第282話  刻んだ絆


「ふへははっ! ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」


 ベルフラムが薄目を開ける。

 耳障りな高笑いが響いていた。


(…………こ……こは?)


 戻った意識に続いて身じろぎしようとしてみるが全く体が動かない。

 手足が重い。体がだるい。

 九郎と別れてからベルフラムは毎日体を鍛えようと頑張っていたが、筋肉痛とは無縁だった。

 初めて覚える「意識しているのに体が動かない感覚」にベルフラムの背筋に冷たい汗が噴き出る。


(……私…………)


 その意識もふわふわとしていて、まるで夢の中にいるかのようだ。

 視界が定まらない。声を出そうにも口が動かない。空気を吸う事すら億劫に感じる気だるさがベルフラムの全身を包んでいた。

 なのに体の触覚だけは鋭敏になっている。

 首筋に当たる冷たい感触にベルフラムは重い瞼に力を込める。


(……そうか……あの時……)


 首筋に伝って来る冷たい感触は、剣のもの。

 その冷たい剣の先に誰がいるのか――。

 自分の喉元に剣を添え、微動だにしないレイアに気付き、その腕から流れる赤い血を見て、ベルフラムは自分の身に何が起こったのかを把握する


 レイアの腕に囚われてしまった時、彼女の血液が口に入ってしまったのだろう。

 レイアの目を封じる為に振るったナイフが付けた傷は、彼女の抵抗の証そのもの。

 ベルフラムは九郎の『加護』を得てから先、毒に中った事も病気になった事も無かった。しかしレイアの血はそれすら凌駕する威力を秘めていた。

 四肢の麻痺は未だに消える気配が無く、気を緩めてしまえば永遠の眠りに落ちそうになってしまう。

 ベルフラムは気力を振り絞って何とか瞼の重みに耐える。


「ふひゃひゃふぁああああ! ひひひ……ひゃひゃひゃひゃっ!」


 あれから自分はどうなったのかは、考えるまでも無く耳障りな声が語って来ている。


(あの後……攫われた?)


 レイアは支配されてしまい、自分は身動き一つ出来ない状態。加えて自分の今いる場所さえ分からない。

 恐怖がベルフラムに襲いかかる。

 雄一の転移の術に囚われてしまったと仮定するなら、それこそ場所は無限に広がる。


 考えられる限りに於いて最悪の結末になってしまった。

 ずっと耐え続けていたベルフラムの心に、暗い絶望の影が入り込む。

 ここがどこだか分からない。もう助けは望めない。雄一に捕まってしまった自分に待っているのは、暗く悲惨な未来だけ。

 決して希望を見失わない。そう自分に誓ったベルフラムの心に入り込んだのは、後悔と自責の念。抱いていた希望はもはや形を失い崩れていた。


 レイアの悲惨な2年の月日を知ってしまった事によって――。


 ――捕まっていても殺されはしない。逆に自分達が捕まってしまえばレイアの身に危険が及ぶ――


 そう言い聞かせていたのは、自分の身を守る為の言訳でしかなかったのではないか。

 本当はレイアがあんな目に遭わされている可能性にも、思い至っていたのではないか。

 だからこそ、彼女の救出の前に自分は想いを遂げようとしたのではないか。

 単に目を逸らしていただけなのでは――次々思い浮かんでくる暗澹とした暗い声が、ベルフラムの心に影を落とす。


(レイア……ごめんね……)


 自責の念はベルフラムの目から涙となって零れ落ちる。

 あんな状況の中にいて絶望しない訳がない。レイアの心が弱かった等とは決して言えない。

 自分でもあんな辱めを受けていたのなら心が折られていただろう。

 レイアの心は絶望していた。だからこそ雄一の『シハイ』に囚われてしまっていた。


(私……自分の事ばっかり……。クロウの事ばっかり考えて……)


 彼女が捕えられていたと言うのに、九郎に再会したにも拘らず自分達だけで何とかしようと考えていた。

 雄一に九郎の存在がばれると拙い。その予感があったからこそなのだが、それも今となっては正しかったのか。本心では雄一との戦いが再び九郎との別れ・・・・・・を生むのでは・・・・・・? との恐れがあったのではないか。


 身を挺してまでレイアは自分を庇ったと言うのに、自分はそれでも九郎を一番に考えていた。

 そしてレイアを助け出した後ですら、真相を胸に秘めようとした。

 それなのに「これ以上レイアを傷付けるのか」と躊躇ってしまった。

 薄情で卑怯な自分に下された――これは罰なのだろうか。ベルフラムは自分を見下ろす青い瞳に問いかける。

 その目にはもう自分は映っていない。


「久しぶりだなぁ? ベルフラムたぁぁん? 愛しのユーイチ様がお迎えに来てやったぜぇ?」


 朦朧とした瞳からハラハラと涙を流し続けていたベルフラムの頬に、その時ザラリとした感触が走る。

 雄一が喜悦を孕んだ笑みを浮かべて、ベルフラムを見下ろしていた。

 半身が腐敗した悍ましい笑み。生臭い息が顔に掛かり顔を背けたいのに動かない。


「あんれぇ? 『支配』に掛かった振りかなぁ~ん? 騙される訳ねージャンよぉ? くひひひひっ! くひゃひゃひゃっ!」


 体を動かせないベルフラムに雄一は勝手な想像で物を言う。

 雄一は自分が今毒に侵されている事を知らないのではないか――勝ち誇った様子の雄一を眺め、ベルフラムはレイアに視線を移す。


(もしかして……レイア……)


 レイアの血を飲んでしまったのは只の偶然。そう思っていたが、これからの自分の未来を慮ったレイアの最後の慈悲なのではとも思えてくる。

 それはきっと思い過ごし。レイアが自分の死を望む等考えられない。弱っている自分の心が、そんな都合の良い――甘い考えを齎した。

 そう思っていても先の未来を想像すると、可能性が捨てきれない。


「ダメもとで魔法を使ってみるかなぁぁん?」

(これ以上……レイアを傷付けられる訳がないじゃないっ!)


 雄一の愉悦を含んだ言葉に、ベルフラムは心の中で言い返す。

 朦朧とした意識の中で果たして魔法が使えるのか。言葉が出せなくても無詠唱と言う手があるが、雄一は明らかにレイアの後ろに隠れており、盾にしようとしているのは一目瞭然だ。


「どうやって封印魔法を解いたのかも気になりまちゅがぁ~、直ぐにガアグウしか言えない家畜に戻してあげまちゅからねぇ~?」


 雄一の馬鹿にした嘲りの言葉に言い返す事も出来はしない。雄一はゆっくりと近付きながら顎を撫でて舌なめずりし、口元を引き上げベルフラムの喉に手を伸ばす。


(クロウ……)


 ベルフラムはぎゅっと目を瞑る。

 心の中で唱えるのは愛する男の名前だったが、それが口から零れそうになるのをベルフラムは必死に押し止める。

 叫べば助けに来てくれるような、そんな予感はしていたけれど、この状況で彼が現れると言う事は、考えていた最悪の事態の更に上を行く最悪でしかない。


 自分とレイアを人質に取られた今、九郎と雄一は戦いにすらならない。


(レイア……ごめんね……。やっぱり私……クロウが一番大切なの……)


 こうなった以上もう九郎には来て欲しく無い。

 ベルフラムは目を閉じたままレイアに詫びる。


「……クロ……ウ……愛……して……る……わ……」


 この先再び言葉を奪われるのなら、最後に言う言葉は決まっている。

 助けを呼ぶのではなく、ただ想いを込めて口にする小さな囁き。

 空気を求めるよりも大切な、ただ一言をベルフラムは口から放つ。


「……ありがとよ……」


 その時、ベルフラムの耳に低い声が響いていた。

 聞きたかった声。しかしありえない声。

 耳元で木霊したその声に、ベルフラムの意識が引き戻される。

 朦朧とした脳が作り上げた幻聴なのだろうか。それとも毒で死に行く自分が想う、思い出の言葉なのだろうか。

 

 驚きに薄目を開いたベルフラムの胸元は、赤い光を放っていた。



☠ ☠ ☠



「ひぃぃぃいいいい!!」


 ベルフラムの喉に手を伸ばしていた雄一は、悲鳴を上げて後ずさり、彼女の胸元に恐怖の視線を向ける。


 今日、目覚めて直ぐに悟った近付いてくる九郎死神の足音。

 雄一の中でも勿論葛藤があった。

「身の安全を図るのなら、すぐさま何処かに転移して逃げる事を優先すべきだ」と、恐怖に怯える本能が訴えていた。


 しかし再び山に籠るのか? 眠れぬ夜を過ごすのか?

 やっと恐怖から解放されたと思ったのに、またあのみじめな生活に戻らなければならないのか?

 6畳にも満たない暗がりに逃げ込み、布団を被ってガタガタ震える生活など、生前となんら・・・・・・変わらない・・・・・ではないか・・・・・

 折角全てを自由に出来る世界に来たと言うのに。逆らえる者など誰もいない王様・・になれたと思っていたのに。

 そう思ってしまった事で、雄一の生存本能は押し込められていた。


 恐怖と憎悪。二つの感情が雄一の中で鬩ぎ合っていたが、それでもどうあがいても倒せない者。万全の準備を整えていた筈なのに、魔力の結界は壊されており、頼みの綱の五十六も死んでしまっている。

 慌てたり予定外の事が起きると、途端に雑な手段を繰り出す雄一の悪癖が最初の悪手を打つ。


 雄一は恐怖を確認すると言うことで安堵を得ようとしていた。

 自分の身を守る為の大事な手駒の半分を外に向かわせ、更にレイアの視覚を奪って九郎を見つけた。

 そして――その悪手は雄一にとって『起死回生の一手』に映っていた。

 レイアを操りベルフラムを手中に収める事が出来れば――二人も人質を取ってしまえば、九郎は何も・・・・・出来はしない・・・・・・。恐怖に怯える必要が無くなる。

 死の恐怖の暗闇の中、それは雄一にとってたった一つの光明に見えた。


 レイアを『支配』し、思わず自分の思うままの勝鬨を上げてしまった事も、雄一の気付いていない悪手の一つ。

 九郎の存在を知りつつ、騙すのではなく自らの存在を知らしめるように勝鬨を上げた事が、諦めの悪い不死の化物を呼び寄せた事には気付いていない。


 現れた恐怖に対抗する手が自分の手の中に転がり込んできた。レイア一人では不安もあったが、ベルフラムを人質にすれば、確実に九郎は何も出来なくなる。

 事前に準備していた数多の対策の一つが、やっと実を結んだ瞬間だった。思わず雄一が達成感に歓喜し勝利宣言をしたばかりだった。


 なのに――。


 ベルフラムの胸元で揺れるペンダントから、赤い光が沸き立ち男の腕が生えていた。


 それは雄一にとってのトラウマ。

 赤い光の中から湧き出る腕は――夢の中にまで追ってきた、恐怖そのもの――。


☠ ☠ ☠



 その腕をベルフラムが見間違える事は無い。

 ベルフラムの抱き枕としてずっと傍にあった腕。

 悪夢を掃う温かさを持ち、彼女の血肉となった腕。

 生えた腕から肩がせり出し、そして九郎の顔が現れる。


「そういや、ベルの魔石買う約束してたな……。お守りの代わりくれえ、しっかり努めさせて貰わねえと、な?」

「ク……ロ…………」


 自分の胸元から生まれてくる化物じみた男を、ベルフラムは涙を流して迎え入れる。

 朦朧とした意識の中でも、その顔だけはしっかりと見える。思い出の中の顔と寸分たがわない、困ったような優しい顔。


 来て欲しく無い。来たら最悪な事態を迎えてしまう。

 そう思っていたのに、流れる涙も嗚咽も止まらない。

 自分の意思の何と薄弱な事だろう。呆れるくらいに安堵している自分がいる。

 動かない手足がもどかしくて仕方が無い。

 抱きしめたい。どれだけ自分が愛しているかを、全身で伝えたい。

 九郎の背中を見つめながら、ベルフラムは絶望の底に沈みかけていた心に再び火を灯す。


 九郎の意識とベルフラムの宝物がいつの間に繋がっていたのか。

 それは奇跡と言うには烏滸がましい、女性を求める九郎の本能が成し得た必然だった。


 九郎はベルフラムのペンダントとなった自分の欠片を、ずっと忘れた状態だった。

 過去の九郎がどれだけ探したとしても、その生きている欠片を見つける事は出来なかった。

 だがベルフラムが想いを遂げたあの日、二人が一つとなった事で、奇妙な繋がりが出来ていた。


 九郎自身はあの日に行われたベルフラムとの行為には気付いていない。

 しかし体が、九郎の血気盛んな血潮達が、

 彼女が自ら刻んだ想いを、――彼女の温もりを覚えていた。


 九郎の細胞は常日頃から独自の意思を持っている訳では無い。しかし細切れにされたりすると、統一されない雑多な意思を持ち始める。全てが九郎であり、考える事も似通っているが、見ているものが違えば、思う事も少しずつ変わる。

 この時九郎の意識を彼女の宝物行方不明の欠片に繋げたのは、いつも九郎の意思を聞かない、漲る血潮だった。

 常日頃から意識に逆らい続けていた九郎の『体の意思』が、「ベルフラムを救い出す手立て」を考え九郎の忘れていた欠片を無理やりに繋いだとも言える。


 それは偶然でも奇跡でもなく、必然。

 女性を愛して止まない九郎の本能が成し得た、欲望の果ての執念。

 掌から零れ落ちそうな命に見せる、不死の男の足掻きだった。


 ベルフラムの胸元を既に自分の居場所と認識していた、乾いた肉宝物は、彼女の言葉を九郎に届ける。どんな小さな囁き声であっても――。


「さあ、再戦と行こうじゃねえかぁああ! 雄一ぃ!!」


 ベルフラムの宝物から湧き出た九郎が怒気を孕んだ雄叫びを上げる。

 その背中はベルフラムの瞼に焼き付いて離れない、いつもの九郎の背中・・・・・・・・・だ。


(そう言う理由だったのね……)


 ベルフラムは九郎の引き締まった尻を見詰め、頼もしさと懐かしさと――昨日の事を思い出しての少しの顔を赤らめ目を細めた。

 

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