第18話 反転
黒い煙が、盤上に充満している。けほ、と少し宋閑が咳き込んで、焔を睨んだ。焔は素知らぬ顔である。
先攻の、悪魔の白い駒――ポーンがひとつ、前に出ていた。次は黒い駒、焔達の番だ。
「さあ、駒を進め給え。最初に言った通り、タイムアウトは無し、いかなる理由があろうとも、一度盤から離れた駒が次のマスに触れたならば次のターンまで動かしてはならない。それが契約上、破られることの無いルールだ。
破った時点で、またゲームを放棄した時点で契約を破棄したものと看做し――心置き無く、食わせてもらおう」
悪魔が舌舐めずりでそう言った。
知らず、荒川は息を飲む。悪魔の威圧感は凄まじい――この化け物が、自分達を食わないのは、あくまで契約を為した上で食わなければ裁判者なる存在を敵に回すことになるからだということは理解している。裁判者には目をつけられたくないから、悪魔は契約を結んだ上で、勝利し、合法的に食事をしようとする。逆に言えばその契約が、悪魔から問答無用で襲われる事態から荒川達を守っているのだ。
焔が一言、「荒川、一マス前」と端的に指示を出す。その通り、荒川は駒を動かすペダルを踏んだ。
白い駒が動き、黒い駒が動き。それを数手繰り返していく。黒い駒がひとつ、白い駒を落とした。
戦況は――有利に見えた。焔は冷静に、駒を動かす先を指定する。その顔に焦りは見られない。対して、悪魔は手を口に当てて盤を眺め下ろしている。白い駒が動く。悪魔の人差し指が、ふと一本だけ口から離れた。
「苑源寺。向こうのビショップを左斜め前に二マス」
焔が指さして指示を出す。宋閑がその通りに、鬼神を操作し――その時だ。
とん。悪魔が、人差し指で己の口元を軽く叩いた。
「……は?」
宋閑が顔を顰める。
――鬼神が動かすビショップは、右斜め後ろへ、三マス移動していた。
「おい宋閑そっちじゃねぇぞ!?」
「分かってる! 俺だって左斜め前にしようとしたしそう動かしたはずだ!」
「は……ッ?」
思わず叫んだ荒川に、苛立ち混じりに宋閑が怒鳴り返す。困惑した荒川が悪魔の方を見れば、宙にぶら下げられた鳥籠に変わらず腰掛けている悪魔が、にんまりと笑っていた。鳥籠の中の桜子の顔は青い。そして――こうなることを知っていたかのように――目を伏せていた。
「……空間を弄ったな」
焔がそう、呟いた。荒川はその言葉に、先程焔が言ったことを思い出す。
――俺達とあの悪魔の関係はまだイーブンだが、この空間自体はあいつが都市伝説として契約を重ねてきたものだ。つまりこの空間の支配権はあいつにある――
「――ッあいつ! 駒の移動先を逸らしたのか!」
宋閑が吠える。悪魔が、笑い声を上げた。
「言ったはずだぞ人間共。『いかなる理由があろうとも』、一度盤から離れた駒が次のマスに触れたならば次のターンまで動かしてはならない、と。そのビショップはあくまでそのマスに着地したのだ。それで、そちらのターンは終了だ」
「ッざっけんな! ずりぃぞ!」
荒川の言葉にも鼻で笑って、悪魔は己の駒を動かした。白いルークが、先程己の目の前まで来た黒のビショップを転がす。
「さあ、そちらのターンだ。好きに動かしてくれて構わない」
くつくつと喉を鳴らして、白々しく悪魔が囁く。ぐっと、荒川と宋閑が睨むが悪魔の表情は変わらない。見下し、嗤っているのみである。
「荒川。斜め左、そこの白ルーク取ってやれ」
だが、焔は平然としていた。相変わらず端的に、荒川に指示をする。
「……また移動先変えられるぞ」
「いいからやれ」
荒川が苦く言うが、淡々と焔は一蹴した。悪魔が小さく、無駄な足掻きをと呟く。
「ったく何だってんだよ、ッ!」
ペダルを踏む。その瞬間、荒川は、己の駒に何か力が働くのを感じた。動かそうとした斜め前ではなく、ただ一マス前にのみ動こうとしていると、景色で分かる。
「――ッ!?」
だが、荒川をポーンごと包むように、黒い煙が渦巻いた。
一瞬の出来事だった。荒川の視界が黒に染まったかと思えば、その景色は晴れ、荒川は――白いルークを倒して、『斜め前に進んでいた』。
「マスに着いた時点で、そこで決定なんだろう?」
黒い煙を吐き出して、言う。
「……奇遇だったな。空間を弄るの、俺も得意なんだよ」
煙草を燻らせ、焔は笑う。荒川は――煙たいほど、焔が盤上に黒い煙を充満させていた理由を理解した。
「空間の支配権は持ってないからな。そっちほど精密には変えられないが――そうだな、元々の移動先に補正するくらいがせいぜいだ」
宋閑が顔を顰める。明らかにそれは、そう言って笑う焔への呆れ顔で、一言、「なんて性格が悪い奴だ」と呟いた。
「だから――安心しろよ、お前の駒は、好きに動かしてくれて構わないぜ」
初めて、悪魔の顔色が変わる。目を見開き、唇を噛んで、拳を握る。
――そこからは、一方的だった。
ずっと――おそらく桜子との際も――空間の支配権と精神の支配権を握り、悪魔はチェスを有利に進めてきたのだろう。言ってしまえばまともなチェスなどずっとやっていなかったに違いない。それは、荒川にも分かる。それを、よりによって焔という、ボードゲームに強い男に『まともなチェス』に引きずりだされた。
結果は見えている。既に、白の駒はボロボロと落ちていった。チェックメイトがすぐそこにあると、簡単に分かる。
「……認めない」
悪魔が、呟いた。
「認めないぞ……こんな、こんな筈がない。この空間は私のものだ、契約を積み重ねて作った私が王者の空間だ……私が勝てない、こんな、空間など……」
ふらりと、鳥籠から悪魔が離れる。ふらふらと浮遊して、悪魔は何か呟き続けている。
「――要らない。私の役に立たないなら必要ない……そうだ、俺は悪魔だ……! なんで契約なんぞに縛られなければならない!? 人間なんてゴミカスのためにこんなもの! そうだ! 俺が強いんだよ!!」
譫は叫びとなって、悪魔はざわざわとその本性を晒していく。虫の足が幾つも背から飛び出て、目はボコボコと顔中から開く。気取ったスーツは破れ、先程までは男と判別できるほどに人型を為していたそれは、どんどん醜く歪んでいく。虫の集合体、一言で例えるならばそれだろう。
「――やってられるかァ!! 裁判者など怖くねぇ!! オマエラ全員食い殺してやる!!」
駒が、全て吹き飛んだ。荒川も宋閑も振り落とされ、受身を取った宋閑が鬼神で荒川を受け止めた。チェス盤が壊れていく。
ビリビリとした殺気が肌を刺して、荒川は目の前の化け物のおぞましさを理解した。本能的に――この悪魔が後に裁判者に裁かれるとしても――それは自分達が喰われ殺される『今』を回避することとは繋がらないと、理解する。少なくともキレた悪魔にとっては――理解して、荒川の血の気が引いた。
――プルルルル。ひび割れていく空間に響く、着信音。それがいやに大きく聞こえた。
否。
その音は空間全体に響いていた。
「この空間は、都市伝説という契約を積み重ねて作られた。お前が契約をひとつでも放棄すれば、支配権には歪みができる」
焔が笑う。
「もう一つ、積み重ねた別の契約があれば、歪んだ支配権を奪うのは簡単だ」
プルルルル。プルルルル。無機質な電子音が煩く響く。
虫の集合体と化した悪魔の背後に、何かが居た。
焔が、笑う。
「馬鹿で有難う。ああ、この時を待っていたんだ」
「私メリーさん。
今、あなたの後ろにいるの」
少女の声が響いて、世界が壊れた。
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