第286話 暗闇を見る目
(くそっ……なんで俺はっ……)
自分の弱さや間抜けさに、何度悔しさを滲ませれば良いのか。
九郎は眉を寄せて奥歯を噛み鳴らす。
意識が一瞬ミスラ達に向かったその時、危なくベルフラム達を死なせてしまう所だった。
九郎もあの時勿論、必死になって彼女達を守ろうとしていたが、臓物だけで果たしてそれが出来ていたか。
アルトリアの献身が無ければと思うと、ぞっとする。
二兎追う者は一兎も得ず――その言葉が九郎の中に湧き上がる。
戦況は3人の仲間の追加と共に、格段に有利に傾いて来ているように思えていた。
しかし九郎としてはまだまだ安堵に至れない。油断などとんでもない。
先程意表をつかれたばかりだ。
また仲間の数が増えれば増えるだけ、九郎の心配も募って行く。同時に頼もしさも覚えるのだから勝手なものだと感じながらも、大切な仲間が戦いの場に――それも雄一との戦闘に関わっているのでは、気が気でない。
今し方も見せた雄一の悪逆な思考に、九郎が付いていけていない。
次にどんな悪辣な手を思いつくのか。そう考えると焦りは一向に収まらない。
雄一は今の所カクランティウスと龍二で手一杯に見えている。
その間にレイアを確保しなければと思っているのだが、五十六が生みだした『
ワラワラと湧き出る赤い泥の化物に、九郎も行く手を阻まれ近づけない。
「どっけぇえええ!!」
苛立ちの声と共に腕を炎に変質させ、『
それに構わず九郎は炎の塊となって突き進み、レイアに手を伸ばす。
あと少し――九郎が歯を食いしばって炎の変質を解いたその時、
「アアアアァァァアアア!」
自身を虐めぬいて弄び続けていた者の魂を感じたのか、レイアが顔を覆って絶叫していた。
赤い泥に囲まれ、頭を抱えて蹲るその姿は怯える子供そのもの。
九郎の目には『支配』されていて尚、恐れに心が悲鳴を上げているかのように映る。
「レイア、頼むっ! 正気に戻ってくれ!」
それは明らかに雄一が望んでいないであろう行動に思えて、九郎は大声でレイアを呼ぶ。
「アァァアァアアアア!!」
九郎の声に応えるかのようにレイアが再び絶叫する。
周囲に冷たい風が吹き荒れ、赤い泥が青く固まる。
それはレイアの心の拒絶そのもの。
彼女に残った抵抗の証であって欲しいと九郎は願う。
血と泥で出来た化物は青い結晶となって全てを阻む棘と化していた。
レイアの腕と胸から滴り落ちる血液が床に落ちた瞬間、波紋のように青を広げる。
ホールの中に不思議な匂いが立ち込めはじめていた。
赤黒い泥の形をした『
季節が逆行していくかのように広がった寒々しい光景が、レイアを中心として広がって行く。
赤黒い血を青い毒へと変えるレイア。しかし致死の拒絶も死んだ者は殺せない。
固まった体を動かそうと『
「まずいっ! って今ヤベエのはベル達と龍二か!?」
悍ましさを否定するかのような美しい光景に、九郎が慌てて声を荒げる。
細かな結晶を吸い込んだ時、頭が弛緩するような感覚に襲われていた。
「龍二! 俺を読め!! ミスラ、カクさん! 息を止めろ!」
「は? マジかっ!? てかそれ、麻薬なんか!?」
九郎は大声を上げると同時に、ベルフラムに巻きついている腸から大量の空気を放出する。
龍二が九郎の心を読んで、自分の周囲に風を纏う。
一応毒に強い耐性を持つとは聞いているが、酒に酔う『
九郎は広がる青い空気に顔色を青く変えながら、レイアに向かって駆け出した。
☠ ☠ ☠
「アアアッ……い……や……」
レイアの口から怯えの声が再び漏れる。
無表情なのにも拘らず、その口元から零れ出るのは震える声。
悍ましい血の怪物が、キラキラと青く輝く宝石に変わったと言うのに、恐怖が大きくなったかのようだ。
「どけよぉっ!」
また雄一がレイアにそう言わしているのかも知れない。
そう思っていても、その声を聴いて九郎は焦りを募らせる。
女性の怯える声に気を逸らすのは、もはや九郎の中では条件反射だ。
九郎はがむしゃらに腕を振り回してレイアの元へと突っ込む。
硬質なガラスの音が大きく響き、炎に炙られた『青水晶』がドロリと溶ける。
(くそっ! 砕いても元に戻っちまう! 炎は更にまじいっ!)
溶けた『青水晶』から不思議な匂いが立ち昇った事で、九郎は更に焦りを募らす。
気化した毒は謁見の間を青く煙らせ、ガスのように漂い始めた。
冷気を伴わない青い空気。酷く不吉な物を思わせる。
「プランチャァアア!!」
砕く事も燃やす事も毒を広げてしまうだけ。
九郎は生身の体で飛び上がり、剣山のような姿となった『
肌が削られ血が滲む。青くなった怪物が再び赤く染まる。
「『
ただその赤は広がらない。九郎が叫ぶと血に濡れた箇所がぽっかりと穴を開ける。
「来ない……でっ……化物!」
レイアの口からもう一度拒絶の言葉が放たれる。
あの時と同じ恐れの言葉が、レイアの口から零れて九郎の胸に突き刺さる。
両手を前に突き出し、毒を含んだ氷の壁を出現させたレイアは、まるで全てを拒んでいるかのように見える。青く透明な氷の壁越しに見るレイアは、水鏡の中の幻のように儚げに映り――。
「!!」
九郎が息を飲む。
レイアは壁の向こうで氷の短剣を掲げていた。
「支配してんだからよぉ! こうすりゃよかったんだ! ひゃひゃひゃひゃっ! ……あん? なんだ、また靄が……うっぜええ! このポンコツがっ!」
九郎の耳に雄一のしゃがれた声が木霊する。
絶望の中で自らの死を
レイアは無表情のまま震える手でナイフを掲げ自分の胸に向ける。
「諦めてんじゃねえっ!」
九郎の口から放たれたのは、レイアに向けた言葉であり、自分に向けた誓いの言葉。
冷たい湖の底でレイアに向け、心の中で唱えた言葉を九郎は叫ぶ。
生身の体では触れるだけで毒となるのか、打ち付けた九郎の拳は青く変色し、粉々に砕け散る。
氷の壁はびくともしない。目に見えて分厚くなっていくのは雄一の力が関係しているのか。
『
それでも九郎は無理やり進む。
熱で毒が気化する事ももう構っていられない。
赤く輝く炎の塊となって氷の壁を突き進む。
「お前に触られるくらいなら死を選ぶってよ! ばぁ~かっ! くそっ!」
あともう少し。九郎が必死に手を伸ばしたその時、雄一が手を振り下ろす。
九郎が伸ばした手の先が閉ざされる。
ゲームオーバーを悟らせる演出。熱にも衝撃にもびくともしない、理不尽な硬さを持つ鉄の扉が、いきなり九郎の目の前に出現していた。
なぜレイアの死を見せつけるのでは無く、雄一が九郎とレイアの間を遮ってきたのか。
「アゥ……アアアッ……」
扉を隔ててレイアの嗚咽の声が響く。
(レイアは支配に抗ってる! 諦めちゃいねえんだ!)
扉を叩く九郎の心にも、まだ諦めの毒は満ちていない。
「俺ごと切り刻め! 『
幾筋もの剣筋が黒い扉に走る。
鉄の扉が一瞬後にガラガラ崩れ落ちる。
そこから飛び出るのは、切り刻まれ血みどろになった赤い髑髏。後方では静かに九郎の肉を切り刻み続ける100を超える『
黒く輝く扉は、九郎を切り刻む為に振るわれた刃と同じ。幾千回体の中に潜り込んだ冷たい質感が、九郎の良く知るそれだった。
九郎を殺す為だけに存在し、レイアと九郎の縁を断ち切った原因でもある人形達は、今無自覚に、九郎を殺す事で閉ざされた道を切り開く。
「それでも俺は! 惚れた女にゃ幸せになって欲しいんだ!!」
骨の九郎が叫んで床を蹴る。
九郎の肉体を切り刻み続けていた『
「ア……アア……アアア……」
「言っただろ? 俺は……ベル達だけじゃなくて、……レイアの涙も止めてえんだ……」
九郎の耳元でレイアの嗚咽が響いていた。
九郎の背中からはパキパキと硬質な音が鳴る。
その音は、自身の体が奏でる拍手喝采。
レイアを抱きしめる九郎の背中に、氷の刃が突き立っていた。
振り下ろされるナイフとレイアの間に体を滑り込ませるのが、あと一瞬遅かったら、この温かさは感じられなかっただろう。
押し倒す形でレイアに飛び付いた九郎は、彼女を抱きしめながら安堵の息を吐き出す。
(って……余韻に浸ってる場合じゃねえ!)
しかしまだ安堵するのは早い。
九郎は震える心を叱咤し、覚悟を決める。
支配を解かない限り安心できない。
雄一の支配に抗っているように思えたレイアだが、それも思い過ごしかも知れない。
そう有って欲しいとの九郎の想いが聞かせた幻聴でないとも、言いきれない。
背中に突き立った氷の刃が何よりの証拠だ。
自分を殺そうとして突き立てられたのならまだ良い。しかしレイアが自らの命を断とうとしていた刃なら――レイアは何度も死に向かう。
「アゥ……アア……ゥア?」
レイアは九郎の肩に頭を置き、腕を彷徨わせた後、その手を首に回して来る。
その手つきは、恋人を思わせる優しいもの。頭を撫でるレイア指は、まるで九郎を慰めているかのように感じられる。
レイアがそのような行動をとる訳がない。例え正気であっても、レイアは自分を恐れている。間違っても抱擁を返して来ることはありえない。
だからこれは雄一が九郎を惑わせるために仕掛けてきた新たな罠。
(くそっ! 許してくれ、レイア!)
九郎は心を鬼にしてギュッと目を閉じ、そして開く。
女性を傷付ける事を思うと、未だに手が震える。
しかしそれでもやらなければならない。
九郎はレイアの肩を押さえ、体を起こす。
「…………アー?」
九郎の目が大きく見開かれる。
怯えた表情も、無機質な表情もそこには無かった。
それどころかどこか慈しむような感情すら感じられた。
コテリと首を傾げたレイアは、九郎の頬を優しく撫でる。
九郎の頬に、赤い線が描かれる。
痛みは無い。レイアの指は刃物などではなく、温もりがある――熱い人の指だ。
その熱は生きている事を知らせる、熱い血潮。
描かれた赤い線が九郎の頬を伝って、レイアの白い胸を濡らす。
「アゥ…………」
レイアの顔にはある筈の物が無かった。
青く澄んだ色はレイアの顔のどこにもなく、真っ暗な穴がレイアの顔に二つ――開いていた。
その穴からは涙のように、どろりとした血が湧き出し――、
「レイア……」
九郎が愕然と呟く中、レイアが首を傾げて両手を胸の前で開く。
その指先は真っ赤に濡れており、開かれた掌の上を二つの球体が転がり落ちて行った。
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