第237話 死の無い恐怖
広葉樹の紅葉も終わりが近づき、針葉樹の暗い色の葉だけが茂る昼でも薄暗い森の中に、何重にも重なった悲鳴が響き渡る。
――アルムなど、ただの臆病な狐の国! 我が精鋭ならかの魔王の国も恐れるに足らぬ! ――
勇ましい鬨の声と共にアルムに攻め込んでいた辺境伯の軍勢は現在大混乱に陥っていた。
混乱というよりも恐慌。頼もしいと感じる筈の数の軍勢が慄き逃げ惑うその様は、暗がりからいきなり日の光に晒された岩陰の虫を思い起こさせるものだった。
「ええいっ! 何を手間取っておる!」
辺境伯が声を張り上げ苛立ちのままに叫んでいた。
ありもしない戦をねつ造するだけで、安寧と富と名誉を食んでいた辺境伯だけが、未だに状況を把握出来ず、金切り声を上げ続けていた。
アルム国境を越えた辺境伯軍を待ち受けていたのは死体で出来た林だった。
しかし驚きはすれど軍の、それも今から戦をしようと意気込んで来た兵士達の足を止めるほどの力は持っていなかった。
精々胆の小さい兵士が引きつった声を上げ、周囲の兵士にからかわれるといった一幕が起こった程度。
負けるつもりは無い戦であり、ただの脅しの死体の群れに尻尾を巻いて逃げ出す事など、その時は誰も考えていなかった。
「相手はただのアンデッドだ! 臆するものでは無いっ! 皆剣を構えよ!」
串刺し死体の林によって出迎えられた辺境伯軍を混乱に陥らせたのは、死体の林からいきなり湧き出した、『
不死の魔物――アンデッドもこの世界に於いては珍しい物では無い。
『
もちろん『
辺境伯の認識では、アンデッドとは姿形が悍ましいだけの『雑魚』。
彼にもう少し知識か経験があれば、その認識はまた違ったものになっていただろう。
辺境伯は
何故アンデッドが
☠ ☠ ☠
「『
(無知は時に強い。が全く頼もしくは無いな……)
仕える上司の使えなさに、上司に向けるには適さない苛立ちの視線を向けながら、近衛が大声で叫んでいた。
アンデッド等『
(『
近衛のこの男も、辺境伯に取り立てられる以前はケテルリア大陸北部を回って修行を積み、剣の腕を磨いていた猛者だった。前線で繰り広げられる恐慌を素早く把握し、適切な指示が下せたのも彼が修業時代、出会った事のあるアンデッドだったからだった。
串刺し死体の林に歩幅を弱めた所に襲ってきた化物は、『
ドロドロに腐った体。千切れた手足や首など、見た目は『|動く
駆け出しの兵士でも倒せてしまう『
この死体に乗り移る『
そして『
単体では物を動かす事も出来ない『
そのなかで『
ただでさえ体力の多いアンデッドが常時回復するのである。その恐ろしさ、手強さは分かろうものだ。
「ですがっ! 聖水も魔法も全く効果が見えませんっ!」
「何っ!?」
しかし恐ろしい魔物とは言え、千人を超える軍隊が恐れるものでは無い。
熟練の猛者であれば
今前線を務めているのは軍の中でも特に戦闘能力が高い騎兵隊。
戦う力がそれ程見込めない斥候が『
兵士が言った通り、通常アンデッドに対して大きな効果が見込める筈の聖水や、白の魔法。それが襲い掛かって来た『
撒き散らす腐汁。飛び散る手足や内臓。その時点で『
なのに聖水で濡らした剣にも、従軍魔術師の魔法にも、怯んだ様子すら見せていない。
「じゃあ……、あれはいったい何なんだ!?」
辺境伯を無能と嘲っていた近衛の男は、無意識に喉を鳴らしていた。
無知とは時に恐怖を殺す。しかし未知は時に恐怖を
それを近衛兵の引きつった頬が語っていた。
☠ ☠ ☠
「『
「勘弁してくださいよ……姫様……」
喧騒渦巻く森を見下ろす、少し小高い丘の上。
クルッツェの報告を聞き考え込む振りをしたミスラに、傍に控えていた『
戦端が開かれてからまだ半時ほど。
とりあえず軍隊を足止めする事は成功したようで、ミスラはそっと小さく胸を撫で下ろしていた。
妙案だと思っていた串刺しの九郎の林はあまり効果が見られず、少し焦っていた様子を見せていただけに、幾分余裕を取り戻したミスラの言葉に、クルッツェも引きつった笑いを溢す。
侵攻してきたルクセン辺境伯軍に襲い掛かっていたのは、ただの
「ですけど……あんな顔のクロウ様を見れば、あなた達もゾクゾク――」
「――しません」
尚も名残惜しそうにするミスラの言葉を、クルッツェはのべつもなく遮る。
あれだけの数の自分の死体を生んでおきながら、ミスラが足りない手を補おうと呼びだした『
黒髪の少女と抱き合い、胸の大きな少女の影でガタガタ震えるその様は、これから恐怖で軍隊を追っ払おうと考えている一行の主役とは思えない程の怯えっぷりだった。
「腐った死体を投げ合うだけでも、こう、なんつーか精神がガリガリ削られてる気がするのに……。男の死体に入るだなんて考えただけで……」
「――入る? そこは入るでは無く
「本当に勘弁してくださいっ!」
ミスラの傍で控えていた『
それに胡乱気な視線を投げかけ、クルッツェは現在蜂の巣を突いたような大騒ぎの侵略者達の方に目を逸らした。
ルクセン辺境伯軍は誤解していた。襲い掛かって来たのは『
あれはただの九郎の腐った死体であり、それを『
怨霊の中でも上位に位置する『
「しかし……。本当に
今
控える『
彼らは皆アルムを守る戦いの中で死に、そして今尚その気概を失っていないからこそこの世界に留まっている者達だ。攻めてくる敵に対して攻撃もせず、ただ怯えさせるだけという現状を生ぬるく感じるのも無理は無かった。
「恐怖を煽るにしても、数人殺せば……」
「確かにそうでしょうね。『死』は生きとし生けるもの全てが抱く恐怖そのもの……」
『
国土を荒らす侵略者に殺意を覚えるのも当然の事だと、彼女も理解しているようだ。いや、国の代表であり王家の子女なのだから、彼ら以上に殺意を覚えていても可笑しく無い。
「死の恐怖で彼らを退ける事は容易でしょう。それどころか現在二人の『来訪者』と協力関係にありますし、彼女も……。今の戦力だけで全滅すら可能かも知れません……。ですがそれでは駄目なのです。ルクセンの中枢の思惑に踊り、彼等を殺してしまえば更に多くの戦を呼び込む事になってしまいます」
今回のような思惑で嗾けられた戦争が成功してしまえば、アルムを利用し政敵を追い落とそうとする戦がまた起こるかもしれない。それをミスラは懸念していた。
「先の戦……。あなた方が散っていった戦で、我が国は全ての敵を葬り去りました。殲滅しました。建国以来不敗。『不死の魔王』不在であっても、我が国の戦力は他国に引けを取らない筈です。なのに何故こうも簡単に戦を嗾けられるのか……。それは――アルムが『ただの戦が強い魔族の国』でしかないからだと
またミスラは、「戦いに勝つだけでは、アルム公国を取り巻く現状は変わらないのでは」と思い始めていた。
常勝不敗。今や伝説ともなりつつある『不死の魔王』の名前。
どれも本来であれば戦を仕掛けようとは考えられない国の筈だ。
なのに戦争を仕掛けてくる国は無くならない。『魔王』の名を恐れ、死の恐怖を抱くからこそ戦火はじっと燻り続ける。
「戦に於いてアルムは強い――。ですが、その強さ、その恐ろしさは『戦争』という恐ろしさ以上には成り得ない。それではアルムはずっと
ただでさえ移ろいが早い人族国家に囲まれ、『不死の魔王』の名前も今や伝説の中に消えかけている。
強ければ恐れから攻撃され、弱ければ嘲られて攻撃される。差別され、忌み嫌われているからこそ、攻撃しやすい。
戦の中でしか示せない強さ、恐ろしさ。しかしそれでは到底平和は望めない。
「ですがそれではどうすれば――」
ミスラの言い分に、手詰まりでは無いかと『
弱ければ攻められる。しかし戦に於いて手加減など出来るものでは無い。殺さなければ殺されると言うのが戦争だ。
その言葉にミスラは今度は妖艶な笑みを浮かべ、悪戯っ子のように片目を瞑った。
「『まんが』による意識改革は順調ですが、もうしばらく時間はかかるでしょう。ですから、今後しばらくアルムは『
ミスラの言葉に『
何を言っているのだこのお姫様は? と目が口ほどにものを言っている。
彼等の表情に、少し膨れてミスラは言葉を続ける。
「『死』は最も分かりやすい恐怖の根源。ですが分かりやすくあるが為に身近でもあります。ありふれているのです。それでは我が国は他の国と何ら変わらない。ただ差別され攻められやすい国のまま……。ですから、そうでは無い恐怖。体に傷は付けずとも、心に剣を刺すのです。それこそ夜も眠れぬ程に……」
美しく可憐な少女が、少し膨れながら言葉を紡ぐ。可愛らしい筈のその仕草に、呼吸もしない筈の『
本来であれば鼻で笑うような話の筈が、目の前の少女の言葉にはうすら寒い思いを抱かせる力があった。
(優しいからこそ残酷。やはり陛下のご息女ですねぇ……)
クルッツェがミスラの後ろで苦笑を浮かべた。
攻め入る敵には容赦はしない――今回誰一人殺さずを口にしたミスラであったが、それが単なる甘さから来るものでは無いと、クルッツェは感じ取っていた。
『
多分彼女は、敵に対して一欠けらの情も抱いていない。ただ必要だから傷付けないだけで、血を流す事以外の全てを許容し遂行するだろう。
「クロウ様の言葉で言う、『とらうま刻み付けてやんよ』と言ったところでしょうか? 『勇者』の心すらへし折る恐怖……なのにあの性格、あの言動。
死霊ですらドキッとするような妖艶な笑みを見せ、ミスラは少し頬を赤らめ息を吐くと、顔を引き締め動き出す。
『死』の無い恐怖と言う言葉に、不思議な感覚を覚えたように『
考えて見ればそれこそ、その『死』の恐怖の先にいるのが自分達なのだと気が付いた様子だった。
国の犠牲に散っていく事を躊躇わず、それどころか『死』の後にまでこの場に留まっているのは何故なのか。
それは怖いから。自国が辿る困難な道を憂いているからに他ならない。
「次は……アレか……。やってることは子供のお遊びのようなものなのに……。俺でも悲鳴を上げる自信があるなぁ……」
『
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