第10話 閉幕

 学校終わり、電車に揺られ、烏間駅から新杉山駅と聖王駅を過ぎて幾江駅、そこで焔は立ち上がり、電車から降りて改札をくぐり抜けた。猿の駅には、もう二度と行くことは無いだろう。

 幾江町――それぞれ別の意味で人外や怪奇が集まる町である聖王町と六角に挟まれたその町は、その余波を受けて色々と厄介事が多い。それでも焔は己の身の隠し方をよく知り、そういったものを避けてきた。だからこそ、今回の事件まではあまりそういったものに巻き込まれずに済んでいたのに。焔は本日何度目かの溜息をついて、鞄を背負い直した。

 駅から徒歩5分ほどで焔が住むアパートに辿り着く。築三十年のこじんまりとしたそこは、狭くはあるが一人暮らしにはさほど困らず、風呂とトイレが完備されていて、設備の割には安上がりだった。孤児院を出て、特例で許されているバイトの給金で生活する身としては有難い。

 階段を上がり、自宅である305号室に鍵を差し込んで捻る。ガチャンと音がして、焔はその身を中に滑らせた。

 一人暮らしのそこには、無いはずの人影があった。されど焔は焦りもせずに、声を落とす。

「何の用だ、リキ」

 人影は――文字通り人の形を影をしているがあるべき『人』は居なかった――ぐにゃり、揺らいで、形を成す。

 そこに現れたのは、人の形をした人ならざるもの。

 艶やかな黒髪は真ん中分けにして健康的な肌色の額を露出し、横髪だけが他より長く、揺れていた。髪と同色の睫毛が震えて、それに縁取られた瞳が覗く。赤色、血の色、世界の果てで燃える業火の色。その赤の中、膨大な『力』が渦となって紋様を形作る。いつ見ても底の見えない瞳だと、焔は思った。それは人でも無いくせに、人のような形をして、全てを踏み潰す絶対的王者であるくせに、クラシックなメイド服の裾を恭しくつまんでみせた。豊満な胸が揺れる。

「やぁ、機嫌が悪いね、圭太」

 姿形もその声も確かにうら若い少女であり、可愛らしい表情とつぶらな瞳にあどけなさを露出させてみせる。しかしその瞳の奥の渦が今にも己を食い潰しそうなもので、ぞくりと焔の背筋に嫌な汗が流れた。

 ――リキ。そう名乗る彼女、或いは彼こそ、まだ幼かった頃の焔に信力を、信を、怪奇を、人外を、裁判者を、そして神憑きの子のことを教え、力を扱うための煙草型装置を与えた本人である。

 しかしながら、焔はリキのことは殆ど知らない。ただ、今はメイド服を纏った少女の姿をしたそれが、時に少年の姿を、時に青年、時に老婆、時に焔自身、時に動物の姿となる、変幻自在の存在であるということ。そして裁判者機関を顎で使い、圧倒的な力をもって全てを征服しうる、この『世界』全ての支配者なのであろうということだけを理解していた。人外とも怪奇とも違いそうなこの存在は、正しく神と呼ぶべきかとも思っている。生き物として、種族としての『神族』ではなく、信仰によってのみ成り立つ『信』でもない、圧倒的な存在。

 リキは姿を自在に変えられるようで、そのどれが正しい姿なのか――或いは正しい姿など存在しないのか――わからないが、どんな姿をとっても黒い毛に赤目であることは共通している。何よりもその圧倒的なオーラが、それがリキであることを示している。

 だから焔はリキにはあまり会いたくない。確かに様々なことを焔に教えた、言わば恩人である。リキがいなければ焔は幼少の頃にでも人外か怪奇に食われて死んでいただろう。それを踏まえた上で、焔はリキが苦手だった。リキは決して慈悲深い存在ではない。否、慈悲深い聖母の面も持ち合わせているが、同時に残虐な殺戮者の面も備えている。リキが焔に手を貸すのはあくまで絶対的王者の暇潰しなのだった。そして、リキは暇潰しのためであれば、焔に益も害ももたらしうるのだ。

「機嫌が悪い理由はあんたが一番分かってるだろ」

 焔がそう睨むと、リキはにっこりと見た目だけは可憐に微笑んでみせる。

「――『猿の駅』、あの怪奇が肝試しに行った学生と結んだ『縁』を荒川に結び付け、荒川と俺の『縁』を結びつけたのはあんただな」

 リキは微笑んでいた。それが肯定を示していた。

 ――縁。

 パスとも呼ばれるそれは、生き物が生きる中で、絶対に誰かとの繋がりを持つ、その繋がりのことを言う。それは或いは良縁、或いは因縁、或いはお互い覚えていないような『袖振り合う』だけの微弱なものも含めて、自分以外の他者との繋がり。それは或いは縁結びの術に、或いは呪いをかけるための楔に、或いは――怪奇や人外がターゲットを定める時の道標になる。

 『猿の駅』が縁を結んだのは肝試しに来た学生の誰か。焔が後で調べたところ、肝試しに行かなかったあのクラスの人間は三人だった。一人は焔本人、一人は真面目なクラス委員長である中嶋悠大、そして一人は荒川竜一。

 最初の電車に乗っていたあのクラスの人間は焔と荒川のみ。これは奇妙なことだった。本来ならば、まず『猿の駅』に巻き込まれるのは縁を結んだ本人達の筈だ。だが彼等は知らぬ顔で今日も登校してきていた。

 ――即ち、他者によって縁が結び替えられた。本来肝試しに行った者達と結ばれた筈の縁を、荒川に。そして荒川と焔の間にも、縁を。そんなことを、しかも焔に悟られずに可能なのは目の前のこの化け物しかいないのだ。

 リキはくすくすと笑っている。

「そんなに怒らないで? 圭太。荒川竜一との縁はボクからの誕生日プレゼントだよ」

「……誕生日プレゼントだと?」

 焔の眉が寄せられる。焔の誕生日は11月30日で、今は9月2日だ。あまりにも気が早いし、何より嬉しくない。

 焔に睨まれようがリキは可笑しそうにくすくすと笑い続けるのを止めなかった。

「荒川竜一、彼は君みたいな神憑きの子じゃないけど、面白い体質を持ってる。すっごく臭いんだ。人外や怪奇が嫌う臭い。だから普通に彼といる分には、沢山の面倒事を避けられると思うよ?」

「……荒川本人が一番の面倒事だ」

「まあそう言わないで。その代わりじゃないけど、君に、幾つか『事件』との縁を結んでみたんだ」

 焔の睨みがきつくなる。しかし、リキは相変わらず笑っていた。

「君の誕生日まで大体3ヶ月。その間、君や君の周囲はいろんな事件に巻き込まれることになるだろう」

 唄うように、笑うように、リキは告げる。ふよ、と浮いた少女の姿をした化け物は、焔の前で一回転して、鼻がくっつきそうなほど顔を近づける。ふよふよと浮いたまま、逆さまになった顔が焔の目の前にあった。

「11月30日。君の誕生日のその日まで、死なないように気を付けて」

 くすくす、くすくすと、化け物は笑う。


「ハッピーバースデー圭太。君の生命に祝福あれ」


 瞬きのうちに、焔の視界からリキは消える。言いたいだけ言っていったな、と、焔は舌打ちを一つ零した。

 だがリキに文句を言っても意味が無いことは長い付き合いで分かってしまっている。だからもう、全て諦めて溜息をついた。諦めることには慣れていた。

 心做しか先程よく重く感じる鞄を引き摺って、部屋に向かう。自室に辿り着いて、制服のまま、ごろりとベッドに沈み込んだ。

 なんだかどっと疲れた。ぼうっと電気もついていない天井を眺めていると、視界の上部で黒いものが揺れる。

 それに気付いて、焔は体を起こした。そして後ろを振り向いて、ふわりと笑う。

「なんだ、心配してくれるのか」

 ――優しい笑み、優しい声。太助に注いだそれよりも深い、随分昔からの親友に向けるようなそれを、その『闇』に注ぐ。

 『闇』はぱたりと尻尾を揺らした。『闇』は大型犬ほどの大きさの、狼のかたちをしていた。

 焔が腕を広げると、『闇』はぽてぽてとベッドを踏んで、焔の腕の中に収まる。ベッドは一切の軋みをあげず、『闇』が踏んだはずの場所に皺のひとつも出来ていなかった。

 『闇』が焔の頬を舐めるが、頬は全く濡れていない。それでも焔は優しく、愛おしそうに笑って、『闇』を撫でる。

「ああ、大丈夫だよ。心配するな」

 目を伏せて、焔は『闇』を抱き締めた。

「……あと、90日……」

 零して、焔は『闇』の毛皮に顔を埋める。焔の脳裏に、リキの言葉が渦巻いていた。死なないように気をつけて、と。

「……死なないさ、誕生日まで、死ぬわけにはいかない」

 なぁ、と、『闇』の頭を撫でる。『闇』はまた、ぱたり、と尻尾を揺らした。


「11月30日、全部終わるんだ。なぁ、約束な」


 くぅん、と、『闇』が喉を鳴らす。

 遠くで、烏の声が響いていた。

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