第265話  二つの奇跡


(……ユーイチ……なんで……)


 尻餅をついたまま後ろに下がろうとするベルフラムの顔は、恐怖に塗り込められていた。

 壁を背にし、下がれないのに下がろうとするその様は、いつものベルフラムとは似ても似つかわしく無い、怯えた少女のものだった。


 なぜ自分はこの男に言いようのない不快さと不安を感じていたのか。

 なぜ自分は神官服の男を『来訪者』だと最初に気付けなかったのか。 

 なぜ今日の襲撃にあの日を何度も思い出していたのか。


 数々の疑問の答えがぽろぽろと瓦礫のようにベルフラムに降り積もる。

 最悪を伴って。


 不快さや不安は知っていたからだ。この目の前の男の性根の汚さを。

 神官服の男が『来訪者』だと気付けなかったのは、男の目が青かったからだ。黒髪黒目と言われる『来訪者』と男の姿が結びつかなかったからだ。同時にそれに気付けたのは、青い目が最悪の『来訪者』と無意識の内に結びついていたからだ。

 あの日を何度も思い出したのも同じだったから。

 猫が鼠をいたぶる様な、からみつくような手法が似ていたから。ベルフラムを何度も窮地に追いやり、残忍な手法で手に入れようとしていた『来訪者』。

 最初から小鳥遊 雄一が計画していたからに他ならなかった。


「……ぐぁあっ……ぁうが、ぐぉぅ゛が……」


 そんな……あなたはクロウが倒したって……。恐怖に強張るベルフラムの口は人の言葉を話さない。

 ただベルフラムは、目の前の男が生きていることが、目の前で言葉を交わしていたにも関わらず信じられなかった。

 九郎が打ち漏らした可能性を考えたからでは無い。

 見た目が、その顔が、目の前の男が生きている事を信じられなくしていた。


「今ここで犯してやりてえんだがよぉ……あの野郎の所為で俺のライフワークが途切れちまってよぉ」


 恐怖に身を竦ませたベルフラムに、雄一はうっとりと目を細めて服をはだけ股間を晒す。

 その表情はそん所そこらの『動く死体ゾンビ』も霞む、悍ましさを孕んでいた。


 鼻は既に無く、暗い穴が広がっている。

 顔の左半分は腐ってドロドロの状態で固まって・・・・いる。骨が覗き、頭皮は爛れて崩れており、頬の肉も僅かな筋で繋がっているのみ。

 晒した股間には何も無く、奇妙に膨らんだ腹の左半分はがらんどう。

 右の半身はまだ見れる。汚らしいがまだ人の形を留めている。

 だが左は既に人では無く、死体と言うのも悍ましい何かだった。


 どうしてこれで生きていられるのか。

 この男も『不死』だったのだろうか。


「俺の偽名、ノヴァってのは本当はベルフラムたんに付けようとしてたんだぜぇ? もうデキなくなっちまったから、俺の偽名にしたけどよぉ? ベルフラムたんもぜんっぜん変わって無かったからよぉ? いつの間にか俺の嫁になってたのかと思ってたのによぉ……このヴィッチが!」

「ぅ゛ぐっ……」


 無遠慮な蹴りと共に放たれた雄一の言葉が、ベルフラムの脳裏に答えを導く。

 ノヴァとは9を表す古代語だ。自分に9の番号をつけようとしていたのは、雄一の妻をコレクションとしか見ていない事の表れなのだろう。

 ただ重要なのはそこでは無い。雄一の傍に侍っていた8人の妻達は、皆10に満たない少女だった。

 そして先程目にした白髪の少女も、その中にいた2人だった事をベルフラムは今更ながらに思い出す。

 その姿を見ていた筈なのに、不快な思いに目を逸らしてしまっていたのか。


 彼女達の姿は2年前と少しも変わっていなかった。

 成長してない自分の事を「嫁になってたのかと思っていた」と語った雄一の言葉からすると、彼の『支配』を受けた人間は、その姿を留めているのではないだろうか。


「このヴィッチがっ! ヴィッチが!」


 何度も振り下ろされる靴底に朦朧としながら、ベルフラムは考える。


(まさか……)


 ベルフラムが見上げる霞んだ視線の先には、青と黒。二つの瞳が撓んでいた。


(自分を……『支配』した? 九郎に……倒される直前に……)


 ベルフラムの導き出した答えは、おおむね正解だった。

 九郎の放った『昇天すセブンスる心地ヘブン』で体中を毒に侵され、自分の死に絶望していた雄一は、最後の瞬間、自分の姿を鏡越しに見ていた。

 神から雄一に与えられた『神の力ギフト』、『シハイシャ』。

 その能力の一つ――『寵愛』。

『寵愛』の力は支配した者の能力を引き上げる他に、一つの副次効果を持っていた。

 支配者に見初められたその姿こそが重要なのだと言う、不遜な効果。『寵愛』には姿を留める効果が秘められていた。

 自己愛の権化とも言える雄一は、それを知らずに自分に施していたと言う訳だった。


(じゃあ……私が……捕まった今の方が……レイアの……身が危険に……)


 ベルフラムは浮かんだ予感に顔を歪める。目には大粒の涙が溢れていた。

 先程の「保険」との言葉や、「後が無くなる」との言葉もやっと意味が判明した。


 死の直前まで追い込まれた雄一は、自分が生き残った事を知り、九郎が再び来るのを恐れたのだ。

 憎悪や復讐心も勿論あるだろう。先程見せた自分への攻撃性は、明らかに恨みが籠っていた。

 だが九郎が知らない場所で自分達を殺してしまっては、逆に怒りを買う事にしかならず、人質としても使えなくなる。九郎が何度も見せたベルフラム達に拘る様に、雄一は対抗手段を見出したのだろう。

 雄一の趣味嗜好では、女性らしい肉体を持つレイアよりも、子供の形のベルフラムの方が上になる。

 他者を鑑みない雄一の性格を見ても、それが当然と思っているだろう。

 今の雄一は、九死の状態に己を追いやった切っ掛けでもある自分達に、憎悪の感情を滾らせている。


(ごめんね……レイア……どじっ……ちゃっ……た……)


 心の中で謝罪の言葉を口ずさみ、ベルフラムは痛みの中で気を失った。



☠ ☠ ☠



 ベルフラムが痛みに呻いて目覚めた時、周囲には誰も残っていなかった。

 時刻は夜半を過ぎた頃か、窓の無い牢の中では良く分からない。


 体中に着いた靴跡は未だに残っていたが、痛みはそれ程残っていない。

 自分を殺してしまう事を恐れた雄一が、手加減したのだろうか。自分の苦しむ様に喜悦に歪んだ笑みを浮かべていた雄一を思い出し、ベルフラムは肩を抱く。気絶して反応が無くなったからこそ、あれ以上暴力を振るわれなかったと考えるのが正解な気がしていた。

 復讐と保険。二つを兼ね備えている今のベルフラムの命は、雄一の狂気の狭間に置かれている。


「ぁぁぁ゛ぁ゛ぐ…………」


 千切れてボロボロになったドレスを手繰り寄せ、ベルフラムは静かに嗚咽を漏らす。

 自分の口から零れたとは思えもしない掠れた声。それが更なる寂寥を運んで来て、嗚咽はやがて呻き声に似た慟哭へと変わって行く。

 確かめる必要も無い。魔力は封じられている。当初に目論んでいた魔法での脱出、そして救出は絶望的な状況だ。魔法が使えなくなった今の自分など、成長の遅いただの子供にしか過ぎない。


 あれほど固執していた自分ベルフラムに対しても、あれだけの残虐性を見せた雄一の事だ。

 レイアに対してどれだけ酷い仕打ちをしているかなど、考えるだけで恐ろしい。

 そしてそれに対して何も出来ない自分の力の無さがもどかしい。


ァ゛ギェ助けて……グオゥクロウ……」


 ベルフラムは泣きながら床を這い、愛しい男の名前を呼ぶ。

 こんなところにいるはずもないのに――。


グォゥクロウ……グォゥクロウ……グォゥクロウ……グォゥクロウ……」


 ベルフラムの心は暗い穴に落ちようとしていた。

 ベルフラムは暗闇の中、目を皿のように見開き、床や壁、汚物を流す溝まで顔を近付け九郎を探す。

 最悪しか齎さなかった雄一が再び目の前に現れ、そこから救い出してくれた九郎が近くにいない。もうどうして良いのか分からず、ただただ九郎の名を呼びながら僅かな希望に縋るしか無かった。



 どれだけの時間そうしていただろうか。

 獣のような唸り声をあげ、部屋の隅々どころか、鉄格子の向こうにまで必死に手を伸ばしていたベルフラムの指に、冷たい金属が触れた。


グォゥクロウ!!」


 ベルフラムは歓喜の声を溢してそれを手繰り寄せる。

 それはベルフラムが常に身に着けていた母親の形見のペンダントであり、ベルフラムを生き長らえさせた、九郎の干からび乾いた肉の欠片。雄一に強引に服を剥ぎ取られた時に、鉄格子の外にまで飛んでしまっていたのだろう。


(……何で……無い……の? なんでよぉ……クロウ……どこ……?)


 ベルフラムは手さぐりに形見のペンダントを確かめ、呆然として周囲を見渡す。

 その仕草は迷子になった子供と同じ。

 やっとの事で見つけた、九郎を感じられる物だったはずのペンダントには、留められていた筈の宝石カケラが付いてはいなかった。

 衝撃で何処かに転がったのか。涙で潤んだ目を擦り、ベルフラムは再び汚れた床に這いつくばる。


 その時、闇の中で赤い光が瞬く。

 牢屋の外、鉄格子からかなり離れた場所で、指先ほどの赤い光が湧きだしていた。

 その光はベルフラムの胸元のペンダントに向かって赤い光の糸を伸ばしてくる。

 思わず目を瞠ったベルフラムが、息を飲んだその瞬間、赤い光の糸はベルフラムの胸へと伸び、収束する。


グォゥクロウ……」


 ベルフラムの口からは、安堵と歓喜と愛情が溢れんばかりに零れていた。

 赤い光がペンダントに届いた瞬間、九郎の欠片が戻って来ていた。


 ベルフラムが知る筈の無い奇跡の発端。

 アルバトーゼの風呂屋がまだ出来たばかりの頃。ベルフラムが九郎に自慢気に見せびらかした、カチカチに乾いたベルフラムのひき肉宝物

 それを見て九郎はどう感じたのかが、一つの奇跡の始まりだった。


 ――ああ……俺が・・こんなんなっちまって…………――


 それは単なる口に出せない九郎の冗談のようなものだったのだが、その時九郎の中で、そのカチカチに乾いたベルフラムのひき肉宝物と九郎の意識が繋がってしまった。 

 そしてその後、九郎はずっとカチカチに乾いたベルフラムのひき肉宝物を忘れていた。死んだと思う事無くただ純粋に。

 普段肉体の中まで意識しないのは当然のことだ。


 ベルフラムが九郎の『不死』、そして自分が何を食べて生き延びたのかを知ったあの時も、このカチカチに乾いたベルフラムのひき肉宝物は光を放っていた。

 それは「あ、一応、俺は生きてますんで」とでも言う、九郎の肉の欠片の主張だったのだが、それを九郎は見事にスルーした。

 それどころでは無かったのだからこれも当然とも言える。


 その後も九郎は何度も体を乗り換え、肉体を再生させ続けていたが、離れた状態で忘れられたカチカチに乾いたベルフラムのひき肉宝物は、それからもずっと繋がったままだ。

 九郎は肉体を細胞レベルで感じられるとは言え、常に全てを認識している訳では無い。

 アルトリアに渡している欠片盲腸や、ミスラやリオ達の欠片も、意識するまでは忘れているからこそ、肉体を何度乗り越えても、欠片が死なない理由でもある。


(クロウ……私の大好きなクロウ……)


 とは言えそれはベルフラムが知る事は無い。

 ベルフラムはただ純粋に九郎が手元に戻った事に、歓喜の涙を流し続ける。


 奇跡とも呼べない九郎が残した軌跡の欠片。

 それが戻った所で、彼女の心が壊れるのを少しだけ長引かせたに過ぎない。

 雄一のように奇跡的に一命を取り留めた、神の悪戯とは言えない偶然。


 だからここから。

 純粋に奇跡と呼ぶに相応しい、偶然の産物が織りなした結果がベルフラムの運命を導き出す。


 ベルフラムが九郎の欠片に頬を寄せ、涙を流していると、キィと金属の軋む音が暗闇に響く。

 一人の少女しかおらず、窓も何も無い暗闇の中で響いた、奇怪な金属音。

 ベルフラムが身を竦ませ、音のした方に目を凝らすと、鉄格子の扉がゆっくりと開いていく。


 ペンダントを自分の居場所と定めていた九郎の欠片が戻った際、『修復』の粒子は、偶然・・、鍵の部分を削り取っていた。

 ただそれを純粋な奇跡と捉えるベルフラムでは無い。


(クロウ……そうよね……。私……諦めないから……)


 ベルフラムはそっと扉に触れると、慎重に周囲を確認して牢屋を後にする。

 どこまでも諦めないと誓ったその手に触れた奇跡軌跡

 ベルフラムの心は九郎からのエールだと感じて、暗い穴から這い出る。



 ベルフラムが呆れるような方法で城へと侵入してきたクラヴィス達と合流し、下水へと身を顰めたのは、その少し後の事だった。

 レイアの事は気になったが、「一旦身を顰めて機会を伺うべきだ」とのクラヴィスの説得にしぶしぶ頷いた。力の差は歴然であり、自分の魔法も封じられている。玉砕覚悟で挑んだとしても、レイアの身の危険が増すだけなのは明白だったから。


 ――長く過酷な潜伏生活が幕を開けた。

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