第279話 文殊
部屋から響く諍いの音に、慌てて九郎が中に飛び込んだ先には、レイアに馬乗りになりナイフを横なぎに振るったベルフラムと腕で顔を庇うレイアの姿。そして飛び散る鮮血。どう見てもベルフラムがレイアに襲い掛かっているようにしか見えない光景だった。
「おいっベルっ! 何してやがん――あだっ!?」
九郎が声を荒げたその瞬間、喉に氷の槍が突き刺さる。
ベルフラムの意識が九郎に向いたその隙をぬって、レイアが魔法を放っていた。
宿の壁に貼り付けにされた九郎の胸から、パキパキと異様な音が鳴り始める。
レイアが得意としていた氷の槍には彼女の鮮血が混じっている。その血が毒となっているのだろう。
九郎の頭が追いつかない中、状況は刻一刻と変化していく。
「クロウ!? あっ!?」
ベルフラムが一瞬九郎に気を取られた隙に、レイアの腕が彼女を逆に羽交い絞めにしていた。
「ベル様っ!」「ベルしゃまっ!!」
クラヴィスとデンテが殺気すら迸らせてレイアに飛びかかる。
それをレイアが片手を前に突き出し、氷の壁を出現させることで防ぐ。
「なんだよ……こりゃ……」
悪夢の続きを見せられているような気がして、九郎は呆然と呟く。
ベルフラムがレイアを害しようとしていたのも信じられない光景だが、逆もまた目の前であっても信じられない。
突然九郎が部屋の中に入って来た事でレイアがまた錯乱したのだろうか。
男にあれだけ酷い目に遭わされていたレイアの心情を汲んで、九郎は出来るだけレイアには近付かないよう努めていた。
しかし心配なのは変わらず、ずっと九郎は廊下で待機していた。
何故彼女達があのような悲惨な目に遭っていたのか、その理由はまだ聞けずにいたが、一応彼女達を苦しめていた人間は全てこの世から一掃したつもりである。
ただ取った手が明らかに暴力的であり、九郎は彼女達の耳に入れるか迷っていた。
その矢先に起きた事件に、九郎の頭が煙をあげる。
九郎の予定ではこれからゆっくり、時間を掛けてレイアが再び心を取り戻せるよう努めるつもりだった。
ベルフラム達もレイアを献身的に看病していると思っていた。
火事ともに正体が明かされた、人に成り代わっていた『
制御を失ってしまったからか、王都で動いていた『
民衆の最後の頼みの王城は何の動きも見せていない。九郎が昨晩全滅させたのだから当然だろう。
ここに至ってはもはや王都は都市機能を失っている。
懸念していた検問も機能しておらず、今なら脱出することも容易い。
やっと
「レイア、もう怖いもんは全部俺が……」
レイアを辱めた者達はもういない。だからもう大丈夫――そう言おうとして九郎は自分を鑑み、言葉に詰まる。
レイアに向けられた怯えの視線を思い出し、九郎が自嘲の息を吐く。
部屋の中央に現れた氷の壁。隔てた先のレイアの瞳に怯えの感情は見えてこない。
しかしあれだけの事をされていたレイアは、既に正気を失ってしまっている。
虚ろに陰った青い目は、『
「分かった……レイアっ! 落ち着けっ……俺がいちゃ怖いもんな――」
「ふへはっ――――――」
正気を失っても自分が恐ろしい化物であることは知っている――そう言われているような気になり、弱り顔で九郎が両手を小さく掲げる。
先程までレイアの腕から抜け出そうとしていたベルフラムが、ぐったりとしている。それへの焦りが、九郎の心をざわつかせる。
しかしレイアが錯乱しているのならば、刺激することは余計に事態を悪化させる。
取りあえずレイアを落ち着かせよう――そう判断した九郎の言葉を、奇妙な声が遮っていた。
一瞬九郎はその声が、レイアの口から出て来たとは思えず間の抜けた顔を晒す。
抑揚も何も無い平坦な声なのに、酷く愉悦が混じった声。
声色は思い出の中にあるレイアの声と寸分たがわぬものなのに、九郎の全身が粟立つ。
九郎が顔色を変え目を見開く中、答え合わせをするかのように、レイアの背後に黒い穴が生まれる。
「危なかったぜぇ……。間一髪ってのはこういう事なんだろうなぁっ!!」
無表情なレイアの口から、彼女らしからぬ乱暴な言葉が零れていた。
抱いた不安の正体に気が付き九郎がレイアに飛びかかるのと、ベルフラムを抱えたレイアが黒い穴へと身を翻したのが同時だった。
全身を高熱の炎に変質させた九郎の体が、氷の壁を難なく溶かす。しかしその手がレイアを掴む前、レイアとベルフラムの姿が虚空に消える。
「ゆういちぃぃいいいいいいいい!!!」
九郎の喉から呪詛の叫びが漏れ出ていた。
悪夢はまだ終わらない。
九郎は自分の運命を呪う。
こうなったのも全て自分の責任――そう感じていても、どこかで「どうにもならなかった」との言い訳が出来ていた昨日とは違う。
完全に自分の落ち度でベルフラム達が危機に瀕していた。
レイアが凌辱されていたのも、元を辿れば自分の所為だった。
後悔と自責の念が九郎の胸に止めどなく溢れ、同時に押さえの効かない怒りが身を焦がす。
ピシリ
九郎の脳裏で何かが割れる音がしていたがそれどころでは無い。
――ああ、
疲れたサラリーマンのような嘆息にも、九郎が気付く事は無かった。
☠ ☠ ☠
「少ちは落ち着いてくださいまし! クロウ様!」
「落ち着いていられるか!!」
ミスラの言葉に九郎の怒りの声が重なる。
騒動に一拍遅れて部屋に入って来たミスラ達を気遣う余裕は、今の九郎には残っていない。
ベルフラム達の窮状の裏で糸を引いていたのは、九郎が殺し損ねた『来訪者』。小鳥遊 雄一だった。
操られているかのようなレイアの口から零れた、あの嫌らしいしゃべり方。
クラヴィスの説明を聞くまでも無く、九郎の中で色々な答えが連鎖的に繋がって行く。
彼女達が何故あんな辛い目に遭っていたのか。その黒幕が雄一だとしたら、これほどすんなり納得できる答えも無い。
最後の最後で
今の状況で無ければ、九郎は自らの四肢を千切りずたずたに引き裂いて自傷の痛みを味わっていた事だろう。
先程ベルフラムが取ろうとしていた行動の意味も今なら分かる。
レイアが『シハイ』されている可能性を憂慮して、彼女はレイアの目を傷つけようとしていたのだ。
彼女の目が生来青い目だった事で、彼女達も迷ったのだと言う。
しかしレイアを含め、今後の全員の安全を考えるのなら、躊躇っている場合では無い。ミスラが治癒の魔法も使えていたので、一時の痛みだけだと自分達に言い聞かせ、身を引き裂く思い出行動に出ようとした。
しかしそれは一瞬遅く、雄一がレイアの『シハイ』が解けそうになっている事に気付いてしまった。
それをベルフラム達だけで行おうとしていたのが更に状況を悪くしてしまう。
レイア共々虚空に消えたベルフラムの事を思うと、九郎は居ても立っても居られない。
「クラヴィス! 奴は! 雄一は今どこに!」
分かる筈が無い――そう思いながらも誰かに縋らなければ立っていられない。
乱暴に肩を掴まれたクラヴィスは、九郎の目を見詰めて眉を下げる。
彼女も彼女で何かに縋らなければ立っていられない。そんな弱々しい、今にも泣きそうな表情。
そんな幼い少女を慰める言葉すら、九郎の頭には浮かんでこない。
雄一は転移魔法の使い手。逃げられたら追えなくなる。
そうなったらベルフラムに待ち受けている未来は。あれ程の凌辱を受け『シハイ』されるに至ってしまったレイアと同じ運命を、ベルフラムも辿ることになってしまう。
嫌な未来を予見し、九郎の顔が悲壮に歪む。
一度思い浮かべた予感は、どれだけ首を振っても離れて行かない。
なぜ自分はベルフラム達に欠片を渡していなかったのか。
不安の中で思い浮かぶのは、嫌な予感と後悔の念ばかり。
九郎はベルフラム達に欠片を渡していなかった事を悔やみ、苦悶の呻き声を溢す。
(分かっていた事だろうがっ! 俺は既に化物なんだよ! 良いように見られようとすんのがそもそもの間違いだって、身に染みてるだろうがっ!!)
昨日の今日で|肉体の
彼女達に自分の中での一番の異常な姿を見られる事を躊躇ったから。
そんな|自分の
九郎の中の後悔の念は、考えれば考えるほどに大きくなっていく。
どこに連れ去られたのかすら分からない。時間が経てばたつほど拙い状態になっていくのは分かり切っている。しかし打てる手立ても手掛かりも何も無い状態で、どう動けば良いのか。
昨日と同じように自分の無力さに九郎が苛立ち頭を掻きむしる。
ドロッとした濃い色の血が九郎の額を濡らしていく。
パァンッ!
とその時乾いた音が部屋の中に響き渡る。
「しっかりなさい! それでも
九郎の頬には真っ赤なモミジが刻まれていた。
一瞬動きを止めた九郎の目を、ミスラが眉を吊り上げ見据えてくる。
「でもっ!」
「狼狽え慌てふためくだけなら愚者でもできます。お考えなさいませ。知恵を絞って出ないのなら、誰かにお尋ねなさい。今の貴方様は知らない場所でただ一人、うろうろしているだけですわ」
九郎の口をミスラは片目を瞑って人差し指で封じてくる。
「貴方様の傍には誰がいると思っていますの? 全ての魔法を知る者、情報と言う武器を操って来た
――『白の理』ソリストネの眷属にして、意志ある位置を司る次元の揺らぎよ、示せ!
『ロクス・アストルム』!!」
ミスラはそのまま九郎に背を向け、魔法を唱える。
青白い光が部屋に格子模様を画いて行き、その一部が歪み始める。
ブラックホールを映像で表した時のように、空間の一部が捻じれて見え始めていた。
こよりのように捻じ曲がった光は、細い糸となって真直ぐ外へと伸びていく。
「これは……?」
「転移の術であの子達が消えたのでしょう? ならば転移の跡を手繰れば良いだけです。目に見えなくても『空間に開けられた歪』はそうは簡単に消えたりしませ――ちょっと! クロウ様!!」
ミスラの言葉が終わらない内に、九郎はミスラを抱えて外へと飛び出す。
「すまねえっ! 恩に着る! でも急がねえとっ!」
「もう……仕方のない人……。でも内助の功は妻の務め。ご期待に応えられるよう、頑張りますわ。ね? お父様」
走りながら礼を言う九郎の腕の中で、ミスラが困った顔で呟く。
「ミスラ……言っておくが吾輩は妻では無いぞ? 全く……貴殿がそのようでは、吾輩は心配でいつまで経ってもミスラを嫁には行かせられぬな」
その横をカクランティウスの声が、疾風のように駆け抜けていった。
一瞬見えたその横顔は、九郎の顔と違って誰もを安心させるような自信に満ちたものだった。
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