第8話 神憑
視界が一回転、転がった。頭上に黒が広がっているが、黒以外にも色々なものが見える。逆さまになった駅のホーム、線路、ちぐはぐな駅長室、三連椅子。ホームに転がる幾人もの人間と、その中でたった一人、しっかりと立っている男。焔。
焔は驚いて立ちあがったというように、三連椅子の前で目を見開いていた。しかしやがて、彼は口を抑える。
「……マジかお前、どんだけ不味いんだよ……っ」
「……は、ぁ?」
焔がくつくつと、喉の奥で笑っている。焔の笑うところなんて初めて見た気がすると、荒川は転がったまま呆然と見上げていた。
いや違う、ハッと思い出して荒川は体を起こす。己の体を見下ろすと至る所に手形のような形をした汚れがべったりとついていて顔を顰めた。
――俺は電車に乗ったままトンネルに入って、黒に飲まれて、そこで暴れて、それで?
《ォ、オ……》
男の声にも女の声にも聞こえるような、沢山の声が混ざったような、濁ったそれが、反響した。がばりと振り返ると、トンネルの奥から、黒が蠢いている。それに驚くよりも先に、視界がブレる。
ホームが崩れる。駅長室が崩れる。線路が崩れる。崩れて、崩れて、黒くなる。月も星もない空に飲まれる。祭囃子はいつの間にか止まっていた。倒れていた人々は黒の中に浮かんでいる。苦悶の表情は無く、安らかに、眠っているようだった。
ぐらり、傾いた荒川の肩に、手が添えられる。
「笑わしてくれた礼だ、助けてやるよ」
焔が荒川の肩から手を離して、自然な流れでライターを取り出した。カチリ、と金属が転がる音。火がついた。黒だらけのその場所で、唯一の灯だった。それは、焔が銜えた煙草の先に付けられる。煙が立ち上る。立ち上る煙は、混沌を詰め込んだような闇色をしていた。
――焔は『其れ』の前で、踵を鳴らす。
『其れ』は巨大な猿のような姿をしていた。しかし、その目は数多の人の眼球で、その鼻は数多の人の鼻で、その口は数多の人の唇で出来ている。手足もそう、数多の人間を寄せ集めて出来たようで、そこから人間の髪のような毛がごわごわと生えていた。
「猿神か、成程、お前にとって太助は扱いやすかっただろうな」
《……ア゛ァ゛、ガ……ガミ゛、ヅギノ゛……》
「随分弱ってるな? まあそうだろう。寝かせた人間の、さらに『脳無し』じゃなきゃ消化出来なかったような奴が、いきなりクソ不味い人間を踊り食いしたら腹を壊すに決まってる」
《ガミ゛ヅギノ゛、ゴ……》
焔が息を吐く。煙草の煙がその息と共に上がって、ドーナツ状の形を作った。焔はもう一度、その中心の空洞に向けて同じ形の煙を吐き出す。
《ア゛》
濁った、短い声。同時に、ブツン、と何かが切れる音。
『其れ』――即ち、山神だったものの、右腕の付け根に輪を通すように現れた黒い円がその腕を切り落とした音だった。
《ア゛ア゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛!!!》
「うるせぇな、人が話してんだろうが」
舌打ちを一つ落として、焔は山神だったものに歩み寄る。
「こんな空間抱えてんだ、どんだけヤバいやつかと思えば……正体は死にかけの猿一匹。これなら煙草の残量気にする必要も無い。一本で十分だ」
《ア゛……ア゛……ッ゛!!》
また一つ、焔が吐いたドーナツ状の煙が浮かぶと共に、今度は山神の左足の付け根に円は現れる。
ブツリ。
厭な音が鳴って、悲鳴も上げられずに元山神は崩れ落ちる。
焔が笑った。
「本当は一本も使わずに自滅を待つつもりだったんだが、荒川が思ったより馬鹿だったからさ、サービスな」
――目の前の光景に、荒川の思考は追いつかない。
明らかにおぞましい、化け物。それが焔によっていとも容易く蹂躙されている。見た目は明らかに化け物の方が恐ろしいのに、何故か、普通の人間と全く変わらない姿である筈の焔の方が恐ろしく見えた。
思わず、荒川の口が震えて、声が漏れた。
「ガミヅギ……?」
「
訂正されるとは思わなくて、荒川の肩が揺れる。それもまた、可笑しそうに、焔は声を上げて笑った。
「神憑きの子。時々人間の中に生まれる、奇妙な力を持つ人間をそう呼ぶんだ。神族の力に似てるとか言う話もあるが、実際この力が何なのかはよくわからん。
そうして、神憑きの子には二種類ある。己の中にある力を行使はできないが、外から人知を超えた人外的な力をほぼ無尽蔵に受け入れ、貯蓄できる『生贄型』と、生贄型のように貯蓄することが可能な上に、己の中の力も行使し特異な能力を使える『特殊型』」
やけに饒舌だった。最低限の説明しかしてこなかった焔にしてはそれが奇妙で、荒川は眉を寄せる。焔は荒川に背を向けていて、その表情はわからない。
彼はまだ言葉を続ける。
「なんでそうなのか、神憑きの子ってのは何なのか、何も分からねぇ。ただ神憑きの子ってのは良質な力と魂を持ってるから、人外や怪奇からすれば最高品質のご馳走なんだとよ。
――だから狙われる。餓鬼の頃からずっとそうだ。人には見えないものが見えるのも、妙な体質なのも、俺が望んだことじゃねぇってのに。迷惑な話だ」
焔は蹲る元山神に歩み寄る。声だけは笑っていた。
「お前もそうだろう? ちまちま人間を食うより、神憑きの子を食った方が早いと思ったか? ああそうだな、それは正しい。『生贄型』を狙うとこも正解だ」
焔が煙草を蒸かす。そうして、声を上げて笑った。
荒川は引っ掛かりを覚えて、眉を寄せる。今の言い方ではまるで焔が『生贄型』のようだ。だが、彼は今まさに奇妙な力を使っている。
――その答えは、問う前に放たれた。
「この煙草はな、特別製なんだ。力を蓄えてる部分に一時的に穴を開けて、取り出す代物。これがあれば俺みたいな『生贄型』でも、『特殊型』みたいに力を使えるわけだよ。俺の力は空間を切り貼りする代物らしくてな、空間の座標がわからなきゃ脱出には使えないが、同じ空間内のお前の体を切り刻むくらいはどうってことない」
また一歩、焔は歩を進める。
「……お前、大人しく消えとけば良かったのになぁ。それなら同情くらいしてやったのに。それか地震で殺した分で満足しとけば良かったんだ」
焔は頭を傾けて、上を向く。ぷか、と、また一つ、煙の輪を浮かべた。それからもう一つ、もう一つと、浮かべていく。
それと同期するように、山神の体に幾つもの輪が嵌っていく。一つは左腕に、一つは右脚に、一つは胴体に、そして一つは――その首に。
《――ア゛、》
山神が呻いた。呻いて、幾つもの人間の眼球で出来た瞳から、雫が落ちる。
《――イ゛ヤ゛ダ、ジニ゛ダグナ゛イ゛、ジニ゛ダグナ゛イ゛……》
呻く。その声が、山神のものなのか、それともその口を形作る人間達のものなのか、もう荒川に判別は出来なかった。
焔は笑う。
「それか、大人しくちまちまと何の能力もない人間を食らってりゃ良かったんだ。馬鹿だなぁ、欲を張るからそうなるんだぜ。人間を食らってるうちに人間に近付いちまったか?」
彼は一歩、また、近付いた。
「まあ、無理だっただろうな。地震で駅員達や客を殺した時点で、もう山の守り神なんかじゃない。ただの祟り神だ。お前がお前を『そう』したんだから、戻れるわけが無い」
だから。
そう、言葉を落として、焔は立ち止まる。静かに山神を見下ろして、見下して、彼は告げた。
「全て諦めて、頭を垂れろ」
その口角は笑んではいないのだろうと、何となく荒川は悟った。
――ブツリ。
そんな呆気ない音で、山の守り神だった怪物の体はバラバラになる。首が落ちる。空間の主が死んだそこは、最早黒さえ保てずに、ボロボロ、ボロボロと、剥がれ落ちる。
ぐらり、今度こそ荒川の体は揺れて、どこかに落ちていく感覚と共に、意識が途切れた。
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