第277話  悪夢の歌


 ずっと夢を見ていた。

 暗く澱んだ泥の中を必死でもがき続ける恐ろしい夢を。


 生暖かい悍ましい何かが躰の上を這う感触。痛みを伴い中に潜り込んで来る絶望。

 見上げる先に光は無い。真っ暗闇の泥の中だ。

 どんなに手を動かしても体は浮上しない。動かせば動かすほど体は暗い底へと沈んで行く。


 尊厳を冒涜し、貞操を凌辱され、希望すら見る事が許されない終わることの無い悪夢。

 

 ――――それでも……私は……――――


 世を儚んでも責められはしない。死を望んでも可笑しく無い。

 それでも自分には許されない。

 守ると誓ったのは太陽のように眩しい少女の笑顔。それが握りつぶされようとしている今、自分が諦め投げ出す事など出来はしない。


 ――私が……ベルフラム様を……――


 レイアが知る中で最悪の敵。何度も心を折られ、何度も絶望に打ちのめされた最悪の『来訪者』、雄一が生きていた。

 呆れるくらい主に執着し、残虐な手法を繰り返してきた男。ベルフラムが再び目を付けられたのなら、思い浮かぶのは彼女の暗い未来だけだ。

 レイアはクラヴィスの事を信頼している。自分よりも遥かに優れたベルフラムの従者だと思っている。

 しかしそんな彼女でも雄一が相手では、楽観的にはなれはしない。


 ――だからこそ生き延びてもう一度ベルフラム様の盾に――


 彼女の不幸を退ける盾に――。

 雄一が生きている事を知った今、満足して死に身を委ねる訳には行かない。

 レイアはいつしか再びその身を主の盾とする為、生に縋った。

 この先自分に待ち受ける、過酷な運命にも負けないよう再び心に旗を立てた。


☠ ☠ ☠


「俺が見てないところで勝手にしやがって……。しかし……まあ、面白いオモチャになりそうだなぁ?」


 青い彫像と化した王子を眺め、雄一が濁った笑みを浮かべたのが地獄の始まりだった。


 女だてらに騎士を目指した時から、少女が夢見るような恋物語には別れを告げた。

 ただ一つの目標を見据え、全てを擲って目指した道の後ろには、女としての幸せが転がっている事も自覚している。

 結婚などとうの昔に諦めていたし、望んでもいない。

 それでも乱暴に奪われた純潔にレイアの頬には涙が伝った。


 自らの体が猛毒に変じている事に気が付いたのは、破瓜の痛みと冷たくなった王子の躯から。

 自分を抱いた男は死ぬ――これで少なくとも凌辱は終わるだろう――自分の体が毒と変わっていた恐怖よりも、レイアの胸には安堵が広がっていた。

 ただそれは――地獄――その一言では言い表せないくらいの、悪夢の日々の始まりでしか無かった。


☠ ☠ ☠


 禊女として牢に繋がれたレイアは、数えきれない数の男に嬲られ、青い結晶を生み続けた。

 レイアを抱いた男達は皆青い結晶となって死んでしまう。しかし同時に結晶化したそれが富を生み出す麻薬となり、朽ちる事の無いアンデッドの媒介として有用だったことが、レイアを更に苦しめる結果になってしまっていた。


 処刑の前夜の男達は誰も女に優しくしない。後が無くなった男達は自らの獣欲と暴力性を余すことなくレイアにぶつけ、濁った精と命を吐き出しレイアの体の上に積もって行った。


☠ ☠ ☠


 毒が効果を発揮するのは、多くが『拒絶』に因るもの。

 体内に入り免疫が過剰に反応して人を死に足らしめるもの。毒が体内の成分と拒絶しあい、機能を停止させるもの。

 多くの毒は、何かに触れて初めて『毒』となる。


 レイアの毒もそうした『拒絶』から来ていた。

 躰を穢すもの、中に入り込もうとするモノを必死に拒む、レイアの最後の抵抗の証だった。

 傷を負えば血が毒に変じ、痛みに体が強張れば涙が人を死に誘う。


 全身が毒を生み出す毒と変わっていたレイアには、気の狂うような毎日が待ち受けていた。

 『拒絶』で現れるレイアの毒は、嫌悪、痛み、悲しみ――様々な悪意を呼び込む最悪の結果を招いていた。


 痛みに次ぐ痛み。何度も何度も繰り返される暴力。

 尊厳を粉微塵に砕く凌辱。汚い男は愚か、畜生にまで犯される毎日。

 暴力の果てに死ぬ事は無かった。だがそれはレイアにとって救いでは無かった。


 瀕死になると回復魔法で回復させられ、再び暴力と凌辱に晒される。


 ――私が生かされているのはまだベルフラム様が捕まっていない証――


 レイアはその事だけを想い続け、ひたすらに耐え続けた。

 回復されるということは、ベルフラムが生きている証であり、同時に再び繰り返される地獄の始まりの合図。

 安堵と恐怖。二つの感情で、レイアの心は摩耗していった。


☠ ☠ ☠


 隙を見て逃げ出せないか――当然レイアも思い、様々な手を尽くしてみた。

 回復されたばかりであれば、動く事も可能になる。いくら魔力封じの結界内だと言っても、手足さえ自由になれば可能性はゼロでは無い。純粋な魔法職では無く、騎士である自分は多少体術にも自信がある。


 雄一やもう一人の『来訪者』には敵わないかも知れないが、その他の兵士であれば魔法が無くても戦える。


 レイアは神官達に何度も涙ながらに訴えた。青の神官達は皆人であり、『魔動人形ゴーレム』では無い事は分かっていた。回復魔法を唱えられる事からも、人であり聖職者なのだからと。


 だが人は――レイアが願う程優しくは無かった。レイアが思っていたほど美しくは無かった。

 叩けば富を生み出す人形。痛めつけ泣き叫ばしてこそ価値のある、人の形をした金袋。彼等の目に、もうレイアは人とは映っていなかった。


 涙を流しても、慈悲を乞うても誰も聞いてはくれない。

 助けてくれと涙した顔には足蹴が振るわれ、どうかと頭を垂れると笑い声が巻き起こる。

 言葉が通じていない。いつの頃からか、レイアの口は人の言葉を話さなくなっていた。

 繰り返される暴力と凌辱に、レイアの瞳が人を心底悍ましい何かと認識し始めていた。


 ――化物――


 レイアを見る彼等の目と同様、レイアの目にも人が化物と映っていた。


☠ ☠ ☠


 ――絶対に生き延びてベルフラム様の元へ――


 最初に誓った想いなど、一年も経つ頃には圧し折れていた。


 ――もう……良いですよね………………様――――


 心の中に諦めが入り込む。守りたかった少女の笑顔はもう想い描けない。

 度重なる凌辱に心は擦り切れ、死だけが救いであると思い始める。

 見上げる天井に少女の面影は浮かんでこない。光の差さない暗い地下で、どうすれば太陽を想い描けるのか。


 ――もう……疲れちゃいました……――


 泣き事を想うことが唯一レイアの心を癒す。

 甘く暗い誘惑だと言うのは、レイアも充分承知している。

 雄一も自分が死なないように気を付けているつもりだろうが、一年も経てばその扱いはおざなりになって来る。

 嗜虐心を満たす為に3日に一度はここを訪れてはいるが、最近は飽きたのか日が開く事も多い。

 今のレイアの命を繋ぎとめているのは、殆んどレイアの気力と言っても良い。

 今すぐ死に身を委ねてしまえば、暗い死の底に沈んでしまえる。

 それはレイアにとって天上の果実に勝る、甘い誘惑だった。


 ――ごめん……なさ……い……――


 もう涙は頬を伝わない。絶望などとうに過ぎ、今はただ疲れ果てた。

 分かっていた。自分はそこまで強い心を持っていないと言う事を。

 一年持ちこたえただけでも十分だ。何より誰かに想いを預けていなければ、こんな地獄に耐えられる訳が無い。


 ――私は……頑張りました……。貴方の事を思い……。貴方の為に……この魂を使い切りました……。でも……もう、無理なんです……もう嫌なんです……。犯されるのも、痛いのも……耐え……られない――――


 意識の狭間でレイアは暗い泥の底に沈んで行く。

 コポリ、コポリと小さな泡が、口元から漏れ出て、青い毒を広げていく。

 自分はあの少女の為に騎士を目指した。あの傍らに控える為に修練を積んだ。

 でも凌辱に耐える訓練など積んでいない。ただ虐げられるだけの存在になりたかった訳じゃ無い。


 ――あぁン? まぁ~たマグロになっちまいやがって! まあいい……ぶっ刺されたまま回復させっと、一気に躰が跳ねやがっから、これはこれで見ものだしなぁ? ――


 現実なのか幻なのか。

 朧気に霞む脳裏にしゃがれた男の声が響く。

 耳に響いたその声に、レイアは力無い笑みを浮かべる。

 回復魔法は死を望む者に効果は無い。本人が望まない治療は効果を表さない。体を癒すのは本人の願いがあってこそだ。

 強制的に生き長らえさせる術ならば、人は死を超越できる存在になれる。

 傷を癒すのは生きようとする人の意思。細胞が望む生への渇望だ。


 ――私が死んだら、また…………様に……。……様? もう……名前も思い出せない……――


 救いの欠片も見えない日々。何度も縋った少女の笑顔は、擦り切れてボロボロに穢され、形も残っていない。

 思い浮かべる度に少女の笑顔は、男達の下卑た笑みに上書きされる。

 想い描く度に少女の澄んだ声が嘲りの笑いになり代わって行く。

 縋った旗はとうの昔に折れていて、もはや寄りかかる事も出来なくなっていた。


 ――あなたは以前言ったじゃない? 騎士になる為に彼女を言い訳に使った・・・・・・・・・って――


 言訳だった少女の名前すら思い出せない今、自分が足掻いているのは何の為か。

 死の冷たい泥の中、もがく力も残っていない。

 もう駄目――悪夢の中でただ伸ばしていた手が力なく垂れたその時、レイアは引きつるような胸の痛みに顔を歪める。

 焼けつくような胸の痛み。

 朧気だった意識が突然弾ける。胸の鼓動が早くなる。

 重くなった手足はまだ動かない。ただ脳裏には一人の男の顔が浮かぶ。

 仮面の奥で嗤う雄一の顔すらもう分からなくなっていると言うのに、痛みすらもう感じなくなっていたと言うのに、その痛みだけがレイアの胸に火を入れていた。


☠ ☠ ☠


(あれから……もう何日経って……)


 死の狭間の泥の中で、レイアは朧気に思う。

 何度も何度も死を望み、その度に自分を生かし続ける胸の火傷。

 憎しみを覚えたのは一度や二度では無い。

 もはやこの傷痕が自分を苦しめる元凶なのではと思う程、レイアの心はボロボロになっていた。

 なのに火傷の痕は消えないでいる。


 あれからレイアは、たった一人の化物を憎み続けることで、何とか心を保っていた。縋った訳では無い。思い出したくも無い過去の傷であり、死ぬ事の無い化物が刻んだ、弱い自分を叱咤する為に残した傷。

 その心に刻まれた痛みを伴う火傷の痕が、レイアが死を選ぶことを許さないから。


 守ると誓った少女の顔はもはや思い出せず、本来憎むべき雄一の顔を見ると心が立っていられなくなる。

 ただその化物にだけは、憎しみを向けても怖くは無かった。ただそれだけだった。


「アー……」


 レイアの口から人形の音が漏れる。

 今のレイアに人の言葉は必要無い。

 誰にも届かない意思の発露に何の意味があると言うのか。

 口から零れるのは、空気を求める声と、拒絶を表す悲鳴だけで良い。


「……アゥ……」


 レイアは暗闇の生活の中で弱った虚ろな目を閉じる。

 太陽を求める事は諦めた。どれだけ願っても暗闇の中から出られない。

 赤い松明の光は、悍ましい男達の濁った笑みを浮かび上がらせるだけ。見えない方が余程良い。


「………アア……」


 獣の唸り声に似た何かの声からレイアは意識を遠ざける。

 最近では畜生とバケモノの言葉の違いも分からなくなってきている。

 音を聞いても仕方が無い。聞えて来るのは嘲りの言葉か、自分を穢す息遣いだけなのだから。


「…………アアゥ」


 ただ目覚める時だけはいつも心が恐怖に強張る。

 繰り返される痛みと辱めを想うと、僅かに残った心がボロボロ崩れ落ちていく。


 ただ今日は少し瞼の外が温かい。

 レイアは再び恐怖に身を竦ませ、新たにされるであろう拷問に顔を歪める。


「…………アア……ア」


 両手には悍ましい人の肌の感触。躰にも軽い何かが跨っている。日々の始まりを告げる、嫌な感触だ。

 ただ一点、いつもと違うその感触にレイアは再び目を瞑る。


(…………ぬ……の……?)


 肌の上を這い回る肉の感触以外、久方感じていないので自信は無い。

 ただ体を擦る軽い感触に、レイアの頭に僅かに残った思い出が蘇ってくる。

 汚物で汚された冷たい雑巾の感触では無い。


 柔らかな布の感触に、レイアは恐々薄目を開ける。


「レイア……ごめんね……」


 映し出された光景を最後に――レイアの暗く濁った青い瞳は、暗闇の底へと堕ちていった。



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