第239話 死なない恐怖
アルムとルクセンを隔てる森に、赤い雨が降る。
大きな鳥の影が過り、数人の兵士が空を仰ぎ見た次の瞬間、辺境伯軍の頭上に赤黒い物体が降り注いでいた。
「ぎゃぁぁぁぁぁああああっ!!」
「ひぃぃぃぃぃぃいいっ!!」
森そのものを震わせるかのように、辺境伯軍全てが奏でる悲鳴の合唱。
辺境伯軍に降り注いでいたのは――腐敗しパンパンに膨らんだ人の内臓だった。
辺境伯軍は千を超える数の軍隊であり、当然長蛇の列となる。
一度目の『
赤黒く爛れ蛇のように蠢く腸。歪な形に絶えず変化し続ける胃袋。
目にするだけで悍ましい、腐った
『勇者』が一瞬にして倒され、隊列は既に崩壊していた。
前線から必死の形相で引き返してきた騎兵達に、後列の兵達はキョトンと間の抜けた表情を浮かべていた。
そこに人の腐った臓物が、蠢きながら降り注いだのだ。
兵士達の驚きようは、騎兵達に負けず劣らず、悲惨なものだった。
兵士の何人かは恐慌状態に陥り、手に持つ剣を振り回していた。頭上に降った臓物の雨は、『
「ひいっ! 来るなっ! 来るなっ! ひいいいいいっ!!!」
「虫がっ! 虫がぁぁぁぁぁああ!」
巻き起こるさらに大きな怖気の叫び。
悲鳴を上げ泣き叫び、顔を覆って転げまわる兵士達。
薬物患者を思わせる彼等は、誰しも幻を見ている訳では無い。
見ているのはそれよりも酷い悪夢だった。
切り裂いた内臓から蜘蛛や鼠、ミミズや名前も知らない奇怪な虫達が湧き出していた。
ただの虫に、大の男が怯えるなど――と笑っていられはしなかった。何事にも限度と言うものがあるのだと、兵士達はその身をもって知らされた。
万を超える生物の群れと言うものが、どれ程の生理的嫌悪を抱かせるのか。
無残な死体そのものよりも、それを穢す生物が持つ恐怖。人の死体を担げる兵士も、虫に食われ蠢く死体は担げない。
降り注いできた内臓は、腐っているからか触れるだけで弾けて周囲に万の生物を撒き散らした。
蠢く雨。大地に、木々に、兵士達に降り注いだ小さな生き物を産みだす赤い雨は、世界を黒く変えていた。
☠ ☠ ☠
「お初にお目にかかりますわ。ボロッソ・ベン・ヘーゼル・ルクセン辺境伯殿」
混乱した自軍に見捨てられ、呆然としたままその場に佇んでいたルクセン辺境伯の前に現れた少女は、眩しい笑顔で、悲鳴の渦巻く森に降り立っていた。
血と臓物で溢れかえり、羽虫や蠅が飛び交い、大地は蠢く蛇や蜘蛛で覆われている。
そんな地獄よりも恐ろしい世界の中にいて、その少女は、彼が今迄目にしたどんな美姫より可憐で美しかった。
今望めるのなら金貨1000枚でも惜しくは無いと感じる、抜けるような青空と同じ色の長い髪。
死者を統べると謂われる、紫色の美しい瞳。
何者にも穢す事が出来ないような白く輝く磁器のような肌。
そして白地に金糸が編み込まれた、白の神官服を模したドレス。
どれもが今の辺境伯が欲して止まないものであり、この地獄から抜け出す鍵と思えた。
「カクランティウス・レギウス・ペテルセンの末子。ミスラ・オウギ・ペテルセンと申します。以後お見知りおきを……」
息をすることも忘れて見入っていた辺境伯に、少女は微笑み、洗練された淑女の礼で応える。
天上の鈴の音のようなその声は、悲鳴の渦巻く中にあって、何に遮られる事も無く、辺境伯の耳に届いていた。
そして遅行性の毒物のように、じわじわと彼の脳内に広がっていく。
「き……貴様があの……」
脳を満たした毒の言葉に、辺境伯は徐々に憎々しげに顔を歪める。
先程は美しさに息をするのを忘れていたが、今度は怒りに息が出来ない。
やっとの事で口を開くが、続く声が紡げない。
辺境伯も馬鹿では無い。
何故今彼女が自分の目の前に現れたのか、それを理解し、込み上げる怒りでそれまで青褪めていた顔が、一気に怒りで赤黒く染まっていた。
それをさも面白そうに眺め、ミスラと名乗った少女はクスクス嗤う。
「どの……かは存じ上げませんが、断りも無く我が国に鉄蹄を穿った貴軍に、私からの歓迎の意。喜んで頂けたでしょうか? 攻める相手に
嘲るような、むずがるような表情で頬を僅かに染め、少女は辺境伯に諭すように語りかけてくる。
その内容は彼には理解できなかったが、明らかに嘲られている事は理解出来た。
笑みを湛えた少女の瞳は、冷たい氷を思わせるまでに残酷だった。
「おのれっ! 愚弄する気か! 魔族の分際でっ!!」
辺境伯は怒りのままに少女に飛びかかり、剣を振り下ろす。
この時だけは感じていた恐怖を、怒りが凌駕していた。
辺境伯の持つ剣は、寸分たがわず少女に吸い込まれ、肩口から胸にかけてを両断する。
「口の利き方も知らぬか! 忌まわしい魔族の小娘めっ―――?!」
嗜虐的な笑みを浮かべ、少女を切り捨てた辺境伯の顔は、再び赤から青へと変わっていた。
少女の姿は揺らいでいた。揺らいだまま何の痛痒も見せず、張り付いたような笑顔を辺境伯に向けていた。
(こやつもアンデッドか? ぐーるとか言うアンデッドの親玉か!?)
確実に致命傷を与えた筈の一撃は、辺境伯の手に何の手ごたえも伝えてこない。
名工に鍛えられた手に持つ剣には、血の一滴も着いていない。
「本来であれば、あなた方は
袈裟斬りに両断された少女は、その姿のままクスクス笑い、話し続ける。
「愛とは一夜を千秋に感じるものと言うそうですね? これから貴軍は、毎夜千秋に感じる眠れぬ夜を過ごして頂きとうございます。今日、この日を忘れぬように。極上の恐怖で……」
「ヒイイイィイイイイィイィッ!!」
俯きながら少女が再びドレスを持ち上げ、下げた頭を再び上げると同時に、辺境伯の口からは怖気の声が上っていた。
身の丈を越える大きな瞳。かと思えば掌くらいの妖精の姿。
空に浮かんでいるかと思えば、逆さになって笑っている。
鏡の中の世界に迷い込んだかのような光景が目の前に広がっていた。
映っているのは幾百の数の同じ姿の少女達で、それは出来の悪い悪夢を、更に恐ろしい物に変えていた。
「うぎひぃっ! ふぅっ! あひぃ!」
恐怖に錯乱し、辺境伯は遮二無に剣を振り回す。大小様々な大きさの少女を斬りつけ、狂った世界で踊り続ける。
斬られた少女の姿は揺らめき、霞のように辺境伯の剣を飲み込み――そして爆ぜた。
ヴヴヴブヴブヴブヴブヴブヴブヴ!
同時に耳に響く幾億の羽音。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
蚊柱に自ら突っ込み、奇怪な虫にまみれて辺境伯は悲鳴を上げて踊っていた。
顔を覆い、目を瞑り、必死になって剣を振るうと、羽音は更に大きくなった。
白の魔法は光の魔法。虚像を作り出す事も可能である。
ただでさえ薄暗く、今や雲霞に煙っていた森の中は、暗室と同じようになっており、その効果は抜群だった。
しかし魔族が、アンデッドが、光の魔法を使ってくるとは誰も考えてはいなかった。
「感じてください……アルムがどれ程恐ろしいかを……。思い知ってください……。魔族がどれだけ人に近しい存在なのかを……」
少女の少し寂しげな声が虫の羽音に混じって消えていく。
それと同じく、少女の虚像も消え失せていた。
景色は再び元へと戻る。
悪夢のような地獄の光景。腐った臓物が溢れ、悲鳴が木霊する元の世界に――1つ新たな恐怖を伴い。
アルムに入って最初に目にした串刺しの死体。今や虫に集られ、食い散らかされてボロボロに傷んだ、串刺し死体が一斉に浮き上がり、落ち窪んだ瞳で辺境伯を見下ろしていた。
☠ ☠ ☠
ルクセン辺境伯軍槍兵、ガイゼルはニヤケ面で涎を拭う。
津波のように襲い掛かる恐怖に、その目は現実を見る事を止め、悪夢と思う事で最後の正気を保っていた。それは果たして正気なのか――それを考えられる思考は既に失われていた。
「お嬢ちゃん……。こんなところで何をしてるんだい?」
夢だと分かれば怖くない。
これは自分の頭が作り出した悪夢に過ぎない。
ガイゼルはそう考え恐怖を克服した気になっていた。
(良い夢だって突然悪夢に変る事もあるんだ……。悪夢が突然良い夢に成ることもあらぁな……)
猫撫で声でガイゼルが声を掛ける先には、銀髪と褐色の肌を持つ少女が驚きの様子で目を見開いていた。
金色の目を持つ中性的な美少女。まだ成人にも満たない年齢に見える。胸も尻も小さく、ガイゼルの好みとまるで違っていたが、その沸き立つような色香にガイゼルの喉が動く。
「あ、あの……僕……」
「ここは恐ろしい場所だぁ……。森の外まで送ってあげよう……」
花畑の上で何かを抱えて蹲っていた少女に、ガイゼルは肉欲に滾った視線を隠そうともせずにじり寄る。足元で小さな音がしきりに鳴っていた。
「大事そうに何を抱えているんだい? お人形かい? おじさんがそれも持ってあげよう」
ガイゼルは夢だと思い込んでいた。だからそれを普通と捉えていた。
冬に差し掛かる今の季節、極彩色の花畑が存在している、その異様な景色を。
ガイゼルは気付く事が出来なかった。
好みでもない少女に獣欲を覚えた理由が、生命の本能が訴える種の保存に因る最後の足掻きだと言う事を。
そして――
――その本能すら狂っていたと言う事も……。
「おっさんに抱かれる趣味なんざねえよ!」
少女が大事そうに抱えていたのは人の首だった。そしてあろうことか少女では無く、その首がガイゼルを忌々しげに睨みつけ、怒気の籠った声を上げていた。
足元が無くなるような恐怖。それは比喩では無く、本当にガイゼルの足元が崩れ落ちる。
ギチギチキチキチギチギチキチキチギチギチキチキチギチギチキチキチ
ギチ「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」ギチギチキチキチギチギチキチキチ
ギチギチキチキチギチギチキチキチギチギチキチキチギチギチキチキチ
ガイゼルの怖気の走った悲鳴は、極小の何かが起こす物音にかき消されていた。
足元に突然開いた深い穴。ガイゼルが踏みしめていたのは、少女の周りに集っていた万を超える虫や蜘蛛、蛇の上だった。
少女の周りに集う小動物は、頻りに身をくねらせ、羽を広げ、自分が一番美しいと少女にアピールしていた。ガイゼルと同じく、種の本能に突き動かされて求愛していた。
ガイゼルは、気持ちの悪い生き物の大軍に飲み込まれながら、ふと我に返る。
悪夢の終わりは自分の悲鳴。寝汗の嫌な感覚に眉を顰め、目覚める事でしか終わりがなかった。
せめてこれが悪夢であって欲しいと、祈りながら意識を手放すガイゼルの耳に、狂った本能を嘲笑う死者の会話が反響していた。
「ぼ、僕ならどうですか? クロウさん? 大丈夫ですっ! 優しくします!」
「そそそ、そもそも俺は男に抱かれる趣味がねーって……フォルテ! おいコラ! 耳を塞ぐんじゃねえ!」
☠ ☠ ☠
「なんなんだアレは!? なんなんだアレは!!」
ルクセン辺境伯軍、近衛隊長であり副将。イクシスは内から込み上げる恐怖に抗うように、呪詛の言葉を吐き続けていた。守る筈の将、辺境伯の姿は見えない。逸れてしまったのか、それとも自ら見捨てていたのか、もはやどうでもよい事だった。
既に軍は軍の体を成してはいない。そこら中で湧き上がる獣の雄叫びのような悲鳴。
それはまさしく悪夢であり、地獄の光景。
辺りは飛び交う極小の虫達で満たされ、黒い霧がかかったようだ。叫ぶ度に虫が口に入り込むが、それでもイクシスは叫ぶことを止められなかった。
叫んでいなければ、恐怖に圧し潰される気がしていた。
「『
イクシスが叫んだその耳に、再びその声が届く。
「ぁぁぁぁぁあああああああ!!!」
ただでさえ薄暗かった森。雲霞に煙るその中に時折響く少女の悲鳴。
それに呼応するかのように、憐れな亡者の泣き声が連鎖していく。
『
伝説とまで言われる『
イクシスが思い浮かべた化物の名前は、どれも既に神話の域にいる化物の名前だった。
化物――一般に『
しかし『
『
『
どちらも美しい少女の姿をしていると言われていた。
『
そんな相手に人が敵う訳が無い。
勇者が一瞬で討たれたことも、同じ『神の眷属』であれば納得がいく。
自分自身で「ありえない」と言っておきながら、思い浮かべた化物の名前にしっくりきて、思わず笑いが込み上げていた。
答えを得てふと我に返ったイクシスは、自分が手を見て眉を下げる。その手に握っていた筈の剣は、無かった。
(あの眼に見据えられた途端……俺は……)
戦場で、それも忘我の化物に出くわして武器を捨てる事などありえない。
しかし、少女の瞳を目にした瞬間、イクシスは自分の手に持つ剣を、心底恐ろしいと感じていた。
剣は戦士にとっての相棒であり、幾多の困難を共に乗り越えてきた戦友だ。
なのにその手に持つ剣が自分を斬り殺す凶器に思えて、イクシスは無我夢中で剣を投げ捨てていた。
(恐れていたのか……。本心では戦いを……)
今イクシスが必死に握りしめていたのは馬の手綱だった。あの混乱の中でも、馬は自分を見捨てはしなかったようだ。
もしもあの化け物が『
皮肉に自嘲の溜息を吐き出し、イクシスはゆっくりと顔を上げる。無我夢中で馬を駆っていたからか、森の奥深くに迷い込んでしまっていたようだった。
飛び交う虫で煙った朧気な世界。遠くからは仲間の兵士の悲鳴が絶えず聞こえてくる。
なのにイクシスは世界を静かに感じていた。恐怖に心が麻痺し、もはや悲鳴は静寂に感じらていた。
だからこそ、その耳に悲鳴では無い話し声は、鮮明に届いていた。
「うん、そう……。また来ちゃった。大丈夫だよ~? ボクをなんだと思ってるのさ? うん、気を付けてね? クロウの事じゃないよぉ。うん、リオとフォルテをよろしくね~」
戦場――それも恐ろしいアンデッドで埋め尽くされたその場に、少しもそぐわない間延びした女の声。
一人の美しい少女が親しみやすい笑顔を湛え、虚空に向かってしゃべっていた。
悍ましい死体で溢れる世界から、再び現実に戻って来れたかのような感覚をイクシスは抱く。
それまで黒で満たされていた世界が、少女の周りだけ雪が降ったように真っ白だったことも、彼がそう感じた原因だった。
豊満な肢体を黒い衣装で包み、妖しげな色香を振り撒く妖艶な少女。
愛嬌を感じさせる風貌と人好きの感じさせる肉体。ともすれば暢気そうと感じられる、緩んだ笑み。
伝説級の化物が現れた魔族の国の森の中。人族に見えてもただの少女では無い筈だった。
しかし恐怖に摩耗し弛緩していたイクシスの脳は、その事に気付くのが少し遅れた。
「ちょっと可哀想な気もするけど……仕方ないよね? ちゃんと後で
妖艶な表情が少し曇ったかと思った瞬間、少女の両手の裾から黒い風が吹きだす。
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
イクシスが顔を覆った瞬間、耳に五月蠅いほどの羽音が木霊していた。
「ひぎうっ!!」
その音が過ぎ去り、薄目を開けたイクシスは、あの混乱の中でも押さえていた悲鳴を、喉から迸らせていた。
「あ゛……。ああ……! ははハはハハはは!」
狂ったように手綱を手繰り、イクシスは鐙を踏みしめる。
その喉から出ていたのは、恐怖を通り越した狂気の叫び声だった。
ズブリとイクシスの視界が馬にめり込む。体中を這い回る蟲の感触が登って来ていた。
黒い風が通り抜けたかと思った瞬間、イクシスの乗っていた馬から、大量の蛆が湧き出していた。
覗く白い骨と、肉の代わりに溢れる白い蛆虫。
「あばばばばばば。あはははははは!」
その身を半ばまで蛆で覆われたまま、死骸の馬に跨り狂気に縋ってイクシスは声を上げ続けていた。
イクシスは馬から湧く大量の蛆に恐怖した訳では無かった。
虫に集られる恐怖は既に経験済みであり、その恐怖も今は麻痺して感じない。
「うう……。また笑い出しちゃった……。クロウに任せてって言ったケド……、ボクやっぱり人を驚かすのって苦手だよぅ……」
少女の消沈した声に、イクシスは狂った笑顔のまま答える。
「そうデシょうトモ! 貴方に恐怖は似つカワしく無イぃぃ! 『親睦の魔女』! 『好色な牝狼』! 冥府の先ニ住まウ『モルモン』!」
恐怖の先に巣食う、絶望。それすら超えた存在を確信し、イクシスは蛆の海に這いつくばっていた。
今の今まで心を支配していた恐怖は綺麗に消え去り、彼はただひたすらに願っていた。
アンデッドが持つ狂気の根源。執着を司る狂気の神を目の前にして、『死』は恐怖では無く救済だ。
慈悲を乞うのは命の為では無く、「殺すだけに留めて欲しい」と縋る為。
剣を捨てた事が今になって悔やまれていた。剣があれば即座に自分の喉を貫けたのにと、イクシスは蛆の海に自らを沈めて頭を垂れる。
「もるもん? ナニソレ? ボクはそんな変なのじゃないよぅ……。ボクはれっきとしたアンデッドでワイ……っと、これは内緒にしなくちゃいけなかった……」
少女の言葉は、狂気に逃げ込み、一心に祈りを捧げるイクシスにはもう届くことは無かった。
☠ ☠ ☠
「あ……ああ」
「コレハユメ……コレハユメ……はははははは」
「おお、神よ……救いたまえ……」
一時は森全体を震わせていた悲鳴は、徐々に静かになっていた。
他人の上げる恐怖の叫びはそれだけで不安を心に抱かせるが、静かになればそれはまた別の恐怖を抱かせる。
遠く耳に聞こえて来る声も、もはやしゃがれてか細く、絶望の海を揺蕩う沈む前の木端の軋みに聞えていた。
「ソウ、つんつんするなよぉ? だが、甘噛みは嫌いジャネエゼぇ? アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
時折聞こえる元気な声も、既に正気のそれではなく、狂気に身を委ねて恐怖に抗おうとした、憐れな兵士の末路を感じさせた。
「うひぃ……へぁ……」
辺境伯の口から零れる、白い息と共に吐き出された声も、もう人の口から洩れる言葉では無かった。
贅を凝らした鎧は、泥と嫌な匂いがする液体で汚れ、既に剣も手元には無い。
足は鉛のように重く、それでいてどこかフワフワと朧気だった。
ケテルリア大陸の人類国家の中で最強の軍を従え、勇んで魔族の国へと攻め入ったのがもう遥か昔に感じられる。
辺境伯は知らなかった。
アンデッドの持つ恐怖の本質。アンデッドは姿形が悍ましいだけで、人々から恐れられているのではないと言う事を。
「『
「びぃあっ!」
森の中に響く声に、辺境伯は少女もかくやの悲鳴を上げる。
怒気の籠った男の声が森の中に木霊する度、ありえない事が起こる。
黒ずんだ血溜まりから『
ありえない事。あってはならない事。
辺境伯はもはや全てが恐ろしかった。空も大地も木々も……世界そのものが恐ろしかった。
体力は既に限界を超えている。
しかし木に凭れ掛かる事も出来ない。ただ虫で覆われているだけならばまだ良いが、枝が突然人の腕に変るのだ。
地面に膝を付く事も許されない。人の首を持った少女が、大地に兵士を飲み込んでいくのを、この目で見てしまったのだ。
空は言うに及ばず恐ろしい。見る事すら憚られる、奴らが今にも襲って来る。
部下の兵士でさえ信じられない。狂った笑い声をあげ、蛆の海で転げまわる多くの兵士を見てしまった。
自分も意識を失えば、狂気に身を委ねればと甘い言葉が耳で囁く。
「嫌だっ! イヤダイヤダイヤダイヤダ!」
その言葉に、子供のように泣き叫びながら辺境伯は逃げ惑う。
地中から伸びる手。虫を際限なく生み出す臓物。
――捕まれば自分もあの中に
後ろを振り返る勇気は無い。
だが感じる恐怖は嘘をつかない。串刺しの死体は、ずっと後を追いかけて来ていた。
何をするでも無い。時折追い立てるように辺境伯の尻を
しかし恐ろしい。それは鳥が獲物をいたぶるそれに似ている。
子供の遊具のような緩慢な動き。だが死体の口から飛び出た杭の切っ先は、十分に恐怖を齎すものだ。
何度か斬りつけたりはした。
しかし相手はアンデッド。分断されても蠢き、辺境伯を嘲笑うかのように笑い声を上げ、浮かび上がる。剣が何の役にも立たず、それどころか恐怖を大きくする事を知り、もう剣は捨て去っていた。
アンデッドが何故恐ろしいのか。アンデッドが何故これほど恐れられるのか。
辺境伯はやっとその恐怖の本質を知った。
アンデッドは姿形が悍ましいから恐ろしいのでは無い。
『死』を感じる筈の物が動き回る。根本的な常識を覆すからこそ、アンデッドは恐ろしいのだ。
辺境伯の足元に杭が突き刺さる。血まみれの死体を携えたまま。
そして虚空に再び天使のような声が響く。
「凡愚と思っておりましたが、なかなかの胆力。正直見直しましたわ。その一線が我らと貴国を分かつ線。これからはお間違えの無いよう……。あ、交易その他、友好的な使者は歓迎いたしますわ。いずれ貴国とも分かり合える時代が来ると信じております……」
その声が消えるや否や、辺境伯は大地にドオッと倒れ込んでいた。
いつの間にか立派だった街道は、隠すように作られた細い道へと変わっていた。
「ふへっ……ふへへっ……ふへへへへっ……」
辺境伯の口から声が溢れ出る。
その声はやっと正気が手放せる喜びに打ち震えた、安堵の溜息となってルクセンの国境に消えていった。
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