第304話  性と生の狭間で


「ねえ、クロウ……ボク……好きな人が出来ちゃった……」


 アルトリアのはにかんだ笑みから零れたその言葉を、九郎は信じられなかった。

 はっきりと、それでいて少し悲しそうに放たれた言葉を、九郎は信じたくなかった。

 心のどこかでその可能性を考えていても、いざ目の前で口にされると――。


 ――目の前が真っ暗になる。


 新月の薄い月の光すら消えたかのように感じられた。


 アルトリアは自分とイタすために、故郷を捨て、父まで葬り去った娘だ。

 その意気込みは疑うまでも無く、九郎が落ち込んだ時は励まし、悩んだ時には道を示し、ずっと支えてくれていた。

 多くの女性を虜にしなければならない九郎に常に協力的で、時に九郎よりも情熱を注いでいた。


 猥らで暢気なその笑顔に、九郎は何度も助けられ、「体の関係」だけの筈がすっかり惚れこんでしまっていた。彼女がずっと九郎に恋愛感情を抱いていない事は分かっていたとしても……。


 彼女が憧れたのは生と性。

 子供を生み出す行為そのものに憧れを抱き、死すら飛び越えてしまった存在。


 それでも――と九郎は何処かで安心していた部分があった。

 彼女の逢瀬につき合えるのは自分だけ。

 情けないアドバンテージでしか無かったと言うのに、どこで間違えたのかと、九郎は自責に顔を歪める。


 彼女を守ったのは一度だけ。それも手を貸す必要も無かった戦いに割って入り、たった一撃入れただけ。

 その一撃入れた筈の男が、アルトリアを背中から串刺しにしたのだから、守ったと言う事すら烏滸がましいと感じてしまう。


 この世界の『不死者』の中でも頂点に立つ伝説のアンデッド。

 九郎と同等の不死性を持ち、刻まれても潰されても笑って復活する『魔死霊ワイト』の少女。


 いつからか九郎はアルトリアを自身の『守るべき人』の最後尾に置いていた。


 戦いが予想される時、誰かを連れていかなければならないとするのなら、九郎は最初にアルトリアを思い浮かべる。

 彼女の実力は自分の体が知っているし、長年共に旅する中で、共に彷徨い、共に食われ、幾つもの『死』を乗り越えてきた。

 九郎にとってアルトリアは戦友であり仲間であり、そして――。


(その大事な一言すら俺は言っちゃいなかった……)


 もう出会って2年も過ぎると言うのに「好きだ」の一言すら言って来なかった事に気が付き、九郎は震える足を睨む。

 ずっと隣にいたと言うのに、一番傍にいる時間が多かったと言うのに、平和で朴訥な彼女の笑顔に癒され、戦う時には背中を任せられるどころか、大事な命を預けるくらいに信頼していたと言うのに……。

 いつしかそれが当たり前に思えるくらいに、九郎とアルトリアは常に一緒だった。

 離れていても互いを感じられる物理的な繋がりがあった。


 それをいつからか心の繋がりと思っていたのか……。


「そ、そっか……」


 後悔してももう遅い。

 九郎は上擦った声でなんとか答える。


 彼女の幸せを願うのなら、ここは身を引くべきだろう。

 逢瀬に憧れアンデッド化した彼女でも、心は死んでいない。

 だからこそ、その心だけは殺してはならない。

 頭ではそう分かっていた。

 他に好きな人がいると言うのに、『デキる体』だと言う理由で九郎が抱くなんてのは以ての外だ。


(カッコワリいな……俺……)


 九郎は自嘲の溜息を吐き出す。

 今になってさえアルトリアと自分を繋ぐ理由が、『フロウフシ』しか浮かばないのだから、情けない事極まりない。

 もう何も言えなくなった。言っても無様を晒すだけだ。

 そう思っているのに……。


「だ、誰なんだ? それで……」


 女々しい情けないセリフが九郎の口を吐いて出る。

 伺っておきながらも九郎は顔が上げられない。

 アルトリアが好きになった人物ならきっと良い人なのだろう。だが彼女は触れると命を吸い取るアンデッド。何か協力できる事があるかも――などと言う心にもない言い訳を並べ、九郎は聞きたくも無い事実を確かめようとしてしまう。そしてそんな自分に更に自己嫌悪を募らせる。


 アルトリアは九郎のセリフに、恥ずかしそうに顔を赤らめ、その顔をくしゃりと歪めて口を開く。


「―――――――――みんな……」

「は……え?」


 意識外の言葉に九郎は思わず顔を上げる。

 思っていたセリフと全く別の答えだった。

 今の仲間の面子は男と女が丁度半々くらいで、アルム海軍を合わせればその数はかなり男に傾くが、彼女はその特性や出自から、仲間内で過ごす時間が殆んどを占めていた。

 だから九郎は男性メンバーの顔を思い浮かべ、何とも言えない複雑な心中に苦悶していた所だった。


「リオもフォルテも……ミスラちゃんも、シルヴィも……ベルちゃんやレイアちゃんも。クラヴィスもデンテもサクラちゃんも……」


 女の名前ばかりが出て来て九郎は少し戸惑う。

 いや、フォルテは男だ。


「カクさんもアルフォスもベーテも……リュージもユーリもマリーシャもピュッケも……」

 

 男の名前も混じり始めるが、どの名前を呼ぶ声にも差異が無い。

 恋愛感情とは違うのだと気付いて、九郎はそっと安堵の吐息を吐き出す。

 大事な宝物を確認するかのように、一人ひとりの名前を指折り数えて並べるアルトリア。

 その表情は本当に嬉しそうで、九郎まで笑顔になる。


「そして……クロウ……キミも……大好きなんだ……」


 一瞬だけ名前が呼ばれない事に不安を覚えた九郎だったが、ちゃんと呼んで貰えた。

 だが笑顔になる筈のその顔は眦が下がり、酷く困惑したものになる。


「アルト……?」


 アルトリアの顔は悲壮に歪み、その目からは大粒の涙が溢れていた。

 その理由が分からず、九郎はアルトリアに手を伸ばす。

 女性が泣いているのなら慰める。それは九郎にとって条件反射のようなものだ。


「触らないでっ!」


 アルトリアを抱きしめようと伸ばした手は、悲鳴と共に乱暴に払われていた。

 再びショックに固まる九郎。

 しかし今度は落ち込んでばかりもいられない。

 九郎の手を払いのけたアルトリアの体から、尋常では無い何かが湧き出していた。

 紫色のもやとも言える怪しい影が手を伸ばす。


(ん゛ぐっ!!?)


 突如九郎の視界が歪み、膝から力が抜け落ちる。

 寒気を伴う無力感が、一気に押し寄せてきたような感覚。一瞬の眩暈を感じたその直後、九郎の内臓が灰となってシャツから零れる。


(『吸収ドレイン』!? って驚く事じゃねえっ!)


 アルトリアに渡した欠片盲腸を通して、強烈な『吸収ドレイン』を感じた九郎は、下腹に力を込める。ここまで強烈な『吸収ドレイン』は九郎も初めて経験したが、驚いたのも一瞬だ。吸われてどうにかなるような体では無い。


「――!!? やめっ……離してっ!」

「や、やっぱ我慢は体に毒だよな?」


 拒んでいるのに求めている。

 それが分かって九郎は強引にアルトリアを抱き寄せる。

 瞬間的な膂力なら、アルトリアは九郎よりも遥かに強い。言葉で拒んでいても、彼女の抵抗は普通の少女と変わらない。


 アルトリアが並べた「好きな人」。その中に差異が無かったのなら、自分にもまだ可能性はある。

 今迄みたいにアドバンテージに胡坐を掻いてはいられない。

 九郎は自分の武器不死性を迷わず使う。

 他に先駆けて動く事を卑怯だとは言わせない。

 

 ずっと感じていなかった『吸収ドレイン』だが、ここまで強力に発動したとなると、アルトリアはかなり我慢・・していたことになる。

 今ここにいるのは自分とアルトリアだけ。遠慮はするなと言うつもりで、九郎はアルトリアの頭を撫でる。


「…………クロウ……」


 暫くむずがるように体を捻っていたアルトリアだったが、諦めたように息を吐くと、九郎の胸に体重を預けて来た。

 アルトリアの頭を撫でる度に、九郎の手は灰となって空に舞う。彼女の重さを支える胸の後ろで、背中がボロボロ崩れていく。

 文字通り薄っぺらくなっていく九郎だったが、女性を、好きな人を抱きしめる手を緩める訳がない。

 皮膚の表だけでも取り繕い、他を犠牲にしても面目を保つ。

 日頃無様を晒していても、気概だけは一人前。例え死地が約束されていようとも、挑み続けた血潮が今、漢気を見せていた。


 凶悪過ぎる『吸収ドレイン』が漏れているのを自覚していたのだろう。

 アルトリアは自分を支える男の体が、僅かな揺らぎも見せていない事に安堵したのか、九郎の胸の中で胸の内を語り始める。


「ボク……皆が好きになっちゃったんだ……リオはボクのことちっとも怖いって思って無くて……あんなに臆病なのに……。この前蛇が畑に出てね? リオったら「ギャーッ!」っていいながらボクにしがみついたんだ……。女の子なのに「ギャー」は無いよね?」


 懐かしむような物言い。何でも無い日常を宝物のように語るアルトリアの声色は、楽しげでありながら何処かに哀愁を感じてしまう。


「その前はミスラちゃんが「お泊り会ですわ!」なんて言って、ボクの部屋に……。ミスラちゃんの言ってる事難しくって、ボク全然分かんなかったんだけど……なんだかとても楽しかったんだぁ……」


 噛みしめるように思い出を語り、アルトリアはスンと鼻を鳴らす。


「シルヴィは毎日ボクの部屋に来てね? 「家を作って貰ったお礼じゃっ!」って夜食を届けてくれるんだ……。ボク、自分でもゴメあるのに……。でもお漬物ばっかりなんだよね……。知ってた、クロウ? シルヴィって家が出来て最初にしたの、お漬物の仕込みだったって……。あのお漬物かなりしょっぱくて……でも、きっとゴメに合いそうだなって……」


 いつの間にやらアルトリアはシルヴィアを愛称で呼ぶほどの仲になっていたらしい。

 一人外れた者に気を向けるシルヴィアは、最近のアルトリアに何かを感じていたのだろうか。

 過去の自分に、九郎はまた不甲斐無さを感じてしまう。


「ベルちゃんもさ……「何か手伝う事はない?」ってよく訪ねて来るんだ。その度にお城での一件のお礼を言って来て……ねえクロウ? ベルちゃんに言ってくれない? 「もう気にしないで」って……。ボクも何度も言ってるんだけどね……。不思議な子だよね……お貴族様だって言うのに、畑仕事もお料理も洗濯も出来ちゃうんだもん」


 九郎の知らなかったアルトリアの日常が語られていく。

「イタせるようになった体で九郎が安易に彼女に近付くと、色々マズイ」との理由で、九郎とアルトリアはこのところ少し距離があった。


「でもミスラちゃんも「畑仕事の経験ある」って言ってたから……そう言うものなのかなぁ……って。クラヴィスちゃんやデンテちゃんには、まだ少し怖がられてる気もするけど……でもきっとボクの思い過ごしで……だってボクの手を引っ張るんだよ? 「こっちこっち」って……。ボク……兄弟いなかったからさ……きっと妹ってこんな感じなのかなぁ……って。歳考えたらお婆ちゃんとかもっと上なのに……。レイアちゃんとはいっつも一緒にお風呂に入ってるからさ……自然と仲良くなっちゃった。でもその時だけはベルちゃんとシルヴィの視線が……ちょっと……痛い……」


 その間も彼女の日常は孤独では無かった。

 それが嬉しくて仕方が無い――とでも言うかのように、アルトリアの言葉は止めどなく溢れてくる。

 悍ましい『不死者バケモノ』。その周りに集まった人々との絆は、九郎だけでは無く、アルトリアの絆にもなっていた。


 何でも無い――それでいて自分達が「望めないもの」と捉えていた日常。

 それを愛しそうに語っているアルトリア。

 九郎が感じていたように、アルトリアも何気ない日常を宝石のように感じ、日々幸せを噛みしめていたと言う事だ。


「ボクは……みんなが好きなんだ……」


 名前を上げた人たちとの取り留めのない日常を語り終えたアルトリアは、もう一度その言葉を吐き出した。


「俺もアルトが好きだぜ?」


 ここしかないと思って九郎はその言葉を口にする。

 アルトリアの語る口調に恋愛感情は見当たらない。しかし自分は違うと、気持ちをはっきり伝える。

 2年も共にいたのだから、言葉にしなくても伝わる――それは単なる甘えでしかない。

 言葉にしなければ伝わらない事もある。そしてこれは『言葉にしなければならない言葉』だ。

 九郎が一年以上胸の内に溜めていた言葉は、しんと静まり返っていた夜の闇に溶けていった。


 意外だったのだろうか。

 アルトリアは九郎のセリフにばっと顔を上げ、その顔は見る見る内に赤く染まって行く。

 顔にも態度にも出やすい方だと言われてきたが……と九郎はアルトリアの鈍さに苦笑を浮かべる。


「ただ、俺の好きはアルトとは違う。惚れちまってるって意味だかんな?」


 鈍いアルトリアにははっきり言っておかなければならないだろう。

 そう思った九郎は、もう一度自分の嘘偽り無い言葉を告げた。

 3人の女性と関係しており、今後まだまだ増える予定である事を考えると、完全に女ったらしの言葉だが、それでも気持ちに嘘はつかない。


 アルトリアの真っ赤になっていた顔がくしゃっと歪む。

 驚きに見開かれていた目に再び涙が浮かびあがり、九郎の背中に回された手に力が籠められる。


「ボクも……クロウが好きだよ……でも……」

(んぐっふ!)


 言葉と同時に静かになっていた『吸収ドレイン』が再び始まる。

 物凄い勢いで何かを吸い取られる感覚に、九郎は受け入れながらそれに耐える。 

 アルトリアの返答は大円団には程遠いものだった。彼女の言葉は恋愛感情を感じる響きでは無かった。仲間に対する「好き」と言う言葉。そう九郎には感じられた。

 それでも回される手に嘘は無く、九郎を見上げる視線に仄かな愛情が感じられた。

 今はこれで充分――そう思った九郎の耳に


「それ以上にボクはキミとシタくて堪らない……」


 体が熱く滾るような言葉が響く。

 『吸収ドレイン』を感じていた時から分かっていた。

 発情に伴う彼女の性を求める気持ちは命を吸い取る。

 九郎を見上げるアルトリアの瞳は、妖しい色気を伴い始め、見詰められるだけでその色香にくらくらしてくる。押しつけられた体から熱を感じる。今ここに於いて『吸収ドレイン』にへこたれる様な軟弱物は九郎の体に存在しない。

 そして、今迄であればこの場になってヘタレることしか出来なかった九郎は過去のものだ。


「俺だってアルトを抱きたくて我慢できなくなっちまったから、ここにいんだ。同じ気持ちさ!」


 求められたのならそれに応える。

 アルトリアの心がまだ九郎に完全に傾いている訳では無かったとしても、九郎の心は完全にアルトリアに傾いている。

 期待していなかったと言えば嘘になるが、転がり込んできた一場面に九郎の心と体は喝采をあげた。


「でも…………ボク……死にたく…………ない……」


 そして続けられたアルトリアのセリフに、一斉に凍りついていた。

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