

 目の前の少女も、確かに化け物の一匹なのだ、と。そうして化け物たるその少女は、化け物らしく、人間などの挙動を素知らぬ顔で話を続ける。

「悪魔は生き物。本来は怪奇である私より強い存在。だけれど、契約という限られた条件の中なら逆転する。契約っていうのは本来そうやって使うのよ。敢えて専門化して、自分に最高の陣地を作り出すためのものなの。


――そして、作戦は大成功。空間の支配権は私に移って、私は圭太に言われた通り、貴方達を空間の外に弾き出した」


 ――三人。ハッとして、荒川は周囲を探す。自分と、宋閑、そして桜子。それだけだ。

 何故気付かなかったのか。

「ッ焔は!?」

「圭太は中よ、そうしろって言われたもの」

「あの悪魔と一緒にか!?」

 荒川の脳裏に、鬼気迫る悪魔を思い出す。あの悪魔は、もう頭に血が上りきっていた。何をするか分からない。裁判者、契約、掟――諸々と有るらしい縛りは、最早あの悪魔を抑制するものになりえないのだろう。焔が危険だ、と、咄嗟に荒川は叫びかける。宋閑も顔を顰めていた。

 ――だが、メリーは冷静だ。

「心配無いわよ。あなた達はさっさとその桜子って子を病院に連れていったらいいわ。むしろ悪魔の方が可哀想だもの、自業自得だけど……

……掟破りが悪魔なら、何されたって文句言えないんだから」

 ふう、とメリーは息を吐く。先程の楽しげな様子から一変し、彼女は何かおぞましいものでも思い出すように、己の腕を摩った。

「単純に、あなた達を追い出したのは、見せたくなかったからじゃないかしら」

 困惑の表情を浮かべる荒川と宋閑を横目で見て、メリーは言う。


「圭太、『アレ』にだけは、優しいから」




「――す……ころ、す」

 崩れた世界。市松模様は消え、真っ黒で何も無い空間に成り果てたその場所で、悪魔は手足を無くして転がっていた。譫言のように殺すと繰り返すそれを見下ろして、焔は言う。

「お前やっぱり低級だったな。こんな空間を用意して自分の条件を高めなきゃ契約を成せない――どうせ地獄界じゃ生きていけなかったから人間界に逃げてきたような雑魚だろう。人間界に居着くような地獄界性種族は限られてる。余程人間界が好きな変わり者か――実力主義な地獄界じゃ生きていけなかったような子供か――『弱者』か。

だが折角用意した自分の世界を手放すような真似、お前は頭まで弱者だったらしいな」

 呆れた目で見下ろす焔を、手足を失ってなお、憎悪に塗れた複眼で悪魔は見上げた。ぎりりと牙を食いしばり、潰された蝉のように藻掻きながら、悪魔は吠える。

「お前だけは、お前だけは殺してやる……! 畜生、畜生……ッ! 俺を見下すな……ッ!

神憑きの子! お前を食らって俺は強者に成り上がって! 地獄界に返り咲いてやるんだぁあ!!」

 バキバキ、メキメキと、悪魔の背が割れて虫の手足が伸びていく。黒緑の血を垂れ流しながら、自らの身を犠牲にしながら、せめて焔を貫かんと鋭く迫る。


「奇遇だな。俺の『友達』も、腹が減ったらしいんだ」


 その様に――焔は、そう笑った。決死の一撃であろうその節足は、焔に掠りもせずにぼとりと切られて落ちた。切ったのは、焔が吐き出す黒い煙ではなかった。

「なん、だ?」

 ――『それ』を視界の中に確かめて、悪魔は零す。

「なんだ、それは……人外種じゃない……信でも、怪奇ですらない……? なんなんだ、それは……ッ!」

 何もかも失った身体で、それでも悪魔は後退ろうと身を捩る。その目は、焔の後ろを見ていた。

「ちゃんと噛んで、食うんだぞ?」

 焔はそう、顔を上げた。己の上にある、その顔に笑いかけていた。

 挑発する悪い笑みでも、悪魔に向ける嘲笑でもない、優しい顔だった。



 ――千切れる音。

 甲殻が砕ける音。

 肉が咀嚼される音。

 響く。

 響く。響く。響く。

 喰らう音が、悪魔の絶叫が。血肉が落ちて弾ける水音が。だがそれだけ響いても、それは黒の空間に沈んで、顧みられることはない。

「美味かったか?」

 その全ての音が止んだ時、焔はそう言って、『それ』を撫でる。『それ』は、嬉しそうに喉を鳴らした。

「そうか、そりゃ良かった。巻き込まれた面倒事だったが、それだけが報酬だな」

 心から、良かったと。そんな声音で、焔は笑っていた。

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