第323話  張り子の虎の威


 エルハイム・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネ。

 ベルフラムの歳の離れた兄であり、彼女を窮地に陥れようとしたエルピオスの息子。

 まさかそんな人物が避難民の最後尾。こんな場所にいたとは思ってもおらず、九郎は一瞬呆けた後に身構える。


「お、おっさん! アンタ猪の一番に逃げ出したんじゃ無かったんかよ!? あのムカつくベルの兄貴と一緒に!」


 九朗の中で彼は今のアルバトーゼの混乱を助長した一味の一人。何故ここにとの思いと、何か企んで近付いて来たのかとの疑惑が渦巻き、言葉を取り繕う余裕も無い。

 足元で九郎の警戒に触発されたのか、デンテ、クラヴィスが低く構え、再び低い唸り声を喉から溢し始める。


 九朗の大声かクラヴィス、デンテの剣幕。どちらか、はたまたその両方に怖じ気付いたのか、エルハイムは一瞬面食らったように目を見開きまた一歩後退ると、その後片手で目元を覆って口元を歪めた。


「ははは……。身内が仕出かした不手際とは言え……実に居心地悪い状況におかれております……」


 彼の口から零れた言葉は、九郎にとっては予想外の力の無い落胆と自嘲の溜め息だった。


「へ?」


 予想もしていなかった反応に九郎の口から間抜けな疑問符が零れ出る。そして同時に気付かされる。

 ――街の統治者、エルピオス一行が『小鬼ゴブリン暴走スタンピート』の恐怖に駆られて逃げ出した――これは街から逃げ出すレミウスの紋章入り馬車と、ファルア達の言葉。そしてベルフラムの憤った表情から勝手に思い込んでいただけであり、確定事項では無かったことに。


 今彼が放った言葉から「エルピオスが猪の一番に街から逃げ出した」事は事実なようだが――エルハイムの台詞に込められた意味に気付いて、今度は九郎が驚き目を瞠る。


「じゃ、じゃああんた親父に放っておかれたんか? 息子なのに!?」


 過去の一件から「エルピオスは身内に対して情を持ち合わせていない人物」だと思っていたが、「まさか実の息子にまで適用されるのか……」と呆れて発した九郎の台詞に、エルハイムは苦みばしった表情で肩を竦めて見せた。


「私もこの歳ですので、常日頃から父上の横に付き従っている立場ではございません……。私は父に代わって街の執政を預かっている身とお伝えした筈ですが……。でも……まあ、このような状況になってしまえば、市井の者からすればどちらも同じでしょうか……」


 エルハイムは力の無い言葉で遠回しに九朗の台詞を肯定していた。

 言われてみればと九朗はつい先日のやり取りの記憶を手繰る。

 が、エルピオスに対してのムカつきが大き過ぎて、エルハイムの印象はボヤけてしまっていたし、15歳のベルフラムを叔母さん呼ばわりした中年と印象以外、九郎は殆ど覚えていなかった。


「所詮私も父上の執政を与る身でしか無かった事も痛感しましたよ……」


 九郎の表情から察したのか、エルハイムは再び自嘲の溜息を吐きだし経緯を語り始める。


 過去の栄光に拘り、現実に苛立つだけの父、エルピオスに代わり、エルハイムはアルバトーゼの街の政治を執り行っていた。しかし多くの執政を任されていたとは言え、実権があるのはエルピオス。エルハイムが『小鬼ゴブリン』の襲撃に気付いて行動を起こそうにも、彼は父親から権力を借りていただけの身。街の防備を固めようと、慌てて出先から戻ったエルピオスが目にしたのは、がらんどうになった屋敷の跡だったようだ。


「父上は白の神官でもあったと言うのに……数年前からゴブリンに苦手意識があるようで……情けない事ですが……」


 その場に居合わせていなくとも、彼の呆然とした表情が目に浮かぶ。

 兵を出そうにも兵がいない。権力を振るおうにも後ろ盾が逃げ出したのだ。

 その驚きは、今の九郎の比では無かっただろう。

 九郎の同情の視線から逃げるように、エルハイムは顔を伏せてまた溜息を吐き出していた。


「へ、へえ……」


 『小鬼ゴブリン』の襲撃に耐えられるだけの条件が揃っていながら、何故エルピオスが逃げ出したのかの理由に思い当たり、九郎は引きつった顔で相槌を打つ。


(雄一の野郎とつるんでるときに何かエグいの見たんだろうなぁ……)


  自業自得としか思わなかったし、同情する気も更々無かったが、『小鬼ゴブリン』と聞くと九朗も最初に思い当たるのは、あの悪辣さと陰険さに於いては筆舌に尽くし難い最悪の『来訪者』――小鳥遊 雄一だ。

 ゴブリン自身が持つ性的な嫌悪感も合わさって、4年前『大地喰いランドスウォーム』の撒き餌に使われた大量のゴブリンの一部か生き残って……と考えていた所だった。


「本来なら速やかに礼をせねばならぬところ、遅れた事をここに詫びさせてもらいます。避難民の中でももう父上が逃げ出した噂は広まっており、名乗りを上げる事も出来ず……」


 そんな事など知らないであろうエルハイムは、自分の昨日の顛末を簡潔に語り終え、再び頭を下げてくる。


「え? あ、いや、まあ……俺もこんなナリだし……」


 もう九郎は言葉を濁すしかなかった。

 彼の境遇を改めて理解してしまえば、擡げた敵意など霧散してしまう。


 服はボロボロ、髪はよれよれ。ベルフラムの親戚筋だけあって、よくよく見ると整った顔立ちの美中年と言った感じのエルハイムも、今は他の市民と同様、焼け出された感じで見る影もない。


 彼が言うように、街を見捨てて逃げた為政者――そんな噂が飛び交う中で、名乗りを上げる事など出来る筈も無く、彼は『小鬼ゴブリン』に取り囲まれ、悍ましい肉塊に取り囲まれ、更に人々の憤りにも囲まれ、九郎と同じように針の筵の中で息を顰めていたようだった。


「あ……あんたも大変そうだな……」


 警戒していたことすら忘れて九郎は本心から慰めの言葉をエルハイムに掛ける。

 よく見ると必死に笑顔を取り繕うエルハイムの足は今も小刻みに震えていた。

 今の九郎は恐ろしい化け物。半身を骨と化し、内臓を失った青年に自ら近付くのにどれ程勇気が必要だったかを思うと、申し訳なさすら覚えてしまう。


(アイツの血縁者全員悪人って訳じゃねえんだし……それ言ったらベルまで悪人になっちまうもんな)


 九郎は彼の父親、エルピオスに恨みつらみは山ほどあったが、彼自身に思う所は何も無かった。

 それに彼は年下の伯母と言う立場のベルフラムに対しても、至極丁寧に接していた。

 彼だけでは無く助けた人々全てに疑念を抱き、警戒していたが、絆されれば親身になってしまうのが九郎と言う人間。

 今にも倒れてしまいそうなエルハイムを慮り、九朗は骨だけの右手を差し出し笑いかける。


「ま、まあ無事だったんなら何より……すかね? み、水でも飲んで落ち着いたらどうっすか……って水袋が無かったんだった……。す、す、吸うっすか?」

「や…………伯父となる人の指に吸いつくには私は些か年を取り過ぎているかと……」

「やっぱそうっすよね……は? 伯父?」


 唐突に骨の指を差し出されたエルハイムの口から、引きつった断り文句が漏れ、同時に九郎がまた間の抜けた声を漏らした。


☠ ☠ ☠


「余り気を許さない方が良いと思いますです……」

「んなこと言ってやんなよ……」


 丘を登って行くエルハイムの後姿を見詰めながら呟くクラヴィスの台詞に、九郎は苦笑いを返す。

 あれから少し言葉を交わすと、エルハイムは丘へと戻って行った。

 エルハイムが何故勇気を振り絞って九郎に近付いて来たのか――彼が言う「礼を伝えに来た」だけでは無い事くらい九郎も分かっていた。


「クロウしゃまおじしゃんなんでしゅか?」

「おう、デンテ……。その台詞はとてーも傷付くから止めてくんなまし」


 首をコテリと傾げて尋ねてくるデンテの台詞が、エルハイムが欲していた物だった。


(あいつもこんな感じだったんか……)


 九郎がベルフラムの驚いた顔を思い出していた丁度その時、丘の上から怒号が上がる。


「テメエ! お貴族様だからって俺らがへーこらしてばっかだと思ってんじゃねえぞ!」

「そうよ! 高い税金を納めてたってのに、兵士の一人も助けに寄こさないなんて!」

「あ、あんた達がしっかりしてないから、父さんは……」


 人々の輪の中から抜け出す時はフードわ目深に被り、正体を隠していたエルハイムも、一度注目が集まれば、自ずと正体は知られてしまう。父親に代わって執政を取り仕切っていたから、市民にとって彼こそがアルバトーゼの為政者。丘へと向かうエルハイムには群衆から怒りの声が投げつけられていた。


 もうここに至っては、かつて九郎を死刑台に登らせた『不敬罪』も関係無い。

 人々のやり場の無かった怒りの矛先は、より『弱い者』、『責め易い者』へと向かう。

 ぼそぼそと愚痴のように垂れ流すのが精一杯だった九郎への悪態とは違い、その怒りは隠す必要すら無いのだから。


 ともすればエルハイムは一瞬後には群衆の怒りのはけ口とされただろう。

 しかしそうはならなかった。


「静まれ! 我が身を責めるつもりであれば相応の覚悟をせよ! 私はあの不死者の甥なるぞ!」


 彼が放った一言で、今にも弾けそうだった人々の怒りが水を打ったように静かになる。

 怒りに猛っていた群衆の視線が、一斉に九郎の方へと向けられる。

 恐れを含んだ視線。奇異な物を見る様な湿った視線。

 千を超える人々の視線に晒され、場の空気がまた張りつめていく。


「あいつ……やっぱり……」


 視線の雨の中、クラヴィスがギリと奥歯を噛みしめる。

 何故エルハイムが恐怖心を押してまで九郎に近付いて来たのか。何故エルハイムが九郎を『伯父』と呼ぶことに拘っていたのか。

 その答えがこれだった。


 先日邂逅した際のベルフラムと父との会話。そして昨夜九郎が助けた人々の中にいた、九郎とベルフラムの関係を知る人々の噂話。また父の愚痴などから、エルハイムは九郎とベルフラムが恋仲である事に一縷の望みを託していたのだ。


 平時なら、化物と親類関係にあるなど、彼の立場からすれば、口が裂けても言えないだろう。

 しかしこの窮状に於いて、それは彼を守る最高の外套。

 例え張り子の虎であろうとも、この場限りに於いては九郎は間違い無く強者の側に立っている。


「クロウ様! やはりあいつはクロウ様を利用しようと――」

「わーってんよ、クラヴィス。俺の頭だって飾りじゃねえんだ……。最近飾りっぽく感じちゃいたが……一応脳みそはまだぶちまけてねえしな。まあ見てなって」


 苛立ちと言うよりは悔しさを滲ませ言って来るクラヴィスの頭を乱暴に掻き回しながら、九郎はヘラと笑って親指を立てる。

 エルハイムが今限りの九郎の権威を笠に着て身の保身を得ようとしていた事くらい、九郎も分かっていた。しかし九郎はそれを甘んじて許した。

 それは九郎側にも思惑があったからだ。


「我が伯父は決して悪なる物では無い。かつての白の副神官長。エルピオス・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネの息子。エルハイム・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネの名に於いて宣言する! 貴様らの中にも彼が我々に害を成す者では無いと、我が伯母でありかつてのアルバトーゼの為政者、ベルフラム・ディオーム・レミウス・アプサルティオーネから聞き及んでいた者がいるだろう」


 良く響く声でエルハイムは朗々と地に落ちた筈の権威を振りかざす。

 高慢で反感すら持たれそうな物言いでも、誰も罵声を浴びせられない。

 何故ならエルハイムの後ろ、丘の麓では九郎が仁王立ちで親指を立てていたからだ。


「何より貴様らの命を救ったのは誰か。貴様らが一番知っているのでは無いか? 命の恩人が人では無いからと言って、礼を失するのは誇りあるレミウス臣民にあるまじき行い! 此度の悲劇を救った『英雄』を蔑ろにする事は、このエルハイム・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネが許さん!!」


 化物の脅威を後ろ盾にして、エルハイムは地に堕ちた貴族の権威を振りかざす。

 それはある意味滑稽であり、しかし同時に奇妙な説得力を伴っていた。


(はー……やっぱ俺、為政者には向いてねえわ……)


 高圧的な物言いでありながら、有無を言わせぬ演説に九郎は感嘆の溜息を漏らす。

 このギクシャクした空気の中、子供達を守りながら更に敵意を胸に秘めた人々を守りきるのは難しい。

 九郎陣営に危害を加えようとするような気概は無くても、人々の溜まった鬱憤は内輪もめを生み続ける。

 そんな最悪な雰囲気の集団を纏める技量など、九郎は持ち合わせてはいない。


 だがそんな中、期せずして現れた直近のアルバトーゼの為政者の存在に、九郎も一つの光明を見出していた。


(クラヴィス達にゃ悪いけど、やっぱ大人と子供じゃ説得力がちげえからな……)


 レミウスでは蔑まれる立場の獣人であるクラヴィスやデンテが言ったのでは届かない。

 かつての孤児の言葉も軽んじられる。

 しかし大人であり、かつての為政者の言葉なら、少しは街の人々も聞き入れるかも知れない。


 そんな安易な考えで、九郎はエルハイムに今限りの張り子の権力を貸し出したのだった。


 もしここにベルフラムがいたのなら九郎はその選択肢を取る事は無かっただろう。

 ベルフラムの溢れんばかりのカリスマ性があれば、九郎が不死を晒したどうのに関係無く、群衆を一括して纏め上げたように思う。

 もしこの場にカクランティウスがいたのなら、ありあまる威厳で以ってこの場を治めていただろう。

 もしこの場にミスラがいたのなら、正論と悪辣な手管で人々に有無を言わせなかっただろう。


 しかし最近為政者側の立場にいるとは言え、九郎の「下っ端気質」は筋金入りだ。

 子供達に向かう悪意には備えていても、人々同士で争う光景には右往左往するしか無かった。

 為政者とは人を導く事に慣れた者。経験と才能を要する、一つの技量者とも言える。


「貴様らに我が伯父、『不死者ノスフェラトウ』クロウ殿より授かった奇跡を分け与える! 見よ!!」


 エルハイムが自分と九郎とを行き来する視線の中、右手を高らかと掲げると振り下ろす。


「おおっ!! 水だっ!」

「丘の上なのに水が湧き出したわっ!」


 エルハイムが白い欠片を地面に叩きつけると、その欠片からこんこんと水が湧き出していた。

 なんのことは無い、エルハイムに渡して置いた指の骨から、九郎が水を絞り出しているだけである。

 しかし九郎がすれば悍ましい呪法も、かつての為政者だった中年を介せば途端見方が変わる。

 大地から湧き出ている(ように見える)透明な水に、人々の中から歓声が上がっていた。

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