第214話  悪夢の続きを


 暗闇の中ふと人の気配を感じてリオは薄目を開く。

 夢と現の狭間で徐々に覚醒する意識と、同時に体に感じる倦怠感。


(アルト姉じゃない……クロウか……)


 僅かに残った感覚が、下半身に何も触れていないことを確認してリオはホッと胸を撫で下ろす。

 長らく忘れていた羞恥の心。それがここ数日で蘇って来るとは思ってもいなかった。

 異性に排泄を見られても何の感情も持たなかったリオだが、ここに来て汚物を拭われると言う事態に、身悶えするような羞恥心が襲って来ていた。

 人の心と言うモノは心境の変化、立場の変化でこれ程違いを生むのかと、当の本人であるリオですら困惑している最中だ。


 それも今の自分が自分のモノであると言う自覚なのか。

 リオは軽くなった首を感じながら息を吐く。体が思うように動かせないのが惜しいと感じる。

 生きてからずっとその首に嵌っていた重い首枷は今は存在していない。

 首枷を外された時の事を思い出すと、今でも乾いた笑いが込み上げてくる。


 ずっと恐怖の対象だった首枷の魔法は、死と言う恐怖で奴隷達を縛る為のただのまやかしだった。

 奴隷管理をする側のチェリオが首枷をそのままにしている理由を考えれば、もっと早くに気付けたのかも知れない。

 主に逆らえば即座に首を飛ばせる魔法具など存在していなかった。

 主人に反抗すれば首枷が首を落とすとの話は、真っ赤な嘘。ただし主人となる者にとっては都合のいい嘘だったのだ。

 従順な奴隷を作り上げる為にも、奴隷を縛る鎖は必要だ。しかし鎖で繋がれた奴隷は動きが限定されてしまう。そこで考え出されたのがこの首枷と言う『恐怖の鎖』だった。

 定期的に奴隷達に首を落とされた死体を見せる事で、首枷の魔法が真実だと思い込ませる。

 主人に逆らえばあっという間に死ぬのだと言う恐怖を植え付ける。


 奴隷達はシオリの持ち物であり財産だ。金を稼ぐ手段でもある奴隷達を易々減らせるような権限など、貸主達にシオリが与える訳が無かった。

 これも考えてみれば分かる事だった。一日の稼ぎが宿の一泊にも満たない奴隷達全てに、高価な魔道具を与えるなど非効率も良いところなのは少し考えれば分かる事だ。


(でも……怖がりなアタシだったからこそ……フォルテを思い出せた……のかな……)


 リオは心に渦巻く憤りを情けない自分で慰め、首を何とか横に向ける。

 気付いた人の気配がアルトリアで無いのなら、九郎がフォルテの世話をしてくれているに違いない。

 何故そのような物を欲しがったのかは分かっていないが、九郎はリオに協力する対価に笑顔を求めてきた。

 それだけは何としてでも返さなければと、リオは最後の残った力を振り絞る。


 望んだのは弟の幸せだが、それはもう間もなく終わりを告げる。

 遂げられなかった約束の対価を払おうとしている。リオはそう考えてはいなかった。


 望んだ形と違っていたが、リオの願いはすでに叶えられていた。

 そもそも幸せという言葉を使ったリオ自身が、幸せとはどういうものかを分かっていない。だからこそ、リオは今の現状が幸せであると感じていた。

 自分を取り戻した弟と、誰に害される心配も無く共にいる。

 それだけでリオは幸せを十分に感じ、それ以外に望むべきことは無かったのだ。


(アタシはもう十分よくしてもらったよ……)


 笑顔など今迄作る物であり、いざ心からと言われても難しい。


(!!)


 ただ精一杯の感謝の気持ちだけはと心に込め、浮かべたリオの笑顔が凍りつく。

 夜の闇の中に、恐ろしい化物が佇んでいた。

 緑に覆われ、今迄死んで行った奴隷達のようにグズグズに腐り果てた、醜く悍ましい死神がフォルテを見下ろしていた。


 今迄のリオであったのならば、その恐怖に悲鳴を上げていたに違いない。

 しかし今のリオは、シオリから取り戻したモノのおかげで、悲鳴を押し殺す事が出来ていた。


『勇気』――リオがシオリに奪われていたものの正体だった。


 シオリが何故リオの中の勇気を欲しがったのか。

『勇気』とは無謀な心とは違う。恐怖を感じ、敵わないと思っていながら立ち上がる心の強さだ。

 自分自身が相手よりも劣っていると感じなければシオリの『神の力ギフト』は効果を発揮しない。しかし偽りの思いでは何処かで支障をきたしてしまうかも知れない。

 だが奪う為に弱くなった自分が強者に立ち向かえるのか。その心配が常にシオリにあった。弱い心では立ち向かうことすら難しい。強者と思っている相手であれば心が先に経萎へしおれかねない。

 だからこそ、弱いくせに弟を守ろうとシオリにすら立てつこうとしたリオの勇気をシオリは奪っていた。


 その所為でリオはフォルテを忘れる事になってしまっていた。

 リオの『勇気』の源泉は弟を守りたいと願う気持ちだ。

『簒奪』で奪われた側は、その事実を認識できない。その整合性を保つ為にリオはフォルテの記憶の殆んどを失っていたと言う訳だった。


 リオは取り戻した勇気を振り絞って、フォルテの前に立つ化物を見据える。

 動かない体であっても、何が出来るか考え、僅かな隙を捜そうと必死で目を動かす。


 このままではフォルテの身が危ない――出来る事は助けを呼ぶ事だ。

 考えたリオは直ぐに言葉を叫ぶ。もう大声を出す力は残っていないが、それでも何かをしなければと必死に口を動かす。


「――ク……ロウ!!」

「わ、わりい……起こしちまったか?」


 驚く事が目の前で起こっていた。

 目の前の化物を何とかしようと呼んだ助けに、目の前の化物が答えていた。


「え?」


 思わず瞬きし化物の顔をもう一度良く見る。

 普段と変わらぬ九郎の顔が月の光に照らされ、申し訳なさそうに頭を掻いていた。


「ち、違う……。ワリィ……寝惚けていたみたいだ……」


 何故九郎の顔が化物に見えたのか。自分でも分からずリオは素直に謝罪する。

 男はまだ恐ろしい。自分をモノとしか扱わない男を見ると未だに恐怖に足が竦む。

 しかしその中で、目の前の男だけは少し違った感情も持ち始めていた。

 惚れた晴れたと言うような感情では無い。そもそもリオは惚れると言う感情が良く分からない。異性とは、自分を汚し辱めるだけの存在でしか無かったリオに、恋慕の情など分かる筈も無い。

 それでもリオは目の前の男、九郎に信頼のようなものを持ち始めていた。

 あれほどこだわっていた弟の幸せが叶わないであろうことを知った時、リオは全てを諦めた。

 自分の未来も、弟の幸せも、自分達の次の不幸も。全てを諦め、自暴自棄になったリオを止めたのは九郎だった。

 笑顔と言う訳のわからないものの為だけに、誰より必死に働き、弟の傍でオロつくだけの自分よりも懸命に動いていた。


 この男にならば次の自分――フォルテを託しても良いと思えたからこそ、自分は九郎に縋ったのではないか。そんな気すら覚えるほどに、九郎の事を信頼していた筈が、化物に見間違えてしまうとは……。


 心の奥底ではまだ九郎達『不死者』を化物と思っている自分がいるからかと、リオは気恥ずかしさに小さくなる。


 感謝ばかりが絶えない筈なのにと、申し訳ない気持ちを抱きながら、伺うように見上げる九郎の顔は、月明かりの青い光に照らされ黒い影を落としていた。


「だ、抱かせてやるっていった約束は果たせそうにねえけど……これくらいは受け取ってくれよ。な?」


 九郎が暗く落ち込んでいるように想えて、リオは精一杯の笑顔を浮かべる。

 汚物に汚れてばかりの自分を抱きたがる男はいないだろう。それに病で感覚の無い今の自分に突っ込んだところで良くも無いだろう。本心では男がまだ怖いだけの自分に言い訳し、求められた対価だけでも受け取って欲しいと頑張ってみる。

 やはり頬が引くつくのが自分でも分かる。弟を見ていると自然に零れる安堵の笑顔は、何故か九郎を目の前にすると頬が引きつってしまう。


(おかしいな……感謝はしてる筈なんだけど……)


 自分でも儘ならないものだと苦面しながら、頬をもごもご動かすリオに、九郎の方が苦笑を浮かべ、リオの元へと近付いてきた。


「俺は欲張りだからな? そんなんじゃ満足できねえよ。これくらい満面な笑顔でねえと」


 片目を瞑って白い歯を見せた九郎に、リオは眼を細めて言い返す。


「へったクソな笑顔だな……。泣いてるようにしか見えねえよ……」


 月の影を映した九郎の笑顔は、道化師のように笑っているのに泣いているかに見えた。


「うるせっ!」


 憮然とした表情で九郎はリオの額を人差し指で軽く押す。

 その指がゆっくりと鼻筋を通って唇に触れる。

 男に触れられる事すら恐怖を覚えていた筈なのに、この時のリオは九郎の指を拒まなかった。

 目の前の男に恐怖を覚える事は間違っている。

 必死で警鐘を鳴らして来る心を、リオは取り戻した勇気で塗りつぶす。


(お前みたいな甘ちゃんが怖い筈がねえだろう? なあ……だからそんな悲しそうな顔すんじゃねえよ……)


 唇に触れたまま眉を下げる九郎に、リオは心の中で語りかける。

 触れた指から得体のしれない何かが喉を滑った気がしていたが、リオはそれも全て受け入れた。

 恐ろしいと思える悪夢の住人が、今の幸せを連れてきた。

 ならば今感じている恐怖もきっと良いものに違いない――と。


☠ ☠ ☠


「ちっ……いいもん持ってんじゃねえかよ。チェリオ」

「おいっ! ジロジロ見んじゃねえよ! アルフォス! ベーテをなんとかしてくれ!」


 屋敷の中からチェリオの怒鳴り声が響いていた。

 この場所にいても良く聞こえる彼らの喧嘩は聞いていて楽しい。


「ベーテ……。余りそこを凝視していると、そう言う趣味だと思われますよ?」

「は? はあっ!?」

「おいっ!? まさか……お前っ……。そう言えば女にえらく攻撃的だったよなっ!?」

「ちち、ちっげーよ! ばばば、馬鹿いってんじゃねえっ!」

「どもると更に怪しいんだよっ! おいっ!? アルフォス! 逃げようとすんな!」


 喧しい事この上ない喧騒。それを遠く耳にしながら九郎は眼を細める。

 死の足音では無く、生者の生き生きとした声。それが感じられるチェリオの声は、病に打ち勝った勝鬨だ。

 少し前まで死の足音に怯えて息を押し殺していた屋敷の中は、今は生者の声で溢れていた。


(動物の力ってのはすげえもんだよなぁ……)


 しみじみと思いを馳せながら九郎は夕陽の沈む湖畔で草を食む鹿のような動物に目を移す。

 自分に狂気とも思える道を示し、そして正解に導いてくれた名前も知らない動物に、九郎は感謝の眼差しを向ける。


 掛かれば死を待つしか無かった、共食いの果てに生まれた病。

 しかしその病に打ち勝つ方法もまた、共食いの果てに生み出されるものだった。


 この病に掛かかると、人体はその病に抵抗しようと僅かな免疫物質を作り出す。しかし生成された量だけでは病に打ち勝つには足らなかった。

 獣達は何度も病を患いながら、その免疫物質を濃くしようとしていたようだ。

 死体を食べた獣が病で倒れ、その死体を食べた獣がまた倒れる。代を変えながら病に対する免疫を取り込み続ける。そうして得た免疫物質を獣たちは次代に託そうとしていた。

 共食いは狂気の伝染では無く、何とか次代に命を繋ごうとした動物たちの本能だった。


 それを九郎は一人何度も死を繰り返す事で、たった一人で集めた。

 最後に残った自分の死体を食べさせても薬となったかもしれないが、それより確実な妙案を思いついたのは自賛したい部分だ。


 『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』で取り込んだものは、九郎が意識した物だけを取り出す事が出来る。逆に言うと分離する事も出来る。

 もうリオ達の首の枷は外れているが、方法が分からなかった時に試そうと思った、『体の中に首輪を置き去りにする方法』は人に限った事では無い。

 やろうと思えば海の水を取りこんで、塩と真水に分ける事すら出来ることになる。


 自分の中に免疫物質が残った状態で体を死体にして取り込む。

 それを指から取り出し、与える事で薬とした形だ。

 

 九郎がラムスを食べ始めてから10日。

 狂気に片足どころか全身を浸けて得た、病への対抗策は今のところ順調に効果を発揮していた。


 見下ろすオレンジ色に染まった屋敷から、一人の少年が飛び出してくる。


「クロウさ~ん! お食事の用意が出来ました~!」


 周囲に大声を張り上げているのは年若い銀髪の少年。

 声変わりもまだの澄んだ声は、遠くから見下ろす九郎の耳にも良く届く。


「直ぐ行くから先に食っといてくれ~!」


 九郎は身を低くしながら大声で叫ぶ。

 声から居場所を知られないかハラハラするが、忙しい最中に自分を捜しに来ることはあるまい。

 聞こえてきた声に一瞬周囲をきょろきょろしていたフォルテは、少ししょぼんと落ち込んだ様子を見せた後、屋敷の方に戻って行く。


 その様子に胸を撫で降ろした九郎は、夕焼けに染まる緑の大地を見下ろし、目を細める。

 トボトボと言う足音が聞えて来そうなほど消沈していた様子のフォルテが、突然駆け出していた。

 向かう先には大量の洗濯物を抱えた黒髪の少女の姿が見えている。


 ここから顔を伺う事は出来ないが、きっと飛び切りの笑顔を浮かべている事だろう。


 病の進行具合が遅かった魔族の4人、リオ、フォルテ、アルフォス、ベーテは、もう動き回っても大丈夫なほどに回復していた。彼らには今はまだ回復していない患者の世話を手伝ってもらっている。今の元気な声を聴くに、次に立ち上がれるようになるのはチェリオだろうか。


「さて……じゃあ俺はもうひと頑張りすっかねえ……。そんな目で見てくれるなよ、ラムスさん。もうこれで最後の予定なんだからよ」


 九郎は屋敷の中に消えて行く姉弟の様子を見届けると、傍らに向かって語りかける。


 もう殆んど肉の残っていない、ラムスの遺体が横たわっていた。

 落ち窪んだ眼窩は今尚九郎を責めて来るような、暗い色を湛えている。


 自分の心が病んでいるのか、ラムスの恨めしそうな顔を幻視してしまい、九郎は顔を歪める。

 縋った狂気の効果が発揮された事で、九郎の罪悪感は少し薄れていたが、それでも罪を感じた心が無くなる訳では無い。


 どう取り繕っても、死者を冒涜する行いをしている自覚があった。

 ラムスはベルフラムのように、死後の自分の行く末を九郎に委ねてくれた訳では無い。勝手に死体を荒らしている九郎は、言い訳の仕様が無い。死なない九郎は死後にラムスに謝ることすら出来ない。


 一方的に感情をぶつけて何も出来ない死者から尊厳を奪う。


「シオリも俺もそんなに変わりゃしねえよな……」


 自嘲気味に笑う九郎の口元は酷く歪んでしまっていた。

 命の為と自分に言い訳し正当化していたが、死者を、それも少なからず言葉を交わした人間を食べるということに、心の方が根を上げていた。


 痛む心に蓋をして、九郎は変わらない動作でラムスの肉を削ぎ落とす。

 腐った肉は少しの抵抗も見せず、ネトリと指に絡みつく。もう腐敗し泥のようになったそれを九郎は躊躇わずに口へと運ぶ。


「相変わらず不味いっすねえ……ラムスさん。生きてりゃ美味しく頂きたいところだったんスけど。性的な意味で」


 くだらない軽口を言いやり、ハハと乾いた笑いを漏らして九郎は大地に寝転ぶ。

 襲って来る倦怠感と嘔吐感に眉を顰め、軽口でも言っていないとやっていられないと空を仰ぐ。

 夕闇が落ちたばかりの空は、抜けるような濃い群青色の闇を空に広げ始めていた。


「ま、もし俺が死ぬときが来たら間違いなく地獄行きッスから、そん時に謝らしてくださいや……。そんときゃもうラムスさんの魂は廻ってるかも知んねえすけど……」


 不死の自分に死は訪れるのだろうか……。

 完全な不死は存在しないと、アルトリアからもカクランティウスからも言われていた。

 しかし今の九郎は自分の『死』を想像できない。心が死ねば自分は死ぬのだろうか……。

 朧気な感傷を抱きながら九郎は瞼を閉じる。苦しさで吐き出された吐息は、今は確かに生きていると、熱い熱を纏って白い煙を闇に浮かべた。


☠ ☠ ☠


(やべっ!? 寝ちまった!?)


 再び目を開いた時に、見上げた夜空の色が違う事に気が付き九郎は慌てふためく。

 寝る間を惜しんで病を患う事を繰り返していた為、いつのまにか眠りに落ちてしまっていたのか。

 病はすっかり体を侵し、十二分に広がりを見せている。


(少し寝かせ・・・過ぎちまったか? まあ、熟してねえよりかはマシか……)


 自分がトマトか何かと勘違いしてそうな感想を抱きながら、九郎が身を起こそうと、意識を覚醒させる。

 その耳に澄んだ声が響いていた。


 ――ノクティス・レナティス・リーベリー――

 ――インキュナブラ・ショグール・ウェントゥス・テネリタース――


 聞いたことの無い言葉。なのに耳になじみの良い澄んだ歌声に、全身の血の気が引いていく。


「アルト!?」


 見られたと顔を強張らせた九郎は、自分の状況を知って更に顔を青褪めさせる。

 後頭部に柔らかい感触が伝わって来ていた。そして見上げた夜空の半分が、大きな質量を持っている事に自分の現状を把握する。


(膝枕って……もう少しマシな状態の時にやって欲しいイベントだな……)


 声を上げた九郎を見下ろしたアルトリアは、目を薄く細めて人差し指を九郎の唇に添えて来た。

 黙っていろとのゼスチャ―に、九郎は眉を下げたまま口を結ぶ。

 通常時なら嬉し恥ずかしの甘酸っぱいイベントだが、今の状況を傍から見れば猟奇的な光景でしかない。

 病で腐敗し緑色の物体と化している九郎を膝に抱いて、歌を歌うアルトリアの姿は彼女の本質であるアンデッドをより濃く表してしまう。


 それでも彼女が自分にの姿に対して少しの忌避感も抱いていない様子に、安堵している自分がいた。

 例え『不死者』の仲間であろうと、知られては拙いと思っていた。

 人が人を、それも腐った死体を食べる姿は、例え『不死者』の彼女達であろうと受け入れられる物では無いと思っていた。


 だが自分の父が代わり果てた姿になろうとも、共に過ごしていたアルトリアは、九郎の姿が悍ましい化物になってしまっていても関係なかったようだ。


(耐性が出来てやがんなぁ……。ありがてえことだけどよ)


 思わず苦笑を浮かべる九郎を、少し困った子供を見るような目で見つめるアルトリア。


 ――シャイン・キュア――ヴィド・メキュウム――

 ――シャイン・キュア――イクス・エイキュオ――


 冷たい風にアルトリアの柔らかな歌声が混じる。

 言葉の意味も、旋律も何も知らないが、その歌は子守唄のように耳に残った。


「どうして隠してたのさ?」


 歌い終わったアルトリアが、唐突に質問を投げかけて来る。

 胸の影に隠れて見えないが、少し怒った口調。


「いや……別に隠してた訳じゃ」「嘘!」


 思わず口をついた言い訳は、アルトリアは簡潔な言葉で切って捨てられた。

 隠れていた事が何よりの証拠で、理由は罪と感じていたから。

 それも言訳かと九郎は口の端を僅かに上げる。


 後ろめたかったから、怖かったから――化物に落ちた自分は拒絶されべきもので、嫌悪されて当然の存在だから――。


 頭の片隅に過った本心に、九郎は顔を顰めて口ごもる。

 言葉を無くしたように沈黙した九郎を、アルトリアは優しく腹に抱きしめていた。

 豊満な胸を顔に押し当てられ、一瞬狼狽えた九郎だったが、アルトリアからはいつものような吸い取られる何かは感じない。


 九郎はアルトリアが発情している訳では無い事に、ホッと胸を撫で下ろす。

 瞼を胸で覆われ、目を開けても暗い色しか見えてこない。

 しかしその暗さが、不思議な安堵を生みだしていた。


「ボクはずっと前から知ってたんだ。クロウってば最近食べた物全部吐いちゃってたでしょ?」


 諭すように話しかけるアルトリアの声色は少し震えていた。

 それを見られて心配させてしまったのかと、九郎は渋面する。

 ゴメだから受け付けなかった訳では無い。食べる事そのものを体が受け付けていなかった。

 何を食べても口の中に広がる死体の味が思い起こされ、体が食べる事を拒んでいた。


「ねえ、クロウ……人を……命を救おうとすることは……罪じゃないよ?」


 アルトリアの静かな声。

 選んだ道は狂気の沙汰で、縋ったものは死者を冒涜する罪。

 ずっと心に圧し掛かっていた罪の意識を、アルトリアは和らげようとしている様子だ。


「それとも……ボクがキミを見限るとでも思ってたのかい? お父さんからしてああなっちゃってたボクに、今更そんな可愛い姿で怖がると思われるのは少し心外だね」


 今日のアルトリアはいつもよりも鋭いな――普段の色事一辺倒な思考のアルトリアが、今は自分の心の傷を癒そうと必死で言葉をさがしているかのようだった。


「それとも……この子に悪いと思っちゃってる?」


 アルトリアが九郎の首を抱え、掲げる。

 ぶちっと首筋で音がした。


「ア~ル~ト~?」

「あはははは……ゴメン……。もげちゃった」


 腐敗してグズグズだった九郎の首は、アルトリアの膂力に耐えきれず、簡単に千切れてしまっていた。

 いままで感傷的になっていた空気が、途端に間抜けなモノに変った気がしてしまう。傍から見る限りは猟奇的この上ないのだが……。


 眉を顰めてアルトリアを半眼で見つめる九郎に、彼女は乾いた誤魔化笑いを浮かべていた。

 アルトリアの目端に薄っすら涙が光って見え、九郎はそれ以上責めずに体の殆んどを骨としたラムスの遺体を見下ろす。


「そりゃあ、死を汚したんだから悪い気がすんのは当然だろ?」


 九郎は顔を歪めて呟いていた。

 死ねば全てが仏様――仏教徒でも無い九郎ではあったが、日本の文化にまで根付いた根本的な考えは九郎の中にも根付いていた。

 死んだ後まで責められるような罪は無い。そう考えているのに、産みだした死の贖罪をラムスに求めたことこそが、九郎が罪を感じる最たる理由だった。

 人を食べる――それは業であって罪では無い。飢えていれば、食べなければ死ぬのなら食べて生きる道を選ぶべきだ。

 しかし誰かの為だと言い訳して、死者を荒らすのは罪だ。

 死者は何も抵抗できない。動けなくなった者から、身勝手な理由でその尊厳を剥ぎ取り、利用する。

 それはどんな高潔な理由があろうとも、罪に変わりは無いと思う。

 何も交わさず、何も返さず……ただ奪うだけの行為を正当化するのに、自分が生きる為だと言い放つ言葉さえ今の九郎は持っていない。


「思わなくってもいいよ。だって最後はみんなそうなるんだから……」


 アルトリアは九郎の首を胸に抱き、頭を撫でながら丘を見下ろす。

 何本もの枝が植えられ、根を張り始めた死者で埋め尽くされた緑の丘が、夜の月の光に照らされて黒い影を落としている。

 土の下で眠る死者達。その遺体も虫や微生物に分解されやがて白い骨となる。

 九郎が食べる事も、虫たちが行う事も結果的に変わりはしない。


 アルトリアはそう言いたいのだろう。だから九郎が罪を感じる必要は無い――その言葉は確かなのだが……。


「でもよ……」


 何故か九郎は腑に落ちない。死ねばやがて骨になる。その過程に何があろうと変わりはしない。

 そんなことは分かっているのに、どうしようもなく罪悪感を感じてしまう。

 それはやはり、死者を汚す事が罪だと、自分自身が思っているから――そう言おうとした九郎の唇にアルトリアの指が掛かる。


「クロウが感じている罪の形は……きっとボクらが廻らない存在だから……」


 アルトリアの溢した言葉に、疑問の答えが出た気がした。

 人を食べる事も、人に自分を食べさせた事も仕方が無いで片付けて来た。

 なのに今回の行為が一際自分の心を傷付けていた最大の理由、それを言葉にされた気分だった。


 命の循環を止められた為に生まれた砂漠。

 そこに君臨するシオリを、九郎は醜悪だと感じていた。生み出す事は無く、ただ消費し続けるだけの存在。膨れ上がって肥大化した彼女の姿は罪の形に見えていた。

 シオリがいたからこそ人は人を食べるしかなくなり、ラムスの病が産みだされた。


 なのに自分が縋った手段もまた、命の循環を止める行為に他ならなかった。

 生きる為でも無く、ラムスの肉を次元の彼方に送り込むような手段。自分の体を病で侵す為だけに消費され、大地に還る事無く消えていくラムスの肉体に対して九郎は大きな罪悪感を抱いていたのだ。


「でもね……命を救おうとする行為に罪を感じちゃいけないよ……そんなの……間違ってるよ」


 アルトリアはそう言うと再び歌を口ずさみ始める。

 良く分からない言語で紡ぎだされる子守唄。ゆっくりとした旋律で謳われる言葉に呼応するかのように大地が黒く塗りつぶされていく。


「お、おいっ!?」


 地面がギチギチと音を立てている事に気付き、九郎は声をあげる。

 アルトリアのスカートの裾から闇が止めどなく溢れていた。彼女の足で飼われている黒いヤゴのような虫。

 それが一斉に広がり始め、大地を覆い隠して行く。


「クロウの感じている罪……ボクが軽くしてあげる。命は廻るんだよ。例えボクらのような存在がいたとしても、絶え間なく増え続け、世界中を満たしてくれる。たった一人や二人の『不死者』じゃ食べきれないくらい、世界は命で満ち溢れているさ!」


 ――ルッキオラ・ヴォルボ・アニマ――


 片目を瞑ったアルトリアがその言葉を唱えた瞬間、大地に広がる黒い虫が姿を消した。

 何を言って何をしようとしていたのか。分からず九郎が目を凝らしていると、小さな光が瞬く。


 暗闇から黄緑色の光が立ち昇り始めていた。


「蛍……?」


 子供の頃に何度も目にした懐かしい光。

 意識せず呟いていた九郎の言葉に、アルトリアは誇らしげに鼻を鳴らす。

『不死者』ですら骨としてしまう恐ろしい昆虫の正体は、蛍の幼虫だった。

 屍肉を喰らい、羽化して飛び立つ蛍の光は、魂の循環をその目の前に映し出したかのような、幻想的な光景を生みだしていた。


「これからは、この場所もまた命の循環を始める……。クロウが食べた分以上に、一杯の命で満たされる時がきっと来るよ。それに……」


 アルトリアは九郎の首を掲げて屋敷の方角へと向ける。

 蛍の淡い光の洪水。その光の色とは違う、炎の灯りが屋敷の窓から漏れていた。


「クロウが助けた命が……これから沢山の命を産んでくれるはずさっ! ボクだってクロウとなら命を造りだせるんだからさっ!」


 誇らしげに言い放ったアルトリアは、紫色の瞳で上目づかいに見上げて来ていた。

 仄かに揺らめく情欲の色を、一瞬で破顔させ、九郎の首を再び胸に抱くアルトリアに、九郎は小さく感謝の言葉を呟いた。


☠ ☠ ☠


 青く澄んだ高い空。

 灼熱の太陽は今日も砂漠を熱く照らす。

 乾いた空気をそれ程感じないのは、この場所が湖の傍にあるからか。


「吾輩ノ国ニハ奴隷制度ハ布イテオラヌノダガ……」

「でしたら家来でも従者でも!」

「なんなら小姓でも丁稚でも!」


 カクランティウスが困ったように肩を竦めていた。

 街を離れる目途が立ち、出発の時が近付いていた。


 命を取り留めた多くの人々は暫くの間チェリオが面倒を見ることになっていた。

 残った元奴隷の人々の数はリオ達を入れて15人。この数では街を立て直す事も、砂漠の中で生き続ける事も難しい。

 幸いチェリオは生まれながらの奴隷では無く、実家がある。家に帰れば十数人を養えるだけの財力も残っているし、人々の働き口も斡旋できる。


「ま、奴隷管理員だったしな……」


 文句を口にしながらもその表情には嫌気は見えない。

 九郎が最初に感じた通り、チェリオは面倒見の良い性格なのだろう。


「これだけ綺麗どころが揃ってりゃ、使い道は色々あるしな……」


 悪そうな顔で呟いているのは見なかった事にしておこうと、九郎は苦笑を浮かべる。

 一方的に奪われる事を良しとしないチェリオの性格であれば、そこまで酷い扱いはされない筈だと信じたいところだ。


「あいつらはどうすんのかねぇ? 殿下が困ってんのが分かんねえって訳じゃねえだろうに……」


 チェリオが紫色のスケルトンに縋りついている、二人の若者を眺めて口の端を歪めていた。

 カクランティウスに世話された事が彼らの何かを刺激したのか――アルフォスとベーテ。二人の元奴隷管理員はカクランティウスに付き従う事を望んでいた。

 一度は命を狙った身なのに、命を見逃されただけでなく、命を救ってくれた恩義を感じているのか。

 カクランティウス自身が「見逃した命には自分で責任をもて」との言葉を口にしていただけに、どうにも断り辛そうだ。

 必死に取りすがる彼らの理由が「捕虜」「罪人としてでも」から「肉奴隷」「愛妾として」とヤバい方向に向かいつつある。


「お前等も別に無理する必要ねえんだぜ? アルトは嬉しそうだけど、言った通り、俺はお前等がこの先人を殺すだなんて思っちゃいねえし……折角姉弟そろって自由になれたんだから、二人で幸せを捜した方が良くねえか?」


 九郎は旅支度を整え、着いて来る気まんまんといった出で立ちのフォルテに言葉を掛ける。


「そうは行きません! クロウさんが僕を救い出してくれたのです! そのご恩に報いなければなりません!」


 フンスと鼻息荒くしているフォルテに、少したじろぎながら九郎は頭を所在無く掻く。

 懐かれる理由が思い当たらない。確かに世話は焼いていたが、それだけでない意気込みのようなものをフォルテからは感じる。

 キラキラとした憧憬の目で見られるのは少しばかり面映ゆい。


 どう考えてもフォルテが九郎達の旅に付いてくる理由は余りない。

 どちらかと言えば足手纏いとすら思ってしまう。リオが幸せになるピースであるフォルテは、リオを連れて行く予定があったからこそであり、リオが着いて来ないのなら彼の意気込みは申し訳ないが無駄になるだろう。


 もしもリオが二人での生活を望むのであれば、それもいいと思っていた。

 九郎はリオに視線を映し、選択を促す。

 事前にリオには旅の目的も、どうしてその様な旅をするかの理由も伝えてある。着いて来てくれるのなら体を張って守るつもりではあるが、この世界は危険で満ち溢れている。態々その危険に飛び込む必要は感じない。


「アタシは……あの時自分の意思でアンタと取引しちまったからな……。弟を取り返してくれたのなら……アタシの全てをやるってよ。あん時のアタシは何も持ってなかったけど……手に入れちまったもんは仕方ねえ。まさか本当に手に入っちまうとは思っても無かったけどさ」


 しかし、てっきり安寧な生活を選ぶと思っていたリオは、着いて来ることを選んでいた。


「おい? 旅にはどんな危険が待ち受けてっか分かったもんじゃねえぞ? 危険な道に態々弟を放り込むなよ……」


 跳ねる心とは裏腹に、九郎は思わず苦言を呈してしまう。

 着いて来るということは、少なからず、リオが九郎を好ましいと思い始めているのかと期待してしまう。

 だがそうでは無い事はリオの態度を見れば明らかだ。

 懸命に耐えているようだが、リオの男性恐怖症は治っていない。

 今も脚がプルプルしている。


「ま、まあ……アタシはまだ男は怖いからさ……。アルト姉に協力することは出来ねえかも知れねえけど……」


 そのことはリオ自身が一番自覚しているのか、予防線を張るかのようにリオは肩を竦めて苦笑する。

 リオが取り戻した勇気は誰かを守る時にしか発揮されない。自分の中の恐怖に打ち勝つには、何か別の切り口が必要になってくる。それが愛なのか恋なのかは分からないが、恋愛感情すら知らないリオが自分に惚れてくれるかどうか……今のリオの態度からは望みは余り無さそうだ。


「無理やりってのは望んでねえぜ? 襲ってくるんなら歓迎するがよ?」


 いつもアルトリアに襲われては、ほうほうの体で逃げ出している九郎だが、弱気なリオに対してなら何とでも言える。無いと確信しているからこその余裕は、少々滑稽だと感じながらも、少し挑発してみる。


「ぐぅ……」


 九郎の明るい夜の誘い文句に、リオはたじろぐ仕草をしていた。

 いまだ九郎が近付くだけでビクつくリオに、期待を寄せるのは酷な事だろう。

 それでも真っ向から否定してこない事に、僅かながらに心は浮つく。現金なものだと感じて、九郎は自嘲の笑みを溢す。


「気にしなくったっていいぜ? 俺はモテっからよ? リオを手伝ったのも、只の気まぐれだしな。モテる男の余裕って奴だ。恩に感じる必要もねえよ」


 何も残らないのではと一度は思った。それでも失いたくないと必死で足掻いた結果が、今の目の前の賑やかな状況だ。

 救いたいと思った命が僅かでも残った事こそが、九郎が頑張った報酬であり誇りだ。

 それに言葉の通り、リオに何かを求めていた訳では無い。ただ、九郎が感じていた幸せを、不幸なリオへとおすそ分けしようと思ったに過ぎない。


「それでも!」


 リオが大きな声で叫んでいた。


「アタシは、アタシの意思で、アンタに着いて行くって決めたんだ! 今のアタシは自由なんだろ? なら行き先だって自分で決めるさ。アタシ達の幸せは、きっと悪夢の先にある」


 悪夢のような現実の中をずっと彷徨い歩いていた。

 これ以上無いくらいに悲惨な毎日を過ごしてきた。

 その中で初めて感じた幸せは、体が強張るほどの恐怖の中でのみ存在していた。リオの感じる幸せは、悪夢の住人とリオが感じた、『不死者』達が運んで来ていた。

 だからそれに身を委ねる。


 リオの目は、恐れるものに飛び込まなければ、幸せを手に入れる事は出来ないと信じ込んでいる目だった。 


「まあ、着いてくるなら歓迎はするけどよ……」


 もう何を言っても着いて来るのだろうと感じて、九郎は両手を上げて肩を竦める。


「でも……クロウのソッチの役には立てそうに無いから……アタシは今度何を差し出せばいい?」


 自分で選択を決めてはいたが、リオも九郎側に利益が無い事を自覚していた。

 伺うような目つきで自分の体を弄るリオは、何も持っていない事を、自分しか持っていない事を不安に感じているかのようだ。手にしたものが、再び自分から離れていく事に不安を感じているのだろう。

『やる』と宣言しておきながらも、九郎はまだリオを受け取ってはいない。だからこそ今のリオの体の主はリオであり、初めて手にした自分と言うモノに、戸惑いを感じているのだろう。


 本来九郎やアルトリアがリオに期待したのは、九郎に課せられている『禁忌タブー』解く鍵であり、役割だ。しかし男性恐怖症のリオが、自分から求める側に回る可能性は低いと言わざるを得ない。


「別に何もいらねえよ。元からカクさんに責任持てって言われたのが切っ掛けだしな。犬猫見てえな扱いに聞こえて気分が悪いかもしれねえが、なんだったらダチって体でついてくりゃいい」

「ダチ?」


 九郎が提案した答えにリオは怪訝そうに首を傾げていた。

 奴隷として生きてきたリオには、友人と呼べる存在はいなかったようだ。


「ダチってのは……同等って事だ。遠慮しねえ仲って奴。言っちゃなんだが俺はどうにも、自分じゃ分からねえうちに道を間違っちまいそうでさ。それを止めてくれる、少し離れた位置にいる奴がいると助かる」


 アルトリアの慰めの言葉で心は少し癒されていたが、それでも九郎は自分が危うい位置に傾きかけている事を自覚していた。

 九郎は自分で狂っていると感じていても、失われる命の為に手段を選ばない。

 それはいつか本当に取り返しのつかない事態を招きそうで、少し怖く感じていた。


 アルトリアは『不死者』だからこそ、九郎の狂った思考をそのままに受け入れてくれた。

 しかし人であろうと足掻いているのに、人から遠く外れる道を選んでいるのではとの恐怖があった。


 今更と言う気もあったが、それでも修正できるのなら、九郎は人としてありたいと思っている。

 リオは自分を『不死者』と知って、恐怖を覚えていながら着いて来ることを選んだ特殊な人材だ。

 ならばこそ自分が選ぶ常軌を逸した行動への歯止めとなるのではないか。


 友人にストッパーの役割を委ねる事は、何か違う気もしていたが、どう説明したらよいのか自分でも分からず、九郎は体の良い言葉を使って誤魔化す。


「アタシが? 弱いアタシがどうやってアンタを止めんだよ?」


 唐突に提案された新たな役割に、リオは呆けた顔で自分を指さす。


「心配すんな。俺は弱っちいリオにすらあっちゅうまに殺されちまったんだぜ? 死なねえケド強くもねえんだよ、俺は!」


 出会い頭に首を落とされた事を、ここで言うのは少々プライドを刺激する。

 しかしリオの記憶の中では、九郎は誰も害してはいない。ただやられるだけの存在としか映っていない筈だ。


「そういやそうだったな……」


 九郎の言葉にリオはまだ納得しきっていない微妙な表情を見せていた。

 しかしもとから自分の利益しか考えていない申し出。何を言われようとも出来る限りはやってみると、ずれた意気込みを見せてくる。


 取りあえずこれでどうにか丸く収まったと、九郎が息を吐いたその時、フォルテがポツリと言葉を落とした。

 

「じゃあ、姉さんの代わりは僕がします」


 その瞬間灼熱の太陽に照らされた気温が氷点下まで下がった気がした。


「クロウ……。フォルテに手を出したら許さねえぞ……」


 フォルテを庇うように背中に隠してリオが半眼で睨んで来ていた。

 凄い切り替えの速さだ。今迄ライオンを目の前にした子犬のような仕草だったリオが、いきなり猛犬に早変わりしたかに思える。

 絶対的な強者であっても怯まない、雛鳥を守る親鳥のような必死さで牙を剥くリオの顔に九郎は後退る。

 つい先程九郎に対しても自信無さ気にしていた事が嘘のようだ。

 これほどの気迫があれば、あっという間に伸されてしまいそうな、確かな迫力がリオから滲み出ていた。


 最近この手の話題が多い気がする。男色をすぐに疑われるほど自分は節操なしに見えるのだろうか。


「なんで女好きの俺が男に手を出すように見えんだよ……つーかフォルテの言動の方が問題だろうに……」


 弱り切った顔で九郎は空を見上げてぼやく。

 その肩にチェリオの手がポンと置かれた。


「仕方ねえよ……。ここにいる男達の殆んどの最初の相手はアレだったんだ……」


 チェリオは九郎の肩に手を置きながら、遠くを見ていた。チェリオは遠くを見ていながらも、何処も見ていない濁った目をしていた。

 思わず成程と頷いてしまいそうになってしまう。

 いくら当時は美少女のナリだったとしても、ここにいる奴隷達の殆んどがシオリの正体を知ってしまっている。

 醜く膨れ上がった老婆を抱いた記憶が、彼らの中でトラウマとして残っているに違いない。

 女嫌いを患っても可笑しくない状況だ。


 ベーテの危うい言動や、女性に攻撃的な訳も、こういった理由があるのかも知れない。逆に考えるとアルフォスやチェリオはゲテモノに強い耐性を持っていたのだろうか。


「姉さんは男の人が怖いんでしょ? 仕方ないよ! だから代わりは僕に任せて!」


「ねえクロウさん? 顔だって姉弟なんだし似てるでしょ? 胸は無いケド……あんなもの脂の塊だもん。必要ないですよね? ね?」


「大丈夫です。不本意ながら僕もしっかり仕込まれています。痛くはしないよう、頑張りますから」


 リオの脇をすり抜けて徐々に距離を詰めてくるフォルテからは、憧憬以外の感情が漏れ出ていた。

 病で弱った時にされた看病にほろっと絆される良く有るシチュエーション。

 そんな状況には男の方が弱いのはどの世界でも共通なのか。実際凹んでいた時に優しくされた九郎は、アルトリアに惚れ直していた。フォルテも同じような状況下で、同じような感情を抱いたのだろう。

 ただそこに男同士か男女かの大きな違いがあったに過ぎない。


「てっめ……フォルテの体をまさぐってた時から、変な目をしてると思ってたんだ! 間違った道に行きそうになったら止めろって話だったよなぁ! 今すぐ止めてやるよ! 息の根は何回止めりゃいいんだ?」

「いや、俺何もしてねえよな? ナニコレ? 俺が悪いの?」

「男の人が怖い姉さんは黙っててよ! クロウさんの手は気持ちよかったよ? 僕は全く嫌じゃなかった」

「ヤメテ、フォルテ。もう俺が何か仕出かしているかのように言うのはヤメテ」


 交互ににじり寄って来る姉弟に圧される九郎を、チェリオはさも面白そうに眺めていた。

 リオとフォルテににじり寄られながら、九郎は心の中でアルトリアに語りかける。


 どうやら俺が救った命が、数を増やす可能性は少なそうだ――――と。

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