第238話 堰を切る
「――おい、リオ? くっつきすぎじゃねえか?」
「う、う、うるさいっ! こうしねえと落ちるだろうが! ももも、文句あんのか!?」
暗い森の影で交わされる、弱り切った九郎と焦ったようなリオの声。
ルクセン辺境伯軍がてんやわんやの大騒ぎを繰り広げていなければ、気付かれていたに違いない。
「いや……その……おっぱい……がだな……」
リオはコアラの子供よろしく、両手両足を使い、ヒシッと九郎の背中に抱きついていた。その格好で怒鳴られても迫力もなにもあったものでは無い。「梃子でも離れない」といった様子は、ある種デレの極致を感じさせる。
所謂『だいしゅきホールド』。向かい合っていたら、九郎のクロウは大変な事になっていただろう。
普段であればありえない。
魅力的な女性との超接近に九郎が難色を示す事もだが、それ以上にリオが自ら男の背中に身を寄せることなど考えられない。
「お、おっぱいくらい我慢しやがれ! お前が言ったんだろ? ま、守るってよ?」
しかし考えられない状況で、考えられないリオのセリフに九郎は渋面する。
体面もへったくれも無く、必死にしがみついてくるリオの姿に、申し訳なさが込み上げていた。
この様な状況下で無ければ、九郎は鼻の下を伸ばして背中に全神経を集中させていた事だろう。アルトリア程は無くても、リオも普通に胸はある。彼女の胸には「幸せの柔らかみ」が詰まっている。
しかし九郎は、役得とは感じる事が出来なかった。
空気の入り込む隙間も無いくらい、ぴったりと背中に抱きつくリオは震えていた。リオの男性恐怖症は未だに治っていない。それでも彼女がそうせざるを得ないのは、この先に待ち受ける危険に、より恐怖を抱いているからに他ならない。
「やっぱ俺だけで……」
「い、今更何いってんだ! あ、アタシがいねえと駄目なんだろ!? だだだ、大丈夫だだ! こ、怖くなんかねえ! お、お前の方こそビビってんじゃねえか?」
余りに酷な事をさせようとしているのではと思い始め、九郎が口にしかけた言葉を、リオは震えながらも遮って来る。
元々奴隷だった為か、リオ達は自分の『役割』に固執する。無用と断じられれば即座に死が待っていた生活が、その根源にあるのだろうか。
「あの……そろそろ準備は宜しいでしょうか?」
目一杯強がりながらも、恐怖に強張ったリオの表情に、九郎がまた眉を落としたその時、突然横から声がした。
「「ひゃ、ひゃいっ!」」
九郎が飛び上がり、リオが九郎の首を絞めつける。
ミスラの侍従。クルッツェが突然姿を現していた。
「ややや、やっぱり、くく、クロウの方がビビってんじゃねえか……」
「ちちち、違うっつーの! お、俺のは……武者震いってやつだっ!」
どちらも
二人の会話を聞きながら、クルッツェは申し訳なさそうに眉を下げ、畏まっていた。
害意も敵意も感じさせず、どちらかと言えば慈しみの感情すら感じる彼に、恐怖を覚えるのは失礼だ。
そうは思っていても、彼は九郎が苦手とする幽霊の類で……。幼少から培われた恐怖は、中々克服できないでいた。
一応、なんとか会話が出来るまでにはなっている。邂逅時には我を忘れて怯えてしまったが、九郎が本質的に恐れる物は『何だか良く分からないもの』であり、出自も正体も聞いた以上恐れを抱く必要は無い。――と現在必死に思い込んでいる最中だった。
リオはもともと何にでも怯えるのがデフォルトなので、今は触れないでおく。
「姫様にご協力いただき、感謝の念に堪えません」
「い、いやっ……ななな、何てこと無いっす!」
朧気に透ける体で、クルッツェは畏まったまま頭をしきりに上下させていた。
そこに罪悪感を覚えながら、九郎はバチンと膝を叩く。
今自分は怖気付いている場合では無いと、怯えの心に気合をいれた形だ。
これから自分達は恐怖を振り撒く側を演じる。リオは『魔眼』の特性上、ビビっていても問題無いが、自分はそれでは駄目なのだと、強く心に言い聞かせる。
「姉さん、頑張ってね。大丈夫だよ。クロウさんがいるんだから」
フォルテがはにかんだ笑みを向け、姉に発破を掛けていた。
姉とは違って胆が太いのか、フォルテは大軍が攻めて来ていると言うのに、何の恐怖も感じてはいない様子だ。
(ま……あのご立派様なら、納得だよな……)
九郎は苦笑を浮かべてフォルテを見上げ、「任せとけ」と目で答えた。
☠ ☠ ☠
アルムへと侵攻を開始したルクセン辺境伯軍に襲い掛かって来た、身の毛も弥立つアンデッド。
斬っても燃やしても、祓っても蠢き続ける腐った死体。
心の弱い者は泣き叫び、豪胆な者でも青褪める。
しかし魔族の国に対する人族国家の橋頭保。千を超える数の戦士の集団。新兵でもない、熟練の兵士達で編成された軍隊は、崩壊するまでには至っていなかった。
「疲弊した者を入れ替えろ! 魔術師は
「しかし、このままでは……」
「もう少し耐えろ! まだ我々には……」
肩で荒い息を吐き、泣き事を口にする部下に向かって騎士団長ローレルが激を飛ばす。その彼とて心は今にも圧し折れそうだった。
まだ傷は負っていないが、それでも体は腐汁でまみれ、体力もかなり削られている。
そもそも騎兵の鎧は重く、小回りが利く作りにはなっていない。分厚い鎧も匂いに対しては無力だ。
部下の泣き事を咎めた手前、自らが泣き事を口にすることは出来ない。それが分かっていても、ローレルの視線は自然とある一点に向かっていた。
「はぁ……。わーっとる。しゃーないなぁ……」
軍の中でも花形の騎兵が苦戦する戦況下にあって、まだ誰も敗走していなかったのは、彼等がいたからに他ならなかった。
口にしないまでも、騎兵隊の誰もが彼を心の支えに踏ん張っていた。
面倒そうに顔を歪め、独り言を呟きながら前線にと躍り出た少年の姿に、恐怖と疲労に喘いでいた騎兵達が、にわかに色めき立つ。
「おおっ!」
「彼が噂の!」
「ルクセンの黒い明星!」
一人の少年と3人の少女の登場に、巻き起こる歓声。
「おお! 『勇者』殿! このような不甲斐無い場面をお見せする事になり、お恥ずかしい限りですな。しかし丁度良い機会。私は信じておりませぬが、貴殿も『魔王相手に尻尾を巻いた』と思われ続けているのも癪でしょう? どうです? 魔王相手の前哨戦にでも……」
辺境伯の心にも無いおべっかも、周囲の兵士は誰も聞いていない。
戦争をねつ造し、安寧と富と名誉を食んでいた辺境伯とは違い、辺境伯軍の兵士達は皆手練れ。精強であればこそ分かる少年の実力に、畏敬の念すら抱いていた。
伯爵は戦いが終わった暁には、勇者を裏切り中央への土産にしようと企んでいたが、それを知らない彼等は、純粋に彼の力を認め、『魔王相手に逃げ帰って来た』との噂も嘘だと考えていた。
「お気を付けください! あの『
「もう……ツいてへんな? よっ!
彼等が感じた実力が間違いていなかった事は、すぐに証明されていた。
彼等が抱く憧憬の念に応えるかのような凄まじい閃光。おざなりな態度で勇者が片手を突き出した瞬間、それまで飛び交っていた腐肉が一瞬にして燃え尽きていた。
しんと静まり返る辺境伯軍。そして続く空気を震わす大歓声。
「無詠唱であの威力……信じられん」
「それに乱戦だったと言うのに、こちらには被害が全く出ていない!?」
口々に今目の前で起こった事を確認し、その強さに感嘆する。
誰もが心に感じていた。
忘我の強さ。神の力を持つ者の実力。稀代の英雄と肩を並べる頼もしさ。
『勇者』がいれば怖いものなど何も無い――と。
☠ ☠ ☠
「!!!」
今や一挙一動に注目が集まっていただけに、兵士は即座に身構えていた。
強敵を一瞬で滅ぼした勇者が剣を構えた事で、弛緩していた彼等もすぐさま緊張の糸を走らせる。
「ひっ……ひぃぃっ……」
それが誰の溢した声だったのか。辺境伯軍の騎士団長ローレルには分からなかった。
アレを目にした兵士の誰かが溢した声だったのか、それともアレ自身の笑い声だったのか――。
しかし続いた声は
「なんだ、あれは――?」
「デュ……『
ざわめく兵士達が、口々に不安の答えを探している。
それは『
みすぼらしい胸当てを付けただけの騎士と呼ぶにはあまりに
死を撒き散らすと語られる左手の剣も、錆が浮き切れ味は元より一合打ち合えば折れてしまいそうにすら見える。
しかしつい先程強力なアンデッドに襲われていた彼等は、無意識にその答えに行きついていた。
戦士の格好をした
伝説級の
伝説では『
しかし目の前の『
首の無い男の体に負ぶわれた、黒い肌の少女。悲痛そうに顔を歪め、今にも泣き出しそうな表情の憐れを誘う少女。
その金色の瞳と目が合った瞬間、ローレルの背筋に冷たい汗が伝う。
「……デュ、『
兵士の中の誰かが溢した呟きは、静まった前線に奇妙な響きを伴い広がっていく。
間の抜けたネーミングなのに、笑えない。笑う事が出来ない。
足が竦んで動けなかった。カタカタカタカタ音を立てるのは、腰に吊った剣の鞘か、それとも歯の根か分からない。
「コ、コイツハ強敵ヤデー……」
誰もが恐怖に震え、目の前の少女と同じように泣き出しそうな表情を浮かべていたその時、『勇者』が一歩進み出ていた。
一瞬顔を輝かせた兵士達は、『勇者』の肩を見て青褪める。
『勇者』――勇気ある者の名を持つ彼の肩も、小刻みに震えていた。
勇者の仲間――お付の少女達の顔も皆青褪め、恐怖に強張っている。現れた魔物がいかに恐ろしい化物なのかを、それは如実に物語っていた。
(勇者殿でも恐怖を覚える存在……。あの御仁をして『強敵』と言わしめる存在……)
ローレルはその後ろ姿に不安と共に尊敬の念を向ける。
動く事も出来ないでいる自分達とは違い、やはり彼は『勇者』なのだと思い知る。
彼が強敵と言うのであれば、それは自分達の想像以上に違いない。それに立ち向かう彼と肩を並べる事も出来ない自分がもどかしい。
しかしローレルが感じる『勇者』と自分達の実力の差は、もう測ることも出来ない領域だ。
そんな自分達がしゃしゃりでても足手纏いになるだけ――。心の中の言訳を正当化させ、ローレルは思いを託して『勇者』を見守る。
張りつめられた緊張の糸は、もはや肌を刺すかのように感じられていた。
じりじりと距離を詰める『勇者』と『
開戦の狼煙と、伝説上の『
「ぐわー……」
続く声の主が誰なのかを、そこにいた兵士全員が
抑揚が少なく、気だるげなその声をつい先程あれ程頼もしく感じていたのだから、間違いようが無かった。にも関わらず、信じたくなかった。
「え?」
兵士達は揃って呆気にとられ、ポカンとした表情のまま、ただ目の前の光景を眺めていた。
「勇者……殿?」
誰かが上げたその声には、「冗談だろ?」と期待が込められていた。
その目に映る光景が信じられず、なのに信じなければならない事に、兵士達は一瞬困惑し、
「あ゛……あ゛あ゛あ゛!!」
絶望した。
誰の口から漏れ出た悲鳴か、自分の物だったのかさえローレルは分からなかった。
『勇者』リュージ。ルクセンどころかケテルリア大陸最強と噂された、『来訪者』。その力は『神の力』と呼ぶに相応しく、人類では到達できないような境地に至った強者。
魔王に対する希望と謳われた男の首からは、ありえないものが突き出していた。まるでそこから生えたかのように、勇者の首から突き出していたそれは、血に濡れた赤黒い人の腕だった。
「ありかよぉぉぉお! そんなの!」
「指さした一年後じゃねえのかよ!」
「一瞬?! あは……あははははは」
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
一拍置いて広がる恐慌。
どさりと『勇者』が倒れた音が引き金となり、誰の口からも泣き事が零れる。
それまで抑え込んでいた恐怖が、堰を切ったかのように溢れ出し、その場を支配していた。
一年後の死を予見すると言われる、『
その腕と思しきものは、勇者の首を貫き、新たな犠牲者を探すように蠢いていた。
「あああああああああっ!!!」
黒い肌を持つ首無しの男に負ぶわれた少女が、大声で叫ぶ。
「う……うわぁあああああああ!!!」
それに呼応するかのように、兵士の一人が剣も放り出して逃げ出していた。
それは一瞬の内に兵士全てに伝染していく。
一度目の恐怖に耐えた兵士達の心は、『勇者』によって天に登り、『勇者の死』によって奈落の底に突き落とされていた。
『
「くぅぅぅ! ああああああああ!!!」
金色の瞳に涙を溜め、今にも泣きだしそうな顔でヤケクソ気味に放たれる雄叫び。
――それが、これから起こる本当の地獄の始まりだった。
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