第264話 途絶えた道のその先
目を覚ましたクラヴィスが目にしたのは、呆然とへたり込んでいた妹のデンテで、デンテが目にしたのは、殺意すら感じられそうなクラヴィスの怒り顔だった。
妹が自分を見下ろす視線から、即座に顛末を悟ったクラヴィスは、怒気を迸らせて平手を振りかぶる。
デンテはぎゅっと目を瞑って、全てを受け入れる覚悟を見せる。
轟音の鳴り響く土砂降りの雨の中、乾いた音はいつまで経っても混じらなかった。
手を振り上げたまま、ぶるぶる震えるクラヴィスの目には、堪えきれない涙が溢れていた。
口元をわなわなさせたまま、必死に感情を押し隠そうとしているのに、それが全く出来ていない。
歪んだ瞳が弱気を表し、震える口元が絶望を溢す。
「……ごめん……なさい……」
謝罪の言葉はデンテでは無く、クラヴィスの口から先に零れていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……。ううっ……うわぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
クラヴィスは子供のように泣きじゃくり、謝罪の言葉を何度も叫び、空に向かって慟哭していた。
外見は美しい少女に育っていた
賢くいつも冷静だった姉も、まだ10歳の少女だったのだと。
デンテの瞳にも今になって涙が溢れてくる。
自分達は助かったと言う安堵の涙では無く、悔しさと不甲斐無さによる自責の涙が。
二人の姉妹は天に向かって、何度も謝罪と懇願を繰り返していた。
自分達の代わりに、どうか主を返して欲しいと――。
☠ ☠ ☠
どのくらい二人は泣いていたのだろうか。
周囲に気を配る気力も無く、嗚咽を漏らし続ける二人の耳がやっと気配を察知する。
「いきなりかかあが燃えだしたと思ったら、土くれに変りやがった!」
「うちの夫もよ!」
「旦那様も突然!」
雨音に混じるざわめきに、クラヴィス達が放心状態のまま周囲に視線を向ける。2人はいつの間にか大勢の人々に取り囲まれていた。
クラヴィスが生気の無い目を斜めに向けると、煌々と燃え盛る炎が未だに天を焼いていた。
燃え広がる赤々とした炎の灯りに照らされた人々の顔も、立ち昇る煙のように黒く映って――。
「火付けはこのガキどもがやったに違いねえ!」
「いやだわ、獣人なんて汚らわしい。こんな奴等がこの街に潜んでいただなんて!」
「妖しい魔術……いや、呪いを使ったに違いねえ!」
「てめえらぁ……覚悟しやがれよぉ?」
人々は口々に叫びだす。
棍棒、包丁、剣に槍。様々な得物を手に持ち、周囲の人々はクラヴィス達に怒りの感情を向けていた。
怒りの形相を浮かべる人々からは死臭は匂ってこない。『
なぜ見知らぬ人々に責められているのだろうかと、どこか他人事のようにクラヴィスは自分を眺めて納得する。
いつのまにか自分達の姿は、泥と血に塗れ、服もボロボロ。浮浪児と変わらない格好に
隠していた筈の尻尾は、短くなったスカートの裾から力なく垂れ下がり、耳を隠していたヘッドドレスや、メイドキャップも無くなっている。
薄汚れた獣人の娘にそんな大それた魔法が使える筈も無いのに――乾いた笑いを溢しながら、クラヴィスは悟る。彼等は全てを自分達の所為にして、混乱や怒りの憂さを晴らそうとしているだけなのだと。
あながち誤解とも言い切れないなと、クラヴィスは朧気に思う。
立ち昇る炎はきっとベルフラムの魔法に因るものだ。
彼等は近しい人が人形に変っていたなど、露と思っていないのだろう。夫や妻がそれに気付いていなかったのはどうかとも思うが、多分仲が良く無かったに違いない。それともあの『
(それとも……知った上で大事だったのかな?)
クラヴィスはぼんやり考える。
例えどんな化物だろうと、自分達にとっては大切な人ならば彼等の怒りも当然だ。
突然近しい者を失ったやり場の無い怒りは、ぶつけやすい自分達に向かったようだ。
薄汚い獣人の娘であれば、間違いだったとしても誰も咎めないだろうと。
もはや抵抗する気力も残ってはいなかった。
口々に怒声を発しながら、徐々に近づく人々をクラヴィスは胡乱気な瞳で見つめる。
振り下ろされる棒切れがやけにゆっくり感じる。走馬灯なのかそれとも彼等の技量が拙いのか。
分からずただボンヤリと眺め――。
その時、黒い影がクラヴィスの目を横切る。
石畳が弾け、群衆から悲鳴が上がっていた。
「こいつっ! 抵抗する気か!?」
怒りの籠った声が響く。
クラヴィスが目を瞠る中、デンテが四肢を踏ん張り、低い唸り声を上げていた。
今更ヤル気を出しても遅いのに……クラヴィスが寂寥の溜息を吐き出す音を、デンテの涙交じりの声がかき消す。
「ベルしゃまはまだ諦めて無いっ!! きっとデンテ達を待ってるもん!」
その声に、クラヴィスは弾かれたように身を起こす。
ナイフは失ってしまっていたが、四肢は動く。
薄汚いと差別されようとも、笑顔を向けてくれる人がいた。
頼りにしてくれ、身を投げ出してまで救おうとしてくれた少女がいた。
(そうだ……私達は獣人……牙も爪も……まだ……ある!)
心を折るのは早すぎる。
クラヴィスの喉からも、獣の唸り声が再び漏れ始めていた。
☠ ☠ ☠
「牢屋の中ってこんなだったのね……」
薄暗く窓も無いじめじめした牢屋の中を見渡し、ベルフラムは一人呟く。
神官服の男に連れられた後、予想通り牢屋に入れられたベルフラムは、即座に行動を開始していた。
ある程度予想はしていたが、牢屋にも強力な魔力封じの結界が張られていた。
捉えた者が魔法を使って逃げるのを防ぐのは、今閉じ込められているベルフラムとて、当然のように思う。今この場に限っては、迷惑極まりない処置にも思っているが。
ベッドも何も無い石造りの床と壁と天井。何に使うのか分からないが、部屋の隅に溝が掘られており、悪臭が漂って来ている。
幸い拘束の類は付けられていない。魔力さえ封じてしまえば問題無いと考えたのか。
鉄格子はかなり頑丈に出来ているのか、揺すっても蹴ってもびくともしない。力の弱いベルフラムが蹴ってどうにかなる物ならば、それはそれで問題だろう。
「……って思ってくれてたら、良いんだけど……」
ベルフラムは鉄錆で汚れた掌を見詰めて一人言ちる。
感じた印象の通り、神官服の男は人を見ていながらも、全く人に興味が無いのか、何も見てはいなかった。
魔力封じの結界の中で、ベルフラムが魔法を行使していたことも、良く分かってはいなかったようだ。
魔法に触れてから、まだ日が浅いのだろう。推定『来訪者』のあの男が、まだ魔法と言うものを知らない事が、今のベルフラムにとってはありがたい。
魔力さえ回復すれば、鉄格子くらいなら断ち切れそうだ――鉄格子の太さを計りながら、ベルフラムは息を吐く。
(魔力は……やっぱりもう少し回復に時間がかかりそうね……)
焦っては駄目だと分かっていても、焦りを覚えてしまうのは、それだけベルフラムも余裕がある訳では無い事の表れと言える。
黒い門を潜って直接牢屋に閉じ込められたため、まだレイアとクラインの無事は確認できていない。
どちらも公爵位に仕える騎士の家の出。いきなり家人が2人も王都に向かったまま行方不明になったと知れば、家長のグリデンが捜索するのは目に見えている。そこから王家が進めていた計画が世に広まることは、王家としても避けたいところだろう。
だから簡単に殺したりはしない筈――か細い希望を必死に肯定して、ベルフラムは焦燥を堪える。
心の奥底では、最悪の事態も考えろと現実的な自分が囁いてくるが、それは認められない。認めたくない。
(……あの『来訪者』もクラヴィスを生かしたままにしていたじゃない。きっとレイア達もまだ殺されていない)
ベルフラムは、レイア達が生きている可能性を後押ししてくれる理由を探す。
一人敵を足止めしようとして来たクラヴィスは、気絶させられていたとは言え、五体満足の状態で捉えられていた。自分達を釣り出す為とも考えられるし、目論み通り出て行ったので多くはそれが理由だったのだろう。
しかし、一度は家臣を犠牲にして逃走を図ったのを見ていた筈だ。逃げられる可能性を考えれば、五体満足というのは、明らかに雑な対応と言える。クラヴィスが子供と言う事で慈悲を見せたのだろうか。
男の目や言動を思い出すに、そうではないだろう。クラヴィスの体にも傷は沢山出来ていたし、気絶するほどいたぶったのは明らかだ。どちらかと言うと何か目的があっての事だと考える方が自然に思える。
だがそれでも、あの男がクラヴィスをあの場で殺さなかったことは、レイア達が生きている可能性を僅かながらに見せていた。
余りに希望的憶測に過ぎない事も分かっているが、今のベルフラムにはそれしか希望が無いのも事実。
暗く澱んだ思いを打ち払おうと、ベルフラムは明日に繋がる思考を巡らす。少しでも明るい可能性を考えていないと、気が落ち込んで前に進めなくなりそうだった。
(街の人が全員『
『
『
『来訪者』の『
ただ懸念材料となるのは、男がいきなり追いついて来た事だ。
あの黒い門は、『黄金の扉』ベファイトスの魔法だろうと想像がつくが、正確に自分達の居場所に表れたのは何に因るものなのか。
視覚か聴覚――どちらかを共有する事が出来ると考えるのが妥当だろうか。
レイア達を救出した後、逃げ出すのも大変そうだ――ベルフラムがそう思ったその時、靴音が聞えしゃがれた男の声が響いた。
「おい、センセぇ? 俺言っタよなぁ? 全員連れて来いっテヨぉ?」
「そんな事言っても、あのままじゃ風邪ひいちゃいますよぉ。ノヴァ君言ってたじゃない。我々はこっちの世界じゃ、風邪でもコロッと逝っちゃうって」
少し目論みが甘かったかしら……不安が胸の中から湧いてくるのを、必死になって押さえ込みながら、ベルフラムは交わされる会話に耳を澄ませる。
不気味で不快な感覚はベルフラムも持ってはいたのだが、王宮での戦闘時、仮面の男は動かなかった。
体格から魔術師だろうと踏んでいたが、あの場で魔法を使わなかった事で、魔力量は自分の方が上だと考えていた。
魔力封じの結界の中で、魔法を行使していたのは、ベルフラムと神官服の男の2人だけ。
男が『来訪者』だと知った時、やっと合点がいったものだ。
神官服の男がこの世界に来て間もない事に賭け、隙を突いてレイア達を助け出そうと考えていたのが、当初の計画だったのだが……。
交わされる会話の内容はさておき、力関係は明らかに仮面の男の方が上に思えて、ベルフラムの背中には冷たい汗が流れる。
「二匹しかいナかったら、どっちか殺しチまった時点で、後が無くナンじゃんかよぉ? 分かってんのぉ? センセ?」
「分かりました分かりました。街の外に出られないよう、人形を配置しておきますから。
「捕まえた年増じゃ保険にならねえかもしんねえんだぜぇ? 実質一匹と同じじゃねえかよお? ああん?」
仮面の男が神官服の男にがなりたてながら姿を現した。
センセと呼ばれた『来訪者』の男は、それを恐縮しながら宥めている。
二人の会話に僅かな光明と寒い気配を同時に感じ、ベルフラムは息を飲み込む。
どちらかを殺した時点で後が無くなる――このセリフは僅かではあるが光明だ。保険という言葉も、生きている事に対する価値を示している。
だが――捕まえた年増――というセリフがベルフラムの心に冷たい影を落とす。
年増――ベルフラムはそう思っていないが、レイアの事だろう。この国で彼女くらいの年の女性を年増と呼ぶ者は、多くは無いがいるにはいる。いきすぎた幼児性愛者の貴族には特に。それにこの際、敵方の蔑称などどうでもいい。ただ一人しか会話に登場していないと言う事は――。
「クラインはどうしたのよ! 答えなさいよ!」
堪らず激昂してベルフラムは叫んでいた。
大人しく機会を伺っていた方が得策だろうとの思惑も消し飛び、目尻に涙が溢れてしまう。
いきなり牢に響いた子供の声に、男二人が眉を顰める。
「おいおい、センセぇ? 全然元気じゃネエかよぉ? 逃げたラ責任取れンのぉ?」
「
「答えなさいよ!!」
男達が返答しない事にしびれを切らしたベルフラムが、再び大声で絶叫したその時、
「あ~……キャンキャンうるせえなあ!」
仮面の男がゆらりとベルフラムに向くと語気を荒げて片手を前にかざした。
突如突風が吹き荒れ、ベルフラムの小さな体が石壁に叩きつけられる。
「ぐぅっ!!!」
ベルフラムが痛みに呻く。同時にガチャンと扉が開く音がし、見ると男達が牢の中へと入って来ていた。
ベルフラムの目の前が涙で滲む。
ゆっくりと近付いてくる男達の姿が、不吉そのものにしか見えなかった。
問いただした答えが聞ける予感がして、そしてその答えが聞きたくない言葉に思えて。
「あのジジイの方はなぁ、いつの間にかポックリ逝っチまってたわ~。いやあ、別に殺すつもりもなかったンだけどよお? 年だったンじゃネエのぉ? 俺悪くないすぃ~」
耳を塞ぎたくなるようなセリフが、仮面の男の口から放たれる。
壁に凭れ掛かるようにして呻いていたベルフラムの髪を強引に掴み、仮面の男は人の死をさも嬉しそうに嘲笑う。
見出した光明が風前の灯火であり、感じた寒気が極寒の水底だった事を知らされ、ベルフラムの顔がくしゃりと歪む。
一度は絶望し拒絶したと言うのに、クラインはそれでもベルフラムの家臣を辞さなかった。
レイアの祖父らしい頑固さで、ずっと傍にいてくれていた。
それでなくてもクラインとの付き合いは父親よりも長い。ベルフラムが『
淡い期待がいきなり途絶え、ベルフラムの頬に涙が伝う。仮面の男はそれをさも嬉しそうに眺めて、神官服の男に言いやる。
「ああ……やっぱ駄目だわぁ~。おい、センセ。早く残りも捕まえて来いよぉ? でないと俺が気持ちよくなれねえじゃねえかぁ! こんな感じによおっ!!」
「ぁ゛ぅっ……」
次の瞬間仮面の男がこちらに振り向き、ベルフラムの視界が右にブレる。
何をされたのか一瞬分からなかった。
視界がぐらぐら揺れ、左頬が遅れて熱を帯び始める。仮面の男に振り向きざまに頬を殴られたらしい。
そう分かった瞬間、ベルフラムの鳩尾に男の靴がめり込む。
「ぅぁ゛……」
ベルフラムはくぐもった呻き声を上げる。込み上げてきた胃液で息が詰まる。喘いで息を吐き出そうとしたところに、今度は喉に衝撃。
仮面の男に首を絞められ、ベルフラムの体が浮く。
「はははぁあああっ! タコ見てえだなぁ? どう、苦しい? 苦しい? 今どんな気持ちぃ?」
首を押さえ必死にもがくベルフラムに、男の喜悦に緩んだ声が掛かる。
そのまま男はベルフラムのドレスの胸元に手を掛け、勢いよく下に引き裂く。
緋色のドレスが引き裂かれ、母の形見のペンダントが弾け飛ぶ。
「やっぱ女はお淑やかな方が良いよなぁ? あれだろうぅ? どうせ逃げられるとでも思ってたんだろう~? ざぁぁぁンねぇン! 俺様からのプレゼントだぜぇ? 喜べよ、おらっ!」
羞恥に胸を隠す余裕も無い。
のど元を押さえてもがくベルフラムの胸に奇妙な紋様が刻まれ始める。
「ぁっ゛っ!!」
激しい痛みを伴う紋様が、ベルフラムの胸の中心から首へと蛇のように広がって行く。
見た事も無い魔法が、ベルフラムの肌の上を這い回り、体に纏っていた最低限度の魔力すら吸い取られていく。
(封印の魔法!? あっ……駄目っ……意識が……)
体に起こった変化に目を見開いたベルフラムは、意識が遠のく予感に力を振り絞って抵抗する。
殺されないとタカをくくっていたが、このままでは死んでしまう。
興奮して我を忘れているかのような男は、口の端に泡を吹きながら嗜虐的な笑みを強めている。
突然ベルフラムの体が、床に落ちていた。
咳き込んだベルフラムは涙交じりの目で男を見上げ、そして青褪める。
抵抗した時に偶然掴んだのか、ベルフラムの手には男の仮面が握られていた。
「返せよぉ……それが無きゃ、風が擦れて痛くて堪んねえんだよぉ……」
男が顔を覆いながら、地獄の亡者の声を出す。
「……ぅ゛ぃぃ゛……ぁ……ぇ゛」
呆然と呟いたはずのベルフラムの声は、文字通り言葉を失っていた。
ただその顔は恐怖と驚愕で歪められ、か弱い少女そのものだった。
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