第6話 太助

 闇から電車がやって来る。

 それが停車したと同時に、ホームでひとつ、影が揺れた。

 誰も居なかったはずの場所から、浮かび上がるように現れたそれは、毛むくじゃらの体を引き摺って電車に近づいて行く。電車の扉はほぼ全て閉まっていたが、唯一、最後尾の車両の後ろの扉だけは開いていた。

 そこから、彼はするりと中に入る。赤々しい車両の中には、数人の人間が俯いて並んでいた。

 ずる、ずると、毛を引きずる音を立てながら、彼は手近な人間の一人に近付く。サラリーマンらしい、若い男だった。

 俯いた頭を掴み、彼は、口を開いた。


「太助」


 ビクンッ! と、大袈裟なまでに毛むくじゃらの体が飛び上がる。

 追い打ちをかけるように、開いたままだった後ろの扉から電車に足を踏み入れた男――焔は、もう一度口を開いた。

「ニホンザルの動物霊、太助。それがお前の正体だろう」

 ――焔の後について、恐る恐る電車に乗り込んだ荒川は、驚き半分、警戒半分で化け物を見る。しかし、化け物は荒川の危惧とは裏腹に、焔に襲いかかることも、それどころか近付くことも無く、彼を見ていた。


「信力とは、概念を創成する力だ。だから俺達があいつに『正体の分からない恐ろしい化け物』だって思ってたら、あいつはそうなる。

――逆に言えば、正体がわかってしまえば、恐るに足らない。漫画や小説でも真名看破が有効だったりするだろう? それはまあ、そういうことだ」

 ホームで化物から隠れながら電車を待っていた時、焔にそれだけは教えられた。

 ならば化け物が――太助が焔を目の前にして襲えないのは、焔がもう化け物に恐れを抱いていないからなのか。

 それが分かってもどうも安心出来なくて、荒川は化け物を睨みつける。車両には、人間達が俯いて並んでいた。化け物は今までも、多くの人間を殺してきたのだろう。この人間達もそうするつもりだったのだろう。荒川自身も、焔が居なければそうなっていたのかもしれないのだろう。その恐怖と、憤りで、化け物がスクラップブックで見た『太助』と同一とは思えなかった。思いたくはなかった。


「……太助、」

 それでも、焔の声は何故か優しい。荒川に説明する時の面倒そうな声ではない。迷子の子供にかけるような声だった。

「太助。そこに、お前の求めるものは無いよ」

 焔は太助が掴んだ頭を見る。サラリーマンの男は頭を掴まれながら、しかしまだ安らかに息をしていて、体が小さく動いていた。

「1月5日。お前の命日であり、お前が死んだ一年後のその日、地震が起きた。お前を悼んで、思い出を語り合って、お前を記憶の中に生かし続けるために、集まった奴等は皆死んだ。お前を拾った駅長も、お前を可愛がっていた駅員達も、お前に親しんでいた客も、全員」

 淡々と、焔は告げる。宣告を落とすように。泣く子を宥めるように。

「……もう、それから数十年だ。地震でもう当事者は全員死んで、当事者じゃなければ、簡単に忘れてしまう。20代なんて産まれる前の話になる。今更、もう誰も覚えちゃいないんだよ」

 焔が彼に歩み寄る。彼は逃げも襲いもしなかった。じっと、瞳のような空洞が、焔を見ていた。

「どれだけ頭を探ったって、脳味噌を食らったって、お前の探す記憶は何処にも無い。お前をもう誰も覚えていない」

 空洞が揺れる。揺れて、崩れて、崩壊は体全体に伝わる。毛むくじゃらの真っ黒な体が、ぼろぼろ、ぼろぼろと、剥がれ落ちていく。

「もう全部、終わったんだ。過ぎ去ってしまったんだよ、太助」

 焔はその場に膝をつく。そうして、『彼』と目を合わせた。

 黒が崩れて、そこに居たのは、小さなニホンザルだった。大事そうに帽子を抱えて、静かに泣いていた。

 焔が優しくその頭を撫でて、言葉を落とす。


「俺が赦そう。全ての罪からお前を赦そう。全ての柵から、お前を解放しよう。

――もう良いんだ、太助。お前は何も悪くない。お前が必死に探す必要は無い。だからもう、ゆっくりお休み」


 太助の体が透けていく。眠るように、目を瞑った太助の体は、空気の中に溶けていく。

 やがてそれらは帽子の中に入っていって、ぱさりと電車に帽子が落ちた。太助専用に作られたであろうそれは、人間には小さすぎるものだった。太助の姿は、もう何処にも無い。静かな駅に、祭囃子だけが鳴り響いていた。

「……消えた、のか?」

「眠ったと言った方が正しいな。今はこの中にいる。成仏させるにはこれを外に持っていかねーと」

 そう言って焔は帽子を拾う。そして振り返って、漸く荒川の顔を見た。

「納得いかなさそうだな」

 ぐ、と言葉に詰まり、それでも、絞り出すように荒川は答える。

「……あれが、太助だったのはわかった。けどよ、お前、赦すって何だよ……あいつが沢山殺してきたんだろ……!?」

 焔はじっと荒川を見ている。しかしやがて息を吐いて、帽子を小脇に抱えて歩を進め、荒川の横を通り過ぎた。

「太助のスクラップブックを読んで泣いただろ」

「!」

 荒川はばっと振り向いた。馬鹿にするつもりかと、憤りをもって――しかし、焔の表情は馬鹿にした風もなく、ただ遠くを見ていた。


「それでいいんだ。太助はああやって、人間達に愛されて、人間達を愛して、生を遂げたんだ。『脳を啜る化け物』を許さなくていい。でもそれを『太助』だとは思うな。歪められた形を真実だと思うな。太助の『生』を見た時の、お前の感情まで歪めてくれるな」


 それだけ言って、焔は電車から降りた。

 荒川は何も返せずに、立ち竦む。

 ――分かっている。太助は確かに愛されていた。人懐っこい猿の駅長として愛されていた。ならどうしてあんなことに――

 唇を噛む荒川を、電車から降りた焔が振り返って見る。

「いつまで乗ってるつもりだ? 連れて行かれるぞ」

「……は? 終わったんじゃ、ないのか?」

「終わるかよ。黒幕がまだ残ってんだぞ」

 焔に当然のように告げられて、荒川は目を見開く。焔は今度こそ馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「太助が黒幕だなんて一言も言ってねぇし、たかだか動物霊一匹にこんな大それたこと出来るわけねぇだろ」

「……はぁ!?」

 叫んだ荒川を鼻で笑って、焔は一言、問を投げる。

「魂はどこに宿ると思う?」

「……は、はぁ?」

 突然のように感じる問に首を傾げて、荒川は困惑のまま自らの胸板をぺたぺたと触る。

「……し、心臓、とか?」

「正解は『わからない』だ」

「ぁあ!?」

 今度こそ怒気混じりの声が飛ぶが、焔は臆した様子もなく鼻を鳴らした。そうして、己の頭に帽子をのせ、指を突きつけてみせる。

「分からないが、肉体のどこかに宿ることは間違いない。だから一番確実なのは全部丸呑みにしちまうことだ。だが脳味噌は特に色々とデリケートでな、扱いが難しい上に『消化』も難しい。その割には魂は基本的に宿らない。ミイラなんかがその証拠だろ? ミイラは死者の魂が戻れるように作るもんだが、脳味噌は取り除く。『魂が戻るために脳は別に必要ない』からだ。

――だから、『太助を使って取り除いてしまうことにした』」

 焔は言って、己の頭から指を離して代わりに帽子をひらりと掲げた。

「祭りに必要なのは生贄だ。そう話したな? 祭囃子はまだ止んでないぞ」

 焔の黒い瞳が荒川を貫く。相変わらず、こんな時でも、冷静な色だった。

「電車は動き続ける。太助が居なくたって、乗客は食われて死ぬ。『地震で殺した』分の生贄じゃ足りなくて、ちょうどその時降りてきていた太助の霊を捕まえて歪めて手駒にして、要らないものを取り除かせて、まだまだ食らって――


――それでもまだ足りない大食らいが、腹を空かせて口を開けてるんだぜ」


 祭囃子が、しゃんしゃんと、やけに大きく鳴り響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る