第243話 腐心
アルム公国首都、ペテル。その北に建つ王城ペテルセン。
オルセー川の夕陽に白い外壁が赤く染まり、一日の終わりを絶景の景色で告げる。
一日の終わりを告げる赤い光が、ペテルセン城の執務室にも射し込んでいた。
「ふう……」
夕陽の沈むオルセー川の反射に目を細めたルキフグテスが、疲れたようにソファーに沈みこむ。
「おや? 兄上。表情が優れませんがどうなさいました?」
書類の整理に勤しんでいたベガーティスが心配気に首を傾げた。
ルキフグテスは沈痛な面持ちで顔を上げ、げんなりとした表情で片手をあげる。
「最後の最後で詰めを誤った……。父上はいずれ知らさねばならぬと思っていたが、よもやあの場で本性を晒すとは……」
妹ミスラの趣味嗜好を目にした九郎は、可哀想になるほど怯えていた。それは蛇に睨まれた蛙の如く、追い詰められた鼠の如く、恐怖だけで一軍を退けると言う偉業を成し遂げた男とは思えないような怯えっぷりだった。
それは恐怖の代名詞でもあった父、カクランティウスも同様だったので、致し方ない部分もあるだろう。
しかし何もあの場で晒さなくても良いではないか――と言うのがルキフグテスの本音である。
「と言う事は、ミスラの婚約はご破算で? ああ、それで父上もあんな感じになってるのですか?」
ベガーティスは吹きだしそうになるのを堪えるようにして、肩を小刻みに震えさせている。
その視線の先には、カクランティウスが呆けていた。髑髏の顔で口を開いたままのカクランティウスは、まさに屍のようだ。
「婚約がご破算になったことで、父上がああなっている訳では無いのだが……」と言いかけてルキフグテスは口を閉じる。そうでは無いが、ミスラが本性を晒した事でカクランティウスが呆然自失になっている事には変わらない。父が駄々を捏ねなければこうならなかった気もするので、同情心も湧かない。
ルキフグテスは執務室の隅で膝を抱えて置物と化している髑髏を横目に、溜息を吐き出し目元を揉みほぐす。
「いや……なんとか保留のままには留められた。アルトリア殿とフォルテ殿に押し切られた感じはあったが、何にせよ即座に返品されなくて良かった……。アレも見た目だけは上等だしな……。クロウ殿に理解があって助かった……。もうミスラの結婚は絶望的だと思っていたのだ……」
ルキフグテスが九郎に目を付けたのは、『来訪者』と言う事に加えてフォルテの存在が大きかった。
ミスラの告白に慄いていた九郎は、見るからにノーマルな性癖の持ち主だろう。しかし自分に思いを寄せる少年、フォルテを邪険にしていなかったことが、ルキフグテスが妹の婿に九郎を選んだ理由である。
妹ミスラの趣味は、そう易々男が受け入れられる物では無い。女好きの様子を見せながらも、言い寄る少年を無下に扱わない九郎に、ルキフグテスは一縷の望みを託していた。
――この男ならば、もしかしたら妹の趣味を知っても、大丈夫なのでは――と。
「酷い言いようですね……。兄上は一番ミスラを可愛がっておられたと思っておりましたが……」
ベガーティスが引きつった笑いを浮かべているが、「王家の子女の裸を見ておきながら」と、脅迫まがいの言葉まで使って、妹のやらかしを誤魔化したルキフグテスとしては、笑い事では無い。
「ベガよ。私は別にミスラを嫌ってはおらぬ。今でも可愛い妹だ。しかし……私は次期王として、第一に国を考えねばならぬ」
「確かに『来訪者』の縁は大事ですが……」
「それだけでは無い。ミスラの発言力を削ぐ為にもだ」
疲れた顔でルキフグテスは言いかえす。
『エツランシャ』の『
その発言力を削ぐ為との言葉に、ベガーティスは眉を顰める。
顔には「長男の嫉妬なのだろうか?」と言う疑念が浮かんでいる。
それを苦笑で眺めながら、ルキフグテスは手元の机を漁る。
兄弟皆母親は違っていても、仲は良かった。ルキフグテスもカクランティウスが行方不明の時には、ミスラの父親代わりと見紛うばかりに面倒を見ていた。
それがどうして――と言わんばかりのベガーティスの視線に、ルキフグテスは苦笑したまま手元の書類の中から2枚を取り出すと、ベガーティスに放り投げた。
「娯楽に因る文化の侵略……。我が国もその渦中にいる事をすっかり忘れていた……」
「なんです? アルムの人口推移? こっちは……漫画の売り上げですか? これと先の言葉と何の関係が?」
弟が言う通り、それはアルム公国の人口の推移と、アルム公国の漫画の売り上げを記したものだった。
ルキフグテスが沈痛な面持ちで目元を覆う。
そこに書かれている数字がどれ程不吉なものか、弟はまだ分かっていない。
しかし長年ミスラが得た情報を精査してきたルキフグテスには、そこに書かれている情報がいかに恐ろしい物なのかが、はっきりと見えていた。
ルキフグテスがミスラの婚姻を取りまとめたかった2つ目の理由。
今やアルム公国の主要交易品となった漫画がその原因だった。
魔族に対する差別の改善。漫画と言う娯楽コンテンツを使った、アルム公国の静かな文化侵略は、確実に効果を発揮していた。魔族の国と知っていながら、買い付けに来る商人の数は増加の一途を辿っている。
それに伴い年々増加してく輸出量。識字率の低いこの世界で、絵と共に楽しめる漫画は、思った以上に人気を博している。
しかし国内外に広がった異世界の文化は、思っていた以上に諸刃の剣だった。
「ベガ! お前もいいかげん『まんが』にうつつを抜かすのを止め、嫁を貰え! 産めよ増やせと提唱している王家がこれでは示しがつかぬ!」
「やだなぁ、兄上。私にも嫁はおりますよ?」
ルキフグテスの言葉にベガーティスがヘラと笑って視線を逸らす。それを見てルキフグテスは机に突っ伏し頭を抱え、バンと机を叩いて声を荒げる。
「平面の嫁ではなく、しっかりと子供が成せる嫁を貰えと言っているのだ!」
アルム公国で今一番人気のある書物は英雄譚などでは無く、所謂エロ本。大人にも興味を引かせるために、ある意味必要な表現とも言えるのだが、それが新たな危機となりつつあった。
魔族はただでさえ子供が成しにくい。また成長が人族よりも緩やかで、数が増えにくい。その魔族の国に於いて、突如現れた漫画という文化、特にエロ本はある意味遅行性の劇薬だった。
これまでも、そう言った性描写が書かれている書物は多く存在していた。
しかし
だが今市井で人気を博している『漫画』は、それを目的として書かれているものも多い。それが何を意味するか――。
弟ベガーティスも、もう最初の嫁を貰う年齢などとうに過ぎている。なのに書物で発散させてしまって、一向に嫁を娶る気配が無い。
弟の場合、それも仕方が無かった――と理解できる部分はある。平民のように気軽に娼館に繰り出すことも出来ない身分であるし、外聞もある。しかし嵌まって
1人2人がそう言った嗜好を持っているだけなら、ルキフグテスもこれほど危惧はしていなかっただろう。
しかしルキフグテスは、街に氾濫するエロコンテンツが齎す功罪に気が付いてしまった。
アルムの人口の推移。少しずつ増えてはいるのだが、婚期に高齢化の兆しがあった。本来80歳には結婚し、90歳頃には子供を持つのが普通だったアルム公国の最近の結婚年齢は平均して100歳。
人族に比べて5~6倍も成長の遅い魔族。他国に比べて明らかに人口増加率が劣るアルムを襲う、手軽な性的娯楽が齎した晩婚化。それはアルム公国にとって致命的だった。
「進んだ技術、思想、文化……。それは確かに素晴らしい。しかし魔族の時の流れに対して、『エツランシャ』の力は過剰なのだ! 乳飲み子に魔術の極意を教えるようなもの。それが持つ危険性も知らずに使い続ければ、自らをも傷つけてしまう。正直ミスラは暫く大人しくさせるつもりだったが、あいつの手綱を取れる自信が私には無いっ!」
「そんな情けない事を大声で……。あ! そう言えば近々規制が入るって……あれ、兄上だったのですか!? 酷いですよ、兄上! 楽しみにしていた新刊がお蔵入りになりそうなんですよ!」
「行き過ぎた性描写はお前のような独身者を増やすだけだ! そしてミスラの好む『びーえる』とか言う『まんが』な……。あれを広めるのは……マズイのだ! 母上達のようにお年を召された女性が見る分には、趣味の範囲と見過ごせる……。いや、あまり気分は良くないが……しかし……」
大声でがなり立てるルキフグテス。
頭の痛い問題が山積みにされていた。最初はミスラが発端だった漫画は、今や数々の作家を生み、オリジナルも生まれて来ている。それ自体は歓迎すべき事にも思えるが、女性の間に広がる男色嗜好を考えると、ルキフグテスは冷や汗が止まらない。
それは男が持つ生理的な嫌悪からでは無い。ルキフグテスも他の弟妹と同じく、効率的な物の考え方をする。そういった趣味も、「害がなければ」と放置していた部分があった。
ただ害があるのならば放って置けない。
魔族はただでさえ母親の血筋を色濃く受け継ぐ。なのに女性まで晩婚化が進んでしまっては――ここ近年のルキフグテスの胃痛の種は、そこに集約されていた。
「心配しすぎではありませんか? 禿げますよ?」
「ベガ、お前も原因の一つだという事を忘れてないか? 私よりも余程王位に相応しい強さを持っていながら……。お前達がそうだから私はずっと心を痛める事になっているのだ!」
やっと合点が行ったと、ベガーティスが肩を竦める。
それに対してルキフグテスは、渋面したまま眉を上げる。
国の命運も妹の幸せも。同時に考えていたからこそ、ルキフグテスはミスラと九郎の婚約を取り纏めたかった。
「そう言えば、心を痛める事を『腐心』と言いましたね……」
「笑えない冗談はよせ……」
長男の苦労性を慮りながらも、ベガーティスが余計な軽口を叩いていた。
ルキフグテスも知っている。男色を好む女性をなんと呼ぶのか。
妹も国を思って心を痛めすぎた為に、性癖が腐ってしまったのだろうか――それこそ笑えない冗談だと、ルキフグテスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
☠ ☠ ☠
冷え込んだ冬の風が森の木立の間をすり抜け、亡霊の叫び声のような音を奏でる。枝葉の影は、まるで手招く亡者の手のように大地を掻き、ざわざわと揺れ続ける。
そんな月の青い光に照らされた寒色の世界に、炎の灯りが僅かに揺らぐ。
うっそうとした森の中に佇む小さな屋敷の窓から一筋の灯りが漏れていた。
そこに近付くにつれ、風の奏でる音に小さな悲鳴が混じっていた。
「あーーーー! んーーー!」
灯りの
軋むベッドの音。布団を蹴る小さな音。押し殺したような少女の声。
そんな想像を掻き立てる音を奏でていた部屋の中には、美しい少女が
(なぜ我慢できなかったのですの!? お兄様から、あれ程釘を刺されていたと言うのに!)
羞恥で顔を真っ赤に染め、枕に顔を埋めて悶え、ミスラは涙目でベッドの上を転がっていた。
羞恥心にのた打ち回る、所謂『恥ずか死の舞』というものである。
(大体こういうのは、本人の知らないところで楽しむのが作法と言うものですわ! それを提唱してきたのは
出会って間もない殿方に自分の性癖を語るなど、それだけで淑女としてあるまじき行為。王族の子女として、はしたない事この上ない。それはミスラも十分に理解しているつもりだった。
(魔力の充実による高揚感が
頬を染めたままミスラはベッドをゴロゴロ転がる。
『エツランシャ』の力に目覚めて以来、ミスラはずっと魔力が減少した状態が続いていた。
直接神に選ばれていないミスラが『
しかしそれなら尚更――とミスラはベッドの上を転がり続ける。
(浮かれていたのでしょうか……。戦争を回避できたことに……。それとも、殿方に身を任せてしまった事に? キャー! いけませんわ! はしたないですわ!)
枕に顔を埋めたまま、ミスラは手足をばたつかせる。
ミスラは今でも純潔であり、自分を慰めた事すら無い。貞淑さで言えば、貴族の中でも珍しいほど潔白だ。貞操観念はしっかりしており、その点は母ミツハと似ている。だからこそ、こうなってしまった。
(魔力は回復していたから、
ミスラは枕の下に隠してあった書物を横目に、目尻の涙を拭う。無意識にページを捲る。男同士の行き過ぎた愛の形が描かれている。
(やはりヘタレ受けは尊い……って違いますわっ!!)
もはやルーチンワークとなった自分の行動を鑑み、ミスラは再び顔を枕に埋める。
自分の魔力の枯渇を家族に悟らないよう、姿を留める為に仕方なく。ミスラが男色を妄想するのは、止む終えない事情があった。――筈だった。
ミスラは魔力の減少と共に幼齢化していく。
父カクランティウスと『今際の際』の姿が違うのは、そもそも自身が思い抱く『使命』が違うからだろう。
父は多分『戦い続ける事』を自身の使命としていたから。母ミツハの日記にも、父が常々言っていた『最後まで戦う』との言葉があった。剣を持てる姿――それがカクランティウスが思い描いた『自分の最後の姿』だったに違いない。
対してミスラの『今際の際』、幼齢化はミスラ自身が、『最後まで考え続ける事』を重要視していたからだろう。
力が弱くなっても、「考え続ければ道が開かれる」と信じていたからこそ、魔力の消費を抑える姿に幼い自分を想い描いた。
しかし幼齢化は、骨の姿と違って『異常な状態』を認識しにくい。
そこでミスラは『大人の自分』を想い描く為に、性的な妄想を使っていた。
性的な物に興味を覚える年齢――そう自覚することで、ミスラは自分の本来の姿を想い描いていた。
それならば男女のアレコレで充分――そう考えるのが普通なのだが、その頃のミスラは初心だった。
――王族の子女である自分が、常日頃から男女の睦事を妄想するのは、『はしたない事』――と考えてしまった。男女の睦事――男
だからミスラは
「まさかこれほど嵌ってしまうとは……本望ですが……。さて……どう落として行きましょうか……。クロウ様は極上の受け。押しに弱いのは間違いありません……。あ、この構図良いですわね……」
ミスラは呟き、再び漫画に目を走らせる。
ミスラは自覚が無いまま、絡み合う男共に自分を重ねる。「イケナイコト」と自分の心の奥底に封じ込めていた、
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