第2話 異事
背筋が凍った。
目を見開いて、焔は即座に身を起こす。電車の中は赤色だった。座席も、壁も、床も、窓も、全て赤色だ。乗客は、焔を除いて皆眠りこけている。
「……いつからだ……?」
焔は一人、吐き捨てる。『こんな奴』が接近している気配は無かったはずだ。いつからだ。いつから狙われていた?
昼間の、裁判者の言葉が蘇る。
――どうぞ、その身にお気を付け下さい。
裁判者は『世界』の均衡を守る存在だ。人間界性種族の魂転生の他、界同士の衝突も規制する。地獄界などという、他の界からやって来た『人外』が、人間を襲う時、裁判者はそれを裁く義務がある。
だが、『怪奇』は別だ。人間の噂や信仰で産まれる、『人間界産の化け物』。それらが人間を襲う時、『世界』には何の影響もない。界内部の問題である。ならば、裁判者はそこに介入する必要は無い。
――あの時。あの朝。あの大量の幽霊に紛れて、『怪奇』が、傍までやって来ていたとしたら。
「……クソが、」
苛立たしく、吐き捨てずにはいられない。あの裁判者が何も教えなかったのは悪意か致し方なくかは知らないが、そんなことは焔には関係なかった。
懐を探る。『目当てのもの』は一応はあるが、数は心許ない。
ぺちゃり、と、素足で粘性のある液体を踏むような音が聞こえて、ぞわりと厭な感覚を味わう。兎も角、この中は危険だ。出なければならない。なるべく音を立てないように、焔は真っ赤な椅子から立ち上がる。
「……んあ?」
――その時聞こえたのは、間抜けな、だがこの空間では聞こえるはずのない声。
弾かれたように焔がそちらを見ると、あの金髪の男子学生が、寝惚け眼を擦り、何だここ、と首を傾げている。『起きている』。
それは有り得ないことだ。この男から、特殊な力は感じられない。ただの人間であるはずだ。ただの人間が、この空間で起きていられるはずがない。
「……何で、お前、起きてんだ?」
「ん? あー、お前、焔……だっけ? 同じクラスの……」
「そんなのどうでもいい。何なんだ、お前」
「はぁ?」
彼は心底訳が分からないという顔をして、その金髪を乱暴に掻き混ぜる。
「お前が何なんだよ……もしかして俺の名前知らねーって話か? 荒川だよ、荒川竜一。一応同じクラスだろ……つーか何なんだよこの電車、真っ赤で気味悪ぃ」
そういう話でもない、そう言いかけて、ぺちゃりとまた響いた足音に我に返った。先程より、音が大きくなっている。
「……それどころじゃないな」
「はぁ? 何なんだよ一体、てか何ださっきの音……」
困惑する男――荒川を無視して、焔は電車の扉に駆け寄った。開けようと力を込めるが、固く、なかなか動かない。開ける『資格』はあるはずだった。ならば、足りないのは単純な腕力か。歯噛みして、それでもこれしか道は無いと、力を込め続ける。扉が酷く重い。ぺちゃりぺちゃりと、音は次第に大きくなっていく。音と音の間に、がりごり、がりごりと、硬いものを喰らう音がする。隣の車室だと、見なくてもわかる。背中に汗が伝った。自分の『力』は、空間座標のわからない此処で、扉を開けることには役立たない。ぺちゃり、また音が鳴った。
「……よくわかんねーけど、その扉開ければいいのか?」
荒川がそう首を傾げて、焔に歩み寄る。焔が何か返す前に、荒川は焔に倣って、焔よりもがっしりと逞しい手で、扉を掴んだ。
「――ッオラァっ!!!」
「……は、」
バキンッ!! と音が鳴って、扉がこじ開けられた。ぽかんと呆けた焔を、荒川は自慢げに見下ろす。
「おらどうだよ貧弱野郎、開けてやったぜ。……つーかもう駅着いてんじゃねぇか、なんで開かなかったんだ?」
「……何で……いや、そうか、……この空間で起きてられるなら、扉を開ける『資格』はある……」
「あん? 何ボソボソ言ってんだ」
荒川が首を傾げる。ハッと我に返った焔が、叫んだ。
「出ろ!!」
半ば荒川ごと突き飛ばすように、焔は電車の外、駅のホームへ雪崩込む。いきなりのことに、自分より細く小さな焔相手とはいえ、荒川も受け止められずにホームに飛ばされた。
背中がホームの固い床に思い切り当たる。
「っいってぇな! テメェ何しやが――」
「黙れ」
「むぐっ!?」
荒川の上に倒れ込んだ焔が即座に体を起こし、荒川の口を手で塞ぐ。また吠えようとした荒川は、後ろの様子を真剣に見ている焔の視線の先を視界に移して、固まった。先程こじ開けたはずの扉は、既に再び閉ざされている。中からは真っ赤で外の様子が見えなかった窓は、外からは何故か中の様子が見えていた。
――その中で、巨大な、猿のようなシルエットの、黒い塊が、闊歩している。
それは、まず、一番手近な乗客に歩み寄る。スーツ姿の男は顔を伏せてぴくりともしない。黒い塊は男の頭に毛むくじゃらの手を伸ばした。頭を、がっしりと掴む。塊が、自らの頭を下げた。
がり。がり。ごり。ごり。
硬いものを喰らう音がする。それは、男の頭に噛み付いて、その頭蓋骨を牙で割っていた。がり。ごり。がり。ごり。食われている男は、その音と共に、びくんと手足を一度か二度痙攣させたが、やがて完全に動かなくなる。他の乗客は、そんな異常に気付く気配も無く顔を伏せている。眠りこけている。俯かせた頭は、まるで、喰いやすいように捧げているようだった。
じゅる、と、今度は何かを啜る音がする。頭に噛み付いたまま、割った頭蓋骨の隙間から、啜っている。
そんな光景を目の当たりにして、荒川の顔からは完全に血の気が失せていた。否、そんな光景を目の当たりにしながら、顔色一つ変えずにじっと観察している焔が異常であるように荒川には思えた。
空っぽになった頭から口を離して、黒い塊は次の乗客に手を伸ばす。同じように頭に噛み付いて、頭蓋を砕き、中身を啜る。そんな事を、中にいた乗客分繰り返して、全員の頭を空っぽにした塊は、ホームにいる焔と荒川には気付いた様子もなく、次の車両へとまたゆっくり歩いていった。
塊が見えなくなってから、焔は荒川の口を解放する。だが、荒川からは叫ぶ気力など失われていた。そんな荒川に見向きもせずに、焔は一つ溜息をつく。
「脳味噌を食ってたってことは、欲しいのは知能か記憶か、か」
「……な、んだよ、あれ……」
焔が零した言葉の意味を理解など出来ない。荒川は震える手で、焔の胸倉を掴んだ。
「何なんだよ、アレは……! お前、おまえ、分かってたのか!? あそこから出ないとああなるって、お前、それじゃ、寝ちまってた奴等も連れてくれば……!!」
「無理だ」
冷たく言い放って、焔は荒川の手を払い除ける。
「あの空間で起きていられない者は、逃げる『資格』を持たない。食われるだけの贄になっちまった」
「なん……」
「お前があそこで起きてられた理由が分からなかったが、近付いてみたら何となくわかった。お前、臭いんだな」
「はぁ……!?」
いきなりそんなことを言われて、荒川は怒りと困惑が入り交じった声を上げる。
「体臭じゃない。魂が臭い。人外や怪奇が嫌う臭いだ。体質だろうな、羨ましい」
「あぁ!?」
異常な光景を見せられた直後に臭い臭いと連呼され、荒川の頭は最早パンク状態だった。そもそも、どうして焔はこうも冷静なのだろうか。先程までは自分が――それは事態を何も把握していなかったからだが――平然としていて、焔が焦っていたというのに、今は自分が混乱していて、焔は平然としている。いや、焔はいつも通りなのだろうか。同じクラスで、交流は無かったが、学校で見かける焔は表情をあまり変えない男だった。
ガコン、と音が鳴って、荒川はびくりと肩を跳ねさせ、そちらを見る。電車が揺れて、動き出していた。ガタンゴトン、と、鉄の箱はレールに沿って、向こうに見えるトンネルへと向かっていく。きっとあの化け物に頭の中身を啜られたであろう人間達も乗せて、走っていく。トンネルの闇に吸い込まれるように見えなくなった電車を、見送ることしか出来なかった。
「呆けてるなよ、荒川」
荒川の上から焔が立ち上がり、制服についた土を払う。
「あの化け物は怪奇の一部でしかない。この空間から脱出しなくちゃ、俺達だってああなるのは時間の問題なんだぜ」
そう無表情に告げて、焔は荒川を見下ろした。
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