第229話 残機
「さあ、第二ラウンド始めようぜぇっ!!」
ギラリと剣呑な笑みを浮かべ、犬歯を覗かせた九郎が龍二に向かって飛びかかった。
驚きに顔を強張らせていた龍二が咄嗟に後ろに飛ぶ。
「うっ!??」
龍二の瞳に焦りが陰る。
開けた扉が押扉だった事が災いしていた。
背中に暗い群青色のガラスの扉が当たり、逃げ場が無い。
「こっから先は進ませねえよっ!」
飛びかかって来る九郎の姿は先程目にした姿と変わらず、悍ましいものだ。
眼球の一個は元から無く、耳や頬肉が所々欠けている。腹には大きな穴が開いており、その中身は殆んどが消失し、ボタボタとそこから血が溢れていた。
(なんでや!? さっき殺した筈やろっ!?)
龍二がこれほどの驚きを覚えたのは久しぶりの事だった。
自分自身を俯瞰して見ている龍二にとって、驚きというものは無縁のものだ。
あらかじめ誰がどこから攻撃しようとしているのかが分かっているし、不意を突かれることなどまずない。
しかし自分を上空から眺めるように見ることが出来る『
自分をゲームのキャラクターのように見る事が出来る『
アクションゲームと同じように、扉を潜る一瞬は視覚が自分に戻ってしまう。
(油断しとった! いっつもみたいに蹴っとけや! 俺!)
いつもなら仲間の誰かに開かせるか、有無を言わさず扉を蹴破って来たのだが、今回ガラスの扉だった事で躊躇してしまっていた。
背中に伝うガラスの硬さに歯噛みしながら、龍二が更に後ろに飛ぶ。
魔力で底上げされた膂力と脚力で強引にガラス扉を突き破る。龍二の背中で硬質な音が響く。
「逃がさねえぜぇっ……あだだだだだだっ!!」
背中に衝撃が伝わると同時、飛びかかって来ていた九郎が悲鳴を上げていた。
鋭利なナイフと化したガラスの破片が九郎の背中に降り注いでいた。
体の大きなこの男は、平均よりも背の低い龍二をすっぽり覆うようにして、全ての破片を被った形になっていた。
「驚かせんなや! アホがっ!」
背中から床に落ちながら龍二が刀を振る。
白い閃光が目の前に過り九郎の首がゴロリと落ちた。
龍二はそのまま首の無い九郎を蹴り上げ、次々と白刃を走らせる。
「……出会い頭にまっぱのゾンビがおったら、驚くに決まっとるやん……このっ、変質者がっ!」
心臓はまだ早鐘のように大きな音を打ち鳴らし耳に五月蠅い。
それに言い訳するように龍二が悪態を呟く。一瞬の間をおいてボタボタと九郎だった肉片が床に落ちる。
目の前で待ち構えていた九郎には驚いたが、それでも彼は弱かった。
不意を突かれていたにも関わらず対応できたのは、ひとえに九郎の動きが遅すぎた為だ。
彼も『来訪者』であれば魔力で素早さを底上げできる筈なのに、その動きはそこらの魔物よりも遅かった。
(そういや、レベル1やったな……。慌てる必要あらへんやん……。ダメージ受けようがないし……)
普段であれば『
龍二はバラバラになって散らばって行く九郎の肉片を見ながら、無様に慌てふためいてしまった自分を鑑みる。
落ち着いていればガラスを被る選択をするまでも無かったなと、龍二は小さく息を吐き――、
「人の
今度こそ本心から目の前の光景に恐怖していた。鮮血に染まったガラスの破片。その一つから九郎が再び湧き出していた。
☠ ☠ ☠
(やっべー……。完璧なタイミングだったのに触れもしねえって、マジかよ……)
九郎はガラスに付着していた血の一滴から体を『再生』させながら、眉を下げる。
絶好のチャンスを逃してしまったのは悔しかったが、まだ負けた訳では無いと自分に言い聞かせて、九郎は再び構えを取る。
(残機が尽きる前に何とかしなくちゃ、やべえ……)
勿論九郎の方も余裕がある訳では無かった。もとから余裕は無かったが、それに加えて『
切り刻まれても燃やされても何の心配も無いと思っていたが、まさか『フロウフシ』そのものを封じてしまう力を持っているとは思ってもいなかった。
(いや……封じられた訳じゃ無かったけど……)
九郎は先程からの龍二の攻撃を分析しながら、状況を確認する。
『
事実『
しかし『不死』を封じる物では無かった。『
ただ、意識しても切り刻まれた肉体を動かす事も出来なかった為、何も出来ないことには焦った。『
慌てて九郎は監視用にばら撒いておいた肉片に意識を移し、そこから再生したと言う訳だった。
(アルトを下げといて正解だったぜ……)
九郎は心からの安堵の吐息を吐き出しながら眼前を睨みつける。
アルトリアも九郎と変わらない程の強力な再生能力を持ってはいるが、流石に細胞移動は出来ないはずだ。彼女が『
やはり自分が最初に出張って良かったと、そこだけは自賛しておく。
「なんとも面倒臭え能力だなぁ! おいっ!?」
少なくとも残した肉片の数だけ九郎は復活出来る事が分かった。城の中にばら撒いている肉体の数はまだまだ多いが、隠し部屋への通路に仕込んだ欠片はもう使ってしまっている。
龍二がこのまま先に進もうとするのであれば、あと10回分ほどしか復活出来ない。
(残機増やしとかねえと……)
九郎は肉体から愛用のナイフを生みだし、自ら首を切り裂く。
「がっぁぁぁっ! やっぱ痛えなあっ! コンチクショウ!」
九郎が条件反射で悪態を吐く。
頸動脈を切り裂く痛みは神経を傷付ける時に比べればまだマシだが、それでも通常時の何十倍もの痛みがあるのは変わらない。
他人に攻撃されても殆んど何にも感じないのに……と心の中で更に悪態を重ねながら、九郎は血を床に振り撒く。
「こ、こっちのセリフや! プラナリアかなんかか? 残機てなんやねんっ! ゲームちゃうんやぞ!?」
「てめーが言うんじゃねえよっ! 心を読むっつーのは全く面倒臭え……」
龍二の言葉に眉を顰めながら、九郎がぼやく。
龍二の表情は、先程までの余裕の表情では無い。九郎の自傷の意味を知り、流れる血の一滴一滴が九郎の命の数だと知ったからだろうか。
「まあ、心が読めるんなら知られちまったか。この先には俺の大事な人がいるからよ……。手ぇ出すってんなら拳骨ぐらいじゃすまねえぜぇっ!」
ナイフを体に仕舞い込み、再び九郎が地面を蹴る。切り裂かれた首筋からは一歩ごとに血が吹きだす。
「何度やっても無駄やろっ! きっしょいねん!」
龍二が片手を九郎に向けた。
途端に九郎の肉体が折れ曲がる。押し固められた空気の層が九郎を圧し潰していた。
「無駄はてめえだ! 心が読めんなら分かってんだろ?!」
バキバキと骨の折れる音が響き、人の体とは思えないほど小さく圧し潰されていく中で九郎が叫ぶ。
その声が骨の折れる音、大理石が砕ける音にかき消される。
九郎は周りに散らばった血液諸共、一塊に圧し潰され圧縮されていた。
「うっさい! 死ねやぁぁぁあっ!」
龍二が伸ばした片手を握りしめる。
一瞬の間を置き強烈な閃光が辺りを照らす。
バシュンッ!!
遅れて水袋を割ったような音が響き、その場にあった九郎の肉体が消え失せていた。
龍二は空気を圧縮させ、その中心に炎を生みだし燃焼させていた。
もうその場に九郎の肉体はおろか、血の一滴も残されてはいない。
龍二の後方に最初に切り刻んだ九郎の死体が残っているだけだった。
しかし――龍二の顔に安堵の表情など生まれようがなかった。
☠ ☠ ☠
「おいっ! はよぉ起きろ!」
龍二が慌てた様子で仲間の少女達の元に駆け寄り、乱暴に蹴る。
「……あ~んリュージぃ~」
「はっ!? ま、魔王は?」
「……さすがリュージ様ですぅ~。魔王が細切れで倒れてますぅ~」
「寝惚けんな! はよ逃げんぞ!」
少女達がどこか場違いな寝起きの言葉を口にし、龍二が苛立ったように声を荒げる。
心を読めるからこそ覚える恐怖。影も形も無くなった九郎の思念が、まだこの部屋に残っている。
(なんやねん、ラッキーって! アホちゃうか!)
視界に広がる九郎の心の声が、龍二には信じられない。
目に見える相手の心がこれほど恐ろしいと感じた事など、今まで一度たりとも無かった。
人の心の汚さに辟易した事は何度もある。しかし、純粋に恐怖を感じる事など無かった。
「なんですぅ~?」「逃げるって?」「あ~ん待って~?」
「くそっ!
龍二の心の中は今、恐怖で満たされつつあった。
現状を理解していないであろう少女達の声を背中に、龍二はもう待ちきれないと、扉に向かって走りだす。
その顔は青褪め、もう余裕なんてものは欠片も残されてはいない。
久しぶりに味わってしまった恐怖に、気が動転してしまった自分が腹立たしい。
グロさ満載の九郎の姿に思わず全てを消し去ろうとしてしまった。しかも『
「はよ逃げんとお前らも飲み込まれんぞ!?」
撤退を即座に決めたのは、まだ冷静な部分が龍二に残っていたからだろう。
しかしその冷静さもあと僅かでしか無い。
九郎を気化させてしまった事で、もう手の打ちようが無くなってしまった事を龍二は悟ってしまっていた。
『
だがどれだけ鋭い斬撃であっても、粒子を切る事など出来はしない。
よしんば腕を上げて粒子すら断てるようになったとしても、何億もの粒子を寸断していく事など不可能だ。
「飲み込まねえよっ!? 『
扉の前で振り返り怒鳴った龍二の顔が恐怖に引きつる。蚊の羽音のような小さな声。それが何重にも重なって人の声を響かせていた。
「な、なんです!?」
「あんなになってまだ生きてるのか!?」
事情を知らない仲間の声も、もう龍二の耳には届いていない。
謁見の間の色ガラスを通して伸びる虹色の光。その中に赤い煌めきが混じっていた。
埃のように部屋中に舞い散った赤い粒。その中の一粒が僅かに蠢き、少し大きく膨らんだかと思った次の瞬間、
ピチョン
水が滴る音がやけに大きく部屋に響く。
白い大理石の床に赤い滴が落ちていた。
ピチョン
また一滴、音が響く。
ピチョン ピチョン ピチョン
謁見の間に赤い雨が降り始めていた。
天井が開いている訳では無い。
閉ざされた空間、神秘的な光が降り注ぐ部屋が、一瞬にして身の毛のよだつ恐ろしい世界に変っていた。
「きゃあぁぁぁぁあああ!」
悲鳴が轟く。それが誰の悲鳴なのか、その場にいる誰もが分からない。
部屋の中に降る血の雨。その鉄臭い雨で出来た血だまりから、人の腕が生えていた。
その手がユーリの足を掴んでいる。
だが悲鳴がユーリだと言いきれない。
残る二人の少女の足にも、血だまりから生えた人の腸や皮膚が張り付いていた。
「こんなんありえる訳無いやろぉぉぉお!?」
龍二の口から絶叫が漏れる。
『
部屋中に降り注ぐ赤い雨が、龍二の視界を遮る。
雨から身を躱す事は出来ている。一番最初に扉まで走ったおかげか、まだ赤い粒子は龍二の場所まで届いていない。
しかし仲間の少女達は巻き込まれている。
あの悍ましい血の雨を降らす、決して死ぬことの無いアンデッドに囚われ、再び恐怖に泣き喚いている。
少女達が龍二に向かって手を伸ばしていた。
それが何を意味しているかなど、誰でも直ぐに分かるだろう。
助けを求める少女達の恐怖に歪んだ顔。しかし――、
「おい? 自分の女を置いて逃げようとすんじゃねえ!」
一瞬だけ迷って、龍二は謁見の間を後にし一目散に逃げ出していた。
背中から九郎の怒鳴り声が響く。
「知るかっ! そいつら全員、俺に惚れとる訳や無いんや! 利用しようとしとるだけやっ!」
恐怖に圧し潰されそうになりながら、龍二は言葉を吐き捨てる。
『
利用しようと近付いてきた少女達の為に自分が命を張る義理は無い。
(それに、殺すつもりは無いんやろ! ほなら置いてっても問題ないやんけ!)
自分自身に言い聞かせるかのように、龍二は言い訳の言葉を並べる。
九郎の心が証明している。仲間の少女達が殺される心配は
それが詭弁であることなど龍二自身が一番良く分かってた。
人の心は直ぐに変わる。今彼が本心から仲間の少女を害する心算が無くとも、日が変われば、状況が変わればその保証はどこにも無くなる。
しかしもう動き出した龍二の足を止める事は出来ない。
「心が見えちまうんだったらそう言う言い訳も出来んだろうなぁ!」
廊下に飛び出た龍二の心臓がまた跳ねる。龍二の弱った心を打ち据えるような、怒りの籠った声が轟く。
廊下にかけられた絵画の縁から、見るも悍ましい九郎の上半身が湧き出していた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
龍二の口が、意識しないままに嗚咽の声を漏らしていた。
心から
龍二は子供のように泣き叫びながら、やたらめったら刀を振り回し、絵画諸共湧き出ようとしている九郎を切り刻む。
「だけどよぉ、男ってのは女を守ってナンボだろ? 良いじゃねえか利用されたってよぉ! 美少女に言い寄られるだけで男冥利に尽きんじゃねえか! 切っ掛けが何であろうと惚れさせんのは、自分次第だろ? とりあえず器物破損の弁償……いくらになっか聞いて青褪めても知んねえからなぁ!?」
この期に及んで九郎は何を言っているのか。
もう龍二には理解できてはいない。
『
その文字から逃げるように龍二は刀を振り回し、城の廊下を走り続ける。
九郎の心が見えなくなる場所を探し、出口がどこだか分からないまま、ただただ城の中を逃げ回る。
「この先はトイレしかねえよ! 漏らす前に行っとけよ!」
廊下の角を曲がった所で、天井から九郎が生えて床に落ちた。
ぐしゃりと嫌な音が耳に届き、九郎の肉体が血しぶきを周囲に撒き散らす。
飛び散った血や肉片からは、何十もの九郎の思念が浮かんで見える。
「なんやねん! なんやねん! なんやねん!」
「おいおい、そこは『なんでやねん』じゃねえのかぁ? あいてっ!」
もう冷静さなど欠片も残ってはいなかった。
目の前に積み上がって行く同じ顔の死体。死体。死体。
細切れにしてやっと静かになる喧しいアンデッドに、龍二の心は恐怖一色に塗りつぶされていた。
☠ ☠ ☠
どれだけ逃げ続けただろうか――。
「はあ……はあ……はあ……」
龍二は壁に寄りかかり荒い息を吐き出す。
やっと周囲に九郎の感情が見えなくなっていた。
「い、いくら死なへんつったって、雑魚は雑魚やんけ……。ビビらせやがって……」
どれだけ刀を振るったのか、もう覚えていない。だが、かなりの数を倒したことだけは確かだった。
何度目の前に立ち塞がろうとも、相手は所詮レベル1。決して強くは無い。
無限に湧き出ると言う、これまで戦ってきたどんな魔物達よりも不可解で不条理な様に、驚いてしまっただけだと、龍二は自分の心を慰める。
ふと視線を落とすと、ズボン股の部分がぐっしょりと濡れていた。
先程天井から生えた九郎の言葉は、この事を差していたようだ。しかし今の龍二に、羞恥の心を覚える余裕は残っていない。
今見えている視界に九郎の思念が浮かばない。龍二はただひたすらに、その事で得られる安堵を貪る。
「きょ、今日はこれくらいにしといたるわ……」
息を整え終えると、負け惜しみの言葉を口にして龍二はふらつく足を叩く。
この世界の人々の何十倍もの『魔力』を持っている龍二だったが、その殆んどを使い果たしてしまっていた。
『
「で……ここ……どこやねん……」
疲れた表情を浮かべたまま、龍二は周囲を改めて見る。
無我夢中で駆け抜けて来た為、完全に道に迷ってしまっていた。
今迄『
「壁壊して逃げよぉか……」
呟きながら考える。残りの『魔力』を考えると、壁を壊すには少し心許無い。
それに大きな音を立てて九郎を呼ぶことになるのも躊躇われる。
窓を探して飛び降りた方が無難かと、龍二は思案する。
(そう言えば
心を読めていた筈なのにと、龍二が眉を顰める。
恐怖がこれ程判断力を弱らせるとは思ってもいなかった。
次ならもっと上手くやれるかと龍二は考え、即座に身を竦めて頭を振る。
もう二度と九郎と戦うのは御免だった。
弱いと分かっていてもどうやって倒せるのか、想像もつかない。
例え九郎を躱してその奥にい筈の者達――龍二の標的であった王族を倒したとしても、その後の恐怖を考えるととても出来るものではない。
何をしても死なない――そんな男に恨まれでもしたら……。
龍二は浮かんだ怖い想像を振り払い、逃げ道を探る。
生憎今いる場所は左右に扉があり、窓は見当たらない。
(どっちかは外に向かって窓がある筈……)
魔王の城の部屋の造りが人族と変わらないのであれば、部屋には明り取りの窓がある筈だ。
龍二は心を一旦落ち着かせ、最後の賭けに出る。静かに息を顰めて、龍二は右の扉のドアノブをゆっくりと回す。
『
戦いたくなかった。体力も魔力も限界が来ている事も確かな事だったが、それ以上にもう精神が限界だった。もう肉に刃を振り下ろす感触も、飛び散る血液や肉片を見るのも沢山だった。
ゆっくりドアノブを回して部屋の中を探ると、そこは寝室のようだった。
その先に沈みかけている夕陽の赤が僅かに映る。
窓の存在に安堵の吐息を吐き出し、龍二が扉を開け広げたその時、暗がりに蹲っていた一人の女と目があった。
「えっ!?」
黒髪の女が小さな声を上げる。
「静かにしろやぁぁぁあああ!!」
龍二の口から意図していない叫び声が響いていた。
黒い肌、金色の瞳。城に入ってからは一人も目にしてこなかった『魔族』の女。ステータスを見る限り、こちらの脅威にはなり得ない。
そこまで分かっていながら龍二は無意識に刀を振り上げていた。
女の金色の目を見た瞬間心がざわつき、いてもたってもいられなくなっていた。
自分が大声を張り上げていながら、静かにしろも何も無い。なのに、心臓がキュウと縮んで平静を保てない。
心に沸き立つのは先程沈めた筈の恐怖。
自分の声を聞きつけやってくるであろう九郎への恐怖と、なんだかわからない殺人鬼に襲われる恐怖がごっちゃになって龍二の心を支配していた。
「やっ!」
女が目を叛けて顔を庇った。
しかし振り降ろし始めた刀の勢いは止まらない。
込み上げてくる恐怖が、龍二の手を止めてくれない。
思わず龍二は目を瞑る。その手に、リアルな頭蓋骨を断ち割る感触が登って来ていた。
「あ、あ……あ……」
女の断末魔の声であろう震えた嗚咽が、耳に嫌な形で残って響く。
「ま、魔王の城におったんやし、て、敵には変わりないんや……。ひ、ひ、人殺しかてもう何回もしてるんやし……」
龍二は震える手で刀を引き抜こうと力を込める。肉に食い込んでしまったのか、刀はびくとも動かない。
心の中では言い訳が何個も浮かび、別の恐怖が広がり始めていた。
龍二も何度も人を殺してきていたが、女を問答無用で殺した事はいままで一度も無かった。
相手の心を覗ける龍二は、殺意に対して先手を打つ事はあっても、理由も無く人を殺したりはしてこなかった。
しかし今初めて理由も無く人を殺した――罪悪感と言う名の恐怖に身を竦めながら、恐る恐る龍二は目を開き――その瞳孔が一瞬にして広がる。
「俺の大事なもんに手えだすなって……」
地獄から響く声と言うのはこう言うものだったのかと、龍二は遠くなる意識の中で思う。
振り下ろした刀の先、黒い肌の娘の胸の谷間から、九郎が湧き出していた。
その頭の半ばまで刀をめり込ませ、脳漿を溢しながら。
もうこれが悪夢なのか現実なのかも、龍二には分からなくなっていた。九郎が腕を大きく振りかぶるのが、スローモーションのようにゆっくり視界を過り――、
「言っておいたよなぁぁぁああ!!」
鈍い音が部屋に響き、龍二はその場に崩れ落ちる。
恐怖から逃れる唯一の手。それが意識を手放す事だとしみじみ感じながら、龍二の意識が遠のいていく。
「リオ! 大丈夫か!? 怪我とかしてねえよな? な?」
「あ、ああ……」
その耳に僅かに響くのは、九郎の心配気な声と、それに何とか答える震えた女の声。
「つーかなんでおめえが城に残ってんだよ? 避難してたんじゃ……」
「う、うるせえっ! お、お前が、ぎゃーとかぐあとか言ってんのがこれ通して聞こえてたからっ!」
死ぬはずの無い
勝手に思い浮かべた物語だがそれほど間違ってはいないだろう。
あの一瞬で湧き出し龍二の刀を受け止めた九郎。その表情は最初、悲壮と必死さが滲み出ていた。
九郎が叫んだ通り、どれだけ女が大事なのかがその表情だけで伺えていた。
それに最後に視界を過った女の心も、九郎に助けを求めていた。
(ちょっと……かっこ……ええやん……)
薄れゆく意識の中で龍二は仲間を見捨てた自分と九郎を比べ、素直な感想を思い浮かべる。
最強とも思える力を手にしていながら、恐怖に呑まれ仲間を見捨てる選択をした自分と、弱く何度も切り刻まれながら、それでも龍二の刃に身を晒す事を躊躇わなかった九郎。
『勇者』と持て囃されていた筈なのにと、そこまで考え龍二は意識を手放す。
「全く……心配はいらねえって言ってんのによぉ……。でもちょっとジーンと来たぜ? やっとリオのツンがデレに……」
「意味分かんねえこと言ってんじゃねえ……。ア、アタシの部屋汚されたらヤバいと思って……って、クロウっ! 血がっ! 血が絨毯に零れちまう! あっ……あああああっー!!」
続けられた二人の会話は、きっと甘いものに違いない――そう思いながら……。
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