閑話   不死者のはらわた

第244話 閑話 かくしごと


 アルム公国王城、ペテルセン。その日城内では一つの噂話が持ち上がっていた。


 噂の出所は誰だか定かではないが、ペテルセン城の廊下を歩いていた女中メイドの一人だと言われている。

 廊下に飾られた花瓶の棚の奥で動く影を見つけ、ふと気になって覗き込むとまだ立ち上がって間もないくらいの年齢の全裸の幼女が見上げていたと言うのだ。

 肌は血のように赤く、髪は深い緑。瞳は白目の部分は無く翠玉エメラルドをはめ込んだかのよう。

 王城と言う空間に迷い込んだ不思議な幼子は、女中が息を飲んだ瞬間、忽然と姿を消したという。


 どこにでもある、怪談奇談の類ではあったが、それでも閉ざされた王城という空間の中での話題として盛り上がる。

 ペテルセン城は装いこそ立派だが歴史ある古い建物。城の中に『死霊レイス』が蠢いているとの噂話や、時折何も無い場所を這っている蛆虫などの噂話と同じように、怖い物見たさの女中メイド達の茶飲み話として供され始めていた。


「きっと城の誰か……近衛騎士ウーゴ様が人知れず産んだ子供の霊だわ」

「あのお局様が? ありえないでしょ。それよりも緑の髪色と白目の無い瞳から考えて、ベガーティス様が女中メイドの誰かを手籠められたのでは?」

「あら? ベガ様は女性には興味が無く、最近この城の食客となった隣国の『勇者』と毎夜戯れていると聞きますわよ」


 異形の姿の赤子と言えど、この城は『不死の魔王』のおわす場所。

 魔族というもとから人族とは違うが故に、虐げられて来たり奇異の目で見られる過去を持つ女中達。

 その会話の怖い物見たさの意味合いは、少し違っていたが。



☠ ☠ ☠



 そんな噂話が囁かれるようになってから、数日。


「「ごちそうさま……」」


 しょんぼり――その言葉がこれほど似合う形容詞はそうは無いと感じる、消沈した声が重なり食堂に響いていた。


「どこか具合が悪いのでしょうか? お嫌いな食べ物でも出してしまったのでしょうか?」

「あの二人が? アルト姉はともかく、クロウはそれこそ、食いモンだっつったら石でも食うだろ?」


 肩を落としたまま食堂を後にした九郎とアルトリアの背中を眺めながら、ミスラは首を傾げた。

 元奴隷や平民と食卓を同じにするなど分別を弁えろ――と言い咎める者はアルム公国では少数派だ。ケテルリア大陸北東部の国家の中では古い部類に入りかけているアルム公国だが、実際はまだ一代目の新興国。王家の意識は国家をよりよくしようと言う情熱に傾けられており、貴族意識は義務感に依る所の方が大きい。国王からして趣味が下町を飲み歩く事なのだから、さもあらんだ。


 これから共に歩いて行く面々と少しでも仲良くしようと、ミスラは食事も度々九郎達と取る事にしていた。ミスラとしては主従関係の伴わない人間にどう接して良いか分からず、踏み込む境界線を見誤っていたり、(見た目)同年代の女性の友人と言うものにはしゃいでしまった部分があったり、利害関係を含む色々な思惑があったりと、様々な要因もあったが、一番懸念していたリオも最近素で接して来てくれるようになってきており、嬉しく感じていたりする。


「心配ですわ。わたくし、アルトリアさんの様子を見て参ります」

「では我々は少しクロウをつついてきます」

「良い言い回しですわ、アルフォス。こんな短期間でわたくしの好みの言葉遣いを習得するとは……。これからもわたくしの近従を宜しくお願いしますわね」

「お褒めに預かり光栄ですが……全く嬉しくございません」

「未だに姫さんの言ってる事が分かんねぇ……」


 一行の中心人物二人が消沈している様子に、ミスラは席を立ち給仕に勤しんでいたアルフォスとベーテに目くばせする。フンスと鼻息を荒くしたミスラに、リオが頬杖をついて眉に皺を刻んだ。


☠ ☠ ☠


「アルトリアさん、少しお話しませんか?」

「ミスラさん……」


 急いで後を追ったミスラは、ドレスを摘まみあげながらアルトリアの背中に声を投げる。

 振り返ったアルトリアの顔には、泣きはらしたような痕が残っていた。


(アンデッドのアルトリアさんに涙の痕……。ずっと泣いていたのでしょうか……)


 アルトリアの顔を見てミスラは若干狼狽える。


 ミスラは『エツランシャ』の力で、アルトリアが『魔死霊ワイト』と言う事までを突きとめていた。

 小さな会話から糸口を探り、出身地を探り、隣国の伝承や歴史を探し、彼女の正体を突き止め、呆気にとられて絶句した。慌ててカクランティウスに確認しに行き、目を逸らされた事からも間違いないだろう。

 これに関しては秘密にしていた父カクランティウスを責める気は無い。事実ミスラもそれを知ってから彼女の正体に言及したことは一度も無い。聡い兄のルキフグテス辺りも気付いていそうだが、兄も彼女に関しては知らない振りを決め込んでいる。「知らなかった」で通すしか道が無いのが現状なのだろう。

 『魔死霊ワイト』が国に紛れ込んでいると知れれば、混乱は必至。父のアルトリアへの態度からして見ても、『不死の魔王』と名高い父でも敵わない相手であることも間違い無い。


 そんな伝説級の化物――が理由でミスラは狼狽えていた訳では無かった。

 話せば話すほど、仲良く成れば成るほど、アルトリアの性根の平和っぷりに気が緩む。リオやフォルテ、アルフォスやベーテといった元奴隷達から、ある種神のように接せられてむずがるような素振りを見せたり、繕い物や掃除など、何かにかけて働きたがることからも、朴訥とした性格が伺えてしまう。

 噂に聞く『魔死霊ワイト』の『吸収ドレイン』。『死霊レイス』を従えるミスラにとっても、未知の領域の死の触れ合いも、アルトリアは一度も行っていない。

 そうなると逆に興味が湧いて来て、更に知りたいと思ってしまう。ミスラが白の魔法、所謂光の魔法に長けており、また死霊魔術師ネクロマンサーとしても高い実力を持っていたのも理由だろうか。


(いえ……そんな下世話な思いではありませんわ!)


 そこまで考えてミスラは心の中で首を振る。

 年がら年中屋敷に引き籠り、情報収集という仕事や趣味の時間にかまけていたミスラは、『エツランシャ』の『神の力ギフト』のおかげで、見分だけは人より遥かに得ていたが、こと人付き合いに関しては素人同然だった。常に弱みを握る側だった事もあり、対等な人間関係に気後れしてしまっていたに過ぎない。


(ですが、またとないチャンスですわっ!)


 そしてミスラはそこで怯むような性格では無い。私生活は引きこもりであっても、ミスラは攻めっ気の強い性格だ。初めての悩み相談と言うイベント。女性同士のお茶飲み話に心のどこかでスイッチが入った。


 国の内外を問わず、隠し事を暴く事にかけて右に出る者がいなかったミスラにとって、本人の口から零れる悩みというものは、なかなか聞ける物では無い。

 噂話で盛り上がる女中と同じく、ミスラは女子トークに憧れていたのだ。


「何かお悩みのご様子。丁度良い茶葉が手に入りましたの。わたくしこれでも知見だけ・・は自信があります。何か力になれるかもと思っておりますわ」

「……ほんと?」


 務めて優しく微笑むミスラに、アルトリアはくしゃっと顔を歪めた。

 その顔は藁にも縋りたい思いが溢れていた。



☠ ☠ ☠



「いくしっ! 風邪かな? 『蛇頭族メディム』にも他の魔族同様、冷気の耐性があればいいのに……」


 廊下を歩いていたアルム公国第二王子、ベガーティスは鼻を擦って一人言ちる。

 ありえもしない噂話が広がっているとは露と知らない彼は、急ぎ足で廊下を突き進むと、一つの扉の前で立ち止まり、ノックもせずに扉を開く。


「兄上! また私の大事な『魔導書』を持ち出しましたね!? あれは冬の新書であり、数も出回っていない貴重な物なのです! いくら兄上と言えど、無断で持ち出すとは……」


 扉を開いた勢いでまくしたてたベガーティスの目の前には、悪い顔をした兄ルキフグテスと、ついこの間城に攻め入って来た暗殺者――『勇者』龍二の姿があった。


「ベガ、お前は前の時、殆んど役立っていなかったではないか。その分、財を接収されるのは当然であろう? ルクセンでも日和見を決め込んだ貴族達は財を接収されていたではないか?」

「私は私で動いておりました! ミスラや兄上が突飛も無い行動に出過ぎるだけです!」


 来る事も予想済みとでも言わんばかりに、涼しい顔でルキフグテスが答えてくる。

 対して龍二は微妙に引きつった笑みで、両手に持った書物とベガーティスを見比べ、所在なさ気にしていた。


「こ、これ、ベガさんのやったんや……。ほな、悪いし……」


 何とも気恥ずかしそうな顔。

 両手で抱えた数冊の本を、おずおずと差し出す少年に、ベガーティスは渋面する。


「何を言われるか、リュージ殿。これは、私からの賄賂であり、何の遠慮もいりません。さあさ、お納めください」

「それは私のです! 兄上!」

「こんなはっきりと賄賂て言いながら贈り物言うヒト、初めてやわ……」


 とても良い感じに悪い笑顔で龍二が差し出す書物を差し戻すルキフグテス。

 心を読む彼に隠し事が通じないのは知っているが、あまりにあけすけで龍二も戸惑っている様子だ。


「我がアルム公国は……特に城内では隠し事なぞ、しても無駄に終わりますからな。ミツハ様とミスラ。二人の『エツランシャ』を擁した我が国では、隠し事はすぐにばれてしまいます。それにリュージ殿にも隠し事は通じぬ。あけすけで良いではないでしょうか?」


 あっけらかんと言い放つルキフグテスの姿に、ベガーティスは眩暈を覚える。

 確かにルキフグテスが言うように、城内に限らずアルム公国は嘘をついたりすることを嫌う風潮がある。

 それは『魔族』という異形の姿ゆえ。隠す事の出来ない特徴を持ち、それが理由で差別されてきた歴史を持つ人々の国。おおっぴらに『魔族』の特徴を晒せるアルムで、自分を偽ることを良しとしないからだ。

 やせ我慢で姿を偽っていた父と妹を持つ身としては、何とも説得力に欠けるが、本当の秘密主義者はミスラくらいなもので、カクランティウスはと言えば、大抵の隠し事は直ぐに暴かれ、王妃達にお仕置きされて終わるのが常。

 その姿を見て来たベガーティスも、裏表の少ない性格だ。ただし兄は少し違う。


「リュージ。騙されてはなりませんよ! 兄上は国の摂政としてはこれほど頼りになる人もおりませんが、決して善なる生き物ではありません! あくどいのです! わるびれないだけなのです!」

「おい、ベガよ! 折角私がリュージ殿を籠絡しようと手を尽くしていると言うのに、無体な茶々入れをするでない」

「ほら、ふつーに籠絡とか言っちゃって! お気をつけなさい! 少しでも気を緩めると骨の髄までしゃぶりつくされてしまいますよ!」


 いきなり始まった兄弟の詰り合いに、リュージは引きつった笑いを浮かべ続けている。

 心を読む事の出来る龍二の前では、隠し事など無いも同然――とも言えないのだが、多くの思考を平行させることで心を読めなくさせるつもりが無いのか、ルキフグテスもベガーティスも思ったまんまにセリフを吐いている。


「リュージ殿? ……それは珠玉の一品と愚弟が申しておりましたよ? 貴重とも……。リュージ殿は隣国で名を知られた『勇者』。財も多く得ているでしょうが、果たしてその財で、この『魔導書』は手に入りますかな?」


 とても良い笑顔で、ルキフグテスは龍二に話を振る。

 龍二は苦しげな顔で「ぐう」と呻いて、顔を伏せる。それを見てルキフグテスは勝ち誇ったように、ニィッと口角を引き上げた。


「父上からもクロウ殿からも聞いておりましたが、これほど効果があるとは。これで我がアルム公国は、一番の憂いである、『来訪者』に対する武器を手に入れた! いや、ここまで見越してミスラがこれを広めたと言うのであれば、私はアレを見直すぞ? なあ、ベガ?」


 上機嫌でベガーティスの背中を叩くルキフグテス。

 ベガーティスは渋面したまま龍二を眺める。兄の馬鹿力で叩かれる背中の痛みで渋面したのではない。なんだかとてもショッパイ思いがしたからである。


「富も地位も得ようと思えば直ぐに得られる。『来訪者』というのはそれだけの力を持っているのだからな。しかし……はははは、リュージ殿も男。……ベガ、すまなかったな。平面の嫁もなかなか使える・・・・・・・らしい」


 顎に手をやり満足気に頷くルキフグテス。

 富でも権力も望めば手に入れられる力を持つ『来訪者』と言えども、手に入らないもの。奇しくもアルム公国のみが持つ、アドバンテージ。アルム公国に氾濫しはじめている『魔導書エロ本』がこれ程『来訪者』に効果的だと言う事に、ベガーティスは何だが遣る瀬無い思いがした。

 以前であれば本自体が貴重品であり、まだ羊皮紙を使っている国々では、確かに本は賄賂に充分成り得る。しかしアルム公国では印刷技術がある程度発達しており、また植物紙を交易品にするくらい生産している国家。それ以上に、エロ本を賄賂に用いる次期国王という絵面に、第二王子として、渋面以外のどんな表情をすれば良いというのか。


 父カクランティウスが、ミスラの婚姻にごねた際に言った九郎の禁忌タブー。それを聞かされてから、ルキフグテスはこの報酬を思いついたようだ。

 自らの命を晒す事で龍二の信頼を得ようとしたルキフグテスだが、彼は信頼だけでも人は動かないと言う事も熟知しており、後詰の手を打っていたのだ。


 ――信頼や情で動く人間は少数だ。信用と合わせて利が無い事には、人の心が離れていく。信賞必罰は王家の嗜み。我が家の家訓、ソレはソレ、コレはコレだ! ――が口癖の兄らしい抜け目の無さ。


 当初は彼と彼の仲間の身の安全――第一王子の食客という立場を与える事で、その信用を積み重ねていたルキフグテスだが、国の事を思えば味方に引き入れた『来訪者』を利用しようと考えるのも当然の事。

 ルキフグテスは龍二の『神の力ギフト』を知っている。また、龍二のいたルクセンが裏の目的を隠したまま、彼を利用しようとしたからこそ、彼が不信感を募らせていた事も承知している。

 だからルキフグテスは悪びれする事も無く、あけすけに利用したいと提案し、その報酬を提示したに過ぎない。そしてその報酬が龍二のクリティカルな部分にヒットしただけだ。


(恐るべき観察眼……)


 ベガーティスは今にも高笑いでもしそうな兄を見つめ、渋面しながら息を吐く。

 人族が言う通りの『魔王』とは、父カクランティウスでは無く、兄ルキフグテスでは無いかと感じていた。王家の種の中で一番才に恵まれていなかった長男が、一番『魔王』らしいと言うのも何だか奇妙な巡り合わせだ。


 龍二の身の周りには、容姿の整った魔族の国でも目を引く美少女達が揃っていた。が、彼の態度が冷たい事から、「女性で繋げる人物では無い」とベガーティスは考えていた。ミスラの趣味――男色とも違う気がして、まだ若いからそっちに興味が無いだけかと思っていた。

 魔族と言う長寿の種族からしてみれば、龍二の16歳という年齢は乳飲み子と変わらず、ベガーティスがそう思ったのも無理からぬことなのだが、ルキフグテスは人族を長年研究してきた人物。その年頃の少年が何を考え、また『来訪者』という平面に慣れ親しんだ者なら、弟のような趣味嗜好と似ているのではと考え、ベガーティス秘蔵の『魔導書エロ本』を贈り物として選んだのだ。


「兄上は……クロウ殿にも賄賂を贈るつもりで?」


 ふと妹の婿候補を思い出してベガーティスは顔を青褪めさせる。自分のコレクションが目減りしていく様がありありと思い描けた。

『エツランシャ』が身内にいるベガーティスが、『魔導書エロ本』を収集するのは、並大抵の事では無い。国内治安維持を受け持っているベガーティスは、市井に繰り出す事は多いが、兄と言う体面もあり、オカズを妹に知られると言う気恥ずかしさは、かなりの障壁になる。

 近衛の中で同士を募り、兵の詰所に秘蔵することで、何とか集めた逸品達。それが無くなる事を想像したベガーティスが恐る恐る問いかけると、ルキフグテスはこれまた悪い顔で微笑んでいた。


「心配するな。婿殿にはそれで解消してもらっては困るだろう? 出来るようになった暁には、ミスラに早く仕込んで貰わねばならぬ。彼は『不死者』故にそちらも強そうではあるが、10人も妻を娶らねばならぬのであれば、機会は多い方が良い。彼が街に出かけている時は、手を回して『規制されて無くなった』ことにしてある。いや、私も中々先見の明があったと言うところか?」


 ベガーティスと龍二は同時に「うわー」と呟き顔を見合わせる。


「しかたありません……。リュージ殿……大切に……使って・・・ください……。あと、時々貸して貰えれば……」

「ああ、うん……。悪いな……」


 互いに気まずそうな口ぶりで、オカズをやり取りする男達。

 気恥ずかしさで背中を向け合う二人を眺め、「ミスラが見たら喜びそうだな……」とルキフグテスが呟き、二人の男の悲鳴が上がった。



☠ ☠ ☠



「こんな事言っちゃうとボク破廉恥だって思われちゃうかもだけど……」


 王女手ずからのお茶を受け取り、申し訳なさそうにしながら、アルトリアは一言前置いた。

 何を今更と思いながらも、ミスラはおくびにも出さず、微笑みを浮かべてこう返す。


「破廉恥……。わたくしも殿方の前で性癖を暴露してしまうという、醜態を晒してしまっていますわ……。その……お気になさらず……」


 ミスラも言って顔から火が出そうになる。

 アルトリアが衆目の前で九郎の顔面に騎乗したのは、二月程前の事。吸血という行為に酔い、ミスラが我を忘れて裸で九郎に抱きついたのが一月半前の事。

 どちらも人前でするべき事では無いと分かっているが、こう言った事は「自分も」と共感に訴えるのが良い切り口だと、ものの本に書いてあった。


「でも……ボク……ボクの……ボクのクロウが……今朝……」


 どうやら本の知識が役に立ったようだ。

 ミスラのセリフに少し心を開いたのか、アルトリアは顔を上げ、涙を一杯に溜めた瞳で、ポツリポツリと語り出した。



☠ ☠ ☠



「ぉはょ~……」


 口の中で朝の挨拶を転がすような小さな声と共に、扉がゆっくりと開く。

 キイとも鳴らずに扉が開いて行くのは事前に油を差していたからだ。

 扉の隙間から一瞬手が伸び、その手が何かを部屋の中に投げ入れる。

 コロコロと転がったそれは、人の眼球だった。床板の上を少し転がった眼球は、薄暗い部屋の中を必死に見渡し、それからドロリと溶け落ちる。

 崩れた水晶体からは極小の蜘蛛がわらわらと湧き出し、扉の外へと戻っていく。


「……ぐっすり?」


 次に部屋の中を覗きこんだアルトリアは、小声で小さく部屋の主に尋ねる。


「やっぱクロウみたいに上手くいかないなぁ……。直ぐ見えなくなっちゃう……」


 片目を押さえぼやきながら、アルトリアは独り言を溢す。

 その手の奥の瞳はぽっかりと穴が開いており、暗い闇があるだけだった。落ち窪んだ暗い眼窩。

 その暗い穴の奥で、血とも肉ともつかない赤い筋が毛糸玉のように丸まり始め――数秒の時の後には紫色の瞳が戻っていた。


 小さなセリフと共に部屋の中へとすべり込んだアルトリアは、胸を押さえながらゴクリと唾を飲み込む。


 覗き込んだ部屋の中は薄暗い。白んだ空の光がカーテン越しに柔らかな色を僅かに透かしているだけで、日の出はまだ少し先になるだろう。


(今日も元気かな~? ボクのクロウ……)


 アルトリアは笑みを浮かべながら、抜き足差し足でゆっくりとベッドに近付く。豪華そうなベッドは村人時代には考えられない弾力をしており、少し手を投げ出すだけでも大きく沈み跳ね返してくる。

 キシと沈むベッドの音に心臓が飛び上がる気がするのは、後ろめたい気持ちがあるからか。

 九郎は睡眠時、外的要因ではまず起きないのは知っているが、それでも緊張してしまう。男の寝ている部屋に忍びこむという言葉だけで、色々想像を掻き立てられ、淫靡な妄想をしてしまいそうになる。


 夜目の利かないアルトリアの目でも、うすぼんやりと九郎の顔が見える。

 時刻は夜明けの少し前。冬場に全裸でいても苦にしない九郎であっても、冬の朝の毛布の心地良さは抗いがたいものだろう。

 平和そうなその寝顔に目を細め、寝息が一定な事を確認して気を引き締め直すと、アルトリアはそのまま乱れた毛布に手を入れ慎重に頭を潜り込ませていく。


(う~……ガマンガマン……)


 意識しないと冷たいままの頬が、無意識下でも熱く火照ってくるのを感じて、アルトリアは自分に強く言い聞かせる。

 夜這い――どう考えてもそうにしか見えない行動だが、アルトリアにはそのつもりは無い。

 アルトリアにとってこの日課は、意気込みを新たにする行為に他ならない。

 綺麗な飾りをショウウィンドウ越しに眺め、金を溜めようと決意する少女のように。目標とする英雄の像を見つめ、自分を鍛える少年のように。聳え立つ山を前に、向こうには何があるのかを夢想する旅人と同じ。

 目的は性的欲求ではなく、生理的な作用モーニング聳え立つスタンダップする山を確認するだけ。それだけ見れれば、アルトリアは一日頑張ろうと思えるのだ。


(触っちゃダメ……ボクがエッチな気分になっちゃうと、へにゃっちゃうし……)


 動かなくても問題無い心臓が、ドキドキと音を立てていた。アルトリアは慎重に、九郎に触れないように、毛布の中を進み、白み始めた窓の外の僅かな明かりを毛布の中に引き込んでいく。御来光を望むような気分である。旅の道中でも一日も欠かさず参拝していた頂き。目に焼き付けようと目を瞠ったアルトリアの目は、更に大きく見開かれていた。



☠ ☠ ☠



「それは……ゆゆしき事態ですわね……」

「ボク、心臓止まっちゃうかと思ったんだもん……」


 話を聞き終えたミスラは、難しい顔で頬に触れる。

 元から動いていないのでは? といった無粋な突っ込みはこの際置いておく。


「ボクの希望……毎日元気だったクロウが……」


 ポタポタと涙でテーブルを濡らしながら、アルトリアは悲しそうに俯いていた。

 アルトリアの消沈の原因は、どうやら今朝の九郎のクロウが寝坊助だった事が理由だったようだ。

 それだけでこれ程!? と思うかも知れないが、アルトリアの目的を聞かされているミスラは、真面目にどう言おうかと考え込みながら、テーブルの下で拳を握りしめる。


(こういう話がしたかったのですわ! アルトリアさん、ご安心くださいまし! わたくし程ソレの知識がある者は、このアルムに於いて……いや全世界でもそうはおりませんわ!)


 内心歓喜で諸手を上げていたのは内緒だ。

 男の局部話で盛り上がる事に憧れを抱くなど、王女としてはおろか、女性としてどうなのかと言う考えは、今現在・・・のミスラには無い。密かに城の中に同士を増やしてはいたが、王妃達はやはり親と言う事で、多少気を使う部分があるし、逆に女中メイド達はこちらに気を使っている雰囲気を感じてしまう。

 その点アルトリアは、国民でも無く、従者でも無い。今は食客として迎えているが、もうすぐ旅の仲間となる女性。王女の身分と農民ではと思うかもしれないが、アルトリアは『魔死霊ワイト』。伝承の中では神と同一視されることもある存在であり、差し引きして考えればどちらが上とも言えなくなる。


「朝立ち――正確には夜間陰茎勃起現象と言いますが、これは通説である、猥らな夢を見て起こるものではございません。性的興奮や自意識とは関係のない状態で陰茎が勃起している状態なのです。就寝中に勃起が起こるものを夜立ちと言いますがこれは今割愛しておきましょう」


 ミスラは傍の羽ペンと紙を取り、陰茎の断面図を画きながら説明を始める。

「腐女子たるもの、ソレの・・・知識に於いて知らない事があってはならない」と、知識だけはしこたま得て来たミスラによる、朝立ちのメカニズムの説明がとうとうと行われる。

 これにはアルトリアの方が面食らったのか、涙もピタリと止まり、呆気にとられた表情で真面目にフムフム頷いていた。スケベが服着て歩いているようなアルトリアが一瞬で押し黙る、興味をそそられる話題だったようだ。


「――と言うように『朝立ち』と言うのは『れむすいみん』時に起こる身体の運動の一種であり、定期的に海綿体内に血液を送ることによる勃起力のめんてなんす……補修作業の事なのですわ。だから一時勃っていなくても、問題は無い……筈ですぅ……」


 今や立ち上がって演説めいた素振りをしていたミスラがそう締めくくると、アルトリアの拍手が返ってきていた。我に返ったミスラは、そのまま頭を抱えて椅子に座る。今更ながらに晒さなくても良い恥を晒したような気になっていた。


(アホですか? わたくしは!? 同じ夫を持つ身になる予定とは言え、アルトリアさんとはまだ出会って2ヶ月ほど! その人の前で『勃起』『勃起』と……はしたない……)


 上下関係のある社会に生きてきたミスラは、同列の関係に慣れていない。浮かれた足は境界を易々飛び越えてしまう事があると、自覚したのも後の祭りだった。

 王家の厳粛な情操教育と趣味で培った性癖。二つの要因で、彼女の羞恥心の基準は忙しく変わるのだ。


「じゃあ、大丈夫なの? ボク……最初の頃、いじくったりしてたのが今になって影響してたんじゃないかって心配で心配で……」


 アルトリアはミスラがさらに赤面してしまうセリフを臆面も無く口にしながら、ホッと胸を撫で下ろしていた。


 取りあえず二人して恥部を曝け出した事で、前よりも仲良くなった気がして、ミスラも胸を撫で下ろす。何だかアルトリアの方は余り恥部と思ってい無さそうで、自分だけがやらかしてしまった感は否めないが、それはこの際無視する。


(ま、彼女はわたくしの言葉を真剣に聞いてくれていましたし……それだけ大事なコトなのでしょうけど……それで良しとしておきますわ)


 何とか自分で自分をだまし、体面を保って顔をあげたミスラは、ふと新たな疑問に首を傾げる。

 その疑問の元は、以前死ぬ思いで盗み見た一枚の紙。那須 龍二について記されていた、神の記述書の内容だった。


(そう言えば、アルトリアさんの先の言葉から、クロウ様は勃つには勃つのですわね……と言う事は相手が居ない場合にはどこまで出来るのでしょうか……。と言うよりも、禁忌が「子供を残す行為」に限定されているのであれば……。いえ、これは学術的な観点と、単純にこれからこの世界に訪れる来訪者に関しての研究と言いますか、我がアルム公国の先行きの為に必要な考察であり、なんらヤマシイ事などありませんわ! ええ、ありませんとも! ですが重要な案件であることは確かですわ! もしかしたらクロウ様は今でも、「子供を残す行為」でなければ出来るのかも知れませんわね……。ですが、アルトリアさんの言葉からするに、相手が情欲を抱くと彼自身のモノが使えなくなる? ん! なんの問題もありませんわね。クロウ様は受けですもの。ですが……「そんな、俺はノーマルな筈なのにっ!」と困惑するクロウ様を見られないのは問題ですわね。ただ犯されるだけの旦那様を見るのは、少々趣味から外れます。いえ、それはそれで美味しく頂けますが、それで嫌われてしまっては元も子も有りませんし、一応わたくしも王家の淑女としての責務は理解しておりますので、務めを放り投げる事もできませんし……。困りましたね)


 この間一秒で妄想し終えたミスラは、ふと掌を見る。

 何とか幼女くらいの退行で留めていた魔力を、一気に乳飲み子辺りまで奪い取っていった、神の記述を覗き見る行為。

 しかし現在のミスラは全快状態であり、多少の無理は出来そうに感じる。


(将来的にも、どういった記述がなされているのか、一度確認した方が良いかも知れませんわね……。ええ、学術的な興味から……ふふふ)


 もう一度自分に言い訳して、ミスラは決意を固める。

 趣味嗜好はどうであれ、男でも可能かどうか調べる事は彼女にとっては大事な事だ。その為には多少の無茶は厭わないし、それに今は九郎がいる。


「アルトリアさん。一度クロウ様の禁忌を調べてみませんか? その方がアルトリアさんも安心できるでしょうし、もしかしたらクロウ様と結ばれる日が早まる可能性を思いつきましたの」


 言ってミスラは目を細め、小さな口紅を取り出した。

 口紅――と言ってもそれはアクゼリートの世界では珍しい形。小皿に入れられた紅では無く、地球で使われているスティック型の口紅だ。象牙色の容器には切込みが入っており、一方を引くと中からゼリー状の赤い紅が現れる。


(ああ、わたくしの宝物……。これさえあればいつなんどきでも「びーえる」が読み放題という、夢のような一品。もうこれだけでどんな宝石よりも価値がありますわ……)


 うっとりとした表情でミスラは口紅を見つめて息を吐く。

 九郎にはその気は全く無いと思われるが、九郎がミスラの体を心配して預けたそれは、ミスラにとって最上級の指輪よりも価値のあるものだった。

 骨髄で出来た口紅。血液を際限なく生み出す『不死者』の骨。九郎の体の中で必要っぽくないと思われる第12肋骨の一部であった。

 自分の知らないところで好感度を稼いでいる九郎は、元モテ男の面目躍如と言えるだろう。稼いだ結果得られる物が望んだ物とは違うのも、現在の九郎と言えそうだが。


「え? 結ばれる日が早まる!? 何を思いついたの、ミスラさん!! ボクに協力出来る事は無い? なんでもする、何でもするよ!」


 結ばれる日が早まる――その言葉にアルトリアは身を乗り出して来る。

 その様子に少し可愛らしさを感じながら、ミスラは人差し指を立てると嫋やかな笑みで静寂を促し、目を閉じる。その内側で赤と青、二つの瞳が紫色に変っていた。

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