第242話  締まらないケツ末


 なんだか体が重い……湧き上がる倦怠感に顔を歪めた九郎が目が覚ますと、辺り一面血の海だった。

 血の池地獄と呼ぶにふさわしい、赤々とした水面。むせ返るような血の匂いが充満したその景色は、朝の眩しい光の中でも、おどろおどろしさを感じさせた。


(やべ……出しっぱだった……)


 慌てて九郎は意識を集中し、体から滴り続ける血液を止める。認識としては、風呂の水を出しっぱなしにして寝てしまった時に近い。体に纏う倦怠感も当然かと、九郎は苦笑を浮かべる。


 地獄の景色に相応しい、血の海はもちろん九郎が作り出したものだった。

 理由は単純で、明確。ミスラを殺してしまわぬようにである。


 意識を失う直前、九郎の頭に自分の血液がミスラを削り取ってしまう光景が過った。

 通常九郎の『不死』は睡眠などの無意識下では『修復』を優先する。

 滾り始めた下半身が禁忌に触れ、九郎が意識を失ってしまえば、ミスラが吸った九郎の血液は、そのままミスラを切り刻む刃と化す恐れがあった。

 それはまずいと慌てた九郎が取ったのは、体を病魔に侵させ続けた時と同じ、あえて体を死の縁に放置する手法だった。


(全く……人生何が役に立つか分かんねえもん……だな……)


 死ぬことの無い自分の体は、瀕死の状態でも問題は無い。病を受け入れ腐敗させ続けた経験がこんなところで役立つとは――と九郎は苦い思い出に眉を下げ、はたと動きを止めていた。


 先程感じた地獄というのは間違いだった。

 どれだけ凄惨な光景であろうとも、これさえあれば間違い無く天国――そう思えるものが隣で静かな寝息を立てていた。

 何やら腕が重いと感じていたが、血液の流出による倦怠感などではなかった。

 九郎の首に腕を絡めたまま眠るミスラ。九郎が瞼に焼き付けた光景が、まだそこに残っていた。


「ん……もっとぉ……」


 九郎の首筋を甘噛みし、甘えた声を溢す全裸の美少女。これが天国でなくてどこが天国かと、声高に叫びたい気分になってくる。ミスラの滑らかな肌は、身じろぎする度に九郎の腕を擽り、押し付けられる胸の感触に鼻の下は伸びる。

 血を流し続ける事を止めた所為か、息子は朝の目覚めとばかりに首を擡げ――


「コレハ……ドウ言ウ事デアロウカ?」


 この世の地獄に縮み上がった。

 天国を感じた九郎の目に、次に飛び込んで来たのは、瞼を差すような朝の光と、逆光の中迫って来る紫色の髑髏の顔だった。

 落ち窪んだ眼窩がどこを見つめているのか、それを知る術は九郎には無い。

 しかし確実に自分の首に腕を絡ませ眠るミスラと、自分を交互に見ているであろうことは間違い無い。

 横目に見るミスラには、一枚の毛布が掛けられていた。しかし白い肩を覗かせ男の胸を枕にするその寝姿は、完全に事後のソレである。


「こっ……これにはじ、じょ、事情がっ!」

「コレハ情事トナ?」


 目覚めたら隣に裸の娘。迫って来るのはその娘の父親の顔。

 恐怖の種類は数多くあるが、この恐ろしさに勝てる恐怖は無いだろう――九郎はしみじみ感じて目を瞑る。

 命の危機――それに対する恐怖と言うものは、もはや九郎の中には存在しない。

 しかしそれでも命の危機と感じられるような、恐ろしい『状況』と言うものは存在していた。今がそうである。

 実際、理由があってこうなっているのだが、この現場を押さえられて何が言えるというのか。この状況で、「娘さんの命の為に仕方なくっ!」なんて言ったら、ぶっとばされる自信が九郎にはある。

 いつも紫色のカクランティウスの骨の色が、今は怒りの赤紫色に見え、九郎は唾を飲み込む。


「……ん。もっと……」

「……ぐっ!?」


 間の悪い事に、ミスラが寝惚けて腕に力を込める。力強い抱擁だ。その感触だけでもご飯三杯は行けそうな柔らかみが、九郎の二の腕を襲う。

 毛布が剥がれその白い足が露わになる。九郎はもう固まるしかない。この場に限っては、いつもは見境ない暴れん棒が固まらないのが、せめてもの救いだろうか。

 ただこのままではいけない。放って置けば、事態は更に悪化する。危機感に突き動かされて、九郎は必死に片手を前にし、誰もが思い浮かべるテンプレワードを口にする。


「カクさん! 誤解だっ!」

「ホホウ……五回モ……」


 九郎は口を開いたまま渋面した。どこの世界に娘の親にその回数を宣言する男がいるのか。


「おいっ! ミスラ! 起きてくれ!」

「んっ……」


 こうなれば手段を構っている暇は無いと、九郎は必死にミスラの背中を揺り動かす。

 この状況で女性側に弁明を求めるのは格好悪い。しかしこのまま親御さんの前で事後を続けるのは、更にまずい。

 父親の目の前で娘の素肌に触れる胃の痛さは相当なものだ。今すぐ胃袋を投げ捨てたい。


(つーか俺、こーなる前に移れよぉぉぉぉおお!)


 自分の能力を思い出し、九郎は心の中で絶叫する。

 何度も危機を脱した細胞移動をなぜしなかったのか。昨夜もミスラがある程度回復したことを確認した時点で、抱きすくめられている自分を死体にして逃げれば良かったのである。それこそ、ミスラの命を奪う危険性もあったのだから、そうすべきが当然のことだった。

 今や九郎は、呼吸するように残った細胞から復活出来る。無意識に心の中で滾るスケベ心が、女体から離れる事を拒んでいたのだろうか。

 死の淵に揺蕩う事を選んでも、女体の傍を離れない。自分のことながらに呆れるくらいに、本能に忠実な体だ。


「あ……」


 九郎の願いが通じたのか、少しの時間でミスラは薄目を開けていた。


「ほら、ミスラっ……。違うって、な? 昨日は何も無かった! そうだろ?」


 九郎は拝むような目でミスラに訴える。色々手遅れな気もするが、娘の一言は男の言葉よりは聞いてくれるだろう。情けない事極まりない言葉だが、本当に何も無かったのは間違いない。自分の体に刻まれた痛みがその証拠だ。


 そもそも自分は女性に何かいたせる体では無い。そのことはカクランティウスも知っている筈であり、その結果を見られた事もある。

 だがそれを自分の口から言っても、「ミスラで5人揃ったのでは?」と思われてしまえばそれまで。シルヴィアと言う恋人がいる事は伝えてあるし、アルトリアが自分を求めている事も彼は知っている。リオの男性恐怖症も知っている筈だが、「自分が出かけている間に新たに誰かに見初められたのでは?」と考えられてしまえば、どうにもならない。


 薄っすら目を開けたミスラの顔は、九郎と視線を合わせて、見る見る真っ赤に染まっていった。

 昨夜の事を思い出したのか、それとも寝顔を見られた事を恥ずかしく思ったのか。その顔も、また青くなるのだろうと、九郎は眉を寄せ、


「――昨夜は乱れた所をお見せしてしまい……申し訳ありません、クロウ様。……その……わたくし初めてでしたの……。上手くできましたでしょうか?」


 どうしようもない自分の運命さだめに顔を覆った。



☠ ☠ ☠



「全く……驚かせないでくれよ……」


 つくづく自分は締まらない――。しみじみ思いながら、九郎は安堵の溜息を吐き出す。

 ミスラに毛布が掛けられていた時点で気付くべきだったが、仲間内にアルフォスやベーテもいるというのに、九郎はともかくミスラを一晩放置というのはありえなかった。裸で男の首に抱きついたまま眠る姫君を見て、アルフォス達もなんとかしようと試みてはいたようだった。


「ごめんね~。ボク、ミスラさんに触っちゃマズイと思って……」

「引きはがそうとしたのですが、我々の力だけでは姫様に太刀打ち出来なかったのですよ」


 しかし昨晩九郎も感じたように、種族の特性によるものなのか、魔力を回復したからか、ミスラの膂力は凄まじく、アルフォス達だけでは、九郎の首に抱きついたまま眠るミスラを引きはがせなかったようだ。

 唯一対抗できるアルトリアも、自身の『吸収ドレイン』の暴発を心配して、ミスラ近付けない。結果毛布を掛けるに留まってしまったと言うのが先の悲劇の発端だった。そしてタイミングが良いのか悪いのか、夜を徹して馬を飛ばしたカクランティウスが到着し、ミスラと九郎を引きはがそうとしたのがつい先程の事件。彼も事情は聴いており、本当に間の悪い時に目覚めたものだと、九郎は項垂れる。


「なんやねんその目……読むまでも無いわ。この前まで敵方の俺が裸のお姫さん触れるわけないやろ?」


 そう言えば、今回はもう一人実力者がいたなと、九郎が視線を彷徨わせると、アルトリア達の少し離れた場所で、龍二が半眼でこちらを伺っていた。

 軽い口調ながら龍二の手は常に刀に添えられている。

 その理由は聞くまでも無い。例え魔力の多くを失っていても、『不死の魔王』カクランティウスの威圧感は、九郎の『偽の魔王』の比では無い。自分が命を狙った標的の親。相手の感情も読める龍二は、さぞかし居心地悪いのだろう。


「アルムはお父様の留守中、大勢の暗殺者や間諜を寝返らせ、国を維持して参りました。情報部にはそのような者達が大勢おります。お父様もその事を良くお考えくださいまし」

「それにクロウ殿も、リュージがミスラの命を救った一人であると仰られております。命を狙った咎を問うのなら、同時に命を救った褒美も与えるべきでございます」


 ミスラとルキフグテス。命を狙われた当の本人達の口添えが無ければ、寝ている間に戦闘が起こっていた可能性もあった。まあ、カクランティウスは龍二の顔を知らず、初見で戦闘になることは無かったと思うが、心は読めても空気の読めない龍二の事だ。こちらもまた綱渡りの状況だったのかもしれない。


「吾輩ハ親トシテハオ主ヲ許セヌ。シカシ吾輩ハ、ソコノくろう殿ニ復讐ノ刃ヲ持タヌ事ヲ誓ッテイル……。王トシテ、コノ憤怒ヲ飲ミ込モウ……。『暗殺者』リュージ及ビソノ仲間達ヨ。我ガ国ノ滞在ヲ許ス……」


 そうならなかったのは加えてカクランティウスの度量が大きかったからだろう。

 九郎がカクランティウスの封印を解く際に尋ねた言葉を、彼は自分に誓っていたようだ。

 復讐の為に剣を振るわない――我が子を暗殺しに来た者にさえ、その言葉を適用して怒りを飲み込む胆力は、驚愕に値する。

 彼の本心は、その言葉に大きく息を吐いて力を緩めた、龍二が一番物語っていた。


「供も連れずに飛び出して来たのが幸いしました……」


 裸の妹と一緒に眠っていたクロウに対して、ルキフグテスはやけに優しい笑みを浮かべていた。

 彼は妹を九郎の嫁にと差し出して来た一人であるから、既成事実が手に入ったと喜んでいるのだろうか。なんだか「それでもどうよ?」と言いたくなる。

 ただ心労はかなりのものだったのは間違いなさそうで、ミスラが一人で城を抜け出し、戦争を止めに向かったのだと思っていたのか、ルキフグテスの顔には安堵の感情が零れんばかりに浮かんでいた。少し離れた場所に繋がれた2頭の馬からは、湯気が立ち昇っており、かなりの距離を飛ばしたのだと言う事は一目瞭然だ。


「カクさんも俺の事情知ってんだから、あんなにビビらせなくても……」

「ドンナ事情ガアレド、裸ノ娘ト寝テイタ事実ハ変ワラヌ。ソレニ貴殿ガアアナッテイタ・・・・・・・ト言ウ事ハ……」

「スンマセンしたー! 仕方が無かったんス! 何もかもこの若い体が悪いんっス!」


 しかしなんにせよ最悪の事態は免れて良かったと、肩を竦めた九郎の軽口には、当然の答えが返って来る。すかさず九郎は朝日の下で華麗な土下座を披露する。ミスラの命の危機を脱した安堵が、いきなり性欲に傾く自分には、もはや呆れて言葉も出ない。

 九郎が自分の背負う業の深さに顔を顰めたその時、肩にそっと手が置かれていた。

 骨だけなのに力強い手。確実にカクランティウスも物である事を確信し、九郎は覚悟を決める。


(とりあえず一発貰って、吹っ飛ぶ! あとは流れでバーンと……)


 勿論殴られる覚悟である。

 婚前交渉が悪だとは九郎は考えていない。しかし例えどんな事情があろうとも、裸のミスラと一夜を明かした事実は変わらない。どんな事情があろうとも、父親に娘の性的な場面を想像させるのは、同じ男としてしてはならない事だ。

 覚悟を決め目を瞑ったまま、九郎は顔を上げる。

 予想していた固く熱い拳は、いつまで経っても九郎の頬を歪ませなかった。


「礼ヲ言ウ……くろう殿。吾輩ノ命。息子ノ命。ソシテ娘ノ命マデ救ッテクレタ貴殿ニハ言葉モ尽キヌ……」


 恐る恐る九郎が目を開くと、髑髏の瞳から涙が溢れていた。

 親でもあるが王でもある――今し方そう言って怒りの矛を収めたカクランティウスの、親の顔がそこにあった。

 最後に一目と願った子供達が、再会すぐに失われていた可能性を思い、カクランティウスも平静ではいられなかったのだろう。震える声からも、彼の心情が良く分かる。


「クロウ殿……アルトリア殿……リオ殿……フォルテ殿……。同じく国を与る者として、ここに謹んで御礼申し上げる。この場に家臣がいようとも、私はこの頭を下げることを躊躇わぬ。貴殿等も父上と同じくアルムの英雄。この感謝の意。どうか受け取って貰いたい」


 カクランティウスに続いて、ルキフグテスが大地に膝を付いて頭を垂れていた。

 凛とした佇まい。言葉にしなくても感じる感謝の心。豪華な衣装も傅く家臣も必要無い。例え跪き頭を下げていても、彼は王族なのだと感じる所作。これが貴族かと、九郎は赤い髪の少女を思い出し、目を細める。


「ま、誰も死ななかったんだ! それで良いじゃねえっすか?」


 なんだかくすぐったく感じて九郎はおちゃらけた返事を返す。本当ならば、もう少しカッコ良く締めたかったが、最後の最後で締まらないのはもはやお約束だ。王城に帰ってファンファーレで出迎えられるのも気が引けると、九郎はおどけて見せた。

 一件落着と頭を下げるカクランティウスの肩に手を置き、親指を立てる九郎。

 その耳に不穏な影はまだ潜んでいた。


「お、お貴族様が奴隷に頭なんか下げんじゃねーよ! 馬鹿じゃねえのか!? だ、大体アタシはクロウに頼まれて……。つーか、あんたアタシに土下座させた側じゃねえか! プライドはねえのかプライドはっ!」

「姉さんヤメテ! 正気に戻って! 陛下だよ!? 気さくで直ぐ裸になりたがる、クロウさんそっくりだけど、カクランティウス様は王様だよ! 首が飛んじゃう! いつもの袋鼠みたいな姉さんに戻って! 僕等はクロウさんみたいに首は引っ付かないのっ!」


 ただ今回、締まらないのは九郎だけでなく、仲間達もまた同様だった。

 突然名指しで敬称を付けられた上、王様と王子の土下座まで目にした小市民達の驚きはかくや。

 リオがツンデレのテンプレのような照れ方をし、フォルテが顔を青褪めさせていた。

 今頃になって昨日の恐怖に混乱しているのか、リオの言葉は確かに酷い。きっと正気に戻ったらまたプルプル震える事になるだろう。しかしフォルテもまた酷い事を言っている。袋鼠とは火竜山によくいた小さな鼠で、小さな物音でも逃げる臆病な動物のことだ。まさにビビりのリオと被るが、フォルテの為になけなしの勇気を振り絞って領主の屋敷に忍び込んだと言うのに、その認識はどうなのだろう。

 そして――


「ボクも自分の為に協力したんだから、お礼なんていらないよ~。だってミスラさんはボクと同じ種を貰う仲間なんだし……仲良くしたいよねっ!」


 困った事に、アルトリアは九郎と同じく本能に忠実に生きていた。

 九郎はギギギとこちらに顔を向けるカクランティウスの顔を、正視することは出来なかった。



☠ ☠ ☠



「くろう殿……我ガ国ニハ『ソレはソレ、コレはコレ』ト言ウ格言ガアッテナ?」


 感動の一場面は一瞬にしてまた胃の痛い状態へと変化していた。

 ただし今胃が痛いのはカクランティウスだったが……。

 上擦った声で指を立てて語るカクランティウスに、先の潔さは感じられない。


「ウッス! 分かってるっス、カクさん! 俺とカクさんの仲じゃねっすか。気にせんでください」

「オオッ! くろう殿!」


 ただこれに関しては九郎も同意見だった。いくら恩人になったと言っても、九郎は「世話になっているお礼」として今回もミスラに協力している。そもそも交換条件に娘を奪うなど出来る筈も無いし、それが恩を感じているカクランティウスであれば尚更だ。


 カクランティウスが反対するのであれば、九郎は何も言うまいと心に決めていた。

 少し惜しい気もするが、そもそも九郎は『真実の愛』を求める身。家の為だの国の為だの、しがらみに縛られた恋愛からは遠いものだと感じている。

 朝日に歯を光らせる九郎のイケメンぶりに、カクランティウスは滂沱の涙を溢していた。


「陛下! 先にお伝えしていたではありませぬか! この事は母上達も承知の上! よもや今になって異を唱えるのは、王家の恥でございます!」


 しかしそれでお終い、とはいかない事情があったようだ。

 安穏な笑みに戻ったルキフグテスが、ニコニコ顔のままカクランティウスの退路を塞いでいた。

 ルキフグテスはどうしても九郎とミスラを婚約させたい様子で、親に見せてはいけないような笑みを浮かべて顎をしゃくる。


「お父様……ふしだらな娘で申し訳ありません……。ですがわたくしの純潔は昨夜まで……。裸で抱き合い、血の朝を迎えたわたくし達はもうっ……」


 それを受けて、ミスラが狼狽えるカクランティウスに、ザクザク止めを刺していた。

 先程九郎があれほど罪悪感を抱いた『親に子供の性的な部分を想像させる』言葉を、遠慮の欠片も無く放っている。


「言い方ぁぁぁああ! 血は俺んだからっ! 俺はちゃんと服着てたからっ! ミスラっ! せっかく誤解が解けたってのに……ほーらカクさん。顔が近いよぉ、顔が……」


 九郎は否定の言葉を大声で叫ぶ。父親の前で何てことを言うのだろうか。必死になれば成るほど墓穴を掘っている様な気もしてくるが、ココはちゃんと言っておかねばならないところだ。

 処女を散らしたみたいな言い方をしているが、実際血を流したのは九郎である。上半身はいつものように裸だったが、下半身は珍しく尊厳を守り切っていたし、なんらヤマシイ事は無い。


「そんなっ!? 昨晩あれ程乙女のような泣き声を上げていたと言うのに……」

「それも俺ぇぇぇええ! 駄目だっつったよな!? これ以上はヤバいって! ほーらカクさん、笑顔、笑顔~。チクショウ、髑髏どくろじゃちっとも笑顔にならねえ……」


 もちろん息も絶え絶えになっていたのも九郎である。

 結末はなんであれ当初は命を助ける為に必死だった。抵抗したのもカクランティウスを思っての事。性欲に傾いてしまった自責の念はあるが、それでも頑張った方だと知って欲しい。


 ミスラの言葉にカクランティウスの顎がカタカタカタカタ音を立てていた。

 いつもは表情豊かな骸骨だと思っていたのに、今の九郎に彼の表情は分からない。

 虚ろな眼窩、暗い口内。揺れる顎はショックの震えか怒りの震えか。強引に九郎がカクランティウスの顎を傾けるが、されるがままのカクランティウスはとっても怖い。


 そもそもなぜミスラが九郎との婚約に前向きなのかが分からない。

「一目惚れ」と言ってくれていたが、それはまだ会って間もない頃の事だ。今ならその言葉も信じられるが、以前の言葉は明らかに交換条件としてのリップサービスだと思っていた。

 血が旨かったからだろうかと、九郎は『吸血鬼』に惚れられるテンプレを思い出し、同時に自分には魔力が欠片も無かった事も思い出す。どういう理屈でミスラが回復したのか――それを考えている余裕は今は無さそうだが――。


「ソモソモナゼ魔力ガ少ナイ事ヲ隠シテイタ?」


 カクランティウスの反撃。

 ミスラが今回危機に陥ったそもそもの原因は、彼女が魔力枯渇を隠していたからだ。

 それが無ければ、ミスラの命は危機には陥らず、とりあえず朝チュンは免れていただろうと言う、必死の抵抗。


「お父様と同じ理由かと……」

「グゥ……」


 間髪入れずにミスラの返答。効果はいまひとつだったようだ。

 家族を心配させないよう――それがある意味心配の種に成ることは、彼が一番身に染みている。

『勇者』に一人で立ち向かい、結果50年もの間国中を心配させ続けたカクランティウスには、耳の痛い答えだろう。


「ソ、ソモソモオ前ノ本心ハドウナノダ? 出会ッテ数日ノ男トノ結婚ヲ、オ前ハドウ思ッテ……?」

「ち、父上!? 今更本心など、関係ないでは――」


 カクランティウスの最後の足掻き。

 心の中ではこれほど恩を受けたのならと、諦めの境地も僅かにあった。『来訪者』との縁が国にとって有益な事も、十分承知している。

 しかし望まぬ結婚を娘に強いる事は出来ないと、カクランティウスは素早く顔を元に戻し、真剣な表情でミスラを見据える。

 親の愛情をひたすら込めた眼差しに、ミスラがうっと言葉に詰まり、ルキフグテスが慌てだしていた。


 緊迫した空気。もはや九郎に首を突っ込む余地は無い。

 そもそもカクランティウスが認めてくれるのならば、九郎はどんとこいの立場である。少なくとも見た目だけでも前向きな姿勢をミスラが見せてくれていると言うのに、無下にすることは九郎には出来ない。

 せっかくお近づきになれたのだからと、この先も仲良くやって行きたいと考えていた九郎は、建前だけで頑張っている。


(つーか何で俺も抵抗してんだ? 俺がまだイタせねえことはカクさんも分かってから、正に清いお付き合いじゃねえの?)


 九郎はカクランティウスとの間の関係を壊したくはない。

 だから抵抗しているが、彼の承認の元にミスラと付き合うのであれば、願ったり叶ったりとも言える。

 なぜこんなにも抵抗していたのかと、九郎は首を傾げた視線の先で、龍二と目が合う。

 龍二は眉を顰めて三白眼を更に半眼にし、うえっと舌を出していた。

 何を読んで・・・・・の表情だろうと、九郎が首を傾げたその時、ミスラの熱の籠った告白が響く。


わたくしは……クロウ様にはもうお伝えしましたが……一目惚れですわ」


 花が咲いたような笑顔で、ミスラは両手を広げて宣言していた。

 紛れも無く本心を曝け出すような、晴れやかな笑顔の美少女の告白。胸がきゅんとこない男はいないだろう。

 太陽にも負けないような神々しい笑顔なのに、しかしこの時九郎の背中に一滴の汗が滴る。


「これは恋……と言って良いのでしょうか……。クロウ様を見た時、こうビビビッと電が走ったと言いましょうか……。いえ、実はお母様方とはお話しておりましたの。べ、別に婚姻の話ではありませんよ?  そのクロウ様を初めてお見かけした時、もうこの人しかいないって言うか……あれほど受け受けしい殿方は初めて見たと言うか……」

「「は? ウケ? ウケ?」」


 九郎とカクランティウスの声が見事にハモっていた。

 ルキフグテスが虚ろな目で遠くを見つめている。


「も、もちろん、お父様も中々の受けだと存じております! お母様方と時々話しておりましたが、宰相のウィリアとお父様とでは、やはりお父様が受ける側かと! ウィリ×カク。これはもうアルムでは常識! 絶対正義です!」


 ミスラの瞳はキラキラ輝いている。それはそれは良い笑顔だ。

 ただ内容はいかがなものか。カクランティウスはまだ分かっていない様子だが、分かってしまう九郎は無意識に一歩下がって尻を隠す。

 それを見咎め、ミスラはさらに興奮した様子で拳を握りしめていた。


「ご覧くださいまし! お父様っ! クロウ様のこの行動! 無意識に自分が攻められる立場だと分かっているような、この仕草! ゾクゾクきませんか? いえ、分かっております。お父様とクロウ様は長い期間共に旅をされた仲。死線を潜り抜け、苦楽を共にする内にお互いを認めあい……。ああ……。

 フォルテもご覧くださいまし。……あの可愛らしい顔の少年でさえ、クロウ様の受けの気に攻め気を感じ取っていますの! 力の弱い少年の攻めに、なんとなく拒みきれずに付きあっていく内にやがて……。大正義ですね! 正義という言葉は、こういう時の為にあるものとわたくし思っておりますの」


 なんと禍々しい正義なのだろうか――九郎は渋面したまま冷や汗を流す。

 堰をきったかのように、とても良い笑顔で布教を唱えるミスラの瞳は、熱の籠った腐った澱み。


(こいつ……腐ってやがる……。手遅れだ……)


 果たして物理的に腐った自分と、精神的に腐っているミスラ。どちらの方が悍ましいのだろうかと、九郎はぼんやり考え――。


「昨晩の事もそうですわ! わたくしの攻めに耐える姿……。身をよじり意思に反して抵抗できない事への喜びの表情……。ああっ……あれ程わたくし女だった事を悔やんだことはありませんわ。もしもわたくしのココチンが本物であれば……」

「こ、ココチン?」

「ココチンとは、お母様の国の言葉で――」


 九郎は脱兎の如く逃げ出していた。この先の展開など見るまでも無い。

 カクランティウスがこの先どういった運命を辿るかなど、既に何度も目にしている。


 親の愛情を伝えようと装った真剣な顔は、塵となって崩れ落ちる事だろう。

 だからこそ、『吸血鬼ヴァンピール』を瀕死から全快まで持って行ける血を持つ九郎は、ココにいてはいけない。一年以上前に建てたフラグが、逆さになって襲ってきた気分だ。


 尻を押さえ、締まらない自分の運命に涙しながら、九郎は心の中で叫んでいた。


 ――締まらなくても良い。いや、締まらないからこそ・・・・・・・・・、それだけは勘弁して欲しい――と。


 九郎が心の叫び声は、朝の森に静かに吸い込まれていった。

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