第213話  狂気に縋ってでも


 ペチャ……クチャ……


 夕闇の中、ねっとりとした物を食む咀嚼音が響いていた。


 ――きっと死を見過ぎて……いつの間にか自分は狂ってしまっていた――


 自分は発狂することなどない――ずっとそう思っていたが、狂うとはそもそも常軌を逸した行動や思考のことだ。それを考えるとこれまで自分がしてきた行動は、他から見ると充分に狂っているに違いない。

 しかしそれには確固とした理由がある。死なない九郎は危機感を覚える必要が無い。『フロウフシ』の肉体を持つが為に、人とは違う事を仕出かしてしまうのは仕方のない事かも知れない。


 それを差し引いても、今の自分の姿はどう見ても狂人にしか見えないだろう。狂人であればまだマシな部類。まるで自分が怪物にでもなった気がする。

 ある種九郎が一番恐れていた――死なない化物の姿がここにあるのだから……。


「げほっ! ……ごほっがっ……」


 自分の姿を想像し眉を寄せた九郎が、苦しげに咳き込む。口の端から黒いものが地面に落ちた。


「……っと……。勿体ねえ……。わりぃな……×××さん……」


 独り言を呟き、落としたモノを口に入れる。

 吐き気を催す――久しく無かった感覚もこう毎日覚えていればもうすぐ慣れて・・・くれるはず……。

 朦朧とする頭で考え、僅かな希望――自分ですら狂っていると思う所業――に縋った自分を俯瞰する。


 ぶよぶよに爛れた肌。体から漂う腐臭。骨の髄まで病に侵され、死の直前に在りながらも動けているのはまさしく『フロウフシ』の賜物だろう。


 緑と黒とで斑に染まった手足。鏡は無いが顔もきっと酷いことになってるだろう。

 体に感じられる感覚はもう骨の部分にしか残っていない。他は殆んど腐ってしまった。


(そろそろ頃合いか?)


 朧気な意識の中でタイミングを見計らい九郎は自分のナイフを握る。

 ――この病が最初に痛覚を奪うもので良かった――

 そんな感想を抱きながらも、少し怖気付く。例え痛みが無くとも、殺される・・・・時の何十倍もの無力感、嫌悪感は何度体験しても嫌なものだ。


「おっと、来た来たっ!」


 一瞬体中を覆っていた倦怠感が和らいだ。

 待ってましたとばかりに、九郎は最後の力を振り絞って首筋に充てたナイフを横薙ぎに振るう。


「~~~!!?」


 声にならない悲鳴を上げて、ゴトンと九郎の首が落ちた。

 緑の斑点が広がり過ぎてもう殆んど真っ黒と言っても良い、死者の首。

 

 その首が一瞬の間をおき、目を見開いたまま口を動かす。


「ふぃ~……。10人目っと……。後5人分……。とっとと片付けちまわねえとな……」


 そこから先はいつもと同じ光景だった。

 目を見開いた首から下に赤い粒子が集まりだし、数秒と経たずに健康的な体を生やす。

 黒ずんで生きたまま腐っていた顔も、時が巻き戻るかのように元の肌色に戻る。


 元の健康な体を取り戻した九郎は、首を鳴らし、腐ってぶよぶよになった自分の死体に血を振りかけ取り込む。

 そして疲れた目で足元を見下ろし、小さく溜息を吐き出す。


「悪いな……。でも……アンタも本心じゃ、皆を道連れにはしたくなかったろ?」


 眼下に横たわる女性に語りかける九郎の言葉は、どこか説得しているかのようだった。

 物言わぬ死体。動くはずの無い死体の胸は、寝ている人のように僅かに上下して見える。

 白い幼虫が腐肉を啄ばみ、腐敗した死体をまるで生きているかのように見せているに過ぎない。腰から下は既に骨しか残ってはおらず、目や唇ももう溶け落ちて存在していない。

 死んで腐り土と変わる筈の死体に語りかけた九郎は、その傍らに腰を下ろし、やおらその胸に手を伸ばす。

 もはや沼のような抵抗しか持たない腐敗した胸に九郎の指が埋まっていく。


 ペチャ……クチャ……


 再び夕闇に咀嚼音が響いていた。

 その音に「うえっ……不味まじぃ……」と呟いた九郎の弱音が混ざっていた。


☠ ☠ ☠


 さかのぼる事数時間前。


 目の前に飛び出してきた小鹿のような動物に感じた僅かな違和感を確かめる為、九郎は緑の大地を走っていた。


「くそっ……違った……」


 そして見つけた緑色に腐った獣の死体に、最初の希望は断たれたと落胆する。

 人にしか移らない病気など数多くあるが、もしかしたら獣はこの病に掛からないのではと予測を立てた。それならば、その違いから何か突破口が見つけられないかと思っていたのだが違っていたようだ。


 目の前に横たわっていた黒と緑に覆われた鹿のような獣の死体は、明らかに病で死んだ症状が現れている。肩と眉を落とした九郎は、そこでまた一つ新たな違和感を覚える。


 死んで腐った獣の死体はどう見ても食い荒らされた後があった。

 死体攫いスカベンジャーと呼ばれる類の動物が食い荒らしたのだろうか。

 だが次に目の前に広がった光景が、九郎の考えを否定していた。


 九郎の目の前の茂みから、足を引きずった鹿のような生き物が数匹姿を現していた。

 大きさからしてこっちが子供になるのだろうか。膝までの高さしか無い、まだ生まれて間もないような小鹿は地面に横たわった獣の死体に寄って来ていた。


(かーちゃんってところか?)


 ミーともムーとも聞こえる鳴き声を上げながら九郎の事など見えていないかのように、獣の死体に集う小鹿。死んだ母親を偲んでいるのかと、その場を後にしようとした九郎の目は次に起こった出来事に釘付けになる。


(共食いっ!?)


 人でなら見た光景。そして九郎が業と感じた悍ましい所業。

 小鹿達は病気で死んだであろう同族の死体を啄ばんでいた。

 意味が分からないと九郎は眼を瞠る。

 周りが砂漠のこの土地では、人が人を食べる事でしか維持出来なかった。

 しかしその為に今、人は全滅の危機に瀕している。人が人を食べる事で生まれた病が、街一つを滅ぼそうとしている。


 なのにどうして目の前の獣は、人と同じ道を辿ろうとしているのだろうか。

 先程目の前で草を食んでいた事からも、この鹿は草食動物だと思っていた。


 この世界と元いた世界の常識が違う事は分かっているが、それでも獣は理由があってその形を作っている筈。九郎は目の前の鹿の形をしげしげ観察する。顔の形、歯の並び、足のつき方――様々な箇所を見るに、九郎が知る鹿とあまり変わらない。特に小鹿の歯は少しも尖って無い。肉を食べるのには余りに適していないように見える。ならば普通に考えれば雑食性では無く、草食である筈なのだが……。


 なのに目の前の小鹿は足元の草には見向きもせず、腐った死体を食べていた。


 感じた違和感は、徐々に大きく膨らんで、九郎の中で一つの形を成し始める。


「!!」


 また九郎は駆け出していた。

 向かう先は死と悲しみで溢れた場所。無数の墓標が立ち並ぶ、その一画。緑の木々の間に生える、白い骨が突き出た場所。


 思い返してみれば最初からその違和感の一端は目の前にあった。

 病が広がりを見せた時、埋めた死体が食い荒らされていた。

 足跡から肉食性の動物だろうと思っていたが、それからして可笑しかったのだ。

 人が人を食う事でしか維持できないほど困窮していたこの土地で、自分だけは人を食べたくないからとシオリは動物を放し飼いにしていた筈だ。その貴重な食料を横からかっさらって行く肉食性の動物を、シオリが飼う筈が無いのだ。

 それに荒らされた死体の傍に残っていた足跡の中には、蹄――先程見た鹿のような動物のものも混じっていた。


 獣は本能から危険な物を察知する。

 明らかに病気で死んだ動物の肉を、それも腐りかけているものを草食の動物が進んで食べた理由は。


 現状から予想するに、最初に死体を食べた動物は病に倒れている筈だ。

 風などでも広がっていた疫病だが、確実に罹患する方法は分かっている。

 既に病に侵された人の肉を食べる事。ラムスは事前に自分の体を、家畜とされた奴隷達に食べさせることでシオリの退路を断とうとしていた。


 そんな危険な肉を何故動物たちは食べたのか。


「あ!」


 重要な何かを見落としている様な気がして、唸った九郎が顔を上げた。

 病をずっと患いながらも病で死ななかった人物が一人だけいた。

 九郎は荒らされている一画に目を付け、一心に土を掘る。


「嫌だっつっても……協力してもらうぜ……ラムスさん……」


 掘り返したラムスの死体は、既に腐ってボロボロだった。

 何処から湧いたのか無数の虫が蠢き、その内側を食い荒らしていた。その腕は明らかに草食性の動物の歯型があちこちに残り、白い骨が覗いている。


 確信があった訳では無い――。

 ただ藁にも縋りたかったに過ぎない。思いついた方法を、手当たり次第に試すしことしか、九郎には出来なかったから――。


 蠢く虫を食べる事に慣れてしまっていた。

 既に人を食べる業も、人に人を食べさせる業も背負っていた。

 狂気としか思えない方法が思い浮かんだのは、既に九郎は狂っていたからなのか。


 人が人を食べつづける事で発症する病があった。

 しかし逆に人が人を食べ続ける事で、特定の病に対する免疫を作り出す事例も存在していた。


 九郎がその事を知っていた訳では無い。

 ただ、どこかの漫画で見た記憶、何かの話で聞いた記憶――フィクションとして存在していた狂った病の治し方が頭の隅によぎったに過ぎない。


 何度も何度も病人を食べ続けていたラムスだけが、長い間病に耐えていた理由を九郎は考える。


(免疫? 予防接種とは違うはずだ……。逆に何度も食べ続けたから?)


 どう考えても無理があるような気もしていたが、それ以外に理由が思い浮かばない。

 病に病を重ねる事で、何らかの抵抗のようなものが生まれたのだろうか。


木乃伊ミイラって薬の為に掘り出されたんだっけ?)


 人が人を薬として食べてどうなると、聞いた当時は思ったものだが、医食同源との言葉もある。

 今の九郎は荒唐無稽とも思える手段でも縋るほかに道は無い。


 ならば今病に苦しんでいる人々に病で死んだ肉を食べさせれば――。


 思い浮かんだ考えを、九郎は首を振って振り払う。


 病気で苦しんでいる者達に、ラムスの肉を食べさせ、もし違ったら――。

 ラムスの肉は毒物であり、確実に罹患する病の塊だ。食べた動物も死んでしまっているではないか。

 まだ予測の範疇を出ていない。死を待つだけなのだからと、思いつきをそのまま試す事など出来る筈がない。


「やっぱ……俺しか残ってねえよな……」


 腐敗し土と虫で汚れたラムスの死体を見下ろし、九郎は頭を掻き大きなため息を吐きだす。

 アルトリアは死体が意思を持って動いているに近い。その体の中に廻る血液も何もかもが、機能しているとは言い難い。既に死んだ肉体であるアルトリアは腐敗することはあっても病気になる事は無い。

 カクランティウスはそもそも体のつくりが違う。何の参考にも成りはしない。

『不死者』の中で唯一、九郎は病気になれる・・・・・・可能性がある。


 ずっと病気になる体とは考えてこなかった。風邪すら引かない強い体になっているのだと思い込んでいた。しかし追い詰められ、狂った思い付きにすら縋ろうとした九郎は、死んでもいい実験体を求め捜した。

 一つしかない人の命を素人の思い付きで試すことなど出来ない。九郎にとって人の命は何物にも代えがたい貴重な物だ。

 だからこそ思考は手軽に殺せる者に行き当たる。どれだけ死んでも支障の無い、無限に湧き出す命に行きつく。


 可能性は十分にある筈だと感じていた。

『フロウフシ』であるはずの九郎だが、毒で何度も倒れていた。

『ヘンシツシャ』の『神の力ギフト』で慣れることはあっても、九郎は慣れていない毒では被害を受けていた。

 それは一瞬の間であり、体の中で赤い粒子に削られ復活していたが、倒れた時点で一度死んでいた・・・・・とも考えられるのではないだろうか。


 自分の死体を量産して来た過去がある。その死体を九郎は抜け殻と評した。

 自分を『不死』と思っておきながらも、九郎はずっと|自分の命は無限・・・・・・・に湧き出る泉・・・・・と感じていた。


 だから――。


 無意識下で病に掛かり、症状すら現れない内に体が戻っていた可能性に、九郎は思い当たる。

 最初の頃だったら、この方法に行きつくことは無かっただろう。

 だが今の九郎は、自分の意識で『修復』も『再生』も操れるようになっている。

『修復』や『再生』を引き延ばせば、病を患うことも可能な筈。


「んな目で見るんじゃねえよぉ……。縋れるもんなら何だって縋りてえんだよ! こっちだって必死なんだよ! 諦めきれねえんだよ!」


 そこまでの仮説を立てて意気込んでみた九郎は、ある筈の無い視線に顔を顰める。

 落ち窪んで溶け落ちたラムスの暗い眼窩に無言で責められている気がして、九郎は思わずがなってしまう。

 試そうとしているのは、所詮素人の思いつきであり、無為に彼女の死を冒涜することになる可能性の方が高い。責められても仕方が無いと感じてしまう。心のどこかで試そうとしている事の悍ましさに、忌避感を感じていた為かも知れない。しかし諦めきれない感情の方が勝っている。


「これ……ぜってーアルトのゴメが広がってらぁ……」


 ラムスの腹に手を突っ込んだ九郎はその感触に眉を顰める。

 腸が蛇のように波打っていた。持ち上げ引きちぎると中から無数の蛆が零れた。

 慣れていなければ口にすることなど考えられなかっただろう。


 一瞬躊躇ためらった後、九郎は両目をぎゅっと瞑って引きちぎった腸を口へと放り込む。

 口から鼻に抜ける腐敗臭。口内中で糸を引くような不快感。ネチャリとした歯ごたえと、続いて襲って来る苦味、えぐみ。


「ぉぅぇ……」


 えづいて九郎は目に涙を浮かべる。何でも食べて来た九郎だったが、腐った物は初めてだった。


☠ ☠ ☠


 夕闇の中で一人の男が腐敗した死者を食んでいた。

 違う世界から来た男の体は、知らない病に何の抵抗も持たず、見る見る侵されていった。

 緑が広がる肌。恐ろしいスピードで腐り始める肉。


 一匹の化物の姿がそこにあった。

 神が定めたであろう死の運命に抗い続け、狂気に縋った諦めの悪い男は、死を冒涜し、死を撒き散らし、死に抵抗し続ける怪物に自ら落ちた。

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