第305話  性と生の性


 どうしてそれに気付かなかったのか。

 どうしてそれに思い当たらなかったのか。

 彼女はそれだけを望んで死を飛び越えた存在。

 命を紡ぐ行為そのものに憧れ、蘇ってしまったアンデッド。


吸収ドレイン』とは違った眩暈で九郎はその場に尻餅をつく。

 物理的な要因では崩れぬ足も、心への一撃には耐えられなかった。


「ボクは……皆と……まだ生きていたい……」


 九郎の腰に馬乗りに跨り、アルトリアアンデッドが明日の命を口にする。


「でも……ボクはもう……ボクの欲を抑えられない……」


 アルトリアの潤んだ目には欲望が覗いており、切なそうに開かれる口からは甘い吐息が漏れる。


(アルトが…………死ぬ?)


 情けなく尻餅を着いてしまった九郎は、信じられない言葉に耳を疑う。

 ありえないと思っていた。

 腹を貫かれようとも、頭を吹き飛ばされようとも笑って蘇るアルトリアは、自分と同じくらいに『不死』だと思っていた。

『不死の魔王』カクランティウスよりも、魔力の枯渇の心配が無くなったミスラよりも、九郎はアルトリアの不死性に信頼を置いていた。


 自分が思い浮かべた『死』の光景に、九郎は目を彷徨わせる。

 崩れた瓦礫の山。砕かれた岩。何かを否定するかのように暴れた跡。 


「ねえクロウ……? ボクはどうしたら……」


 何故気付かなかったのか。

 この『失楽園』の惨状は彼女の葛藤の表れだった。


 諦めた筈の人との触れ合い。山奥の滅びた村で眷属を使い飯事を続けていたアルトリアは、今の日常をずっと夢見ていた。手に入らない宝物だと思っていた。

 しかし彼女が手にした宝物は、彼女が死を飛び越えた切っ掛けでは無い。

 望みでは無いのだ。


「……どうしたら……」


 アルトリアが悩ましげに自分の肩を抱く。

 撓んだ瞳は涙で潤んでいると言うのに、その仕草も表情も妖艶で猥らで官能的で。


 アルトリアは『魔死霊ワイト』。

 淫靡で猥雑な行為に魅せられ、死を拒んだアンデッド。

 望みが叶えば……


(…………死ぬ?)


 その言葉は九郎の冷たくなった心に深く深く沈んで行った。

 ならばイタさなければ――九郎の頭に浮かんだ言葉を、アルトリアの笑い声が否定してくる。


「もうちょっとだけ……もう少しだけって……思ってたんだけど……あはははははっ! ダメみたい……。ボクはもうボクを抑えられないっ! この疼きが止まらないっ! 心がもう待ってくれないっ! あはっ……あはははははははっ!」


 かつての狂いかけていたアルトリアがそこにいた。

 九郎の禁忌が解かれた時、アルトリアは周囲の影響以上にこの事を恐れていた。

 300年忘れていた人との触れあいの中の生活は、彼女のたった一つの願いとは別に、新たに彼女の大事な物として頭に過っていた。


「ずっと楽しかっタ! 村を出て色んなものを見タ! クロウと見た砂漠の夕陽ハ綺麗だった! 街にあんなに人がいるだなんて知らナかった! お城の生活もチョット緊張したけど楽しかった! 船にも乗れタ! 世界が見れたっ! …………みんなに……であ゛え゛……た……」


 その身を焦がす欲望の炎に蒔かれながら、アルトリアは思い出を語る。


(俺が……アルトを殺す?)


 思い浮かんだ自分の言葉に九郎は青褪め息を飲む。

 願いが果たされたのだから成仏する。この世界に仏教は無いが、それが自然な事なのだろう。

 アンデッドは須らく想いに因って成り立っている――ミスラが語ったクルッツェの成り立ちが、今になって九郎の頭に蘇る。想い――魂とも呼び換えられる意識の残滓が、アンデッドの命。死を否定してまでしがみ付いた願い。

 それが果たされたのなら――。


「出来る訳がっ……」

「もう無理なんだっ! ボクが抑えきれないんだっ! これ以上になるともうボクはここにいられないっ! 皆を殺しちゃうっ!」


 ずっと人を殺す事から逃げ回って来たと言うのに、愛する女性をその手にかけるなど、考えられない。

 そう言葉を続けようとした九郎の言葉を、アルトリアの涙の混じった悲痛な叫びと嗚咽が遮る。


 抑えようとしても抑えきれない。アルトリアの存在理由とも言える業は、ずっと彼女を焼き続けていた。

 いずれ抑えきれなくなる時が来る。それはすなわち大事な人々を殺すと言う事だ。


 先程九郎が味わった強烈な『吸収ドレイン』はアルトリアの限界を示していた。

 不死の肉体をも灰に変え、死すら与えず消滅させていた。

 九郎の零れた腸からは、赤い粒子は出て来なかった。


「でも……ボクは……もう……一人ぼっちはイヤだよ……」


 アルトリアは涙で滲んだ顔に自嘲を浮かべて、寂しそうに呟く。

 大切な命を考えるのなら孤独な暮らしに戻るしかない。しかし村での生活以上に温かな日常を知って、アルトリアは再び孤独に戻る事を恐れていた。


「クロウの所為じゃない……コレはボクが望んだ命よりも大事な想い……」


 例え今日、九郎がこの場所に訪れなかったとしても、時間はそれほど残されてはいなかった。

 言外にそう言ったアルトリアは、少しはにかみ九郎の唇に唇を寄せた。


「勝手な事を言ってるのは分かってる……ボクが出来ない事をキミに頼んでるんだから……でもクロウ……もう……心が壊れちゃいそうなんだ……。心が張り裂けそうなんだ……お願い……クロウ。ボクが好きなら……ボクを好きになってくれたのなら……」


 彼女の心を殺してはいけない。

 先程思い浮かべた言葉が、そのまま九郎に突き刺さる。

 命か心か――九郎は自分がその選択肢を握っている事に慄き震える。


 アルトリアがトロンとした目つきで九郎を見下ろし、胸元の紐を解いた。

 紫水晶アメジストの瞳に欲望の炎が灯る。

 濡れた形の良い唇から、九郎を奈落の底へと突き落とす言葉が紡がれる。


「ボクを…………………………






 ……………………………………………殺してくれないかい?」


 小首を傾げてアルトリアが夜の誘いを口にした。

 少女の面影を残した顔に、猥らな微笑を浮かべて。


 その言葉は、九郎の心の中、先の言葉よりももっと深い、底の無い暗闇へと落ちていった。


☠ ☠ ☠


 静かな音を立てて抜き取られた紐が、蛇のように地面に落ちた。

 アルトリアの黒い花嫁衣装がゆっくり下がり、白い肩が覗き、大きな胸が露わになる。

 新月の薄い光の中でもはっきりわかる滑らかな肌。男の欲望を掻き立てる、誰の目も釘付けにする豊かな胸。誰も拒まず、しかし誰にも犯されなかった、死の果実。


「んっ……」


 アルトリアはゆっくり胸に手を這わし、悩ましげな声を上げる。 


「お願いだよ……クロウ……ボクに命の煌めきを教えておくれよ……」


 そして九郎の耳に唇を寄せ、媚びるように囁く。

 甘く蕩けそうな夜の誘い。

 それは九郎にとって死神の声。自身の命に対する死では無く、大事な人を失う声。


(考えろ! 考えろ! 考えろ! 考えやがれっ!)


 声を失った九郎は必死に頭を回転させる。

 願いを成就したら死ぬ。

 簡単に思い浮かべられた筈なのに、アルトリアの不死性に彼女の死を思い浮かべる事が出来なかった。


「……んぅ」


 アルトリアが九郎の耳に舌を這わす。

 軽く歯をたて甘噛みすると、耳の形をなぞるように舌を入れてくる。


「ちょっと……まっ……」


 たったそれだけで九郎は反応してしまう。

 自身の欲がアルトリアを死に誘うと言うのに、再び準備を始めてしまう。


「ああっ……固い…………」


 恍惚とした表情でアルトリアは九郎の股間を撫でる。

 ズボンの上からなぞるようにその形を確かめ、万感の思いで目を潤ませる。


(っそ! てめえらコトの重さが分かってんのかっ!?)


 意思に反して滾る血潮に九郎は毒を吐く。

 アルトリアがギリギリの状態なのは見て分かる。しかしまだ全ての手を尽くした訳でも無いのに、欲望を優先させるなど以ての外だ。


「怖がらないで……」


 その九郎の葛藤を嘲笑うかのように、アルトリアは少女のようにいじましく、娼婦のように妖艶に衣服を脱ぎ捨て誘って来る。

 九郎の思考を奪う様に、熱く潤んだ視線を向け、甘い吐息を吐き出し、


「ボクだってキミにずっと感じてた恐怖だもん……」


 死神の微笑みを浮かべる。

 完全な『不死』は無い。神ですら『不滅』では無い。

 彼女ほどの不死性を持ちながらも、その言葉を口にしていた意味を、やっと九郎も思い知る。

 あれだけ好色さを見せながらも、どこか弱々しかったアルトリアの微笑みの理由に、やっと九郎も思い至る。


「いつかキミが死んじゃうんじゃないかって……ボクが吸い尽くしちゃうんじゃないかって……」


 砂漠の街で彼女が溢した自分の欲に対する躊躇い。

 アルトリアはずっと今の九郎の心境を感じ続けていたのだ。


「だから……オアイコ……。ボクはキミを殺しちゃうかも知れないってのに、君に触れるのを止めれなかった……欲望に勝てなかった……」


 触れ合いたいと願えば願う程、相手の死に怯えてしまう。

 移る病――邂逅時、そう言って触れる事を拒んできた彼女の真意は、ここに集約されていた。

 みんなを好きになってしまった――その言葉が悲しい笑みと共に告げられたのは、心のどこかで「好きになること」に怯えていたから。

 それは接触で移る不治の病の患者が抱く想いと似ているのかも知れない。

 愛し合いたいのに、常に相手の死が頭を過る。想いが強くなればなるほど、抱きしめる手の力が弱まる。


「怖がらないで……ボクを抱きしめて……」


 アルトリアが目に涙を溜めて両手を広げる。

 先程まで見せていた妖艶な色気は、暗がりで寂しさを募らせた少女の泣き顔に変わっていた。


 もう引けない――九郎の背中の汗が止まる。

 胸の中で恐怖は未だに激しく渦巻いているが、それでも覚悟が決まる。


(信用すっからな! 間違ってたら切り落として魚の餌だかんな!)


 アルトリアの体からはもう目に見えるほどに『吸収ドレイン』が広がっている。それは僅かに形を留めていた、岩すら崩し始める威力だ。

 性を求めて生を貪る『魔死霊ワイト』の業は限界に近い。

 九郎はたった一つの望みに掛けて、その先へ挑む。


「アルト……」

「クロウ……来て…………」


 震えはまだ止まらない。

 伸ばされた手が、誰を求めているのか分かっていながら、怖気付く性根に九郎の顔が歪む。

 アルトリアは弱ったような笑みを浮かべて、九郎の首に腕を回した。


「大丈夫だよ……」


 二人の間に交わされた、二人を繋ぐ約束。

 アルトリアの口から、全てを受け入れる優しい言葉が紡がれていた。



☠ ☠ ☠


 いつも白く見える朝日が何故か黄色く目に映る。

 腰に感じる気だるい重さに苦笑を浮かべ、九郎は片手で影を作って目を細めた。

 不死だと言うのに腰に重さを感じる事に、何の不思議も感じていない。

 なぜならこれは幸せの重さであり、未来に繋ぐ命の重さなのだから。


 水平線から伸びてくる光の矢が、開かれた『失楽園』の闇を細く切り裂いていく。

 その光に照らされ現れるのは、なんとも居た堪れなさそうな表情のアルトリア。

 闇が掃われ姿を現した景色に呆れているようでもあり、恥ずかしそうでもある。


「クロウ……」

「ん? 名前変えなきゃな? 『楽園』でいいか……」


 昨夜何度も呼ばれた名前に、九郎はからかいの笑みで応える。

 目覚めた時、隣に愛する人がいるのは幸せを感じる瞬間だろう。

 ただ寝ていなければ目覚めも何もあった物では無い。


 徹夜明けだと言うのに、清々しい気持ちなのは、目の前の景色も関係しているに違いない。

 鼻孔をくすぐる花の香り。吹き抜ける風に混じる瑞々しい草の匂い。

 朝日に照らされて現れたのは一面に広がる命の氾濫。

 昨夜までの灰色の死の世界は、一夜にして広大な花畑へと景色を一変させていた。


「……ボクの仕業?」

「ほかに誰がやんだよ……」


 やらかしの共犯である九郎も、何とも言えない気持ちになるが、目の前に広がる景色は彼女自身の心の表れでもある。目に見える形で表れてしまうことには、少し物申したい気分にはなるが……この景色を見るに次第点くらいは貰えたようだ。

 生を求めて死の世界を作り出してしまったアルトリアは、願いが叶った瞬間死を命に反転させていた。


(つーか最近上より優秀なんじゃね? どっかで入れ替わっちまってね?)


 その花畑の中心地で、九郎は俯き、杞憂を説いてきた下半身に胡乱気な視線を注ぐ。


 結局アルトリアの心配は杞憂だった。

 彼女は『魔死霊ワイト』。一人の女性に命を託し、未来に新たな命を紡ぐ為に生まれたアンデッド。一度きりの逢瀬で滅ぶ存在では無かったと言うことだ。

 ただこれを知るのはミスラだけで、当の本人は今も九郎の横で、再び目に見える形で表れてしまったエロの波動の凄まじさに、悶えるように口をムズムズさせている。


 九郎の背中を押したのは、全く空気を読めないと思っていた血潮達だった。

 九郎の体に流れる血潮も、九郎であることは変わらない。自身の命は全く省みずとも、何より命を優先させる。また本能で命の危機を感じ取る。

 思い返してみると、今迄も命の危機が去った後しか反応していなかった。

 九郎の男心は空気は読まないがナイーブに出来ていたようだ。


「「……………………」」


 春満開の景色の中に緩んだ静寂が訪れる。

 九郎とアルトリアは二人して、なんとも言えない表情を浮かべ、周囲に視線を彷徨わせていた。

 二人とも望んだ未来を手に入れたのだが、緊迫していた自分達が、単に空回っていただけだと思い知らされ、むず痒い想いを味わっていた。


 爽やかな風が二人の間を通り抜ける。

 風は少し夏の熱気を孕んでいた。

 春を思わせる花畑に吹く夏の風。

 なんだかそれが自分達二人を表している気がして、九郎は奇妙な感慨を抱いて空を仰ぐ。

 春を待ち望んでいた冬の少女と、空気を読まない熱いだけが取り柄の夏の風。

 そう言ったら「気障すぎる」と笑われるだろうか。


「……………………ねえ、クロウ……」

「ん~?」


 先に沈黙に耐えられなくなったのか、アルトリアが恥ずかしそうに、口を開く。

 情欲では無く、羞恥心に顔を染めた彼女は、それはそれで魅力的に感じられる。

 アルトリアはもどかしそうに自分の人差し指を捏ねながら、恥ずかしそうに笑って言った。 


「ボク……自分で思ってたより……ずっと……ず~っと……エッチだったみたい」

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