第306話  夏日和


「…………やっとかよ……」


 涼し気な空気に温かさを含んだ風が混ざる。

 浜辺から海に突き出した形で立てられた、簡素ではあるがどこか贅沢さを覚えさせる、水上コテージの一室。

 その窓に腰かけ風を浴びていた、海辺が似合う肌の色の娘が、誰に言うでもなく一人呟く。

 なんだか肩の荷が下りた様な、疲れていながら安堵したような言葉の溜息。


「姉さん、クロウさん帰って来たみたい!」

「わーってるよ」


 部屋に飛び込んできた少女と見紛う容姿の少年に、リオはぶっきら棒に返事を返す。

 今リオが感じている安堵の感情はかなり複雑なものだ。

 勿論、姉のように慕うアルトリアの願いが叶ったことを祝福する気持ちも多分にあるが、加えて今目の前で顔を輝かせている弟フォルテを想ってのことでもある。


「はやく朝ご飯持ってかなきゃっ! ああっ、姉さん、これ大丈夫かなぁ? 腐って無い?」


 朝食時に姿を現さなかった二人の為にと、取り置いてあった食事の前で、フォルテが右往左往している。

 あの二人が腹なんか壊すかよ――リオは口の中で言葉を転がしながら、弟を眺め見る。


 現在クロウにご執心のフォルテは、見た目は少女と見紛うばかりの容姿だが、れっきとした男である。

 リオと同じく性的な行為に対するトラウマがあり、歪な恋愛感情を持ってしまっているだけだ。

 ただこのところの九郎を見るに、「ノーマルな性癖」と言うのは間違い無さそうな気がしている。

 なのでフォルテの想いは不発に終わるだろう……そう言った安堵が先の複雑な感情に関わっていた。


(なにが良いんかねぇ……あんなの……)


 リオはスキップでもしそうなほど浮かれていたアルトリアを思い出し、顔を歪める。


 リオは男女の睦事に対して忌避感を持っている。

 男が欲を吐き出すだけの道具として生きてきた彼女には、そういった行為で幸せや愛情を感じた事など、ただの一度もありはしない。

 それは同じく奴隷だったアルフォスやベーテも同様だろう。特にアルフォスは自分の性を単なる道具としか見ていない。リオもどちらかと言うとその感覚が大きい。


 ただ頭ではそう思っていてもリオは男が怖かった。

 刻まれたトラウマはリオの心の奥深く、ずっと残り続けている。

 だからこそ弟に同じ思いをさせたくないとの気持ちがあった。

 奪われるだけの存在であった自分達が、やっと手にした自分自身。それを誰かに委ねる行為を恐れていた。


(そんなにアイツが特別なのかよ……)


 リオは新たに加わったメンバーの一人、レイアを思い浮かべて更に口を歪める。

 現場そのものを見た訳では無かったが、ある程度は知れる。

 レイアがされて来た事は、多くがリオも経験してきたのだから。

 リオはあの時レイアを見て、憐みも嫌悪感も何も抱かず「ああ、こいつもアタシと同じなんだな」と思っただけだった。


 そのレイアが今は時折笑うようになっていた。

 その身に刻まれたトラウマは、そう簡単には克服できるものでは無いから、思い出して震えているところも良く見るが、心から幸せそうに笑っている姿を見てしまっていた。それがリオには不思議であり、また言いようのない自己嫌悪を感じさせていた。


(心からの笑顔……ねぇ……)


 リオは窓辺に視線を移し、静かな海面を見下ろす。

 鏡のように静かに揺蕩う海面にリオの顔が映し出される。


(こう……か?)


 必死に作ろうとしたリオの笑顔は、寄せる波に歪んだ形で消えていった。


☠ ☠ ☠


 アルトリアが300年越しの願いを成就したことは、その日の内に仲間全員の知るところになっていた。

 戻って来るなりすぐ、アルトリアが九郎の部屋の扉に名札を掛けたのだから、言わずとも知れると言う物だ。


(つーか俺の下半身事情つつぬけじゃね?)

「何を今更いうてんねやろ……」


 弱り顔を浮かべて頬を引きつらせる九郎を眺めながら、龍二は疲れた突っ込みを呟く。

 心を読む事が出来る龍二にとって他者の心情など筒抜けだ。

 特に九郎は思考が単純なので遠くから見ていても分かり易い。

 ただ、それが無くても早々と皆が知る事になったのではと、龍二は感じている。


「ねぇ~、クロウ~。お塩とって」

「おいよ」


 速攻で知れ渡ったアルトリアの夢の成就のお祝いなのか、浜辺でバーベキューに興じている九郎達。

 そこに流れるなんとも朴訥でいて淫靡な空気に、龍二の口がむずむずしてくる。


 それは鈍く無ければ誰もが察せる男女の間に流れる甘い空気。

 再びスキンシップが激しくなったアルトリアだったが、それは以前の彼女を知っている者からすれば、代わり映えの無い日常風景として映るだろう。

 ただアルトリアの方に、以前は感じられた、『遠慮』のようなものが無くなっていた。

 体の距離は元々近かった二人だが、今は心の距離も縮まったかのような雰囲気。

 簡単に言うと「あ(察し)」となるような、あからさまな変化。

 そしてなにより一度体を許した男女の間に漂う、空気のようなものが、目に見える形で表れていた。


「おい、クロウ! 灰を落とすんじゃねえっ!」

「ワリ、ベーテ……ってアルト~……」

「えへっ……ごめんね? クロウの指を見てたらつい昨日を思い出しちゃって……」

「生々しい事言ってんじゃねえっ!」


 アルトリアが発情すると漏れ出る、周囲の生命力を根こそぎ奪う『吸収ドレイン』。

 それが昼食の団欒の最中に発動しているというのに、周囲の誰にも影響を与えていない。

 ただ一人、ハラハラと九郎の指が灰に変わって、鍋に落ちているだけだ。


 アルトリアの『吸収ドレイン』は、今迄は無自覚に誰かの性を求めて発動していた。その無自覚に誰かを求めて命を吸い取っていた少女は、男を知って無自覚な誰かをたった一人に絞った形になっていた。


 今や九郎が灰になるイコールアルトリアが発情しているとの方程式が成り立つようになっていて、アルトリアの性事情ももはや筒抜けの状態だ。


(つーか、あんな顔やったら誰でもわかるか……)


 アルトリアの緩んだ笑みに、龍二は少しくの字に折れ曲がりながらその場を後にしようとする。

 と、その時――、


「ぐふっ……!」


 アンデッドの口からアンデッドが出さない筈の苦悶の呻き声が漏れていた。


「アルトリアさんっ! 自重してくださいましっ! 子供も、子供もいるのですからっ!」


 ミスラの口から珍しく正論が放たれていた。

 従者が半分削れているのだから、焦りも分かると言うものだ。


 アルトリアは誰かを想って生者から命を吸う事は無くなった。ただ迸るエロの波動は今度は死を反転させる、惚気の波動として発現していた。

 生者には影響が無くても、死者にはかなりキクようだ。

 クルッツェは『死霊レイス』よりも強力なアンデッドだからなんとか致命傷で済んだようだが、これが『幽霊ゴースト』や『動く死体ゾンビ』などの低級アンデッドであったなら、その瞬間に消し飛んでいただろう。惚気に中てられて成仏できるのかはさておき。

 きっと今の二人をゾンビ映画のラストシーンに放りこんだら、アルプスの少女のオープニングが始まる。


「ご、ごめんよ、クルッツェさん! そ、そうだっ! クロウの……吸う?」

「はっ!? そ、な、む……良き……そ、そうですわね! 非情事態ですもの! さあ、クルッツェ!」

「で……殿下……。申し訳……ありま……せ……」

「クルッツェさぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんっ!!」


 掻き消えるように姿を消し、逃げていったクルッツェを目で追いながら、龍二は眉に深い皺を刻んだ。


☠ ☠ ☠


「そろそろかのぅ……」


 シルヴィアが風を気持ちよさそうに浴びながら呟く。

 拠点を動かし始めてから一月を過ぎていた。

 ハーブス大陸を南回りで回っていると言うのに、直進して歩くよりも早く着くのだから『ライア・イスラ』のスピードはやはりかなり速いと言える。


 風を操る魔法を得意としているシルヴィアは、潮風の中に懐かしい匂いを感じて目を細めている。


「シャルル……元気かなぁ……」

「折角だから驚かしてやろうぜ?」

「どうする? こいつの首だけ持って帰るか?」


 九郎が溢した感傷を、悪乗りの好きな仲間達が地獄絵図に変えようとしている。

 ファルアとガランガルンもしばらく『サクライア』にいてくれるようなので、別れの感傷も無い。

 彼らの中ではアルトリアの脅威が無くなった事も、理由の一つだったが、ずっと旅を続けていたので、「このあたりで少し休憩するか」と言ったバカンス的な意味合いもあるようだ。

 定住させることを目論んでいる九郎としては、「抜けられなくしてやる」と様々な手を用意している途中である。


「人……集まっかなぁ……」


 九郎は遠くの彼方に見える小指の先ほどの大陸を眺めて呟く。

 ミラデルフィアを次の目的地としているのは、何も九郎の無事をまだ心配してくれている人々に知らせるだけが目的では無い。

 アルム公国の国民の募集とサクライアの住民の募集も兼ねていた。

 ミスラがファルア達からミラデルフィアの国民性を聞き、「刹那的で享楽的なミラデルフィアの国民であれば、不死にも寛容なのでは?」と考えたからだ。

 ミスラは恐怖や愛情、恩などでは無く、普通に九郎と接しているファルア達を不思議に思い、何度か聞き取り調査をしていたようだ。


 ――愛情であったら……それはそれで……! ――


 彼女の言葉は皆で聞こえない振りをしている。


「ま、きっとシャルルは大丈夫じゃろ。なんせ一度故郷に帰ろうとしとったくらいじゃしの」


 九郎の呟きを聞きとがめ、シルヴィアが背中に飛び乗りながらいつものようにシシと笑う。

 シャルルの勧誘は何も彼女が、不死者に対して恐れを抱かないから――と言った理由だけでは無く、彼女が長年培ってきた『素材屋』としての目利きも恃んでいた。


 以前ファルアが言ったように、『サクライア』は動植物の宝庫であり楽園。

 世界各国の植物が生い茂り、動植物の把握は急務でもある。

 ミスラの『閲覧者』の力で調査を進めている最中ではあったが、サクライアはかなり特殊な環境の為、形状が文献とは違うものも多々あり、『書物の知識だけ』では限界が来ていた。

 そうした調査を先に進めるためには、80年近く『素材屋』として働いてきたシャルルの目利きは是が否でも欲しい。

 かなりの高待遇を約束するとミスラからの許可も出ており、九郎としては引き抜きを任されたエージェントの気分でもあった。


「後は鍛冶師と……」

「それに関しちゃミラデルフィアはなぁ……」

「加工屋には何人か当てがあっけどなぁ……」


 シルヴィアのお墨付きをもらい九郎が次の懸念を口にすると、ガランガルンが口の端を引きつらせる。

 金属自体が貴重なミラデルフィアでは、鍛冶師は少ない。

 ファルアの言うように、魔物の部位を加工する職人は数がいるが、金属加工技術自体が遅れている。

 本来は金属加工を得意としている鉱山族であるガランガルンも、専門は木工。

 今は黄の魔法で何とかやりくりしているのが現状だった。


「それはまぁ、挨拶・・ん時にでも……」


 全てをここで揃える必要は無いと、九郎は暢気に構える。

 まだこの『ライア・イスラ』も『サクライア』も動き出してから一月くらいだ。焦る必要も無く、今現在抱えている心配事も皆無。

 日々の穏やかな生活と、時に楽しい冒険生活。そして恋人達との甘い生活。

 今の生活は充実の一言では言い表せない。


「つーか、やっぱこっちにくっとあちぃなぁ……ガランは面の皮があちぃし、シルヴィは枝だからマシだろうけどなぁ?」


 九郎の視線に釣られたのか、ファルアが胸元に風を送りながら、太陽を恨めしそうに見上げてぼやく。


「おいファルア! 鉱山族の特性を『面の皮』の一言で済ますんじゃねえっ!」

「え、枝とは何じゃ! 枝とはっ! コルル坊やぁぁ。ファルアがまた脈絡も無く儂を虐めよるぞぉぉ」


 いつものように掛け合いが始まり、九郎は苦笑しながらそれに加わる。


「俺らが涼しいんはファルアじゃねえからだよ! なあ?」

「そうじゃぁぁぁ……ファルアの顔見ちょうと背筋がぞわ~っと」

「全くだ! お前涼しく成りたきゃ、鏡見ろ! 鏡! そっこーで冷えるぜ……ってクロウ! 自分で振っときながら一番に逃げんじゃねえっ!」

「ガラン! 後ろ! 後ろぉぉぉ!」

「コルル坊やぁぁぁあぁぁああ!!」


 夏の気配は直ぐそこまで近づいていた。

  

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