第263話 雨は涙に涙は雨に
朝には晴れていた筈なのに、外は暗鬱とした灰色の雲が広がり、冷たい雨を降らせていた。
王宮を飛び出し、主を抱えてクラヴィスは街中を走る。
雨の中人通りは少なく、助けを求める事も出来ない。
「離して、クラヴィス! お願いっ……だからぁ……」
耳元でしゃくり上げる悲痛な泣き声に、クラヴィスは答えない。
暴れる主人を抱えたまま、クラヴィスは前を睨んで駆け続ける。
「デンテ、右!」
「ヴァィ……」
短く出したクラヴィスの指示に、涙混じりの妹の返事。
数回重い音が響き、最期に何かが拉げる音。路地裏に人の形を模した欠片が散らばる。
人の気配を持たない人は、街中にも潜んでいた。
雨の中を頭を庇って走る男が、軒下で雨宿りをしていた夫人が、道端の隅で寝ていた浮浪者が、突然表情を無くして襲い掛かってくる。
街中全ての人が、人の形をした化物に変わっているとは考えにくい。
ただそれでもクラヴィスには、悪夢が現実に溢れたような、恐ろしい世界に映り始めていた。
「次、先に2体!」
「うっく……」
デンテは必死に涙を堪え、先行して槌を振るう。
デンテはレイアとも仲が良かった。主に孤児院で働いていた事もあり、妹とレイアの間の蟠りは溶けていた。この頃は姉の自分といるよりも、彼女と一緒にいる時間の方が長かったようにも思う。
もとより物事を余り深くは考えない性格もあって、デンテは何にでも肯定的だ。
感情のままに暴力を振るい、自分達を捨てた父親にすら恨みを抱いていない。
妹は自分達が選んだ選択肢を、本心ではどう思っているのか。
分かっている筈だと、クラヴィスは自分を納得させる。
飛び散る破片が礫となり、デンテの頬に幾筋もの赤い線が走る。ガキン、ゴキンと重い音が響き渡る横を、クラヴィスはベルフラムを抱えて走り抜ける。
自分は非情だ。共に暮らした人を見捨て、戦う妹に目も向けない。
例え今、妹の断末魔の悲鳴が聞こえたとしても、クラヴィスは足を止めたりしないだろう。
胸に宿る激情と後悔の念を押し殺し、クラヴィスは一つの未来を目指し続ける。
ベルフラムが生き残る未来――ただそれだけを。それだけが幾つもの犠牲に目を瞑った今の自分に許される、願い事だとひたすら信じて。
☠ ☠ ☠
「―――――――!」
「―――――――?」
「―――――!!」
「くぅっ!?」
肩に登る激痛に、苦悶の呻き声を上げて、レイアは再び瞼を開ける。
同時に後頭部にも激しい痛みを感じて眉を顰める。
いつ気絶したのかも分からない。
どうやら自分は頭に一撃を喰らって昏倒していたようだ。
「使い道が別にアルって言ってたダろウがよぉ?」
「死んでなかったし良いじゃないですかぁ~? まだ慣れてないんですから~」
自分を覗き込む二人の男をレイアは怒気の籠った瞳で睨みつける。
何故自分がまだ生かされているのか――理由は分からないが余り喜べるような理由では無いだろう。
明らかに自分達を罠に嵌めようとしていた、王族側の人間だ。仮面の男がレイアの抜けた肩に無遠慮に足を乗せ、神官服の男に文句を言っている。
両手は黒い土の枷で床に縫い止められ、足も同様。足掻けるだけ足掻くつもりだったが、それもどうやらお終いのようだ。
(捕まってしまったみたいですね……。拷問も嫌ですし、人質に使われたりしたら目も当てられません。さっきの話で、私は『
どのくらいの時間が稼げたのか。ベルフラムはちゃんと無事に逃げ延びてくれたのだろうか。
主の為に命を捨てたレイアは、驚くほど冷静だった。
目指した物しか見れなくなる不器用な性格は、今際の際でも変わらない。
ある種の満足感すら感じている。
騎士として主の為に道を開いた。主の盾となれた。
それはレイアが幼い頃から今までずっと望んでいた生き方であり、死に方だ。
止められても泣かれてでも主の幸せを望んだ、レイアが憧れた少女達の雄姿だ。
自分はベルフラムの新たな『
小さな自分の
あの涙は悲しみの涙であり、親愛の証だ。
初めてレイアが目にした主の涙――落胆と怒りの涙では無かった筈だ。
(私としては上出来……でしょうね)
レイアは最後に目にした主人の顔を思い浮かべ、満足気に微笑む。
「ナニにやにや笑ってやがンだぁ? オイッ!?」
「あぐっ!」
レイアの余韻に無体な横やりが入る。
仮面の男が苛立ちを隠そうともせずに、レイアの肩をもう一度蹴っていた。
毒に強くなったことで、青麦の毒で死ぬ事は無い。だが懸念したように、人質として主の枷には成りたくない。
とっとと舌を噛んで主の安寧を願うとしよう。
胸倉を掴んで睨みを利かす男の怒気の籠った視線に、瞼を閉じようとしたその時、レイアの顔が凍りつく。
もう思い残す事は無い。その思いは一瞬で過去へと葬り去られていた。
「なんで……なんでお前がっ……なんでっ!? なんでなんでなんでなんで! なんでお前が生きている!?」
ワナワナ震える唇が、狂ったように叫び声を上げる。
青と黄色。奇妙な仮面の奥で、青と黒の細い目が
三日月形の仮面の隙間から、僅かな素顔が覗いていた。
「いいねえぇ? おい、センセ! ボーっと見てねえで、とっとと残りを捕まえてこいやぁ! 嫁貸してやっからよぉ?」
仮面の男はレイアの豹変に満足気に頷くと、神官服へと指示を出す。
仮面の奥、半分が腐った男の顔が、引きつり歪んだ笑みを浮かべた。
☠ ☠ ☠
「クラヴィス……止まってよぉ……お願いだからぁ……」
雨脚は止む気配はなく、それどころか大粒の雨が降り注いでいた。
霞む雨霧に視界はぼやけ、気配を探るのも困難になりつつある。
背中に滴る水が涙か雨かもう分からない。ただ背中に残る跡まだ、熱が籠たように熱く感じる。
肩に担ぐベルフラムから何度目かの嗚咽交じりの懇願が耳に届いたその時、クラヴィスは足を止め、ベルフラムを地面に下ろす。
あともう少しで街から出られる。
僅かな希望が見えたと思っていたのにと――悔しさに顔を歪めながら。
「はあ……これだから
何も無かった筈の地面からいきなり黒い扉が出現し、黄色い神官服を着こんだ四角い顔の禿げた男が、白髪で青い目を持つ瓜二つの少女を引き連れ、ひょっこり姿を現していた。
クラヴィスの喉から低いうなり声が零れる。
背中がざわつき、尻尾が膨らむ。これまで相手にしてきた『
山で多くの魔物と対峙し、培ってきた全ての感覚が警鐘を鳴らしている。
「大体ワタシが出張る必要無いと思うんだよな~。ノヴァ君の方がずっと強いんだし……。酸性雨がって、そりゃあワタシはもう手遅れですけどねぇ……」
四肢を踏ん張り唸り声を上げるクラヴィスを無視し、男は禿げた頭を叩いてぼやく。
その目もまた、人を人とは見ていない、人に関心を寄せていない無機質な瞳だ。
しかし『
あの王達と同じく、まだ男は人の皮を被っているのだろう。
一見男は隙だらけのようにも見える。
だが王宮で自分達を見下ろしていた時から、男は度々魔法を使っていた。
あの魔力封じの結界の中で、ベルフラムと同じように。
この男が『
(デンテじゃ荷が重い……私なら……どれだけ時間が稼げる?)
低い唸り声を溢しながら、クラヴィスは考える。
仲間を見捨てた自分とて、命を惜しんではいない。それが最善と考え、選んだに過ぎない。
だがどれだけ時間を稼ぐことが出来るか……格上相手に楽観的には考えられない。
(横の二人も……強い……)
男の傍に侍る瓜二つの少女もまた、かなりの実力がありそうだ。
小さなナイフを両手にだらりと構え、生地の少ない際どい格好の幼女とも言えそうな少女を睨んで、クラヴィスは牙を鳴らす。
(どこかで見た覚えが……)
二人もまた『
二人の少女に既視感を感じ、クラヴィスが記憶を辿った刹那、クラヴィスの全身がぶわっと粟立つ。
「デンテ! ベル様を!」
追いついてきた妹の気配を背中で感じ、クラヴィスは大声で叫んでベルフラムを掴んで投げる。
同時に彼女を追いかける。
「おやおや? 老体を疲れさせないで貰いたいですなぁ? えーっと……トレスとカトロだったっけなぁ? まあいい、行ってきなさい」
背中を向けて一目散に駆け出したクラヴィスを見て、男はうんざりとした表情で言いやる。
無表情な白髪の双子は、だらりと両手を下げたまま、恐ろしい速さで間合いを詰めてくる。
「はあっ!」
クラヴィスが跳躍する。デンテに向かって。
デンテにとび蹴りを見舞うクラヴィスに、デンテは金槌を構えて待ち構えている。
クラヴィスの靴底がデンテの槌を踏む。
一瞬デンテと視界が合わさる。妹の顔は涙と鼻水でグシャグシャの酷い顔だ。
クラヴィスは刹那の間だけ目を細め、妹に想いを託す。
レイア達と同じく、姉妹の別れも無言で終わる。
「ねえちゃ……っわあああああああ゛あ゛っ!」
デンテが泣き喚きながら、全力で槌を振った。
姉を打ち出した妹は主を抱えて、即座に背中を向けて駆け出す。
屋敷の誰より強いデンテの膂力で打ち出されたクラヴィスは、一つの弾丸と化して双子に突っ込む。
(獣は泣かないんだ! 私に泣く資格なんて無いっ!)
犬と蔑まれ、獣のように生きるしか無かった自分達の運命。それを変えてくれた主の一人。彼女を守る為には何だって擲てる。
地面に四肢で立つのを躊躇わなくなったのは、ベルフラムと出会ってから。
犬でも良い。犬と呼ばれる事すら誇りに思える。
そんな思いに至れたのは、何よりその場所が心地良かったからだ。
クラヴィスの天国は、小さく強い少女と、大きく優しい青年の間にある。
「がああああああうっ!!!!」
クラヴィスは双子を絡め取ろうと両手を広げて襲い掛かる。
煌めく白刃の刃に身を晒し、大ぶりのナイフで迎え撃つ。
金属の擦れる鈍い音に、肉の弾ける音が混じる。
ざあざあ降りの雨の中、クラヴィスは再び四つん這いで双子を睨んで対峙する。
クラヴィスの頬を濡らした雨の跡は、僅かに熱を帯びていた。
☠ ☠ ☠
どうしてだろう。
前が霞んで良く見えない。
耳も良く聞こえない。
(きっと……雨の所為でしゅ……)
見たくない現実が、幼い心を蝕んでいた。
分かっていた筈だ。いつも姉に言われていたし、覚悟は自分も出来ていた。
そう思っていたのに、いざその時になって、恐怖に体が竦んでしまう。
「デン……テ! 止……まっ……て。後生……だからっ! お願い……します……」
自分は託された。それは充分理解している。
デンテが母と見出した、小さな少女はもう自分にすら懇願して来る。
それが耳に届くたびに、デンテの心も摩耗する。
あの時と同じ……そう感じていたのはデンテも同じ。
だが、あの時のように、全ての悪意から自分達を守ってくれた、大きな背中は現れない。
櫛の歯が抜け落ちるように、一つ二つと欠けていき、残されたのは自分達だけ。
それがどうしようもなく、デンテの心に影を落とし、絶望を生み始めていた。
(ねえちゃ……レイアしゃん……デンテ一人じゃ……)
湧き出る弱音を口から溢さないので精一杯。もはや体力も限界に来ており、主を抱える腕も重い。
あれだけ鍛えてきたのに。
あの時のようなことが再び起こった時、少しでも役に立てるよう頑張って来たのに。まだ一日も戦い続けていないのに――デンテの心は暗い階段を下りて行く。
二日二晩戦い続けていた時には、クロウしゃまがいたから……弱った心に甘美な言い訳が、溢れるように湧いてくる。
「まったく……逃げても無駄ですよ~。センセ、悪い子は嫌いだなあ~」
雨音に混じる間延びした声に、デンテの心臓がキュウと縮む。
打ち捨てられたあばら家の軒下に、ベルフラムを引っ張り込むのがやっとの事だった。
もう戦う力はおろか、逃げる力も残されてはいない。力の無い自分は隠れる事しか出来ない。
幼かったあの日と同じ、暗い隙間に身を潜め、恐怖が過ぎるのを震えながらひたすら待つ事しか、もうデンテの頭には無かった。
デンテは頭を抱え、尻尾を丸めてガタガタ震える。
降り注ぐ悪意が。離れていく温もりが。世界の何もかもが怖くなった。
(寒い……)
朧気に思ったその時、自分を抱きしめる小さな手にデンテはハッと顔を上げる。
瞼を腫らした緑の瞳が、優しい微笑みを浮かべていた。
今やデンテの手と変わらない小さい手が、優しくデンテの頭を撫でてくる。
優しい笑み。温たかい手の平。体を溶かしてしまいそうな、安堵を齎す主の抱擁。
だが、その慈愛に満ちた温かな微笑みは、デンテに恐怖を思い出させた。
デンテにとって何より恐い、別れの笑み。
レイアも、クラインも、姉も――そして九郎も。皆同じように少し弱ったように眉を下げ、優しい笑みを浮かべていなくなった。
「嫌でしゅ……デンテも一緒に……つれてって」
今度はデンテが縋る番だった。
ベルフラムは優しく微笑み――何も言わずにデンテの手を握った。
☠ ☠ ☠
「こう言うのはねえ、連帯責任っていうんですよぉ? 早く出て来ないと、この子が皆の分までお仕置きされちゃいますよ~。お尻ペンペンでは済まないですよ~。可愛そうだな~。センセ、嫌いだなぁ~。そんな薄情な
「クラヴィスを離しなさいよ! この変態!」
ヤル気の感じられない間延びした顔が、ベルフラムの声に顔を輝かせていた。
明らかに敵意を向けている自分を、全く見てはいない濁った笑み。
体の内で魔力を練り上げながら、ベルフラムは男を伺う。
男の傍には瓜二つの白髪の少女と、新たに大人の『
『
怒りに気が狂いそうになるのを必死に押し止めて、ベルフラムはクラヴィスを観察する。
微かに胸が上下していた。
(そうよ、クラヴィス! 死んだら絶対に許さないんだからっ!)
僅かな光明に火が残っていた事に、ベルフラムは安堵し詠唱する。
ベルフラムの体に降り注ぐ雨が、白い湯気と変わって立ち昇る。
赤い髪の毛が逆巻き炎の様に揺らめく。
「私の願いに応じてくれた灼熱の炎よ―――貴方は繰り返し生まれ廻る、大地の下で眠る者―――貴方は無垢な赤子の如く、純粋たる力を内に宿す者―――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして命を生み出す原始の炎、アルケヴィータよ――」
ベルフラムの体中の血が沸き立つ。視界が真っ赤に彩られ、血の味が喉を逆流してくる。
一日に2度も儀式を行っている。自分でも無茶をしていると分かっている。
それでもここで使わずいつ使うのか。
それに自分は死ぬつもりは一切無い。何故家臣たちが揃って命を投げ捨てるのか、ちっとも理解
最後の最後まで足掻き、諦めない事をベルフラムは自身に誓っている。
この体も心も、魂さえも一人の男に捧げている。勝手に死ねば、自分の言葉が嘘になる。
「もう一度力を貸して! 『フォエトゥス・フラム・エクセル』!!」
「おおおっ!?」
巨大な魔法陣が雨雲を隠す。
顔中を血に染めたベルフラムが水溜まりに倒れ込むのと、神官服の男が慄きの声をあげるのが同時。
クラヴィスを掴んでいた『
傍にいた残りの三体も同様だ。しかしクラヴィスは少しの火傷も負ってはいない。
ベルフラムの願いを聞き届けた、原始の炎はその望み通りに敵だけを焼く。
相手が炎に強い『
「姉ちゃんっ!」
魔力枯渇に伴う眠気に抗うベルフラムの耳に、デンテの喜悦交じりの声が響く。
あの時自分を支えてくれていた手は、今度は姉を助けている。
ベルフラムは安堵の息を吐き出す。泥水が唇を濡らす。
重くなる瞼を気力で以って押し上げると、周囲の民家からも次々火の手が上がっていた。
王都にどれだけの『
(後は王宮の外から最大の威力でもう一度『
霞む目に力を込めて、ベルフラムは石畳に爪を立てる。
その耳に、聞きたくも無い悲鳴が響く。
「おわっちゃぁぁぁぁあああ!!」
そんな馬鹿な――ベルフラムは目を疑う。
ここ2年、身長体重胸囲はちっとも成長を見せないベルフラムも、魔力だけは格段に増えていた。
それを絞り出すようにして放った最大威力の魔法は、一度で2万の『
なのに――
「が、
明後日の方向に向かってふざけた侮辱を口にしている男は、驚いてはいたが死んでいなかった。
それどころか、白髪の少女の二人も。
「何よ……それ……」
ベルフラムは苦み走った表情で呻く。
男の足元では、大きな濁った水の塊がふつふつと煮えていた。
「ああー……。せっかく作った『ブロブ』? でしたっけ? が台無しです! 見なさいよ! この火傷! ああ、この世界には治療の魔法もありましたっけ? 治れ~! 治れ~! 治ったぁ!」
信じられないものを連続で見せられ、ベルフラムが目を見開く。
無詠唱を併用していたとも考えられるが、男の適当な言葉で、火傷だらけの男の足が元に戻っていた。
そしてそんな事より重要な男のセリフ。
――この世界には治療の魔法もありましたっけ――
アクゼリートの世界の住人にとっては、ありえないセリフ。危険の多いこの世界に於いて、治療の魔法は命綱だ。青の教会はベルフラムが先日語ったように、広く広まっている。
「来訪……者……」
この言葉を再び負の感情で呼ぶとは思ってもいなかった。
よろめきながら膝を立てるベルフラムの心に焦りが広がる。
『来訪者』が相手だと、自分の魔法も敵わないかも。そんな弱気を振り払って、ベルフラムは皆が助かる道を必死になって探る。
「取引――と行かないかしら?」
探った末に見つけた答えは、酷くか細い橋だと感じた。
しかしそれしかないならベルフラムは迷わず選ぶ。
先程まで立つことも億劫に感じていた体を、残った力全部を使って奮い立たせ、ベルフラムは再び立ち上がると、余裕を装い片目を瞑る。
自分の魔法は男を倒す事は叶わなかったが、無傷と言う訳でも無かった。
そして治療の魔法を使えるにも関わらず、自分にその力がある事すら気付いていなかった。
この男はまだこの世界に来て日が浅い――ベルフラムはその可能性に賭ける。
「はぁ~? 取引ぃ~?」
「そうよ。私は大人しく捕まってあげるから、そこの二人は見逃してくれない? 王子様も言ってたでしょ? 邪魔なのは私と聖女だけだって。今のは手加減してたけど、次は本気で行っても良いのよ? 今度は……火傷じゃ済まなくなるけど」
怪訝気に片眉を上げた男は、続くベルフラムの言葉に悩む素振りを見せる。
自分の体が限界に近い事は絶対に悟られてはいけない。ただ、その可能性は高くは無い。
目の前にいるというのに、男は全くベルフラムを見てはいない。苛立ちを覚える人を人と見ない目だが、今のベルフラムにとっては、それが何より重要になる。
この場を逃げ切るのは不可能に近い。
まだ魔法に慣れていないであろう、男でもベルフラムの最大の魔法を難なく防いで見せている。
だが、一度味わった痛みは男に命の危機を知らせた筈だ。
捕まってもいきなり殺される事は無い筈――。
ベルフラムは僅かな可能性を、幾つもの言葉で補強する。
王族達が語った言葉を考えるに、人と違わぬ『
(青麦……。大丈夫よね? 私も結構色々食べて来たし! ここ2年病気になってもいないし!)
レイアの異常さに霞んでしまっていたが、自分も結構丈夫になったと感じていた。
レイアがポロッと溢した言葉を見るに、死の危険性が無い毒物は、調味料として使われていた可能性もある。
(クラインだって、自分で一度青麦を食べて解毒を証明してみせたんだから……きっと……)
青麦を「ふわ~とする」と暢気に語っていたレイアは勿論大丈夫だろう。
心に影を伸ばす暗い予感を無理やり払い、ベルフラムは己で立てた希望を支えに一歩踏み出す。
「そ、そう言えば、言ってたかなぁ? まあノヴァくんも一番の狙いはお前だって言ってたし……ま、まあいっかぁ」
男は保身を選んだようだ。
心の中だけで小さな安堵の吐息を吐き出し、ベルフラムは男が出した黒い扉を潜る。
デンテの泣き出しそうな顔が視界に過る。
「心配しないで、デンテ! でも、レイアとクラインと……クラヴィスも含めて、後でお説教よ!」
ベルフラムは親指を立てて笑って見せる。
何度も心配する自分達を、最後には絶対安堵させてくれた男に倣って。
自分は何も諦めてはいない――その意思を込めて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます