第293話  マノン・レスキュー


「なんで……なんで邪魔ばかりするんですかっ!!」


 月明かりの峡谷に響く悲痛な叫び声は、轟々と鳴り響く滝の音にかき消される。

 どれだけ叫んでも誰にも聞こえない筈の問いに、答えが返ってくる。


「死んでほしくねえからだよ! 幸せになって欲しいからだよ!」


 怒鳴るようでいて駄々を捏ねているようにも聞こえる、その声にも悲痛なものが混じっていた。


 どこをどう走ったのかも分からない。

 しかし暗闇の中を逃げ惑うのは2年ずっとしていたことだ。

 今更臆する物では無い。


 ずっと逃げ出す機会を伺っていた。

 毎晩馬車の周囲を警戒し続ける男がいない今夜しか無いと思った。


 僅かに匂う水の匂いと、吹きすさぶ風が自分を死に誘ってくれる。

 足の裏に感じる岩の冷たさが、ここが終点なのだと教えてくれる。

 ずっと求めていた、命の終わりが口を開いて待っている。


 何の躊躇いも無く、足は空を踏みしめた。

 登って落ちる。

 何度も経験してきた事だ。

 その度に這い上がって来たが、それももう疲れてしまった。

 次に浮かび上がる事は決して無い。

 確信して飛び込んでいた筈だった。


「私がいたら邪魔でしょう!? なんでほっといてくれないんですか! 貴方は多くの人に愛され……ベルフラム様も幸せだと仰ってました! なのになんで貴方は私みたいなのに構うんですか!」 


 卑屈だと言われても良い。

 卑怯だと罵られても良い。

 ずっと太陽のような少女の傍を目指していた。

 そこに辿り着けば自分も太陽のように輝けると信じていた。

 しかし気付いてしまった。

 自分は余りにも汚れていると。

 体も……そして心も。

 輝く太陽の傍でも、汚物は汚物でしか無く、逆に近づけば近づくほどに、その穢れは白日の下に晒されてしまう。


「決まってんじゃねえか! 惚れてっからだよ! 忘れられねえでいたからだよ! 別に好きになってくれなくてもいい! これは俺の一方的な想いだからな! だけど……頼むっ……………………」


 涙を流す瞳は無い。

 虚ろな眼窩から最後に零れた血が、涙の代わりと思っていた。


(これでやっと死ねる……)


 肩の荷が下りたような気がしていた。

 優しい少女が、憧れ続けた主人が頻りに自分に構うのが嬉しかった。

 穢され傷付いたままでは得られない、慰められるのではなく、安堵を浮かべる少女の声に救われたかった。

 自分が求めていたのは、泣きそうな主の顔では無く、嬉しそうに笑う少女の顔なのだから。

 腫れ物に触るような扱いは望んでいない。自分が汚れてている事を思い出させる。


 だが同時に怖くなった。

 心が壊れた振りをしている自分に、いつか気付くのではないかと。

 卑怯で小狡い自分の性根がばれてしまうのではないかと。

 体よりも汚い心に、嫌悪されるのではないかと。


 だから気付かれる前に逃げ出した。なのに――。

 

 静かに終わる筈だった死に、獣の様な咆哮が混ざっていた。

 目から零れた血の涙が、弾けるように質量を増し、これで最後と覚悟した痛みの代わりに、熱い何かが躰を覆った。

 落ちているのに持ち上げられているような、不思議な感覚の直ぐ後――肉の弾ける音と血の匂いが辺りに充満して……。


 絶望の淵にずっと残って消えなかった化物人間は、どれだけ願っていてもレイアに死を許さなかった。


「…………生きてくれ、レイア……」


 その化物は酷く無責任な言葉を呻くように口にする。

 どれだけ望んでいようとも、決してそれだけは認められないと。

 化物の癖に、不死の癖に……。



☠ ☠ ☠



「離して……」


 嗚咽を含んだレイアの声に九郎は眉を寄せる。


「死なねえって約束してくれんだったら……離してやんよ……」


 レイアの両手を後ろから拘束し、下敷きになる形で岩に転がる今の九郎は全裸である。

 多くの男達に犯され続けたレイアを、裸の自分が抱きとめることは、彼女のトラウマを抉る行為に違いない。そう感じながらも手が離せないのは、九郎の問いにレイアが答えないから。


 背中には冷たい水の感触と、ごつごつとした岩の感触。

 青い神秘的な月の光に照らされ、青と白の小さな花が揺れている。

 そこに混じる強烈な血の匂いと、散らばった臓物から目を逸らせば、まあ美しい光景だろう。


 シルヴィアに背中を押して貰った九郎は、夜の山を一人彷徨うレイアの姿を見つけて後を追いかけていた。


 九郎の警戒網は自分の血を周囲に蒔くだけで完成する。

 夜間夜目の利かない九郎にとって、それは簡易の転移装置にしかならない頼りないものだが、音や気配くらいは知る事が出来る。

 ファルア達に「周囲の脅威は排除した」とは伝えられていたが、九郎の警戒はむしろその内側にあった。


 流石に何の躊躇いも無く崖を飛び降りるとは思ってはおらず慌てたが、なんとか対処は間に合った。こうなる事を予想していたからこそとも言える。

 レイアの瞳に残った血と、九郎の意識は途切れていなかった。

 レイアが自らの命を断とうとする事など、九郎は予測済みだった。生かしつづける為の楔を怠る九郎では無い。


 九郎がレイアの動向をずっと見守っていたのは、過去に経験していたから。

 生前、悪漢に襲われた友人の彼女も、何度も死を選ぼうとしていた。

『強姦は精神的な死』と言う言葉を、あれほど実感した事など無い。

 例え自分を汚した男が股間を潰され再起不能になっていたとしても、穢された女性の心は癒えはしない。

 九郎が女性を穢そうとする者達を、人殺し以上に憎んでいたのは、そう言う過去があったからである。


「私は……死んだ方が良い……」


 九郎の腕の中でレイアが抵抗する。


「……毒を撒き散らす女なんて……危険な化物……。人の世界では生きていけません!」


 悲痛な叫び声だったが、九郎はあっけらかんと答える。


「言っとくがな? レイアよりもやっべーのがうちにはいんだよ! 正気に戻ってたって事は聞いてたんだろ? アルトは『魔死霊ワイト』。本来触れるだけで人を殺しちまってたアンデッドだ。でも皆と仲良くやってんぜ?」


 引き合いにする事に多少気が咎めたが、レイアの心配は今更だと伝えるのに、これほどうってつけの人物もいない。触れるどころか気分が高まると周囲全体から命を吸い取り始めるアルトリアに比べれば、レイアの毒化など気にする必要も無いくらいだ。

 要は肌を露出しなければ良いのだから、防ぎようはいくらでもある。

 唾液や血がどれ程影響を及ぼすかは調べないといけないが、身内の半数が不死者の九郎にその言葉は通じない。


「私はあなたに何度も刃を向けた!」

「操られてたってのに何言ってんだよ?」


 尚も抵抗を止めないレイアに、九郎は軽く言い返す。

 それこそ今更だろうと溜息が零れる。九郎に刃を向けて来たのは、何もレイアに限った事では無い。

 リオは邂逅時に九郎を切断したし、アルトリアも一度は戦闘した仲だ。保護した雄一の元妻達も、同様に死を選ぼうとしても、九郎に認めるつもりは一切無い。

 死なないのだから被害は無い。操られていたのなら尚更だろう。


「私は違うっ! 操られていたけど……でもそうじゃない! 私は……私の意志で貴方に剣を向けていた!」


 レイアは首を振って喚くように絶叫していた。


 レイアは雄一の『支配』されている間も、意識は残っていた。

 レイアを捕えていたのは絶望による『隷属』では無く、思考の同調に因る『従属』。度重なる凌辱でボロボロだったレイアの心の隙間に入り込んだのは、絶望の悪夢では無く、雄一の澱んだ暗い感情だった。


「あなたが最悪と罵った男と……私の心は同じだった……。劣等感、猜疑心、嫉妬……あまりにも多くが似すぎていたから……私は『シハイ』されていた……」


 涙の出ない双眸を押さえ、泣きじゃくる子供のように顔を覆ったレイアが呻く。


 雄一に『従属』してしまったレイアは、全てが終わった後に絶望していた。

 自分をこんなになるまで穢した男と、自分の性根が似通っていた事に。


 度重なる凌辱で人を人と思えなくなっていた事も理由にあるだろう。

 誰も自分を助けてくれないとと、世界を呪う気持ちもあったと思う。

 しかし、「そうしないと自分の心が朽ちてしまう」と言い訳して、九郎に謂れの無い恨みを抱き、絶対にやり返してこない事を知りながら責め続けていたのは、自分自身の後悔や罪悪感を隠す為。

 抵抗出来ない九郎をいたぶり続ける妄想は、雄一と同様の歪んだ感情に因るものだった。


「私は……心も体も醜い化物……死んだ方が――」


 打ちひしがれていたレイアの心を、今も責め続けていたのはレイア自身だった。

 逃げる事の出来ない醜い心に向き合う事になったレイアは、耐えられなくなって死を選ぼうとしていた。

 その選択もまた卑怯な心から来ることを知っていながら、どうしようもない自責の念に囚われていた。


「レイアは化物なんかじゃねえ……俺の……憧れだ!」


 どうすれば彼女に死を諦めさせられるのか分からず、九郎はレイアを抱きしめ思いの丈を口走る。

 レイアは何度も死に向かう――戦いの中で感じた想いが未だに続いている事に、苦悶の表情を浮かべながら。


 抱きしめたレイアが九郎の腕の中で身を強張らせた。

 凌辱を受け続けていたレイアを、男の自分が抱きしめては逆効果にしかならない。

 そう感じていても、九郎は腕の力を緩められない。

 いつもこの予感だけは確かだった。

 ずっと他人の命に向き合い続けていた九郎だからこそ感じられる、燃え尽きる前の命の輝きが、レイアの体を覆っていた。


 どうすれば捕まえられるか必死になって考えながらも、上手い言葉が思い浮かばない。

 死を選んでしまった時点で、レイアは全てを投げ出す覚悟を持ってしまっている。


 ――ベルフラムが悲しむ。折角助かった命だから。安易な道を選ぼうとするんじゃない――


 数々の言葉が九郎の中に浮かんでいるが、レイアもそれが分かって言っているのだろう。

 気狂いの振りを止めたのも、必死になって死を望むのも、ここで終わり・・・・・・と決めているから。


 言葉だけでは届かない。

 九郎の予感は確信となって、九郎の心を冷たくしていく。


「どうすれば私を死なせてくれるんですかっ! 化物は人の世界で生きていけないって言ったのは私なんですよ? 化物になった私はどの道のたれ死ぬ運命なんです!」

「だから俺と一緒に来いっつってんだろが! 一生面倒見てやる! もう二度と嫌な想いさせねえって誓う! だから一時耐えてくれねえか?」


 だから九郎は冷たくなった心に火を入れ叫ぶ。

 レイアを抱きしめありったけの想いをぶつける。


「貴方の慈悲に縋って生きろって言うんですか!? いつ寝首を掻こうとするかも分からない……毒を撒き散らす女を囲ってどうするつもりなんですか!」

「どうするって決まってんじゃねえか! 幸せにすんだよ! 辛い過去も忘れちまうくらい幸せにしてえんだよ! 惚れた女の幸せを望んじゃ悪いってんのかよ!」


 いましがたシルヴィアを抱こうとしていたことも関係無いとばかりに、九郎は一人の女の命に向き合う。

 全てを擲ち全てをぶつけなければ、人の命は救えない。

 九郎がずっとしていた事だ。


「多くの女性に言い寄られてまだ欲しがるんですか!」

「ああ! 俺は強欲だかんな! 女には皆幸せになって欲しいって思っちまうんだよ! 誰もしようとしなかったんなら俺がやる! 誰の文句も言わせねえ!」


 本音でぶつからなければ言葉は届かない。

 レイアの呆れたような口ぶりに、九郎は大真面目で答える。

 多くの女性の想いに応える気でいる九郎は、傍から見れば節操無しの浮気者でしかない。強欲と言われて全く言い返せない自覚がある。

 しかし向けてくれた好意があったからこそ、九郎はここまで来れたと思っている。気の多い事は自覚しているが、蔑ろにするつもりも毛頭無い。


「じゃあ貴方は私を抱けるって言うんですか! この汚れた躰を! 死と欲望を煽る毒しか生みださない悍ましい化物の躰を!」


 話が変な方向に転がって、九郎は一瞬言葉に詰まる。

 その様子にレイアが勝ち誇ったような自棄の笑みを浮かべて嗤い声を上げる。


「どれだけの数の男が……私を犯したと……。毎日毎日……数えきれないくらいの男に犯された私に穢されていない場所なんてないんですよ? 人だけでなく……畜生やゴブリンまで……こんな汚れた躰……見捨てて別の誰かを――」


 煽るように着ていた薄いローブをたくし上げて、レイアは自分の肌をなぞる。

 惚れた女が穢された過去を話す。その自爆の刃は九郎の心も傷付けていく。

 しかし怯むくらいなら、端から止めたりしていない。

 口を口で塞ぐのに、戸惑いが無かったとは言えなかったが、それは毒を恐れてでは無い。


「レイアは汚れちゃいねえ……。ずっと……ずっと綺麗なまんまだ……」


 一瞬の口づけを交わして、九郎はレイアを抱く手に力を込める。

 九郎の突然のキスにレイアは混乱した様子で身を捩る。


「わ、私は汚れている! 体だけでなく心も! 私の心は強く無い! ずっと苦しめって言うんですか?」

「俺はレイアの強さを知ってる。きっと立ち直れるって信じてる……。そりゃ、あんな目に遭っちまったんだ……。キツイとか辛いとか言葉で言い表せねえくらいだろうし、そもそも男の俺が言って良い言葉じゃねえと思う……。それでもレイアは負けなかったじゃねえか……」


 シルヴィアがやってくれたように、九郎はゆっくりとレイアの背中を叩く。

 何も根拠が無く言っている訳では無い。九郎は自嘲を含んだ呟きを溢す。


「俺の不死を知って挑んできた奴なんざ、そうはいねえ!」


 過去に渡って九郎の『不死』に恐れを抱きながらも挑んできた者は、レイアを除くと雄一しかいなかった。

 雄一は憎しみや狂気に囚われていたし、九郎を倒すだけの力もあったかもしれない。

 しかしあの時のレイアの顔には恐怖しか無かった。自身の弱さを知りながら、不死の化物に立ち塞がったのはレイアだけだ。

 九郎の中にずっと憧れていたレイアへの姿は、弱い自分を知りながら化物に立ち向かったあの日のレイアの姿だった。


 レイアの様子が変わったのはその時だった。

 九郎が過去を仄めかした瞬間、レイアは頭を抱えて苦しそうに顔を歪める。


「違う……私はっ……あの時……でも怖かったから……。

 私は強く無い……弱いんです……。貴方の地位を奪おうと……。

 毒の躰も……同じなんです。貴方が再び現れても、居場所なんて無いって……私が変わりを務めてるって……言いたかったから……。

 私の心は醜く爛れた火傷の痕と同じ……。なのに貴方は……私を責めてくれない……。

 ずっと憎しみを向けてたんです……貴方は反撃してこないからって……。

 貴方は不死の化物だから……怖くないから…………」


 必死になって九郎が探し当てた言葉。

 その言葉はレイアの心を穿っていた。

 自分の胸元を押さえ、確かめるように胸元を開いたレイアの胸には、未だに炎の形の痣が残っていた。


 それはレイアの心にずっと残り続けた罪の形だった。

 反撃出来ない相手に、一方的に攻撃して地位を奪う。

 当時はそんな思考をする余裕など無かったが、時が経つにつれて自分の心の中にあった暗い感情に気付き始める。

 それはどれだけ否定しても消えてくれない。

 憎しみに転化し、化物だからと言い聞かせても、自分の心に嘘は付けない。

 憎悪で塗り固めた罪悪感や後悔を、ずっとレイアは抱き続けていた。


 何度も消そうと試みていた。

 なのに消えなかったのはそこに異物が混じっていたから。


「信じられない……。ずっと騙され続けていたんです……。信じられる訳がないじゃないですか……。私はもう怖くて堪らない……希望は私にとっては毒……光なんて信じられない……私の……私の醜さが知られてしまう……貴方にだけは知られたくない……」


 レイアは混乱した様子で耳を塞ぎ、全てから逃げようと身を縮めた。

 まるで暗闇に怯えて暗闇に逃げ込む子供のような様子に、九郎は息を飲む。

 何かを伺おうとしているのか、頻りに周囲に目を向けるているが、レイアの瞳は暗い穴だ。何も映さない。


 騙されていた――この言葉は九郎の胸にも突き刺さる。

 自らの『不死』を隠し、人の輪の中にしれっと溶け込もうとしている自分を責められているような気になった。

 彼女の希望を絶望に変えた最初の男は自分かもしれない。そう思うと、胸が苦しくて堪らない。

 

 終わらない悪夢から目を背け、最後の最後で自らの目を抉り取る事になったレイアに、自分が今希望を口にしたところで、それは処刑台の階段を登る行為と同じなのかもしれない。

 九郎の頭にはそんな感想が過っていた。


「言葉で信じられねえってんなら見せてやんよ! レイアが死にたく無くなるまでは、俺は死なせねえ!」


 しかしどんな残酷な行為であろうとも、九郎にも譲れないものがある。

 死を望まなくなるまで――九郎は叫んで自分の片目を抉り取る。

 レイアまでをも不死バケモノにしてしまう。そういった不安が無かった訳では無い。

 だが瞳はベルフラムの心臓のように、命に直結する機関では無いから、九郎が肉体を元に戻せば、レイアの瞳が死肉に変わるだけだ。

 そう自分に言い聞かせて、九郎はレイアの瞳に抉った自分の目を押し込む。

 強制的に光を見せることを躊躇っていたが、ここまで追い詰められた状態なら、どちらにしても変わらない。ならば出来る事は全てやるのが、九郎のスタンスだった。


「ぴぅっ……」


 レイアの口から懐かしい鳴き声が漏れていた。

 


☠ ☠ ☠



 目の前に突然広がった世界に、レイアは驚き目を瞑った。

 一瞬見えた青い月と、襲い掛かって来るような黒い影に怯えたからだ。

 しかし目をいくら閉じても、瞼の上から感じる光はレイアの視界に白い闇を作り出す。


「目を開けて確かめてくれ! お前を見ている目は憐れんでんのか? 汚えもん見るような目だって言うのか!」


 聞こえてきた大きな声に、レイアはビクリと身を竦める。

 その影はレイアの体に覆いかぶさり、欲を吐き出し死んでいった多くの男に重なって見えていた。


「…………」


 レイアは固く瞼を閉じる。

 暗闇に逃げ込むようになったのは、自分を守る為だ。

 ずっと誰かの為と言い訳していたが、結局自分の身の為だった。


 毒が多くの被害者を生むと知っていながら、毒を生みだす事が止められなかったのも、結局自分の為でしかない。

 受け入れてしまえば、自分が自分で無くなってしまうから。

 もっと多くの男に……痛めつけるだけだった男達にまで汚されてしまうと恐れていたから。

 自分だけが不幸になるのが嫌だったから。


(毒だけでなく不幸まで振り撒く私は……本当にあの男と同じなんだ……)


 恐怖から目を背け、暗鬱とした暗い闇の底だけがずっとレイアの居場所だった。

 自分の心の醜さを知ったレイアの心に、いつか思い浮かべた接ぎ木だらけのボロボロの旗はもう残ってい無かった。

 自分の心の形が、その旗に蒔きついていた蔓だと知ったレイアにはどんな声も届かない。

 寄る辺が無いとただ地面を這うことしか出来ないのに、それでも太陽を目指し続けた醜い蔓科の植物がレイアの心の形だった。

 太陽を望んでいるのに自分だけでは立てもしない。何かに縋っていると言うのに、縋った寄る辺の光を奪う。


 ベルフラムに憧れたのも九郎に魅かれたのも、その折れず真直ぐに立つ心に魅かれたから。


「こんな私でも……地を這う事しか出来ない私でも、真直ぐに立つ心の傍なら……高く登れるのと思いたかったのかなぁ……」


 誰に言うでも無くレイアは呟く。

 語りかけるのは決まって自分の心に残った一人の男だった。

 もう彼しか残っていないのだからと、自分に言い訳して語りかける理由を得る。

 困ったような弱々しい笑みを浮かべて、ただ静かに佇むこの男だけが、レイアを傷付けない。

 どれだけ感情をぶつけようとも、言われるままでいてくれる。


 レイアが心の中に作り出した、責めても受け止めてくれるであろう『理想像』。

 身近に想い描けた男性像が彼しかいなかったからこそなのかもしれないが、レイアにとって彼ほど鬱憤をぶつけるのに適した男はいなかった。


 自分達に嘘を吐いていた。正体を隠していた――その一点だけしか責める部分は無かったが、自ら『化物』と罵った相手であれば、多少良心の呵責に苛まれずに済む。

 そう言った考えもまた、卑怯な自分の心を露わにするが、それでも縋れるものがレイアには九郎しかいなかった。


 ベルフラムがレイアに自分の目を宛がったあの時、レイアの目は何かを映していた訳では無かった。

 そんな都合の良い奇跡は何度も起こらない。

 レイアはあの時、ただ雄一の支配の声よりも、自らの『したくない事』を優先しただけだ。

 主に剣を向ける事も忠義の証。自らの中で都合の良い言い訳を作りだしたに過ぎない。


 レイアの心は酷く脆い。

 しかし同時にしぶとく、何度踏みつけられても、のたうちまわりながらも生き続ける雑草。

 太陽から逃げ回り、湿った場所でしか生きられないのに、太陽を求めて天に伸びる都合の良い心の在り方をしていた。


「少しは反抗したって良いんですよ?」


 心の中に作り出した添え木の男にレイアは寄りかかりながらはにかむ。

 ベルフラムの盾になりたい――そう願い自ら立てた寄る辺は、もう形も残らず朽ち果ててしまった。

 もう一度――そう思わなくも無かったが、また同じ事が・・・・・・と考えてしまうと、足が竦んで動けない。

 それよりも楽な方へ。そう思ってしまう自分の弱さにも気付いていたが、もう立つ気力は湧いてこない。


「貴方に会うのもこれで最後です。私はもう疲れちゃいました」


 もう今しか無い。

 レイアがベルフラムの元を自ら離れる決意をしたのは、疲れ切った心が選んだただ一つの救いだった。

 騎士を志した初心も、「この身に変えても」と誓った想いも、レイアの中にはもう残ってはいない。

 ベルフラムの弾んだ声が聞けたのだから、これ以上望むべくも無い――そう自分に言い聞かせ、この恐ろしい人間バケモノだらけの世界から逃げ出したかった。


「だから……もうそろそろ解放して……」


 媚びるように頼んだ救いへの想いは、レイアの口を出て直ぐに萎んでいた。

 いままで何度消し去ろうとしても心の中から消えなかった男の面影が、突然静かに崩れ始めていた。


「……待ってっ! 私からさよならを言うんです! 違う! ごめんなさいって謝らせてください! ずっと、ずっと言いたかったんです! 化物は貴方じゃ無かった! 人の方がずっとずっと化物だった! 私の方がずっと……ずっと醜い化物だったんです! ごめんなさい! 許して……」


 突然心細くなってレイアは思わず幻に縋る。

 酷く身勝手な物言いに気付くことなく、形を失い崩れていく幻影を抱きしめていた。


 ぼろぼろに崩れていく男の幻影は、酷く悍ましい姿を見せ始めていたが、レイアの心に恐怖は無い。

 零れる腸も千切れた手足も、全てが自分を守ろうとしていたのだと、ずっと分かっていた。

 抱きしめた男の顔は見るも無残な様相だ。

 骨が覗き皮膚は爛れ、レイアが恐れた雄一と同じ異形の顔だった。

 しかしレイアは髑髏を抱きしめ涙を流す。

 同じような顔なのに、全く別の感情を抱く。

 後悔と罪悪感を憎しみと言う鎧で覆い隠していた、初恋の小さな火だけがレイアの胸に残っていた。


 その火に触れたと思った瞬間、胸に引きつるような痛みが走り、レイアは再び目を見開く。


「クロウ……」


 真正面から自分を見据える男の名前を、レイアは無意識に口から溢す。

 かつて敵意を込めて叫んだ名前に、別の感情が溢れていた。


「レイア……俺の目に俺はどう映ってる? 俺はお前をどう見てる?」


 真剣な眼差しを向けてくる九郎に、レイアは息を飲む。

 九郎の目を通して見る世界は、レイアが今迄見ていた世界よりも格段に美しかった。

 月も花も大地も……全てが輝きを放っているかのように煌めいていた。

 ベルフラムの時には見えなかった世界が何故?

 そう思う暇も無く、レイアは世界の美しさに一瞬見惚れていた。

 九郎の目を通して見つめる世界は、命の輝きが映りこんでいるようだった。


「……だって……私は汚れた化物……だって……。お金を生みだす化物だって……」


 九郎の真剣な表情を疑っていた訳では無かったが、余りにも美しい世界にレイアは思わず頭を振る。

 全てを美しく見せているのは九郎の瞳で、自身を見ているのは自分の心だと思うと、言葉に嗚咽が混じってしまう。


 レイアの世界は、暗闇と自分の体が悍ましく変化していく色しか無かった。

 突然変わった景色の美しさに、レイアは戸惑い恐れを覚えた。


「私を穢す人達はみ~んな宝石になるんです。私に残るのは嫌な匂いと死体だけなのに……。汚れた私には腐った肉がお似合いだって、皆言うんです。で、でもっ……その宝石だって毒で出来たまがい物で……」


 レイアは早口で捲し立てながら酷く混乱していた。

 幼児退行を起こしたような酷く拙い言葉と、初めて見た世界に戸惑う感情がそれを表している。

 その耳元で、九郎の声が優しく囁く。


「レイア……毒ってのはな……仲間を守る為に持つもんなんだと俺は思ってる。大概の毒は食わなきゃ分かんねえ。ぜってぇ一人は犠牲になっちまう。食って初めて「アイツはやべえ!」って周りに知らせるんだ。自分を犠牲にしてでもベル達を守ろうとしていたレイアの心が、毒を生みだしてたんだと俺は思ってる……」


 その言葉はレイアの毒を違う視点で見る言葉だった。

 自分の為でしかないと蔑んだ先の言葉を覆す言葉に、レイアの瞳に涙が滲む。


「だって心は見えないからっ……私は全然綺麗じゃ……」


 滲んだ視界に映る九郎は、少し困ったような――レイアの瞼に焼き付いて離れなかった笑みを浮かべた。

 化物と罵り、化物と言う罪を着せて攻め続けていた自分も、自分を汚した者達と何ら変わらない。

 それに気付かされ、醜い自分が嫌になって死を選ぼうとしていたと言うのに――レイアの胸に残った火傷の痕が、再びチクリと痛みを伝えていた。


「レイアは……ずっと綺麗なままだ……」


 悲しそうな、それでいて眩しい物でも見るかのような視線で顔を歪めた九郎の顔がレイアに近づく。

 それを拒めるレイアでは無かった。


 ずっとそうして来たから。

 ずっとそうやって心を保って来たから。

 ずっとそうやってレイアを死から遠ざけようとしていたから。


 九郎の顔がレイアに近づき、そのままレイアの唇に重なる。

 レイアは涙で滲んだ目を見開く。体が自然と強張る。


 レイアの唇を吸おうとした男達は多くいた。しかし誰もが数秒も経たないうちに、青く冷たいまがい物の宝石に姿を変えていた。

 なのに九郎の唇はいつまで経っても冷たくならず、ずっと熱いままだ。

 抱きしめる腕の熱さも変わらない。

 いつまで経っても熱いままの男の体に、レイアは腕を回して瞼を閉じる。

 何度も絶望の中で閉じた瞼の裏から、熱い涙が零れていた。


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