第221話  父還る


 長大な大河オルセーを臨んだ丘陵に、レンガと木で出来ている、しっかりとした建物が幾つも並んでいた。活火山である火竜山に近い位置にあるこの地方は、地震が多いのだろう。

 頑丈な土台に対して、壁や屋根は軽く造られているのか、塀は白い漆喰で塗り固められているようだ。民家の屋根は薄い瓦を重ねている様子だが、瓦の色も基本的には白を基調としているようで、白い街並みが太陽を反射して眩いほどに輝いて見える。

 所々に植えられた街路樹の緑と合わさって、どこを見ても一枚の絵のように美しい街並み。

 例えるのなら、地中海沿岸の景勝地のような建物が立ち並んだアルム公国の首都、ペテルは、九郎がこの世界で訪れた街の中で、一番美しいと思える街並みを擁していた。


(………………)


 だが街並みを眺める九郎の表情は、微妙に歪んで優れない。

 異国情緒あふれる、白亜の街並みに立てかけられたいくつもの看板。それがこの美しい景勝に多大な違和感を落していた。

 この世界に来て、書けなくても読む事の出来るアクゼリートの世界の文字。その文字が読めなければ、九郎はこの景色に手放しの称賛を送っていただろう。初めて目にした文字が読める事は、これまで便利以外の何物でも無かったのだが――。

 …………読めることが感動を台無しにするとは、思ってもいなかった。


 ――新刊入荷しました! ――

 ――ムチムチ『蛇娘ナーガ』の薄い本有ります! ――

 ――え? そんなところまで? 規制間近! むちょぐちょ公爵の本、在庫有り! ――


 立派な一枚板の看板に掲げられた、TPOに全くそぐわない文面の数々。意味をまだ理解出来て無いであろう、他の面々は街の美しさに目を奪われているが、文字が読めて、なおかつ意味まで分かってしまう九郎は、ヨーロッパの街並みに猥雑なネオン看板が混じってしまっているような錯覚に陥り、勿体ないと感じて顔をしかめる。


(異世界が秋葉原に浸食されてるみてえだ……)


 時折気合の入った絵入りの立て看板などもあり、それがまた萌えキャラチックなのが、違和感に拍車をかける。魔族の国と言うだけあって、道行く人々も異形の者達が多い。翼を持つ者、角や尻尾を持つ者、下半身が蛇の者など様々だ。

 だがそれも立て看板の雰囲気と合わさって、コスプレのようにも見えてしまうから性質が悪い。

 漫画の流行具合を考えるに、本当にコスプレしている人族がいても可笑しくない。だからこそ、九郎が感じている違和感が、気の所為かとも思ってしまう。日光江戸村に時代劇の格好をした人々しかいない状況――そんな感じだろうか。


「凄く綺麗な街ですね」


 だが目に映る映像の齟齬に苦面を相しているのは九郎だけであり、事情を知らない他の面々は街の美しさに息を飲んでいる。一際はしゃいだ様子で馬車の窓から身を乗り出し、フォルテが歓声をあげていた。


「かなり様変わりをしている様子だが、人々の顔ぶれは余り変わっておらぬようで、安心した」


 それに対して、カクランティウスの機嫌の良さそうに頷いている。

 アルムの街もこの世界の通常に漏れず、街壁で囲まれていた。街道から街に入るには、門を潜らなければならず、守衛の確認が入る。街の住人であれば身元の証を立てられる物。旅人であればその旅の行程、目的地などを事細かに聞かれる。

 だが、一行の中にこの国の王、カクランティウスが混じっていれば、話は変わって来る。

 守衛の門は蜂の巣を突いたように大騒ぎになり、一時も経たないうちに、九郎達一行は4頭立ての立派な馬車に揺られて、王城へと向かうことになっていた。


「陛下~!! 陛下~!!!!」

「カクランティウス様~!!」


 街道を埋め尽くすのは人の波とも思える人だかりだ。

 50年留守にしていても、魔族は寿命が長い為、カクランティウスを覚えている民衆が数多く存命だった事が理由だろう。街中の花屋を買い占めたかのような、色とりどりの花が雪のように投げかけられ、馬車の行き先が花畑のようになっている。翼を持つ魔族たちが、空からも花を降らし、家々の窓からも多くの民衆が手を振っている。


「カクさん、人気あるんだねぇ~」


 アルトリアはしきりに感嘆の言葉を口にしていた。行く先々で街に立ち寄り、田舎娘だったアルトリアも人ごみには慣れてきていた。しかしこれだけの人をいっぺんに見るのは、初めての事だったのだろう。

 少し怖気付いた様子で、九郎の袖を掴んで、いつもよりも大人しい。


「吾輩は下街にもよく抜け出しておったからな! 酒を酌み交わした者たちも数多い。まあ、最後は城の者に見つかって連れ帰られるのが常だったが……」


 カクランティウスは懐かしむように目を細め、周囲を眺めていた。そして時折目を瞑り、誰かを偲ぶような寂しげな表情を浮かべる。いくら人より寿命が長いと言っても、50年の月日は短く無い。詰めかける人々の中の見知った顔の人々が欠けている事に、気が付いての表情だろう。


(故郷……か……)


 以前抱いた郷愁の念を再び思い出して、九郎はシルヴィアの顔を思い浮かべる。

 全く様変わりしていなかったシルヴィアの故郷と、留守にしていた間にかなり・・・様変わりしてしまった・・・・・・・・カクランティウスの故郷。

 果たしてどちらの方が郷愁の念は大きいのだろうか。

 人々の垣根の間に見える「この冬最強のエロい本! 近日発売!」の文字に、九郎は目元を覆って嘆息し、口の端を歪めた。



☠ ☠ ☠



 アルムの街の一際小高い丘の上に佇む白亜の王宮。王城ペテルセンの門を潜ると、一斉にファンファーレが鳴り響いていた。一時期長く滞在していたミラデルフィアも、楽器の類は数多くあったが、金管の音色には初めて触れる。壮大な音色に少しビクつきながらも、九郎はラッパの音が鳴り響く中、馬車を降りる。

 ここから先は歩くようだ。馬車を降りると、まだ屋外だと言うのに真っ赤な絨毯が敷かれていた。


「カクランティウス陛下。ご帰還!」


 先導していた騎士の声に、道々に並んだ兵士達が一斉に槍を立てる。

 急な帰還で準備も慌ただしかっただろうに、一糸乱れぬその仕草から、兵士達の練度高さがうかがえる。

 その中央をゆっくり歩くカクランティウスも、王者の風格が滲み出ていて堂に入ったものだ。

 荘厳な雰囲気の中しっかりとした足取りで歩くカクランティウスの姿は、まさに王者の帰還と言うべきものに違いない。


「あ、あ、アタシ達どうなるんだ? きょ、今日からここで働けばいいのか?」

「私達は殿下に刃を向けた奴隷です。これから裁きを受けて処遇を決められる……言うなれば捕虜と言ったところでしょうか」

「は、はあ!? なんでアタシまで」

「り、リオだって殿下を襲った前科があんだろうが? クロウもな。殿下から聞いたぜ?」

「そんな!? 姉さん!?」

「襲った前科はまあ……って俺も入ってんの?」

「そう言えば、カクさんクロウに怯えてたもんね? 何? クロウ、カクさん襲っちゃったの? どっちの意味で?」

「どっちの意味も何も、俺は襲ってねーよ!」

 

 だが後ろに続く九郎達は、明らかに場にそぐわない。

 バッグダルシアの街で、貴族の近従として仕えていたアルフォスやベーテは、礼儀作法もこなせるはずだが、これほど立派な城に招かれた経験は無いのか、緊張を隠せない様子だ。アルフォスの言葉の通り、裁きを待つ身だと言う事も関係しているのだろう。

 強気を装ってはいるが小心のリオは、もう足が生まれたての小鹿のようだ。縋るフォルテを支えにして気を張っているが、彼がいなければ直ぐにでもへたり込んでしまうのではなかろうか。

 田舎で300年以上も引き籠っていたアルトリアも言うまでもなく、小市民感が染みついた『来訪者』もとい『放浪者』の九郎もいわずもがなである。


 カクランティウスの後に続いて一塊になって歩く彼らは、高級ホテルに紛れ込んだ一般人さながらに、周囲の様子に怖気付いていた。


「心配無用だ。クロウ殿は吾輩の命の恩人であり、残りの者たちは旅の連れとしか伝えておらぬ。恐れる事は何もありはせぬよ」


 後ろで荘厳な雰囲気をぶち壊している九郎達に、カクランティウスが苦笑しつつを片目を瞑る。

 何とも頼もしい。この男が、今も全裸に鎧を着けた「顔だけ人のスケルトン」とは思えない頼もしさだ。

 そう言えばこれから先、彼はどのようにして今の姿を誤魔化すのだろう――九郎がふとした疑問を思い浮かべたその時、城の扉が吹き飛んだ。


「「父上!」」


 それ一枚で何百キロもの重さがあるであろう、城の正面の門が重い音を立てて弾け飛び、砂埃がもうもうと舞い上がる中、二つの影が転がり込む勢いで飛び出してきた。


 最初に出て来たのは25、6歳くらいの青年だった。金髪碧眼。髙く鼻筋の通った精悍な顔の美青年だ。

 金糸に縁どられた紫を基調とした服に身を包み、腰に一本の剣を刺した見目麗しい青年が、扉を押しのけ姿を現していた。長めに伸ばされた金髪は少し乱れ、額からは一本の黒い角が覗いている。

 続いて出て来たのは、20歳位の青年。これまた顔立ちの整った美青年だが、少し線の細さが先の青年と異なっている。ボブカットの緑髪に血のような赤い目。白目ではなく黒の中に赤い瞳と異彩を放っているが、表情から人の良さそうな雰囲気を感じる。青を基調とした服に身を包み、こちらは剣を持っていない。額に汗が浮かび、口を開けたまま目を見開く二人の青年は余程慌てていたのだろう。


「若様方っ! 落ち着きなされ! 陛下のご帰還の式典でございますぞ!」


 執事服を着た老人が喚きながら彼らに続いて飛び出て来た。

 打ち合わせでは彼らが扉を開ける手はずだったのだろう、銀色の甲冑に身を包んだ兵士が、壊れた扉を仕方なしに掲げ、体裁を取り繕っている。


 荘厳な雰囲気は九郎達がいなくても、壊れる運命にあったようだ。ファンファーレが止まり、先導していた騎士が、何とも言えない表情で目元を覆って脇に逸れる。

 だが、荘厳な雰囲気は無くなっても、感動の一場面は変わらなかった。執事服の男のセリフを聞かなくても、彼らがカクランティウスの子供である事は直ぐに分かる。顔立ちに少しの面影が有り、何より目尻に浮いた涙が彼との絆を表している。


「ルキフグテス! ベガーティス! 帰って来たぞ!」

「「父上!!!」」


 カクランティウスが両手を広げ、感極まったように叫んだ。

 50年の月日は長い。一人氷に閉じ込められ、休まず叫び続けていたのはこの時の為。万感に満ちた彼の表情が、それを物語っていた。目端に涙を溜め、駆け寄る子供達を迎えようとするその顔は、王では無く父のもの。生き延びて国へと帰った暁には、何がしたいのかと九郎が問うた時、彼が迷わず答えた「子供に会いたい」との思いが遂げられた瞬間だった。


「父上! お待ちしておりました! ずっと……ずっと……信じておりました!」

「おおっ……。おお!」

「5年、10年であれば我らも待ちましょうぞ! ですが、50年は長過ぎです。剣の稽古も、魔法の稽古も……ずっと途中で止まってしまっているではありませんか。離しませんよ! 暫くはずっとつきあってもらいますよ!」

「おお……。勿論だ! 我が息子たちよ!」


 互いに名を呼びあい、歓喜に咽るカクランティウス達は、王族であることを忘れて喜びを分かち合っていた。 


「お連れ様方……申し訳ありませんが、少し脇へとお願いします」


 白亜の城が見下ろす赤い絨毯の下で、久しぶりの親子の抱擁を交わすカクランティウスに、九郎ももらい泣きしそうになりながら眺めていると、並んでいた兵士の一人が申し訳なさそうに言って来た。

 何の為かとは聞くまでも無い。九郎は、50年もの間離れ離れになっていた親子の対面に水を差すほど、野暮では無い。


「大きくなったなルキフグテス。もう片手では重く……。ベガーティスも……。まるで大地に根が張ったようだ……」


 九郎達が促されるままに兵士達に並んだその時、親子の抱擁を交わしていた筈のカクランティウスが、少し歯切れの悪い口調に変わっていた。


「父上! 再会は嬉しく思います! 我らはずっと父上の帰りをお待ちしておりました!」

「ですが、父上! ソレはソレ、コレはコレでございます!」


 童心に帰って父親の腕にしがみついているのかと思っていた、フキフグテスとベガーティス。カクランティウスの二人の息子たちが、彼の腕を抱えたまま憐みの視線を向けていた。


「やっとお戻りになれたのね? へ・い・か?」


 壊れた扉の奥から、小鳥の囀るような小さな声が聞えた。


「ずっとお待ちしていましたのよ? 置手紙一つで50年も城を空けるだなんて……」


 ハスキーな女性の声が、それに続く。

 カクランティウスからはカタカタと音が鳴っていた。見るまでも無くその顔は青ざめ、首から下と同じように紫色に変わっているのだろう。顔は人の姿となっているが、今の彼の体は骨。音もよく鳴る。


 誰も傷付けない為に、勇者と一騎打ちを望んだカクランティウス。

 だが、それを相談無しにされたほうはどうだろうか。無事に帰って来た事は喜ばしい。だが、王でもある身で勝手をされて、怒っていない訳が無い。


 扉の無くなった城の入り口から、二人の女性が姿を現していた。

 一人は金髪の巻き毛を纏めた30歳位の女性だ。緑のドレスに身を包み、たおやかな仕草で小首を傾げる仕草が可愛らしい。蟀谷のあたりから羊のような巻角が生えていて、彼女も魔族である事が伺える。まだ若々しいが、魔族も森林族同様、外見の老化が遅いのだろうか。彼女がカクランティウスの妻だと言う事は、聞かなくても分かる気がして九郎は成り行きを見守る事に決め、口を噤む。

 もう一人は40歳位の妙齢の女性だ。

 長い緑髪をそのまま腰まで流した彼女は、黒と赤の瞳を薄く細めてカクランティウスの帰還を祝う。

 こちらは真っ赤なドレスに身を包んでいるが、その手に持っている物が物々しい。身の丈を超える金属バット。いや金棒だろう、棘の着いた大きな棍棒を肩に担いだドレスの女性は、見たままに鬼嫁の雰囲気を醸し出していた。


「父上! お覚悟をお決めください! このままでは我らも巻き込まれてしまいますので、どうか! どうか動かぬよう!」

「ベガーティス? 先程もう離さぬと言っていたではないか?」

「ソレはソレ、コレはコレと言ったではありませんか!」


 ベガーティス……緑髪の青年がカクランティウスの腕を離し、じりじりとそばを離れる。


「父上! 我らも母上達の一撃には身が持ちませぬ! 父上の最期に立ち会え、私は幸せでした! どうかこの先も我らを見守り下さい!」

「ルキフグテス? その言葉は、少し縁起が悪すぎでは無かろう……か……」


 ルキフグテス……金髪の青年がクッと涙を流して退く。今生の別れに似たその言葉に、カクランティウスが引きとめようと手を伸ばし、そのまま固まる。

 カツカツと靴音を鳴らして、二人の女性がカクランティウスへと近付く。

 50年ぶりの妻との再会。これもまた涙なくして見れないものだろう。九郎はそっと目端を拭った。



☠ ☠ ☠



「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありませんわね」


 口元を隠して金髪の女性が嫋やかに笑う。カクランティウスの第一夫人であり、この国の第一王妃。さきほど彼に轟雷を放った女性は、リスティアーナと名乗っていた。現在九郎達は、迎賓の間に案内され、ゆったりとしたソファーに身を委ねている。髙そうな調度品が並べられた、城で一番豪華な客間だという迎賓の間は、九郎達6人の部外者、そしてカクランティウスと二人の息子達と妻達を入れても十分に余裕があった。

 その中央の椅子に腰かけたカクランティウスは、まだブスブスと黒煙を上げているが、王者の風格を取り戻している最中だ。そっとしておきたい。


「アッハイッ!」


 九郎は条件反射で立ち上がって直立不動になり、上擦った声で返事を返す。

 武力では最強だと思っていたカクランティウスが、いとも容易く滅せられた。彼が腕を伸ばした瞬間、目の前が紫色に光ったと思ったら、轟雷が轟き彼に雷が直撃していた。夫婦喧嘩の雷が、実在するものだとは知らず、男としては怯えるしか他にない。


「その御仁は……クロウ。吾輩……を……『光の魔境』よ……り……救い出してくれた命の恩人だ……。丁重に持て成してくれ……」


 まだいくばかは放電し続けていたが、カクランティウスが普通を装い九郎達を紹介する。これはもう駄目だろうと思っていたが、彼は不死系魔族『吸血鬼ヴァンピール』。道中思ったよりも回復していたことが幸いしたのか、なんとか滅せられずに済んだようで何よりだと九郎は思う。

 きっと手加減していたに違いないだろうが、今のカクランティウスは瀕死の状態だ。やっとのことで国へと帰って来たのに、その場で妻に殺されたのでは目も当てられない。


「畏まりましたわ、陛下。クロウ様。陛下を……夫の命を助けて頂き、本当に……本当にありがとうございます」


 一度お仕置きしたらそれでお終いなのだろう。貞淑な妻の顔に戻ったリスティアーナは、九郎の手を取り深々と頭を下げてくる。


 ケジメとして彼女達がカクランティウスに罰を与えたのは理由があった。

 王を咎められるのは相応の身分の者だけ。衆目で罰を下したのも、後顧の不満を断つため。王妃である彼女達が罰を与え、カクランティウスが不在の時、筆頭を努めていた息子たちがそれを許す。

 この一幕には王族としての様々な思惑が絡んでいたが、それに気付ける九郎では無い。


「ぐ、偶然っす! つーか、カクさ……カクランティウスでん……陛下? には、助けてもらった事の方が多いっすから、あ、頭をあげてつかーさい! おれ……自分はしがねえ旅人ですけぇ」


 カクランティウスは気さくな中年であり、九郎も気安く話せていたが、こと王妃ともなると勝手が違う。周りの雰囲気も手伝って、しどろもどろになりながら、訳の分からぬ敬語でしゃべる九郎。カクランティウスの温かな家族劇に一瞬頬を緩めていたが、彼が王様だったことに今更ながらに狼狽える。小市民であり下っ端気質。雑魚キャラの面目躍如の狼狽えっぷりである。


「ところでミスラの姿が見えぬが……っとまだ一人で歩ける年ではなかったか」

「あら、ミスラはもう87歳ですわよ? あなたが姿をくらましてからもう50年経っている事をお忘れな、く!」


 やんごとなき身分の女性に頭を下げられ、わたわたと不思議な踊りを踊る九郎を他所に、カクランティウスが訝しげに首を捻る。

 その言葉にムッとした表情を浮かべて、彼のもう一人の妻、ヘカーテが答える。緑髪をたなびかせた、少し釣り目の淑女。彼女の振り落した金棒はそれはそれは良い音を響かせて、アルムの街に響いた事だろう。

 カクランティウスが半分まで地面にめり込んでいたが、絨毯の下は石畳だった筈だ。どれ程の膂力が有れば、人を釘のように石に埋め込む事が出来るのだろうか。いや、カクランティウスが金棒以上に固かったからこそ、石にめり込んだのであって、九郎が喰らえば見るも無残なひき肉に変わっていた事だろう。

 彼女がどのような顔をしていたのか、九郎からは見えなかったが、カクランティウスの表情から何となく察した。彼が恐妻家だということは知っていたが、なるほど、これでは仕方が無いと思ってしまう程度には九郎も恐怖を覚える。


「そうか……あんなに小さかったミスラがもう87歳になるのか……」


 アルム公国の王家の家庭模様に九郎が震えていると、カクランティウスが気落ちしたように肩を落としていた。

 娘がいるとは聞いていたが、一番可愛い盛りの時期を見る事が出来なかった男親の心境は、子を持ったことの無い九郎と言えど想像できる。元いた世界に、早くに娘が出来た友達がいた。おチャラケており、不真面目だった友達が、娘が生まれた時から人が変わったように真面目になっていた。「娘の為なら死ねる」が口癖だった友の言葉を思うに、娘には息子とは違った愛情を持つのが父親と言うものなのだろう。


「しかし……それではなぜ顔を見せてくれないのだ? 病で臥せってるとか!?」


 寂しげな表情でふさぎ込んだカクランティウスが、自分の言った言葉で青褪める。

 病と言う単語は、彼にとって特別に忌むべき言葉だ。彼の3番目の妻、ミツハを病で亡くしていたからこそ、カクランティウスはバッグダルシアの街で、奴隷達に対しても献身的に看病していた節があった。


「落ち着いてくださいませ。今呼びに行かせているところですわ。ミスラは最近離れにいる事が多いですから……あら? 陛下、お痩せになりました?」


 立ち上がって外へ出ようとしたカクランティウスの襟元を引いたヘカーテが、不思議そうに首を傾げる。

 そう言えばまだばれて無かったが、カクランティウスは今現在顔以外はスケルトンとなっている。引いた感触が思った以上に軽い事に、ヘカーテも気が付いた様子だ。


「う、ウム。少しばかり痩せてしまってな……。なにせ50年間飲まず食わずだったからな……。なあ、クロウ殿?」


 助けを求めるカクランティウスの視線を、九郎はそっと受け流す。向けた視線の先にはアルトリアがいたが、彼女も渋面したままアルフォスへと流す。

 無事に帰って来たかに見えるカクランティウスだが、その姿は果たして無事と言えるのか。

 九郎達はもう見慣れたものになってしまっていたが、今のカクランティウスは骸骨の体に人の頭を付けただけの異形の姿だ。その姿はただのスケルトンよりも恐怖を抱かせる。妻達にはスケルトンの姿を見せた事は無いと言っていたが、果たして彼の妻達は今のカクランティウスを見てどういった反応をするだろうか。

 決して良い反応は得られる気がしなくて、誰もが視線を彷徨わせる。


 と、そこに別の場所から助け舟が入って来た。


「父う……陛下! ミスラを呼んで参りました!」


 扉を数度叩く音がして、カクランティウスの長男、ルキフグテスの声が聞えた。


「ルキフグテスをわざわざ呼びに行かせたのか? 近従の誰かに行かせれば済む話ではないか?」


 これ幸いと、カクランティウスが話題を変える。とは言え、その言葉も本心からのもののようだ。王族であり、カクランティウスの留守中代わりを務めていた長男に従者の仕事をさせるのは、考えるまでも無く不適切だ。そう言外に尋ねた言葉に、彼の妻二人は顔を見合わせ笑みを浮かべ、


「陛下が知らない間にあの子は成長したのですよ。今ではこの国の防衛を司る、要所を担っておりますの。暗殺の危険性もある故、少数の者にしか居場所を知らせておりませんの」

「ミスラはミツハの落し種。わらわ達も息子以上に愛情を注いで参りました。健やかに成長しておりますわ。きっと陛下も驚かれるような美しい淑女に育っておりますわよ?」


 と、ホホホと笑い合う。

 自分達の息子以上に愛情を注いできたとの言葉に、カクランティウスの次男、ベガーティスがふいと視線を逸らせていた。


「失礼します」


 カクランティウスが妻二人の言葉に目を見開き、二男の様子に気付かぬ内に、扉の外から鈴のなるような声が聞えた。

 そして放たれた扉から一人の少女が姿を現す。


「!!??!!?」


 その瞬間、カクランティウスを始め、九郎とアルフォス、女嫌いのベーテさえもが目を瞠る。女性にトラウマを抱えるフォルテや、女性であるアルトリアやリオでさえも同様だった。


(ナニコレ? マジ? いんの? こんな子?)


 部屋を覗き込んできた少女の見た目に、九郎は言葉を失い呆けてしまっていた。


 この世界に来てから、美しいと思える女性には数多く出会って来た。レイア、シルヴィア、シャルル、アルトリア、リオ。誰もが個性的でアイドルもかくやと言うほどの美貌の持ち主だ。年齢は幼かったが、ベルフラムやクラヴィス、デンテも将来的には恐ろしいほど美人に育つであろう顔立ちをしていた。

 だが扉の外からおずおずと顔を覗かせたその少女は、美という言葉が形を成したかのような驚くべき容姿を持っていた。


 白に近い青色の髪は、長く伸ばされシャランと音が鳴りそうな滑らかさでその肩に掛かる。陶磁器と言うよりは雪を思わせる白い肌は、染み一つ無く、触れれば溶けてしまいそうなほどきめ細かい。小さく形の良い鼻はつんと上を向いており、その下にある唇は薄い桜色で僅かな光沢を放っている。

 そして何より目を引くのは少女の瞳だ。

 オッドアイ。言葉だけは知っていたが、見るのは初めてのその瞳は、右目が赤、左目が青と一目でわかる違いでもって彼女の美しさを決定づけていた。


 一つ間違えば疎まれそうな、夫の3番目の妻の娘。それを実の息子以上に可愛がったと言うのも頷ける。これ程の美貌を持つのなら、仕方が無い。そう言いきれるほどに、カクランティウスの娘、ミスラの美しさは突出していた。


「あの……」


 戸惑いがちにミスラが声をあげる。扉の外から中を見渡し、その瞳が九郎を射抜く。大きく零れ落ちそうな二つの目に見つめられた九郎は、パクパクと金魚のように空気を求める。

 時が止まったかに感じられていた。これ程の美貌を前にして、言葉を紡ぐ事など不可能だ。

 この凍った時を動かせるのは、この場を支配している彼女だけだ。注目されて恥ずかしいのか、ミスラは頬をほんのり赤く染め、形の良い唇を開く。

 

「あの……その……。申し上げにくいのですが……お父様……陛下はどなたですの?」


 瞬間、部屋の中の空気が本当に凍った。

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