第17話 仕掛

「魂喰らいの悪魔族は契約を取り付けて魂を喰らう――だから多くは人間を惑わせる美しい顔立ちをしてる、が」

 空に立つ悪魔を見上げて、焔は呟いた。

「随分と醜い。お前低級だな」

 ――ピキリ。悪魔の額に血管が浮く。背中に生えた大量の虫の足が、ざわざわと蠢いて、それがその男の苛立ちを示すようだった。

「……蛆が、私の空間に勝手に入り込んだかと思えば……勝手なことを言ってくれる」

 口角は吊り上げたままだが、悪魔の苛立ちはそのまま殺気になって、荒川の肌を刺した。焔は低級と呼んだが、猿の駅で出会った――死にかけた信堕ちよりもよっぽど明確で鋭い威圧感に、荒川の肌は総毛立つ。宋閑にとってはどうか、荒川には分からないが、少なくとも焔のような笑みは浮かべず悪魔を睨み上げていた。

「キレんなよ、怒りのままに俺達を殺してもお前が裁判者にしょっぴかれるだけだぜ。それが怖いから鏡に籠ってたんだろう?」

 焔が笑い、一歩悪魔の方へと歩み寄る。咥えられたままの煙草が黒い煙を吐き出した。

「『鏡の悪魔』。お前は都市伝説という名目で、深夜零時に鏡の前で正座する、ってのを契約の合意とした。契約内容は悪魔と『遊ぶ』こと。ゲームに勝ったら願いが叶えられ、負ければ魂は悪魔のもの――これが契約の本命だ。契約さえしてしまえばお前が魂を喰らうのになんら問題は無い」

 焔が煙を吐きながら、言葉を続ける。

「俺達は契約に合意していない。故に、お前と俺達はイーブンな関係だ。だが細道桜子は現在お前のものであり、お前とイーブンな俺達はお前に食われることもないが、細道桜子を奪還することも出来ない。

――だからだ」

 煙は室内に充満していく。不思議と誰も咳き込むことは無い。焔が笑って、悪魔を見上げながら、見下した。


「契約をしようか鏡の悪魔。ゲームに俺達が勝てば細道桜子は手放してもらう。お前が勝てば、俺達の魂はお前のものだ」


「――ッは」

 笑い声は、悪魔のものだった。

「ははははッ!! 何だ! 契約を避けて入り込むことに成功しながら契約を受け入れるというのか! 愚かだ! あァ実に、他人を助けたい人間ほど安い餌は無いとも!!」

 地面が揺れた。

 地響きに、荒川と宋閑は立っていられずにしゃがみこむ。乾涸びた死体だらけの檻はへしゃげ、蠢く空間に飲み込まれる。焔と、空中の悪魔だけが平然と立っている。駄目、と叫ぼうとしたのだろうか、桜子は口を開き、だが即座に檻から伸びた巨大な虫の節足にその口を塞がれ、檻に縛り付けられた。藻掻く桜子の入った檻だけが、宙に浮き、それは天井から吊り下げられるように配置される。


「此処に契約は成された! 少しばかり手順は飛ばしたが瑣末な事、終わるまで止められぬゲームを始めよう!」


 市松模様の床は、八列ずつの正方形として盛り上がり。

 並べられた白と黒の駒は、それぞれが人一人乗る事が出来る大きさを。

 ――鳥籠に溢れた食料庫は、一瞬のうちに、巨大なチェスボードへと変貌した。

「チェスのルールはご存知かな? このゲームもそれと同じだ。ただし、この駒は人が一人乗り込んで、操作しなければ動かない。タイムアウトは無し、『いかなる理由があろうとも』、一度盤から離れた駒が次のマスに触れたならば、次のターンまで動かしてはならない」

 宙にぶら下がった、桜子のいる鳥籠に腰掛けて悪魔は笑った。そうしながら、指をひとつ弾く。

 ――悪魔の側の白い駒達の上に、それぞれ一人ずつ、骸骨が現れる。それを操作主とするつもりらしかった。

「……お、おい、大丈夫なのか? お前、何の為に都市伝説の実行を避けたんだ」

 立ち上がった宋閑が、焔がに歩み寄って耳打ちする。それに、焔は平然と肩を竦めた。

「都市伝説は実行しないのが正解だ。悪魔族のことだからな、どうせ鏡の前に正座するっつー『第一の契約』の時点で精神干渉仕掛けるに決まってる」

 ――つまり、ルール通りチェスを行う、と言いながら、駒を動かす思考は相手に支配されてしまうということかと、宋閑と荒川は揃って顔を顰めた。焔はなんてことないと言うように、「正解だろ」と笑う。

「……通りで桜が負けるはずだよ、あいつ頭良いからボードゲームつえぇんだ。俺勝ったことねぇ」

「まあ、仕込みはそれだけじゃないだろうがな。とりあえず指示は俺が出すことにするか」

 ぼやいた荒川に、焔が言う。反対意見は無かった。焔の目は、変わらず悪魔を見上げている。

「早く駒に乗り給え。ゲームが始められないだろう?」

 ニヤニヤと、『手順を飛ばされた』にも関わらず悪魔は既に勝利を確信した笑みを浮かべて三人を急かした。それに荒川と宋閑がムッとした顔を浮かべつつも、それぞれ手近な黒のポーンに乗り込んだ――その時。

 ガシャン、と金属音が鳴る。荒川達の足が重くなり、咄嗟に下を見れば、駒に乗り込んだ足に枷が付けられていた。

「……ああ、言い忘れていたが、その駒は一人一つ、『一度乗ればゲームが終わるまで降りることは叶わない』。ゲームの仕様だ、諦め給え」

「ッはぁ!?」

 荒川が吠える。言葉通り、どれだけ足を動かそうともがいてもその枷は壊れるどころかぴくりとも動かない。対面する形で並ぶ白の駒、その上の一つずつ乗った骸骨が、カタカタと嗤うように顎を鳴らした。

「んだそれ! つまり三つしか駒を動かせねぇってことかよ!?」

「今乗っている駒が堕ちたならば君は自由の身になろう。次の駒に乗り換えて動かせば良い」

「ざけんな! 無茶苦茶だこんなの――」

 吠える荒川を止めたのは、隣の笑い声だった。宋閑が笑っている。初めて見た気がすると、荒川は驚いて隣を見た。この巫山戯た、出来レースのような状態に気でも狂ったかと――

 ――宋閑の目は正気である。にぃ、と歳相応の、悪戯を思い付いた子供のような顔で、口角を吊り上げた。

「……全く! 本当に、正々堂々の欠片もないな、悪魔も、お前もだ焔!」

平然とした顔で別のポーンに乗り込んでいた焔は、ふん、と鼻を鳴らした。

「だから――俺を、連れてきたことを幸運に思えよ」

 しゃん。

 鈴の音だ。見れば、懐からでも取り出したのだろうか、宋閑が小さな錫杖を握っている。もう一度それを鳴らせば、人の居ない黒い駒達の傍で、空間が歪む。

 爪が、指が、手のひらが、伸びてくる。巨大なそれは、人ひとり握り潰せそうな――そして、駒を動かすには十分すぎる大きさ、だろう。


「鬼神と契約を成し、その力を使役する――鬼神術。俺がその使い手で、本当に良かったことだな!」

 そう高らかに、誇り高く、宋閑は笑った。


「……別に、煙草で動かそうと思えば動かせるんだけどな。節約には丁度いいか」

「素直に感謝出来ないのかお前は」

 ――だがその笑顔は焔の一言ですぐさま不機嫌に戻ってしまう。ガルルと唸る宋閑とそっぽを向いたままの焔は、悪魔との対峙中とは思えないほど呑気だ。先程まで泣きそうな顔で身を捩っていた桜子は目を丸くして見下ろし、荒川もまた、喧嘩というには一方的な言い争いを呆けて見るしかない。思わず、笑いが漏れそうな――

「――は、はは。成程、怪奇堕ちか」

 だが、悪魔が嗤う。びくりと桜子が震え、荒川と宋閑は警戒を取り戻して睨み上げた。

「成程。対策は随分頑張って練ったようじゃないか、その魂の味が楽しみだ」

 悪魔は、未だ、勝利を確信しているらしい。次は何をするつもりかと、荒川が舌打ちを零す。

「クソ、あの虫ヤロー余裕そうで腹立つ」

「まあ余裕だろうな。俺達とあの悪魔の関係はまだイーブンだが、この空間自体はあいつが都市伝説として契約を重ねてきたものだ。つまりこの空間の支配権はあいつにある」

「はぁ!? 聞いてねぇぞ!?」

「ちょっと考えたら分かるだろうが」

 あっさりと言う焔の言葉に「じゃあまだ悪魔はなにか仕掛けられるってことかよ」と荒川が吐き捨てた。焔は変わらずの無表情を――少し崩して、口角を吊り上げる。

「欲しいよな、この空間の支配権」

 ――宋閑の懐で、携帯電話が鳴る。慌てて取った彼は、そう時間が経たないうちに携帯を耳から離して訝しげな顔をした。

「どうした?」

 荒川が気が付いて声をかけると、いや、と宋閑が首を振る。

「メリーと名乗る声が電話から……だが、あの怪奇がなぜ今、」

 困惑の声は途中で止められた。白い駒が動いた音だ。

「何を藻掻いているのか知らないが、ゲームは今始まったばかりだ!」

 悪魔が笑う。荒川と宋閑は悪魔を睨み上げる。

 焔は、ただ煙草を蒸かして、黒い煙が盤上を充満するのを見下ろしていた。

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