第241話  掌の中の命


「魔力切れだ……」


 九郎の脳裏に思い浮かんだのはその言葉だった。

 混乱したクルッツェの話はまるで要領を得なかった。しかしミスラが塵になって崩れ落ちたとの言葉に、即座にそれが思い当たった。九郎もカクランティウスがそうなった時は、死んだと思ったのだ。

 クルッツェは長年彼女に仕えてきたと言ってはいたが、ミスラはお姫様であり命の危機などそう有る訳では無い。そもそも戦いの中にいたカクランティウスでさえ、スケルトンの姿は家族にも見せた事が無かったと言っていた。王室の生活で彼女が瀕死になることは無かったのだろう。


「まだ……間に合うっ!! アルトっ……暫くここを頼む!」

「ちょっと! どうしたのさ?」


 九郎はゆらゆらと目の前をうろつくクルッツェを睨みながら、アルトリアに叫ぶ。

 九郎が仲間内で一番頼りにしているのはアルトリアだ。不死性は九郎に引けをとらず、その魔法も本来の威力はかなりのもの。危険が予想される中に、誰かを連れていくとなれば、九郎はまずアルトリアを選ぶだろう。

 しかし魔力切れであるのなら、アルトリアは逆に止めを刺す可能性がある。今は誰にも影響が無いように見えている彼女の『吸収ドレイン』も、僅かながら漏れているかもしれない。


「ミスラが骨った! アルフォス達も付いてくんな! 『死霊レイス』が暴走しちまってる可能性が高い!」


 説明している時間は無い。

 クルッツェの顔は怒りの中に、悲壮さが混じっている。何故九郎に攻撃をしかけてきたのか。聡明そうな彼を知っていたからこそ、九郎はその真相に思い至る。

 クルッツェにはもうミスラの魔法の力が通っていない。彼はもう攻撃性を持たないと、九郎達には見えない存在になってしまっている。クルッツェが何故九郎を攻撃対象に選んだのか。攻撃しても死ぬ事が無い不死の存在だからだ。何故九郎に助けを求めたのか。九郎が生きている・・・・・『不死者』だからだ。


 九郎は『吸血鬼ヴァンピール』の生態をカクランティウスからかなり詳しく聞いていた。見るからに瀕死のカクランティウスが、無茶をしないよう、気を付ける為にである。

 聞いた限りにおいて、『吸血鬼ヴァンピール』はかなり強力な『不死性』を持つ。それこそ、九郎やアルトリアのように生やす事は出来ないが、致命傷に思える傷でもいきなり死ぬ事はまず無い筈だ。

 ミスラは何の傷も負ってはいなかった。なのに体が崩れたと言う事は、魔力の枯渇意外に考えられない。しかしいきなり骨も残さず消えるような魔力の消費は、魔法ではありえないとカクランティウスが言っていた。

 言葉と同時に駆け出した九郎の耳に、龍二の呟きが引っかかる。


「そういや、あの姫さん殆んど魔力枯渇しとったな……。なんや? 『吸血鬼ヴァンピール』って魔力切れで死ぬん? ってなんやぁぁぁぁああ!?」


 即座に龍二の襟首を掴み、再び走りだす九郎。

 考えて見ればもう一人かなりの実力者であり、見えない『死霊レイス』も視認できる者がいた。 

 荷物のように九郎に担がれ、面倒そうなことになった――と言わんばかりの龍二に、九郎は走りながら語気を荒げる。


「死ぬとか簡単に言ってんじゃねえ! ぶっとばすぞっ!? けど今はそれどころじゃねえ! 協力しろっ! あと詳しく話してくれっ!」

「いや、あの姫さん。魔力の上限自体は1000超えとって、結構ステータス高かったんやけど……残量は殆んど残ってへんかって――」


 背中でブツブツ数字を呟く龍二の言葉に、九郎の顔は見る見る青褪めていた。その数字が高いのか低いのかの判断は九郎にはつかない。しかし龍二の言葉が確かであれば、ミスラは元から殆んど魔力が枯渇寸前だった事になる。

吸血鬼ヴァンピール』は魔力の枯渇が死と直結する種族。謂わばあの時から既にミスラは瀕死の状態だったのだ。

 しかし瀕死になっていた理由が分からない。

 龍二との戦いの時、相手をしていたのは九郎であり、ミスラは戦いはおろか魔法の一つも使っていなかった。なのに何故瀕死の状態に陥っていたのか――と九郎の脳裏にミスラが一番疲弊していた場面が浮かぶ。


「お前の所為じゃねえかっ! 万が一があった場合俺はお前を許さねえぞ!」

「くそっ。言わんでも分かった……。ケド全部俺の所為っちゅーんも……分かった! 分かったからっ! 出来るだけ協力すっから、ぶっそうな事考えんといて。ちびるわ……」


 表情から予想したのか、心を読んだのか。やり場のない怒りの矛先を見つけた九郎に、龍二が慄きながら顔を顰めた。

 龍二が見たミスラが瀕死に陥っていた理由は、『神の力ギフト』を使い過ぎた為。

 九郎にはそれしか考えられなかった。

 そもそも『神の力ギフト』を隠していた龍二。その力の名前・・が記録に残ることはありえない。その見た目から九郎の『フロウフシ』なら噂に残る事もあるかも知れないが、龍二の『神の力ギフト』の名前、『ボウカンシャ』はどう考えても能力を知ったとしても、繋がらない。

 ならばミスラはどうやって・・・・・龍二の『神の力ギフト』名を調べたのか――。


「そういや、不思議に思っとったけど……。ま、そりゃ魔力も枯渇するわな。神様の記録覗き見したら……」


 九郎の心を覗き見たのか、背中で龍二が溜息を吐いていた。

 ミスラがいきなり魔力の枯渇に至った理由。『来訪者』ではないミスラは、『神の力ギフト』を使うのに大量の魔力を消費すると言っていた。ただでさえ魔力を消費する『神の力ギフト』。神様が書き記した書物を覗くのに使った魔力は、いったいどれほどの量が必要だったのか。


 龍二との対決の時、九郎はこちらの陣営の被害全てを、自分が肩代わりできたと思っていた。

 味方も敵も、誰一人傷付ける事無く、全ての命を守り切ったと思っていた。


(くそっ……。聞いてただろうがっ! ミスラがギフトを使うにはすっげー魔力がいるってよ! 知ってただろうが! 『吸血鬼ヴァンピール』は魔力の枯渇が死に直結するってよぉ!)


 龍二に向ける怒り以上に、九郎は思慮の足りない自分に向かって怒りを募らせていた。

 その時はミスラが『吸血鬼ヴァンピール』とは知らされていなかったので、仕方が無かった部分もある。それでも彼女が『吸血鬼ヴァンピール』と分かった時点で、その心配はしておくべきだった。

 ミスラの姿が最初から変わっていなかったから大丈夫だと、その後に心配すらしなかったことが、最初の見落としだった。魔力が枯渇していた状態でも、姿を留める事は出来る。カクランティウスがそうしていたように、枯渇していた状態でも、無事を装う・・・・・事は出来るのだ。少なくなった魔力を更に消費して――。

 何度も目にしていた筈なのにと、九郎は悔しさに唇を強く噛みしめる。鋭い痛みと共に、唇が割れその血が喉を伝っていた。



☠ ☠ ☠



「ミスラっ!」


「急いでいた準備時は仕方がないが、目的を終えた後まで姫様を働かせるのは……」とのアルフォス達の言葉から、後始末は九郎達だけが負い、ミスラは近くの湖畔で休んでもらっていた。

 ミスラが謝辞を述べながらも、その言葉に甘えた時点で気が付けたのではと九郎が再び唇を噛みしめる。


「うっわー……。えぐいことなっとるなぁ……」


 龍二のぼやきが九郎の焦燥を加速させていた。

 九郎達がそこに到着した時、その景色は昼間とはまた別の『死』の氾濫だった。

 湖のほとりにはドレスだけが残っており、その周りに白く朧気な物体が悲痛な呻き声を上げながら飛び交っていた。考えるまでも無くミスラを守っていた『死霊レイス』達だろう。初めて見た時、彼等は半透明ではあったが、しっかりとした人の形を留めていた。その彼等は、今や九郎の知る人魂と変わらない。時折悲しみに暮れる顔が浮かび上がり、九郎でなくても悲鳴を上げる――そんな恐ろしいものへと姿を変えていた。


 しかしそんな恐怖など、今の九郎の心の恐怖に比べれば無いも同然。

 娘の死に悲壮に暮れるカクランティウスの姿を見る事に比べれば、精神的な怖さなど比べる事も出来ない。


「ミスラ! おいっ!! ミスラっ!」


 龍二をその場に放り出し、白い靄を掻き分け九郎はドレスに駆け寄る。

 その靄に触れる度に体力が削られるが、気にしない。


「止まれっ! アカン! 潰してまうでっ!」


 その時、体を起こした龍二の怒鳴り声が響いた。

 命の危機に対して感覚が研ぎ澄まされていたからこそ、九郎は足を止められた。これまで何度もその手の中から零れ落ちた命を見て来ただけに、無意識に龍二の言葉に含まれていた残こていた希望に気付けていた。


「「残ってる・・・・ってことだよな!? くそっ……頼むっ!」


 ドレスを慎重に持ち上げ、九郎は祈るように呟く。

 残った意識でミスラを守ろうとしているのか、『死霊レイス』の攻撃は激しくなる一方だ。

 その力はどんどん凶暴になっているのか、彼等が触れた場所が干からびていた。

 しかしもう九郎はそれを見てもいない。


 龍二の言葉は確実にまだミスラ・・・・・が生きている・・・・・・ことを示している。

 ならば九郎は零れそうな命を探すことしか頭に無い。


 ………………………………キィ


 『潰す』と言う言葉から、もう欠片の状態なのかもしれない。目を皿のようにしてドレスを調べていた九郎の耳に、その時微かな音が聞こえた。

 その音は僅かな風に軋む扉のようであり、また虫の足跡ほどの音でしか無かった。

 しかし命の音。命を諦めない者が溢す、足掻きの声。死者が溢す嘆きの中であっても、九郎が聞き漏らす筈も無かった。


「ミスラっ…………………?」


 慎重に手を伸ばす九郎の右手の指先に、何かが触れた感覚。そして指先から伝わる針のような痛み。

 恐る恐る手を添えて取り出すと、それは小さな――小指の先ほども無い大きさの――嬰児だった。


 ……………………キィ…………


 あれほど九郎を攻撃していた『死霊レイス』達は、嘘のように静かになっていた。

 九郎が誰だかも分からなくなり、錯乱状態に陥っていた『死霊レイス』達も、ミスラを目にして我に返ったのかも知れない。


「うっわー……。マジか……? きも……」


 龍二の後ろで呟く小さな声が聞えていた。

 湖面の月は眩いくらい青白く冷たい光を放ち、夜目の利かない九郎にもはっきりとそれが確認出来ていた。目も出来ていない。手も足も生えていない。オタマジャクシのような彼女・・を、しかし九郎は少しもグロテスクとは思わなかった。龍二の言葉に怒るでも無く、ただ九郎は安堵の吐息を吐きだしていた。


 ミスラは必死に九郎の指先に取り付き、歯も無い口で齧りついていた。それが何を意味するのか、知らずとも分かる。知っていたのなら尚更だった。


「んっぐっ!!」


 九郎は体からナイフを取り出し、指に向かって筋を作る。

 赤い筋は一瞬間を置き、月の光の下、黒い血の球を浮き上がらせると、九郎が作った道筋を辿って指先へと導かれていく。そして小さな小さな彼女の口に吸いこまれていき――。


 ……………………キィ…………キィ……


 ミスラの鳴き声は少し大きくなっていた。それが気の所為で無い事は、彼女を注意深く見守っていた九郎には直ぐに分かった。

 小指の先ほどの大きさしか無かった彼女は、親指くらいの大きさになり、少し目も開いたようだ。


「良しっ……。構わねえぜ? 何人前でも用意してやる。遠慮はいらねえ!」


 九郎は顔を輝かせて、ナイフを腕に走らせる。自傷による痛みは今だに凄まじい。しかし彼女を失うカクランティウスの心の痛みに比べれば、自分の感じる痛みなどただ痛い・・・・だけでしかない・・・・・・・


 見る見るミスラは成長していた。

 腕が出来たと思った次の瞬間には、足のような物が確認出来た。九郎が顔を輝かせている間に、顔が段々それらしくなり、瞬く間に嬰児は乳児に変っていた。


「あの……アニキ? さっきから見てるとガンガン生命力が減ってるみたいやねんけど……。つーか魔力ゼロてなんやねん!? そんなんでよう生きとれ……そうやったな。不死やったな……」


 恐る恐る龍二が声を掛けてきた時には、ミスラは既に3歳児くらいに成長しており、九郎の首に直接牙を突き立てていた。

 貪るように九郎の血を求める彼女の食欲は想像以上で、九郎は干からび、再び血液を再生させるという強制的ダイエットとリバウンドを繰り返している。

 しかしその九郎は、輝く月に負けないくらい満面の笑み。給水ポンプのように膨らんだり萎れたりを繰り返しながらニカッと笑う九郎に、龍二は若干引きつつ溜息を吐いて肩を竦めた。


 自分でも単純だなと思うくらい、九郎の心の中の龍二への怒りは、綺麗さっぱり消し飛んでいた。それどころか感謝の念が大きいくらいだ。

 なぜミスラが骨の姿では無く、嬰児の姿を取っていたのか――それは聞くまで分からない。

 しかし九郎は確信めいたものを感じていた。

 彼女の生きる事への渇望が、この姿を取ったのだろう――と。骨の一欠けらで出来る事など何も無い。それよりも僅かでも意思が示せる姿をと、ミスラの魔力が嬰児の姿を選んだのでは――と。


「ホンマ、単純なお人やでぇ……。そのお姫さんも……結構エグ……。

 …………ホナ、ナントカナリソウヤシ、先にモドットルワ。よう考えたら、あの痴……お姉さんとユーリらいっしょにしとったら心配やし……」


 呆れの表情を浮かべていた龍二は、何かを言いかけ、そのまま九郎に背を向ける。

 よくよく考えて見れば、直感で血を与えていたが、もう少し龍二に詳しく聞いてからが良かったかと、九郎は自分の迂闊を反省する。心を読む事が出来る龍二であれば、この状態になったミスラの心の声でも、見えたかもしれない。

 肝心な部分が抜けていると顔を顰めた九郎は、そのまま仲間の元へと向かう龍二の背中に声を掛ける。


「助かったぜ、龍二! ありがとよ!!」


 九郎の礼の言葉に、龍二の反応は、振り向きもせず片手をあげただけの、そっけないものだった。

 まるで逃げるような仕草は、彼の照れ隠しなのだろうか。


「ま、素直になれねえ年頃ってのは、誰にだってあんよな?」

「んっ……んっ……」


 九郎は龍二の反応に目を細め、ミスラに語りかけながらその頭を撫でる。

 既にミスラは5歳児くらいの年齢にまで成長している。もう言葉を話すことも可能だろうが、今は九郎の血を吸う事に夢中のようだ。


「成長期だもんなぁ……。しっかし、カクさんになんだかわりい気がしてくんな……。娘さんの成長俺が見ちまって………………」


 湖畔に座り、ミスラを抱きかかえたまま、一人言ちた九郎は、ふと横を見て血の気を失っていた。

 血を吸われているのだから当然――その常識は九郎には通用しない。


「ミスラっ! ちょ、タンマっ! ヤバいっ!」


 ミスラの背中をタップする九郎。アルバムをめくるように成長するミスラは、嬰児から育ったのだから当然裸。今の年齢なら九郎はなんとも思わないが、これが九郎が女性を感じる年齢になったら?

 そもそも彼女は年齢的に言えば、この状態で既に九郎よりも年上の可能性も高い。


「んっ? ……じゅるるるるっ!!!」

「のうっ! ストップ、ミスラ! このままじゃ、今度は俺がカクさんに殺されちまうっ!」


 九郎のタップにミスラの答えは、より強烈な吸血だった。

 今の所、滾る気配・・・・は感じられない。しかしそれが、見た目から来るものか、それとも吸血され続けている所為なのか、九郎には判別がつかない。

 九郎が子供に対して性欲を持たないのは、「子供は慈しむべきもの」と言う認識が強いからだ。田舎育ちであり、集落の兄貴的存在だったことからくる保護者的観点から来るものだ。ならば九郎は年下には何の興味も抱かないのかと言えば、そうではなかった。「子供」と「大人」の線引きは九郎の中で明確な指標が作られていた。

 それは九郎自身が「大人」になった年齢である。成人と言う意味では無く、「男」になった日と言い換えても良い。

 それがあるからこそ、九郎は過去に90歳越えの幼女、森林族のゲルムが目の前で脱ぎ始めた時、必死になって止めたのだ。


 九郎が心の葛藤に、苦悩している間もミスラは育っていく。

 逃げようとする九郎を拘束するその手足は既に長い。引きはがそうにも、脇に手を入れた瞬間反応してしまいそうで、手出しが出来ない。

 何も身につけていない白い肌は、月の光の中眩い光沢を放ったまま、九郎に強く押し付けられる。時折吐くミスラの息継ぎが、耳に掛かってこそばゆい。


「待ってくれ、ミスラ! 正気に! 正気に戻って! ぷりぃぃぃず!」

「んっ……んくんくんく!」


 押し付けられている胸に幸せの柔らかさを感じ始めた頃、九郎の意識は別の場所へと旅立っていた。

 彼女が成長したからか、それとも吸う血の量が減ったからかは、九郎には判別できなかった。


(そう言えば、こっちの世界の『吸血鬼』には、ニンニクって有効なのかなぁ……)


 向かう意識の先に見えた「ニンニク潰し」の幻覚に、九郎はそんなことを考えていた。

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