第248話  出航


 オルセー川の水面が朝の光を反射し、世界一面が爽やかな光に包まれていた。

 冷たく澄んだ冬の朝ともなれば尚更だ。

 キラキラと波間を反射する光を浴びて、船首に設えられた白い大理石の女性の像が金色に輝いて見える。


 川面を滑り頬を撫でる風は、肌寒く感じるものだろうが、気温の変化に頓着しないこの男にとっては、心地好いだけの物。

 船に乗っていることを、忘れそうになってしまうほどに、揺れらしい揺れは感じない。ゆっくり、それでいて滑らかに大河を下って始まる旅の出発は、これまで味わった事も無い優雅なものに感じられる。

 船は巨大であればあるほど揺れが少なくなる――そんな当たり前の事も、手漕ぎボートくらいにしか乗った経験の無い九郎は、今日初めて知ったくらいだった。


ウィスティアラリスティアーナさん号ねぇ……」


 眩しく煌めく光に目を細めながら、九郎は言葉を漏らす。

 この巨大な船はアルム公国が所有する唯一の外洋船だという。

 巨大な帆船。三本のマストが高々と聳え、天空に向かって伸びている。川を下っている今はまだ帆が張られていないが、白い帆を掲げて進む巨大な帆船を思い浮かべると、今からワクワクが止まらない。

 歴史の教科書くらいでしか見た事の無い、九郎からしてみれば前時代の遺物のような船だが、教科書の船もここまで大きな物だったのだろうか。そんな思いがふと頭を過る。

 5階建てのビルを優に超える高さ。体育館の中には収まりそうにない広さ。船の半分以上は喫水線の下に沈んでいると言うのに、見下ろす川面は遥か下だという事に圧倒される。


 ――ウィスティアラは母上の姓でして、昔は淑やかだった・・・と謂われている母上のように平穏な旅をと願って付けられた名なのですが……、現在いまの母上を象徴していないか心配です――


 少し苦みの混じった表情を浮かべて語っていたルキフグテスの顔を思い出し、九郎も苦笑を浮かべる。


 船首に設えられた大理石の女性の像の蟀谷からは2本の羊に似た角が生えており、朝の光の中で見ると金色に光り輝いて見える。ルキフグテスの母リスティアーナの若かりし頃をモデルにしたと聞いた時は、「昔から美人だったんだな……」くらいの感想しか思い浮かばなかったのだが、彼が暗に心配していたのは彼女の今の2つ名からだろう。

 淑やかな見た目に反して、アルム公国第二位の実力者。『金羊の魔女』。雷を繰り出す彼女の現在いまを知っていれば、確かに不安にもなる。雷は嵐を想像させ、これから大海原に繰り出す船には、いささかそぐわない名前にも思えるからだ。


(マジ蒸発するかと思ったもんなぁ……)


 彼女の巨大な落雷を思い出すと、自然と冷や汗が流れる。

 一応の婚約が成された事で、九郎も身内と言う意識があるのか、アルム公国の格言である『ソレはソレ、コレはコレ』が適応されたのか、九郎も彼女の雷を経験していた。カクランティウスに連れられ、下町で飲み明かし、朝帰りした時の事を思い出すと、『不死者』と言えども顔が引きつる。


 彼女の内面に秘められた恐ろしい実力を表すかのように、この帆船も只の船では無かった。

 両側面に隠された各18門の大砲。展望台に備えられた双眼鏡のように、甲板に等間隔で並ぶ機銃のようなもの。魔法と言う攻撃方法が存在しており、銃火器は伝わっていても左程脅威と見なされていないこのアクゼリートの世界でも、確実に脅威となるであろう巨大な火砲や、針鼠のように周囲を威嚇する小火器。広い海原に生息する、様々な魔物に対しての備えと聞いている。

 いくら魔法が強力と言っても、海の魔物に対して炎の魔法や風の魔法は効果が薄いそうで、効果の望める土の魔法はそもそも大地が遥か海の底にある。結果弓や剣くらいでしか対処法がなかったそうだが、それを補う為の物だと言っていた。


 この船は商船なのだそうだが、完全に軍艦だろう。「今のリスティアーナさんにぴったりですね!」とは、口走れなかったが……。


 そして、それ以上に異質な感じを齎しているのは、帆船の形をしているのに存在している巨大な煙突だろう。


 ――コレが無ければ、我が国は大洋を渡る船は持てなかったでしょう――


 九郎はまだ火の入っていない蒸気機関に目を向け、ルキフグテスのしみじみとした感慨深い表情を思い出す。


 このアクゼリートの世界ではまだ帆船が主流だが、それだけでは大海原を渡る事は出来ない。

 ケテルリア大陸とハーブス大陸の間の大海原には、『深淵』と呼ばれる大海溝が走っており、それが海に流れを作っていた。

 春先から吹く南西の風を受け、北上しつつ『深淵』の影響が少ない場所を通って航海するのだが、風も絶えず吹いている訳では無く、風の魔法で帆船を動かす事も出来るが、巨大な船を動かすには相当量の魔力が必要であり、それをずっとなど行えるはずも無い。風の吹かない海に漂うだけならまだマシだが、その場合徐々に『深淵』に引き込まれ、最終的には海の藻屑と散ってしまう。


 そうならないようにするにはどうするのかと言うと、アルム公国以外の船は、オールを使うそうだ。

 単なる手漕ぎで済むのなら、アルム公国もそうすれば良いのにと思うだろうが、単純そうであってもその実態は過酷な現実が待ち受けている。他国の船は地球の歴史上の言葉で言えばガレー船だった。


 大勢の奴隷を使い、絶えず巨大なオールを動かし、『深淵』に引き込まれないようにしているのだと言う。

 裸の男が何十人と犇めき合い、身をよじる隙間も無い場所で、ひたすらに腕を動かし続ける。ミスラ辺りが喜びそうな光景だが、腐女子の彼女でもそんな想像は出来ないと言わしめる、悲惨な状況。糞尿は足元の壺しかなく、蚤や虱は蔓延し、力尽きた奴隷がバタバタと死んで行くような地獄がそこに在るのだと言う。


 奴隷制を敷いていないアルム公国では、その手法は取れない。もとから虐げられていた者達の国であり、強靭な者が多くても、人口自体は少ない小国。人的資源の乏しいアルム公国は、長らく大洋に出る事は出来なかったと言う。

 だが三葉の齎した新たな知識が、アルム公国も交易船を持てるようにした。

 蒸気機関と言う、この世界に於いては何世代も未来の知識を得た為、アルム公国も大洋へと繰り出せる力を得たと言う訳だった。


 そんな巨大な船に乗り込み、新たな旅路につくのだから九郎の男心は嫌が応にも昂ぶる。これからシルヴィアと言う恋人の元へと向かうのだから尚更だ。


 ミスラの『エツランシャ』でシルヴィア達がまだ九郎を捜してくれている事が分かっていた。

 3年以上もの間、九郎を捜し続けていた事にも頭が下がる思いだが、忘れられていなかったと言うその一点だけでも、九郎を高揚させるには充分なもの。懐かしい仲間の顔や恋人の顔を思い浮かべると、自然と頬も緩むと言うものだ。


(浮気者って言われっかなあ……。発破を掛けられちゃいるけど、女心は複雑だかんなぁ……)


 緩んだ頬を僅かに歪ませ、九郎は彼方遠くを見やる。

 愛し合う為には多くの女性に抱かれたいと思われなければいけない身。しかし、本当に納得してくれているのかと言う不安は常に付きまとう。


 森林族のシルヴィアは九郎とは違った倫理感を持っており、そもそも長い時間を生きる森林族は、生涯で何人もの伴侶を得るのが普通の事だと聞かされている。このアクゼリートの世界では重婚も普通の事である事も分かっている。それでも男を独り占めしたいと思うのが女性の本心では無いだろうか? そう思うと自分の現状に眉が下がる思いがする。


「姉さん、大丈夫だよ? ほら、凄い景色! 周り全部水なんだよ?」

「ばっ! お、落ちたらやべぇだろうがっ!? み、水でも埋まっちまうんだろ?」


 少し離れた場所で、リオとフォルテが仲良くじゃれ合っていた。水に埋まると言うのも面白い表現だが、生まれてから殆んどの時間を砂漠の街で過ごしており、大量の水を砂漠のように捕えているのかもしれない。手摺りから身を乗り出そうとするフォルテをリオが必死に引っ張っている。

 巨大な建造物が水に浮かんでいると言うそれ自体が不安を抱かせるのか、リオは顔を青褪めさせているが、物怖じしないフォルテは気にした様子を見せていない。


 元奴隷の姉弟を伴って再会したら、何と言われるだろうか。奴隷と言う身分をシルヴィアが忌諱するとは考えられないが、肉体関係を持ちたいと思っているのが弟の方だと知れたらと思うと、今から気は重い。

 最近周りはそう言う類の罠ばかりだが、九郎は未だにノーマルだ。見た目美少女でもフォルテは男であり、九郎のクロウが反応したことは……無い筈である。

 九郎にとってフォルテは、慕ってくれている(九郎とフォルテで意味が違っているが)弟分といったところか。

 シルヴィア以上にファルアやガランガルンにひたすら弄られそうな気もする。


(リオは……俺にとってどういう立ち位置なんだろうな……)


 必死に弟に抱きつく情けない姉を見ながら九郎は自問する。

 ――ダチの体で付いて来てくれ――そう言ってはいたが今の九郎にとって、リオは手のかかる後輩といったところだろうか。

 口は悪いが臆病で弱々しいリオ。見た目気が強そうなのに、何にでも怯える彼女。

 もともと『不死者』であり、九郎の欠片を持つ事で全快状態を維持しつづけられるアルトリアやミスラは、戦闘の面では九郎よりも遥かに強い。比べてリオは九郎よりも遥かに弱い存在だ。野盗の奴隷だった過去もあり、ある程度ナイフの腕は持っていたが、それでも殆んど無力と言って良い。

 そんなリオだが、強さの面ではまだまだな部分の多い九郎にとって、最近彼女は研鑽の原動力となっていた。

 言い方は悪いかもしれないが、自分よりも弱々しい少女というのは、男の庇護欲を掻きたてられるのだ。


(それに……最近みょーにしおらしかったりすっから……)


 男性恐怖症のリオは男に自ら触れようとはしない。なのに時折、自分にだけは距離を詰めて来る。

 それがどういう心境からきているのかは分からないが、美しい少女にとって唯一の特別な存在であるという事は、男心を大いに擽る。誰にも懐かない野良猫が、自分にだけ寄って来るような気分だろうか。


 惚れっぽいのを自覚しながらも、九郎は心の中で言い訳する。

 暴力の伴わないツンデレの破壊力は、想像以上だ――と。

 今はまだ九郎も気を使っている部分が多く、自ら迫ったりするつもりは無いが、向こうから来られたら一気に絆されてしまいそうで、ほとほと女好きの業は深い。


「ふわぁ……!」


 自分の気の多さに少し辟易した九郎の耳に、間延びした感嘆の声が届く。

 アルトリアが、彼方遠くを見つめて頻りに溜息を漏らしていた。船に乗った事も初めてであり、新たな旅路に胸躍らせているのは彼女も同様のようだ。

 進む先を見据える瞳は希望が溢れ、川面と同じようにキラキラと輝いて見える。


(アルトは……大丈夫そうだけど……)


 彼女も九郎と同じく、シルヴィアに会う事を楽しみにしているのは間違い無い。

 九郎以上に九郎の恋人探しに積極的な彼女は、まだまだ肉欲の部分に動かされているようにも見え、男のプライドを刺激してくるが、それは自分の方が彼女に傾倒している自覚があるからだろう。

 アルトリアとはもう1年を超える付き合いであり、同じ『不死者』として、永劫の時を生きるであろう彼女は、何よりも九郎に近い存在だ。他者から恐れられる事を恐れ、有限の命を自分よりも大切に想う。化物である自分を認識しながら、それでも人であり続けようとする鏡のような存在。

 彼女の方は問題無くシルヴィアを迎え入れてくれそうだが、果たしてシルヴィアが彼女を認めてくれるかどうか――不安は尽きない。


「も~……。まだ良いけど、海に出たらちゃんと中で大人しくしててよ? 海って塩水なんでしょ? ナズナ萎びちゃうよ?」


 別れの最後、自分の異形をあれだけさらして、それでも尚自分を探してくれているのだから、きっと大丈夫と自分に言い聞かせていた九郎の耳に、身悶えそうな単語が飛び込んできた。

 目を伏せながらアルトリアを覗き見ると、彼女の胸からはアウラウネのナズナが生えていた。九郎は居た堪れない気持ちと共に、視線を川面に移して項垂れる。


 九郎の行き場を無くした性欲が形を成したかのような存在であるナズナだけは、何とかしないとと言う思いが強い。しかし、そうは思っていても扱いには大いに困っていた。

 ナズナは緑の神の眷属とも言われるだけあり、転移の能力を持っていた。置いて行けばアルム公国にとっても有益なのは分かっているのだが、自分のオナネタを許嫁の実家に置き去りにするのは流石に出来ない。許嫁の実家を飛び回る自分のオカズ黒歴史。そのままにしておくなどとんでもない。


 しかしだからと言って処分することも躊躇われる。

 九郎は今でも野菜の類としてしか認識していないが、ナズナの見た目はあどけない幼女であり、絵面を考えるとどうにも手が鈍る。それに人としての愛着は感じなくても、オカズとしての愛着があった。ナズナも九郎を『育て主』として認識しているのか、懐くような素振りを見せている。

 結果こうして旅に持って行くことに決まった。旅にオカズを持ち歩くのもそれはそれでどうかとも思うが、幸か不幸か九郎の仲間達は皆九郎の痴態に慣れており、まだマシかと考えての事である。


 体を腐らせ苗床にする事が出来るアルトリアを気にいったのか、最近彼女の胸に植わっている事が多いナズナを見つけて、九郎は眉間に深い皺を刻む。自分のオカズを胸に挟む美少女。殺しにかかって来ているとしか思えない。

 最近節操なしなのは上も下も同じかよ!? と惚れやすく昂ぶりやすい自分を叱咤した九郎は、ナズナを見ながらふと思う。


(ぜってぇ引かれて婚約解消とか言うと思ってたんだが……)


 ケツの穴を晒す以上の黒歴史を披露してしまったと言うのに、ミスラはそれまで以上に九郎に好意を示していた。これには九郎も完全に予想外で、戸惑っている部分の方が大きい。

 九郎とヤルことしか考えていないアルトリアや、九郎に惚れている訳では無いリオが気にしないのは一応分かる。同じ男として、フォルテはもとより、アルフォスやベーテ、それに意外な事に龍二までもが理解を示してくれていた。しかしミスラは、生まれながらに王族であり、もっと非難されると思っていた。


 なのにミスラの態度は、九郎の予想とは真逆だった。

 腐女子を拗らせすぎるとダメ男が魅力的に映るのだろうか――自ら晒した醜態をプラスに受け止める者が、アルトリアの他にいるとはと九郎の心中は複雑である。

 とは言え、絶世の美少女が浮かべる慈しみを持った笑顔に、ドキリとさせられるのは本音であり、嗜好その他いろいろ残念な部分を差し置いても、ミスラはそれを補って有り余るほどの美少女。好意を示され続ければ、女好きの九郎が絆されるのも時間の問題かとも思えた。

 

 川面を眺めながら、「……ダメンズウォーカー?」と呟く九郎の耳に、思い浮かべた少女の声が届く。


「お父様はもっと情に熱い方だと思っておりましたわっ!」

「一度言い出した事を引込める事が出来なかったのですよ、陛下は……」


 一人甲板には姿を見せていない少女。ミスラの癇癪めいた嘆きの声が、船室から響いて来ていた。


(カクさん……強情なとこあっからなぁ……)


 日の出る前の出航時、王族や家臣たちが見送る中にカクランティウスの姿は無かった。

 ――旅に出るには自分を倒してから――そう言ってミスラを鍛えていた手前、引っ込みがつかなくなったのだろう。最後の別れと言うわけでもないが、旅立つ際に姿を見せないのは少し薄情かとも思う。

 しかし九郎はカクランティウスとも1年以上の付き合いであり、彼の心情も慮れるような気がした。


 きっと彼は涙を見せたくなかったのだろう。これから旅立つ娘に不安を抱かせないよう、そして強い父であり続ける為に。

 最後の見送りには姿を見せなかったが、送別の晩餐の時、九郎の仲間達にそれぞれミスラの身の安全を頼んでいたのを九郎は知っている。


(カクさん酔っぱらうと涙もろいかんな……)


 同じ『不死者』と言っても、『吸血鬼ヴァンピール』は酔っぱらうのかと、驚いていたのが遥か昔に思えて、九郎は苦笑を溢す。

 九郎はそれ以前からカクランティウスとは下町で飲み歩いており、以前から彼の心情の吐露を聞かされていた。カクランティウスも九郎を嫌って結婚に反対している訳では無い事は、既に気付いている。

 性格が似ていると互いに感じる者同士。気が合わない筈は無く、互いに恩義を感じている身でもある。

 ミスラの件が無くても、九郎は既にカクランティウスの背中に父親の頼もしさを重ねており、それが理由で婚約を承諾した部分もあった気がして、少し気恥ずかしい思いが込み上げて、九郎は頭を掻く。


「それに陛下は見送りに来られていたではないですか? あの最後、出航の際に上がった花火は、きっと陛下が用意したものですよ」


 ミスラの従者、クルッツェの宥めるような声。城の裏手、ミスラの屋敷の方から上がった、赤と青の花火を思い出し、九郎も一人頷く。

 ミスラの両目と同じ色の花火が、白んだ空に上がった時に「なんとも粋な計らいだ」と九郎も感心したものだ。

 父である前に王――しかし王であっても父。そんな彼が溢したセリフが不思議と思い起こされた気がした。

 クルッツェの言葉に、部屋の中からミスラの押し黙る声が聞える。彼女も気付いていたと認める沈黙。


(言っても箱入りのお嬢様だかんな……)


 きっと寂しさを紛らわすための文句だったのだろう。そう感じて九郎が息を吐いたその時、部屋の中からはミスラの新たな叫びが聞こえてきた。


「いつからですのっ!? いったいいつからっ?!」

「最初から申していたではありませんか。私は陛下の代から仕えていたと……」


 カクランティウスの見送りへの文句は、これを紛らわす為の物だったのかも知れないと、九郎は苦笑を溢す。


(ルキさん……良い顔してたなぁ……)


 自ら晒した黒歴史に身悶えている九郎と同じく、ミスラも出航してからずっと兄の餞別に身悶えていたのかも知れない。


 優しい継母達と抱擁を交わし、タラップに乗り込み少し涙目で手を振る美しい姫君。少し寂しそうな表情で、父親の姿を探す儚げな少女。彼女の残念な趣味嗜好を知らなければ、純真無垢で可憐な少女の旅立ちとして、完璧とも言える別れの演出だったに違いない。最後の最後にルキフグテスが叫んだ、航海に赴く妹に対しての見送りの言葉がなければ……。


 ――クロウ殿。ミスラを宜しくお願いいたします。ミスラ! 其方は人の裏を暴くことに長けているが為に、謀られる事に慣れていない。くれぐれも気を付けるようにな!――


 これだけであれば、心配性の兄の妹に向けたエール。ミスラもルキフグテスの言葉に、目端の涙を拭い、精一杯の強がりの笑顔を浮かべ、健気な妹で通せただろう。

 しかし、最後の最後。ニヤリと笑ってルキフグテスが言った、彼女の従者への激励の言葉に、それまでミスラの周囲を彩っていた『感動の別れ』の空気は、ガラガラと音をたてて崩れ落ちたかのようだった。


 ――アルフォス、ベーテ! 其方らはもう奴隷ではない。我がアルムの子であることを忘れるな。時に厳しく妹を支えてやってくれ! クルッツェ、ミスラがアルムの恥を振り撒かぬよう、気を配ってくれ!――

 ――…………へ? ――


 それはそれは間の抜けた感が漂う声だった。

 甲板の手摺に身を乗り出し、赤と青の両目を限界まで見開いたミスラの顔は、彼女が今まで過ごしてきた人生の中でも、一等の驚き顔だったに違いない。


「それは知っておりましたけどっ! お兄様はなぜあなたを認識できたのですの!? クロウ様に助けを求めた時も、アナタは攻撃性を持たなければ認識されていなかったと申していたではありませんか! そこをハッキリしてください、クルッツェっ!」


 ミスラが悶えているのは、彼女の長年の従者クルッツェを、ルキフグテスが認識していた事を知らされた為だった。

 ミスラが白の魔法でその力を強化しなければ、本来『死霊レイス』である彼の姿は他の者には視認できない。長年付き従ってくれている従者にしか見せていなかった、幼少の頃からの数々の失態も、実はルキフグテスは知っていたと気付かされ、ミスラは身悶えていた。

 常日頃は凛と澄ました顔をしているミスラがこれ程狼狽える黒歴史が何なのか――知りたいような知りたく無いような、怖いもの見たさが九郎の心で首を擡げる。


「私は『死霊レイス』としてでは無く、『追随する者フィルギア』としてこの世に存在しています。『幽霊ゴースト』の多くがそうであるように、『死霊レイス』も場所に残った魂の残滓。レスター殿達も、礎の碑の近くでしか行動できないでしょう? 私が姫様に付き従って城を出れた時に、私の正体はばれてしまったと思っていたのですが?」

「それはさっきも聞きましたわ! あなたは場所では無く、人に取り付く存在なのだと! ですが、それとあなたをお兄様が認識していたのは別の問題ですわ! 敵意を抱かない相手には基本見えない筈のあなたが、ルキお兄様にはずっと見えていたような口ぶりでしたもの。その理由が肝心なのです!」


 半ば八つ当たりのようなミスラの問いに、クルッツェの一瞬怯んだような呻き声がきこえ、その後「これは……姫様の衰弱に気付けなかった私への罰なのでしょうか……。しかしっ……殿下も道連れになることは分かっている筈っ! 自分が傷つく事を厭わないのは、今も昔も変わっておられないのですね……」と言う、クルッツェの独白がきこえてくる。


「何を一人で納得しているのですの? もしあなたがずっとお兄様に敵意を向けていたのだと言うのなら……」


 羞恥に身悶えていたのも確かだろうが、ミスラはそれ以上に自分の従者が国の跡継ぎに対して敵意を持っていた可能性に思い至り、自分でも訳が分からない感情に振り回されているようでもあった。

 若干剣呑な雰囲気を漂わせた声色に、九郎は壁に耳をそばだてたまま、飛び込むかどうかを考え始める。壁の奥でクルッツェの諦めたような独白が始まっていた。


「私はルキフグテス殿下の教育係として潜り込んだ……暗殺者でした」


 初っ端から思いがけない言葉が飛び込んできた。思わず声を漏らしかけた九郎の耳に、ミスラの槍を手探る音が聞こえる。

 慌てて九郎は、ミスラに預けた自分の欠片に意識を切り替える。直ぐにでも飛び出せるよう、慎重に耳を欹て気配を伺う九郎の耳に、クルッツェの独白は続く。


「殿下は姫様もご存じのとおり、武力に於いての才能はありません。それに当時はまだ幼子。仕留める事は容易い相手でしたが、それだけ弱い王なら後を継がした方が余程有益――私の当時の雇い主はそう考えたようです」


 愚鈍な次期王なら、そのまま王座をついで貰った方が与し易い。そう考えた雇い主の所為で、クルッツェの奇妙な生活が始まったのだと言う。

 力は強くても魔力の乏しい『鬼族オーグル』の王子。

 しかしルキフグテスはクルッツェの予想を遥かに超えた努力家だった。寝る間も惜しんで研鑽し、勉学に励み、常に国家の繁栄を願っていた。


「姫様……絶対に誤解しないでくださいね!? 頼みますよ!? ああ……足が震えて来ます……。重さも感じ無い身だと言うのに……」


 徐々に声を窄めて行くクルッツェ。何がそんなに怖いのかと、九郎が訝しんだ次の瞬間、九郎の背筋にも冷たい汗が流れていた。


「絆されたのですよ……有体に言えば。ひたすらに民と国家を憂い、自らを粉にして働く殿下に……。同時に強い恨みも持ちました。これ程の王族が何故、人族の、私の故郷には現れないのかと……」


 暗殺者、クルッツェの身の上もかなり悲惨なものだったようだ。

 幼少期の飢えや暴力。組織に拾われ暗い血の海に沈む毎日。その中で目にした、忌諱すべき者として考えられてきていた『魔族』の王子が、ただ一人クルッツェが見つけた希望の光でもあったのだ。


「それで……あなたは」


 ミスラの喉が動く音が聞こえる。


「嫉妬心から私は殿下を恨み続けた。しかし、同時に見つけた希望の光です。手に掛ける事も出来ず……私は自ら毒を煽って自害し、気付いたらこの姿になっていたと言う訳で――」


 ルキフグテスに対し強い恨みと憧れを同時に持って死んだ結果、クルッツェは『追随する者フィルギア』となってしまった。絆された結果、敵意は持っていてもそれ以上に彼はルキフグテスを尊敬していた。それこそ自らの命を絶つまでに。

 彼はずっとルキフグテスを守り続け、妹の身を案じた兄は、自身を守る事より妹を守ることの方が余程大事と、彼をミスラの従者に据えた。霊体を見れるのは王族の中では自分だけと思っていたミスラは、城を彷徨っていたクルッツェを偶然見かけて従者にしたと考えていたようだが、実はそこからルキフグテスの手が回っていたと言うのが真相のようだ。

 隠し事を暴く事に長けているミスラのみが、隠し事を隠し通せる現状を、ルキフグテスは憂いていたとも考えられる。

 この妹にしてこの兄ありと言ったところか。

 暗殺者を与して来た歴史は流石と言うか何というか――九郎は敵を取り込むルキフグテスに、呆気にとられながらも賛辞を贈る。


「素晴らしいですわっ!」


 部屋の中ではミスラの弾んだ声が響いていた。


「姫様っ! 決して邪推しないよう、お願い申したではありませんか! 私と殿下は決してそう言った仲では無く……」

「ああっ、分かりますとも。殿方が殿方に惚れる……これこそあるべきびーえるの姿ですわ。あなたとお兄様の間には複雑に絡まった、愛情と嫉妬があるのですのよね? 貴方は霊体……もう愛し合う事は出来ないけれど、それでも重なり合いたいっ! きゃ~! いけませんわっ、わたくし、クロウ様が一番受け受けしいと思っておりましたのに、お兄様も中々隅におけませんものっ! でも……お兄様とクロウ様ではどう考えてもお兄様が攻め。はっ!? もしかしてクルッツェ? あの時クロウ様を襲ったのはっ……嫉妬!?」

「違いますっ!」


 意識を肉体の方に移し替えた九郎の耳に、二人の歴史を汚すであろう、あまりにあんまりな邪推の呟きが聞えていた。早口で自分の脳裏に浮かんだ妄想を口走るミスラから、今は遠ざからなければならない。

 直観的にそう感じた九郎の耳に、不吉な単語が届いていた。


「と……トコロテン……」


 何をどう考えてその単語を口にしたのか、問い詰める勇気は九郎には無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る