第212話 求めたものは
「グレコ……お前の黒歴史は俺が墓まで持ってってやるからよ……。心配すんな……ってか俺死なねえわ……。とりあえずあっちでアルミナに謝っとけよ……何とは言わねえが……」
新しく掘った穴の中に黒ずんだ少年の遺体を横たえ、九郎は別れの言葉を口にする。
慰めの言葉さえもが締まらないと九郎は頭を乱暴に掻き、土を掛ける。
墓標代わりに木の枝を差し、立ち上がって周りを見渡せばもうそこは植樹している山のような景色。
シオリが死んでから5日。日に日に増えていく木々の枝はそれだけ命が失われた事を意味していた。
疲れた眼差しで何の気は無しに周囲を見渡していた九郎は、その一画から生えた木とは違う白い枝に眉を顰めて溜息を吐く。
「ま~た掘り返されちまってら……。時間があれば焼いておきてえんだけどなぁ」
ぼやいて九郎は白い木々の生えた一画へと足を向ける。
白い枝は言うまでも無く人の腕の骨であり、野獣に食い荒らされた人の死体のなれの果てだ。
出来るのなら丁寧に埋葬してやりたいところだが、その時間すら今は惜しい。
アルトリアやカクランティウスと共に、寝る間も惜しんで看病しているが、それもただの気休めにしかなっていない。
まるで終末病棟のごとく、ただ死に行く者達の最期の時を少しだけ安らかにしてやることしか出来ていない現状に、心の安らぎなど覚える筈も無く、九郎の中にはただただ悔しさだけが募っていた。
☠ ☠ ☠
「テメエ……なんで……」
「お? 気が付いたかベーテ?」
苦しげに呻きながら起き上がろうとし、儘ならない体の動きに顔を
カクランティウスの頭を打ちぬき、アルトリアを人質に取ろうとしていた奴隷管理の二人も、九郎は放っておくことなど出来なかった。
「ヌ? ヤット起キタノカ?」
「うわぁぁぁっ……がっ!? ごほっ……」
「おいおい、いきなり大声出そうとすんじゃねえよ。病人なんだから大人しくしてろって」
ベーテがやっとの事で首を回すと、そこには紫色のスケルトンが一体。ベーテと同じ奴隷管理員であり、シオリの『シンエイタイ』だったアルフォスの足を持ち上げ、股倉に手を突っ込んでいた。アルフォスは、起きてはいるようだが、何かを悟ったかのように半眼で宙をにらんだまま微動だにしていない。
驚くなと言うのが無理な話で、ベーテもその例に漏れず驚愕の悲鳴をあげる。
そんなベーテの様子に九郎が眉を下げて、軽く
「て、てめっ!? な……がほっげほっ……何のつもりだ……」
「んじゃ、俺は飯の用意してくるっすから」
「ウム。任サレタ」
「お、おいっ!?」
いったいぜったいどうなっているのかと、声を荒げるベーテを放って九郎はそそくさと外へと出て行く。
呆気にとられ九郎を目で追うしかなくなったベーテの前に、手拭いを抱えたスケルトンが近寄って来た。
「そう……か……ここが地獄ってやつなんだな」
「何ヲ訳ノ分カラヌ戯言ヲ」
半ば諦めの境地でベーテが天井を見上げたその時、紫色のスケルトンは肩を竦める仕草をした後、いきなりベーテの足を持ち上げていた。
「てめえっ!? 何をしやがるっ!?」
「目覚メタバカリダト言ウノニ、ナカナカ元気デハナイカ。流石ハ魔族ノ血ト言ウベキカナ」
思わず恐怖に慄くベーテを他所に、スケルトンは意味深な言葉と共にベーテの尻で何かし始めていた。
恐怖に身を固くしたベーテの耳に、アルフォスの呟きが聞えてくる。
「静かにしていろ……ベーテ。後で更に恐怖に
悟りの境地のような目をしているのに、アルフォスのセリフは何とも不安を煽ってくる。
恐慌状態を精神力で押し込められたのは、それだけベーテが優秀だった証だろう。しかし下半身の感覚が朧気で、何をされているのか分からないところがさらに恐怖を煽ってくる。
「フム。吾輩モナカナカ手慣レテキタモノダ……」
「お手を煩わせてしまい申し訳ありません」
「何……吾輩モ自分ノ責任ヲ取ッテイル二過ギヌ」
無限とも思える短い時間、スケルトンに意のままに扱われていたベーテは、心の中で小さく息を吐いていた。何か汚れた布を抱えたスケルトンは、自嘲に感じられるセリフを残して部屋から去っていく。
その背中にアルフォスは震える声色で謝意を述べていた。
やっと解放されたと言う安堵と、何をされていたのかと言う恐怖で顔を歪めたベーテは、足音が遠のいた事を確認し、動きずらい首を傾けアルフォスを睨みつける。
先程の言葉の意味、今のスケルトンの行動の意味。目覚めて直ぐに色々な事が起こり過ぎていて何がどうなっているのか分からない。説明を求めると目だけで訴えるベーテを横目に、アルフォスはまた宙を半眼で睨み、呟くように語り始めた。
「あの方はカクランティウス・レギウス・ペテルセン。私達が襲った人であり、あの『魔族の英雄』その人だ……。そんな方に自分が垂れ流していた汚物を拭われ、今どんな気分だ?」
「…………は?」
余りに突飛なセリフ過ぎてベーテの頭は考えるのを止めていた。
シオリの奴隷ではあったが、奴隷達を束ねる身分であったベーテは多くのモノが残っていた。考える力、思考力もその中の一つだ。ベーテはどちらかと言うと素早い判断力でシオリの『シンエイタイ』に収まっていた身だが、アルフォスの言葉にはその判断力すら動きを止めてしまっていた。
「は? は? は?」
やっとの事でベーテの口から零れ出るのは、彼が嘲りの目で見ていた馬鹿だった奴隷達と同じような、間の抜けた単語。頭の中が右往左往していて、アルフォスの言葉ですら信じられない。
カクランティウスの名が出た事には納得できる部分も有る。ついぞ最近聞いた名であり、自分達を打ちのめした男が名のった名だ。
ただの騙りと考えていたが、弱いとは言え奴隷の中では強者の部類に位置していた自分達を一瞬で片付け、脳天を貫かれても生きていた男。あれほどの『不死性』と実力を見せつけられた今なら、彼がかの有名なカクランティウスだと言われても納得できる。
しかし今自分の尻で何かしていた――アルフォスの言葉を信じるのなら自分が垂れ流した汚物を拭ってくれていた――のは紫色のスケルトンであり、ベーテが目にした男とは似ても似つかぬ姿をしていた。
「ど……?」
暫くの間目を見開いて「は」としか言えなかったベーテの口から、やっと違った単語が出る。
その単語だけでもアルフォスはベーテの言いたいことを汲んだのか、自嘲の笑みを浮かべ「何から話せばいいやら……」と呟いた後、また独り言のように説明を始めた。
その後のアルフォスの言葉も、ベーテの理解の範疇を超えたものだった。
アルフォス達が使えていたシオリと同じく、九郎も『来訪者』であった事。
その二人が戦いシオリが息絶えた事。シオリの『サンダツシャ』のギフトの事。九郎を始め、自分達が襲った3人が全員『不死者』であった事。
次から次へと繰り出されるアルフォスの言葉に、いちいち口を大きく開き、ベーテの口は今やもう限界まで開ききっていた。
「な」
「私達を助けたのはカクランティウス殿下の責任の範疇とのことだ。一度目に見逃してしまったからと、殿下は仰っておられた」
その開ききった口でベーテは何とか疑問を口にし、アルフォスがそれに答え、感想を求めるかのように流し目を送って来ていた。
何とも甘い事だと、説明を聞き終えたベーテは疲れたようにベッドに身を預ける。
一度敵意を向けた自分達を助ける意味が分からない。奪う事でしか成り立たないこの世界に於いて、与えられる事など無いと思っていた。だからこそベーテもアルフォスも力ずくで薬師から薬を奪おうとしていたのだし、それが叶わなかった今、自分達を生かしておく理由が思い浮かばない。
「俺……先祖に顔向けできねえ……」
「私もだ……」
そんなある種嘲りのような感情を抱いたと言うのにベーテの口から飛び出ていたのは、何とも居心地の悪い心境を言葉にしたものだった。
カクランティウスは中原までその名を響かせていた魔族の英雄だ。差別され、排斥され続けていた魔族にとって、人族の脅威を跳ね除け、何物にも屈しないその姿は多くの魔族にとっての希望だった。
その英雄の命を狙ったのにも拘らず、命を奪われる事態にもならず、それどころか汚れた尻を拭わせるような事態になっている。
意味が分からない。訳が分からない。どうしたらいいのかが分からない。
ただただ居た堪れない。申し訳ない。
ずっと奴隷として生きてきたベーテにとって初めての感情だった。
弱者はただ奪われる者。強者は力ずくで全てを奪っていく者。
そのような世界でしか生きて来なかったベーテは、初めて触れたものの正体が分からず狼狽え困惑することしか出来なかった。
慈悲の心などベーテは触れた事がなかった。
だからこそ なぜカクランティウスが慈悲を見せたのかも分からなかった。
彼らの助命を嘆願し、カクランティウスを説き伏せたのが人質にしようとしていた少女と、只の奴隷だと思っていたひょろ長い青年だったとは、考えられる筈が無かった。
☠ ☠ ☠
豪華な扉の前に立ち、九郎は一度大きく深呼吸する。憂鬱な気持ちと、僅かな望みとが心の中でせめぎ合っていた。
(気合を入れろ! ぜってー諦めねえっ! 諦めなかったからこそ俺の今はあるんだっ!)
重そうな扉を前に、怖気付いた心を一度立て直し、九郎は軽く扉を叩く。
「どうぞ」
返って来るはずが無いと思っていた中からの言葉に、九郎は一瞬ビクつき、その後急いで扉を開ける。
「フォルテ……起きてたのか」
「ええ。でも姉さんが眠っているので……その……」
「分かった。静かにってことだな? んじゃ、とっととやっちまうぞ?」
扉と同じく豪華な部屋の中で一人の少年がこちらを向いて申し訳なさそうに顔を伏せていた。
銀髪と金色の瞳。小麦色の肌は日焼けとは違って生来の物だという。美しい少女とも思えそうな少年の要望に、九郎は胸を叩いて声のトーンを落とす。
病に罹患した奴隷達は男女別にする方針だったが、弟のフォルテの心配ばかりするリオの願いを聞き入れ、二人は同室で世話していた。
彼らが寝ているのはシオリの部屋。良い思い出等一つも無いだろうが、大きな部屋は他の奴隷達で使っているので仕方が無い。それでも弟と同室であることをリオは喜んでいたと、アルトリアからは聞いている。
それくらいしか出来ない自分のもどかしさを感じながらも、感情を押し殺して笑顔を作る九郎に、フォルテは恥ずかしそうに眼を伏せていた。
それに気付かないふりをしながら九郎はフォルテのシーツを捲る。
聞き込みによるとどうやらこの病は最初に下半身の感覚が無くなるのだと言う。思い返してみれば、シオリも足の傷の痛みは殆んど感じている様子が無かった。
病の痛みを感じる事が無いのは、彼らに取ってはある意味幸運なのかも知れない。
自分の手足が動かないのに、痛みだけは感じるなんて事になっていれば発狂ものだろう。
ただ、下半身の感覚が朧気になると、自分では排泄しているかも分からなくなってしまう。体から漂う腐臭の所為で、排せつ物の匂いも感じられない。しかも体は思うように動かせず、ただ垂れ流すことしか出来なくなる。
しかし、いくら仕方のない事と言っても年頃の少年としては耐えがたいのも理解できる。年の近い姉の傍では、なおさら居心地悪いに違いない。
そういった事には触れないのが優しさだと、九郎は手際よくフォルテのオムツを取り換えて行く。
「すみません……」
「病気なんだから仕方ねえよ。でもそう思うんなら、とっとと治して手伝ってくれって。フォルテたちは一番マシなんだからよ」
汚れた布を籠に放り投げ、濡れた布で体を拭う九郎にフォルテはいつものように謝りの言葉を口にしていた。
その言葉は不要だと、いつものように九郎は返す。
ここ数日何度も繰り返されてきた会話だが、九郎にとっても大事なひと時でもあった。
全ての人々の命が大事だと感じてはいるが、それでもリオとフォルテ、そしてチェリオは特別だと感じていた。
単に関わっていた時間の長さの違いだろうが、チェリオには世話になった気がしていた。例え九郎を利用しようとしていた魂胆があったにしても、彼のおかげでアルトリア達と合流出来たり、シオリの『
リオは言うまでも無く、幸せになって欲しいと思った相手だ。生き残っているのは誰もが奴隷であり、皆同じように不幸だったのかも知れないが、それでも自分のような者に縋るほど追いつめられていたリオを、何とかして笑顔にしたいと九郎自身が思ったのだ。その思いは今も九郎の中にしっかり残っている。
そしてフォルテはリオを笑顔にする為になくてはならない人物。リオの幸せの為にも元気になって欲しいと願わずにはいられない。
(しっかしまあ……美形だよなぁ……。なんだよその色気……)
フォルテの体を拭いながら、九郎は苦笑を浮かべる。
少女のような見た目と少し憂いを含んだような雰囲気。
(自分よりもデカい奴に何考えてんだ!? 俺はっ!?)
まだ14歳だからか、声変わりもしていないフォルテを見ていると少女の躰を拭いている様な気がしてくる。しかしフォルテの男の証は九郎の想像以上にご立派で……。
思わず危ない道に傾きかけた自分の頭を強めに殴り、九郎は正気を取り戻す。
改めて九郎は注意深くフォルテの体を観察する。
邪まな思いではなく、その目は真剣そのものだ。
どうやらリオと同じくフォルテにも魔族の血が流れているようだと、カクランティウスは言っていた。母親は普通の人族だったと聞いていたが、そもそも魔族は血のめぐりあわせで突然現れる種族らしい。
だからこそ排斥されてきた時代があったのだと言っていたが、フォルテを見るに、姉弟の母親の先祖に魔族となる要因があったのだろう。
しかしその穢れたと言われている血に九郎は感謝の思いしかない。なぜなら魔族は人族よりも頑強に出来ていたからだ。
この屋敷で一番病の進行が遅いのは、リオとフォルテの二人。続いて同じく魔族のアルフォスとベーテ。
彼らだけは未だに喋る事が可能なほど体力を残していた。
その体の中に病に対する何かがあるのではと、九郎は藁にも縋る思いだった。
しかしいくら観察しても何も分からない。病の進行が遅いだけで、その体に浮かんだ緑の斑点は昨日よりも確実に広がっている。
「なんです? また僕粗相してしまいましたか?」
「いやっ! なんでもねえっ」
彼らが自分が看取る最後になるのかと、暗い気持ちを抱いた九郎に、フォルテの恥ずかしそうな声が掛かる。
どうやら何の手がかりも掴めなかった落胆を勘違いさせてしまってようだ。九郎は慌てて手を振り、顔を背けて表情を戻す。
「ん……」
「と……リオを起こしちまうと拙いな。それじゃあ飯の時にまた来るからよ」
どうにもこのところ人の死を見過ぎて気持ちがすぐに悪い方に傾いてしまうと、引きつった笑みを浮かべた九郎は、リオのむずがる声に慌てて立ち上がる。
「あ……」
フォルテは名残惜しそうな声をあげていた。思わず振り返った九郎は、途端に顔を歪めてしまう。
咄嗟に顔を背け、九郎は逃げ出すように扉を潜り抜けていた。
廊下を走り抜け、屋敷を飛び出し、誰もいない場所まで駆け抜け九郎は力尽きたかのように膝を付く。
「ぐぅ……」
押し止めていたものが溢れて来ていた。口からは嗚咽が漏れ出ていた。
ポタリポタリと落ちる涙と涎。緑の大地に落ちた黒い斑点は吸い込まれるように消えていく。
なのに――と心が叫んでいた。
目の前で消えていく黒い斑点は、病に何の手も打てない自分を嘲っているかに見えていた。
一番元気な筈の彼らの元に行く事には、勇気が必要だった。
見てしまえば心が押しつぶされそうになる。自分の無力さ、不甲斐無さ、様々なものが心を締め付けてくる。
「俺が欲しかったのはこんなんじゃねえっ!!」
叫んで九郎は大地に拳を落とす。
滲む瞼の裏に映った笑顔が焼き付いて離れない。
病に臥せった状態のリオに九郎が話しかける事は殆んど無い。女性であるリオの汚れの世話はアルトリアがしているし、フォルテの洗浄はリオが寝ている時間を選んでいる。
しかしどれだけ九郎が気をつけていても、リオは必ず起きるのだ。
自分を害する者などもう居ないにも関わらず、絶対に目を覚まし
――そして笑う――。
苦しい筈なのに、希望など何も無いのに笑顔を浮かべる。
何の為にと考えるまでも無い。
リオは九郎が望んだように、心からの笑顔を返そうとしていた。
弱々しく、慣れない中でも必死に九郎が求めたものを差し出してきていた。
それがどうしようもなく九郎の心を締め付ける。
彼女が求めたモノは弟のフォルテの幸せであり、このままでは九郎はそれに答えられない。
また九郎が欲しかったモノはリオが幸せでたまらないと浮かべる笑顔であって、
もどかしくどうしようもない現実が襲って来ていた。
守った筈の命が一つ、また一つと掌から零れ落ちて行く。
運命という逃れられない道があるかのように、死は『不死者』以外を貪って行く。
「畜生っ! 畜生!」
それでも諦められない九郎の心が悲鳴をあげていた。
どれだけ絶望を突き付けられようとも、諦めなかった自分が手にしたものこそが九郎の誇りだった。
そう思っていた。なのに――九郎は絶望に溺れかけていた。
いくら探しても病の治療方法は見つけられない。アルトリアもカクランティウスも寝る間も惜しんで協力してくれている。カクランティウスの病に対する知識や、アルトリアの薬草の知識。そして進んだ医学をもつ社会で生きてきた九郎の知識を合わせても、ラムスの『復讐の病』に打ち勝つ方法は見つからない。
藁にも縋りたい思いだった。自分の死を受け入れられず、不死に縋ったシオリと何も変わらない。九郎も死に行く運命に抗い続けていた。自分の死か、他人の死かは些細な違いでしか無かった。
だがどれだけ手を尽くしても僅かな改善すら見られない。
――当然だ。医学を志した訳でも無いただの一般人の自分が、未知の病に対する治療方法など見つけられるはずが無い――
心の中にそのような感情が浮かぶことが許せなかった。
リオの笑顔がフォルテを救えなかった自分を責めるのではなく、礼の言葉を口にしている気がして見ていられなかった。
「諦めねえぞ俺はっ! 神様に食われたって、俺は諦めなかったんだ! 病気なんかに負けてられっかよぉ!」
弱音を浮かべた心に対して九郎は吠える。思いを確かにするために、自分自身を殴りつける。
自傷の痛みは全ての弱音を書き換えてくれる。滲む涙は痛みの所為で、決して弱気から来るものでは無い。そう思い込ませて殴った口の端から血が滴り、緑の大地にポタリと落ちた。
滲んで広がる血の赤だけは、緑の大地にずっと残っていた。
諦めの悪い男の諦めの悪さを示すかのように、大地にしがみつき、消える去る事を拒んでいた。
☠ ☠ ☠
(よしっ! 弱音なんか吐いてる時間すら惜しいってのに! 泣き事言う暇があったらもっと別の事に頭を使わなきゃなっ!)
弱った心を叱咤し、気持ちを切り替えろと自分自身に言い聞かせ、九郎がもう一度頬を叩いて気合を入れなおそうとしたその時、背後でガサリと茂みが揺れた。
慌てて九郎は立ちあがり瞼を擦る。
カクランティウスがゴメだけでは栄養が偏るのではと、狩りに出かけていた事を忘れていた。
泣いている所を見られた気恥ずかしさと言うよりも、諦めかけた自分を見られたのではないか慌ててしまう。
「カクさん? ちょっと転んだんすよ。は、恥ずかしい所見せちまったッスね」
カクランティウスはどちらかと言うと九郎に付きあってくれているに過ぎない。
彼の目的は国に帰る事であり、奴隷達にも愛着を持っている訳では無い。
本来であれば一日でも早く家族の安否を確かめたいだろうに、命の恩人と恩義を感じて九郎の我儘に付き合っているだけだ。
そんな中で九郎が目の前の命を諦める素振りを見せたのなら……カクランティウスは優しくもあるが非情な側面も持っている。奴隷達をこれ以上苦しめる必要は無いと言い出すかもしれない。
「……って、なんだ? 鹿?」
上擦った声で振り向きざまに言い訳を並べた九郎は、目の前に飛び出て来た動物に、拍子抜けして息を吐いていた。
茂みから飛び出てきたのは、小鹿程の大きさの動物だった。
鹿のように角が二本頭から生えているが、その色は赤っぽく、また大きく広がった扇のような形状をしている。毛の色は茶褐色で鹿に近いが、腹の毛は白では無く黒い。
「ちょうどいいところに出て来たな。今晩のおかずに……」
とりあえず屋敷を飛び出してきた理由にもなると、九郎は両手を広げて鹿っぽい動物ににじり寄る。
小鹿のような生き物は見た目通りに草食なのか、九郎に怯える事も無く地面の草を食んでいた。
食材としては久しぶりにまともだなと、九郎は思わずそんな感想を思い浮かべる。今迄魔物や虫の幼虫ばかりを食材として来た九郎だが、別にゲテモノばかりを好んで食べる食性は無い。ただ手に入る物がゲテモノの類に偏っていたに過ぎない。
鹿のような動物は、シオリの食事用に放し飼いにされていたものだろう。
人に怯えないところを見るに、狩りの獲物が向かって来るものに限定されている九郎であっても捕まえられそうだ。
「おいおい、そんなつぶらな目で見てくれんなよ……」
無垢な視線を向けられ、少しの躊躇いを口にした九郎だったが、その感情を押し込める。病に喘ぐリオ達には少しでも美味い物、栄養のあるものを食べさせたい。
(勝手なもんだってのは分かってんよ! どう言い繕ったところでこの世界は弱肉強食だ!)
一方で弱肉強食を
どちらも弱肉強食――世界の残酷さの最たるものだと言うのにだ。
矛盾している思いを抱えながらも、それが人の身勝手さだと九郎は自分自身を納得させる。
病に対する抵抗力を付けるためにも、リオ達には多くの栄養が必要なのだ。
心を鬼にして自らを追い立て、じりじりと鹿ににじり寄る九郎の頭に、その時僅かな違和感が首を
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