第322話  イノチノカチ


 人々が眠っていた時間はそう長い時間では無かった。

 どれだけ疲れていていようとも、この状況で熟睡できる筈も無い。

 悪夢はまだ終わっていない――目覚めた人々の顔にはそんな言葉がありありと浮かんでいた。

 

「だ……誰か……み……を……」

「…………の……が……いた……い」


 一時静まり返っていた丘の上に再び暗鬱とした嘆きの声が満ちはじめる。

 しゃがれた老婆の様な声。途切れ途切れで聞き取り辛い呻き声。

 その朝よりずっと死霊を思わせる人々の声には、生命が渇望する新たな欲が混じっていた。


「…………おい、その葡萄酒売ってくれねえか? な、何なら銀貨と交換でも良い!」

「嫌よ! もう残り少ないんだから1万グラハム出されたってあげられないわ!」

「一万……って金貨でも売れねえってのか!!? 業突く張りめ!」

「最初から売る気なんて無いのが分からないの!?」


 炎天下の中、木陰すら無い丘の上で寝こけていたのだから当然と言えば当然だろう。

「『睡眠欲』が満たされたなら、次は『食欲』」とでも言わんばかりに、人々は口々に喉の渇きを訴え、しゃがれた声を交わし合う。


「あ……憐れな年寄りにお恵みを……」

「老い先短いんなら子供達を優先させてあげるべきでしょ! あなたに人の心があるのなら……」

「し、知らん! お、お、俺はお前らと面識すらねえ! 怪我人から物取ろうってのか!」


 だが人々の中で水を持ち出していた者は皆無。ごく少数が酒を手にするのみだった。

 慌てて逃げる際に水を持ち出す者などいやしない。ましてや彼等は街の住人。エーレス山脈の雪解け水を年中通して享受していた彼等にとって、水は重く、嵩張り、価値が無かった。


「母ちゃん……喉……乾いた……よぅ」

「我慢しなさい。ああ……山羊が無事だったら。……あの……誰か水を……。どうかこの宝石で……」

「儂はコップ一杯に金貨5枚出すぞ! 誰かおらんか?」


 その価値が無かった筈の水が、ここにきていきなり命の価値に変っていた。

 人々は必死に水を求め、命の価値を競り上げていく。

 ただ周囲を『小鬼ゴブリン』と恐ろしいアンデッドの肉片に取り囲まれた今、金に幾らの価値も無い。誰もがその思っていたなら、交渉など纏まる筈も無かった。


「母ちゃん……」


 ただ、それでも本能は生きる事を諦めないのか。

 金の価値を知らない子供であればなおさらだった。

 命を繋ごうと必死で溢した子供の憐れな泣き声に、一瞬その場はしんと静まり――


「喉乾いたんなら飲めよ……それ……」


 一人の男が放った呟きに一斉に唾を飲み込む音が響く。

 男はぐずった子供に胡乱気な視線を向け、顎をしゃくっていた。

 その顎の先には簡素な水袋が5つ。重さを伝えるように撓んだ状態で、乱雑に積み上げられていた。


「馬鹿言わないでっ……うちの子で確かめようとしてるんでしょ!?」


 途端母親は子供を抱きかかえ怖気の走った悲鳴を上げる。

 誰もが欲する水がそこにあると言うのに、誰一人その水袋には手を伸ばしていなかった。


「い、いや……。あ、あいつらだって何とも無さそうだしよ? 子供だったらイケんじゃねえかなって……」

「だって、それ・・、あの化け物の……」


 未練がましく続ける男の言葉に、母親は引きつった声で視線を逸らす。

 その視線の先には、変わらず悍ましい化け物の姿が映っていた。


☠ ☠ ☠


「おい、こらっ! がっつくんじゃねえ! コップ使え! コップ!」

「持って無いれふよ?」

「じゃあ水袋! 水袋は……貸し出し中か!? じゃあ鍋! 鍋あったろ?」


 人々の冷たい視線が降り注ぐ中、丘のふもとでは九郎の焦りに塗れた声が響いていた。

 警戒心は抱いていたが、かといって九郎には人々の命を蔑ろにする気も毛頭無い。

 折角助けた命である。何もしないでいたのでは片手落ちと、九郎も色々考え手は打っていた。


 子供達に水を運ばせたのもその一つ。

 九郎は水だけは絶やさないよう、常に大量にストックしていた。

『フロウフシ』の九郎が一番水のありがたみを知っていると言うのも皮肉なものだが、彷徨う事が日常だっただけに、どうしても溜めていないと落ち着かないのだ。

 逆に言えば、『不死』の九郎がそうなるほど、乾きの辛さは過酷だとも言えるだろう。


(飢えよか渇きの方がキチいんだよなぁ……。おい、そこのオッサン! こっちガン見してねえで早く隣の子供に水飲ませろよ! 熱中症はヤっベエんだぞっ!?)


 人は何も食べなくてもかなり生きていられるが、水が無ければ5日も持たない。

 まだ一日目。渇きで死ぬ事は無いと思うが、夏場である事を考えると悠長に構えている余裕など無い筈だ。

 未だに誰も近付こうとしていない水袋の山をチラ見し、九郎は焦りをどんどん募らせていく。


「中身が安全だってこうして実演してんじゃねえかっ! おう、それが原因だって知ってる知ってる! 俺も何でこうなっちまうのかさっぱり分からねえ!」

 

 積まれた水袋と九郎達とを交互に見やり、眉を顰める人々に九郎はヤケクソ気味に悪態を吐く。

 自分が思う程命に価値は無いのだろうか――そんな思いもしていたが、そういう問題でも無かった。


「冷てえ!? 兄ちゃん、何で!?」

「そりゃあ、俺の心が温けえからに決まってんだろ?」

「…………王様の体……一体何で出来てるんですか?」

「ばっか。人間の体の6割は水分で出来てんだぜ?」

「じゃあ、何で甘いんですか?」

「い、良い男のフェロモンって奴だ……」


 今の九郎にとっては子供達が喉の渇きを訴える前にひんやりとした水を提供する事など朝飯前。子供達が喜ぶよう、先月回収してきたばかりの『サボテンの果汁』も少し混ぜ、その美味さには自信がある。平時であれば九郎は渾身のドヤ顔を浮かべていただろう。


 しかし子供達のはしゃいだ声に軽口を返しながらも、九郎の背中には滂沱の汗が伝っていた。指から水を滴らせた瞬間、子供達が目を輝かせてむしゃぶりついてくる事など、九郎は思いもしていなかった。人々から見えないよう背中を向けていたのも仇となった。


 今の九郎の姿を後ろから眺めていたら、通報間違いなしのまごう事なき『事案案件』。

 半裸の男の腰に群がりチュパ音を立てる子供達。

 例え九郎が正体を明かしていなくとも、冷たい視線は避けられなかった。


 ――おい……あいつ自分の体をしゃぶらせてやがる……――

 ――ションベン……飲ませてやがんのか? ――

 ――流石に違うと思いたいけど……でも卑猥だわ……私達もそのうちさせられるのかしら……――


 背中に突き刺さる軽蔑の視線が、耳に届く誤解の言葉が、九郎の胸に次々刺さる。

 誤解を解こうと九郎も躍起になっているが、子供の数が多すぎてどうにも健全さを示せない。

 そもそも「卑猥に見えるよりは、真実を明かした方がマシ」との考え自体、根本的な解決にはならなかっただろう。男の体をねぶるのも、男の体から排出される何かを啜るのも、どちらも大して変わらない。

 しかしテンパっている九郎にはその事実が見えていなかった。と言うか、目を逸らしていた。


(お、おめえら心が汚れてっから卑猥に見えんだ! お、俺は悪くねえ!)


 降り注ぐ冷たい視線の雨の中、九郎は涙目で言い訳を並べていく。

 なぜこうなってしまったのか。考えてみるとそもそも子供達の反応からして可笑しかった。

 いくら『不死者』に懇意的になるよう教育されていたとしても、男の指から滴る水を躊躇なく口に含む事がまずありえない。

 クラヴィスやデンテ。九郎の体から甘い汁が出る事を知っている二人なら、この有様も納得出来る。

 しかし子供達はまだ出会ってから数日しか経っていない。


「ベルフラム様が『世界で一番美味しい』て仰ってた『クロウ汁』……ほんとにおいひい!」


 九郎が疑問を口にする前に答えが出てくる。

 右手中指にむしゃぶりついていたプリシラが、口をもごもごさせたまま上目遣いで言った言葉に、九郎はゆっくり天を仰ぐ。


(……ベル…………)


 雲一つない青い空にドヤ顔で胸を張るベルフラムの姿が浮かんだ気がした。

 好物を聞かれた時に素直に答えていたのか、御伽噺のネタだったのか。真相は聞くまで分からないが、何故こうなったのかの合点はいった。せめて子供らしく蛇の肉とでも答えていてくれれば――と思わなくも無かったが、子供達の反応はそれだけベルフラムが九郎を思い続けていた証でもあった。


「………………汁って言うなや。後プリシラ……その『王様』っての止めてくれねーか? なんだか強制的に咥えさせてるみてえで外聞が悪いって言うか……」


 九郎は空に向かって溜息を吐きだし、せめてもの抵抗を始める。

 今更何が変わると言うのかとの気持ちもあったが、悪い噂はさらなる悪い噂を呼んでしまう。人々の誤解を早く解かなければ、救える命も救えない。


「ひゃあ……クロウお兄ひゃん?」

「…………くそっ! 漂う犯罪臭が拭いきれねえ……。社会的死亡通知が追っかけてきやがるっッ!」


 返ってきたプリシラの言葉に九郎は再び青空を見上げ、きゅっと口を結んで涙を堪える。

 口の中にしょっぱい味が広がっていた。

 

☠ ☠ ☠


 そんな危うい光景を九郎が繰り広げてから暫く後。

 夕闇が空をオレンジ色に染め、犇めく『小鬼ゴブリン』達も再び騒がしく成り始めた頃。


「ちょっと、あなたさっきも飲んでたでしょっ!」

「飲んでないわよ! さっきは口を着けただけだったの!」

「お前、もう3口目じゃねえか! 一人2口の取り決めだっただろう!」


 九郎の懸念の一つは杞憂に終わっていた。

 背は腹には代えられなかったのか、体力が低下した中、命がそれを選ばせたのか。それともどこか諦めの境地に至ったのか、九郎の指をしゃぶっていた子供達に何の変化も表れなかったからなのか。

 乾きに堪えられず水袋に手を伸ばした一人を皮切りに、人々は争うように水袋に群がっていた。

 

「なあ、カイル。足りなくなったら言ってくれって言ったよな?」


 たった5つの水袋を奪い合う人々を眺め、九郎は眉を寄せて首を傾げる。

 千人に対して水袋5つでは足りないのは分かりきっていたことだ。しかしながら九郎達が持参していた容器は5つのみ。だから水を届けさせた時、九郎は子供達にそう伝えるよう言い含めていた。

 水袋の中身が安全だと知れたのに、何故追加を頼みに来ないのか――九郎の問いにカイルも同じように眉を寄せて首を傾げる。


「うん。親方に伝えておいたし、周りの大人も聞いてた筈だぜ?」

「だよなぁ……」


 人々の視線を見るに幾分敵意は和らいでいる。分け与えた水も多少の効果はあったようだ。

 しかし根本的な恐怖はまだ拭いきれないのか、人々は何かを求める様な視線を九郎達へと向けてくるだけ。誰も近付こうとはしてこない。


「しゃあねえ。もう一回行って来てくれっか?」


 見かねた九郎はカイルの背中を軽く叩いて、苦笑を向ける。

 自分が渡した物資の所為で争い事が起こるのも、それはそれで見ていて忍びない。それにこのまま慣らしていけば、やがて人々も心を開いてくれるかも知れない。

 多少の打算を含んだ九郎の言葉に、背中から抗議の声が投げつけられる。


「その必要はありませんです! クロウ様!」


 九郎が振り向くと、クラヴィスがスカートの裾を握りしめ、眉を吊り上げていた。


「欲しかったら頼みに来るのが筋じゃないですかっ! あれだけクロウ様に暴言を吐いておきながら、謝罪も感謝の言葉も口にせず……ただ物欲しそうに見てくるだけのアイツ等に何故そこまでしようとするんですか?」


 クラヴィスは九郎の目を見詰めて畳みかけるよう、さらに言葉を重ねてくる。

 その声には血を吐くような憤りが混じっていた。


「まあそう言うなって。言ったろ? 俺は別に感謝も謝罪も求めてねえって。それにビビっちまって足が竦む事も、悪口言っちまって気まずくなっちまうこともあらあ。面識ねえ奴だったら声も掛け辛えしな?」


 九郎は肩を竦めてクラヴィスに苦笑を向ける。


 彼女の言い分は尤もであり、少しもおかしなところは無い。

 九郎とて蔑ろにされたままと言うのは居心地も悪い。多少なりとも害が無いと分かったのなら、「歩み寄ってくれても良いじゃないか」と、思わなくもない。


 ただ歩み寄るのも謝るのも、とても勇気がいることだ。

 今や九郎の周りの子供達すら異質な者を見る目で見ている人々に、それほど多くは望めない。

 気まずい空気がある事自体、少なからず悪いとは思っている証拠。それで充分と九郎が言うと、クラヴィスは頬を膨らませて不満を露わにしていた。


「そんな感情で二の足を踏んでる事自体、余裕がある証拠で――!!!」


 尚も言い足りないのかクラヴィスが声を荒げたその時、九郎の顔に影が掛かる。

 九郎が何だと顔を向けると、一人の人影が丘を降りて来るのが目に映る。


「ほら、威嚇すんなっての。ん?」


 一瞬にしてナイフを抜き放ち低く構えたクラヴィスを嗜めながら、九郎は目を細めて声を漏らす。

 どこかで見覚えがあるような、無いような……中肉中背の中年の男が、一人丘を下って来ていた。


☠ ☠ ☠


「お久しぶりです……と言うにはまだ日がたっておりませんね」


 両手を掲げ、敵意が無い事を示しながら降りてきた男は、開口一番九郎に柔和な笑みを向けた。


「あ、お久しぶりっす……す? す?」


 思いもかけない言葉に九郎は面食らったまま、大量の疑問符を頭に浮かべる。

 面影に見覚えがある気もするが、全く名前が出て来ない。

 人の顔や名前を覚える事には自信があった九郎は、狼狽えながら視線を逸らす。


「ははっ……。覚えておられないのも無理はありませぬ。一度お会いしたのみ。それに貴方様とは言葉を交わしてはおりませんでしたから。おや? そちらのお子様は覚えてくれていたご様子。ただその大きな金槌は下ろして頂けると……その……助かります」


 男は九郎の態度に苦笑を返し、九郎の足元に目を向け一歩後ずさり笑みを引きつらせていた。

 九郎が彼の視線を追うと、いつのまにかデンテが足元で唸り声を上げている。

 クラヴィスでは無く、デンテがこのような態度を取るなど――その理由を考え九郎はやっと思い出す。


「あ……あんときの……確かエロハイルさん……でしたっけ?」

「……エルハイム・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネです。思い出して頂いたようで安心いたしました。この度は命を助けて頂き、礼に参った次第でございます」


 九郎の言葉を若干訂正して、エルハイムは胸に手を充て恭しく頭を下げていた。

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