第211話  死の運命


 澄み渡った青い空。雲一つない晴天とは真逆の、曇り空の瞳で九郎は鍋を掻きまわす。

 香辛料は使わず薄味に仕立てたゴメの雑炊はコトコトと煮え、良い香りを鼻孔に届けてくる。しかしその鍋を見つめる九郎はと言えば、視線を落とし大きなため息を吐き出していた。


 ――神に選ばれたからと言って、神にでもなったつもりか?――


「神様だったらこんな状況なってねえよ……」


 シオリが息を引き取った後、カクランティウスに言われた言葉に九郎は今答える。

 呆気ない幕を降ろしたシオリを一瞥して振り返ったカクランティウスの顔は怒りの感情が浮かんでいた。

 

 ――最悪を想定しなかったのか? こやつに貴殿の『不死』が奪われれば、我々だけでなく、もっと多くの者に災いするとは考えなかったのか!? 自分だけは大丈夫とでも思っていたのか!?――


 カクランティウスの怒りは尤もだと思った。

 九郎も考えなかった訳では無い。シオリのように他者を物としか見れないものが不死となってしまえば、数多くの人々に害をなすことなど容易に想像できていた。力を奪うだけでは無く、絶対死なない『不死者』となったシオリは、それこそ世界を食い尽くす。


 ――貴殿はあの時逃げるべきだったのだ。先に待つ多くの死を退ける為にも、貴殿の『不死』だけは奪われてはならないものだった筈だ!――


 九郎自身も自分の取った行動が如何に危険な選択だったのか――そんな事は分かっていた。


 しかしカクランティウスの言葉は、先に迫る危険の為に目の前の人々を放り投げる選択だ。

 カクランティウスは王であるから、そういった判断を何度も下して来たのだろう。彼も命を軽んじている訳では無い。それどころか強靭な生命力を持つ自分は弱い人々の盾であろうとして来ていた。

 だが命の価値を知っているだけに、残酷な判断も下す。先に失われる多くの命があるのなら、非情な手段も選択しなければならない身だ。既に病に倒れ、先の見えた奴隷達と、この先被害に遭うであろう数えきれない人々の命を天秤に掛け、後者を選ぶ事がきっと彼の中では正解なのだろう。


 それでも――九郎は自分は同じような状況、同じような場面でまた同じことを繰り返すと感じていた。

 先に失われるかもしれない・・・・・・命の為に、目の前で失われる命を切り捨てるような選択を取れる気がしなかった。しかし、


(俺が体を張って守った皆も……)


 暗くなる考えを振り払うように頭を振るが、その嫌な予感は九郎の心を蝕んでいた。


 シオリが死んでから3日。九郎達は病に倒れた人々の看病に追われていた。

 アルトリアの薬草のおかげで、病の進行は緩やかにはなっていたが、それでもその薬草は病そのものを癒す力は持っていない。一人、一人と掌から零れる命に九郎は成す術もなかった。


(せめてラムスさんが生きてりゃ……)


 ラムスはシオリが息を引き取った前なのか後なのか、同時とも思えるタイミングで死んでいた。

 病で死んだ訳では無い。


 彼女は自害していた。

 街一つ分の命を犠牲にして行った復讐が叶ったと思って死にたかったのか。それともそこまでした復讐を、『不死』を持つ九郎の存在で全て覆されたと思いこんで絶望の中で死を選んだのか……。もう尋ねる事は出来ない。

 病の原因究明の一助にすらならないラムスに、九郎は恨みがましい想いを向ける。

 しかしもう死んでしまったラムスは土の中だ。恨んでも縋っても届きはしない。


「くそっ! 何とか出来る方法はねえのかよっ!」

「わっ!?」


 自分の不甲斐無さに苛立ち、危険を冒してまで手にしたものが、手の中から零れて行く様を見続ける焦りの中で九郎は叫ぶ。その声に驚いた様子のアルトリアの声が、後ろから聞えていた。


 振り向こうとした九郎の後頭部に触れる、ポスッとした腐葉土のような感触。


「クロウ……収穫して欲しいんだ……」


 すまなさそうなアルトリアの声色に九郎はまた眉を下げる。

 アルトリアに対しては、後ろめたさのような気持ちが込み上げていた。


 アルトリアはシオリとの戦闘ではらしくない様子を見せていた。アルトリアは普段はどれだけ自分が害されようとも、人に向かって率先して魔法を使うことなど無い。アルトリアも九郎と同様、敵対者の命すら奪う事を躊躇する甘ちゃんだ。それが、あの時アルトリアは躊躇いも無く凶悪な威力を持つ魔法を次々と繰り出していた。


 その理由を九郎はアルトリアの流す涙を見るまで気付けなかった。

 彼女はあの時焦っていたのだ。


 アルトリアは九郎との逢瀬を遂げる為に旅を共にしている身だ。その九郎が『不死』でなくなってしまえば、『魔死霊ワイト』の彼女は九郎に触れられなくなってしまう。そうなると彼女が300年間待ち望んでいた希望が潰えてしまう事に成ることを、九郎は後になるまで気付かなかった。


 ――ボクが勝手に着いてきてるだけって分かってるけど……それでもキミはボクの希望なんだ……。クロウが死ぬのを見るくらいなら、ボクが先に死んだ方がマシだよ……――


 シオリの死を見届けた後涙交じりの声で告げられた言葉に、九郎は自分がどれだけ酷い選択をしたのかを思い知る。自分の方が惚れて来ていると自覚していた筈なのに、その彼女の希望すら潰す選択を取ってしまっていた。そしてその選択をこの先取らないとは言えない、自分の薄情さに辟易する。アルトリアに危険が迫ればもちろんのこと、目の前で死に瀕している人がいれば考後先えずに体が動いてしまうのを、九郎は止められる気がしない。

 自分は不老不死。その驕りが危機感を麻痺させてきているのだろうか。カクランティウスの言葉の通り、自分だけは大丈夫だとそう信じているのだろうか。


 ――俺だって嫌だったんだよ! ――


 思わず言い返した九郎の本心は駄々っ子のような言葉であり、人が傷つくのを見たく無いと言う身勝手な言葉だった。九郎が嫌な思いをしたくないのと同様、アルトリアも絶望を味わいたくないと言うどちらも自分本位からくる、相手を庇う宣言の応酬。大切な相手であるから、尚更危険を冒して欲しくないと言うのは、我儘なのだろうか――。考えれば考えるほどに分からなくなってくる。


「クロウ?」


 アルトリアが小声で呟き、恐る恐ると言った体で九郎の首に手を回してきていた。

 常に薬草の苗床と化している今のアルトリアの胸には、いつもの弾力は微塵も感じられない。

 しかしその柔らかさが九郎に僅かな安堵をもたらしていた。戦闘が終わった直後はアルトリアは九郎に触れる事にも臆病だった。万が一九郎が『不死』を奪われていれば、アルトリアが触れた瞬間九郎は『魔死霊ワイト』となってしまう。彼女の葛藤が緩んだ証がこのおっかなびっくりの抱擁なのだ。それに加えて今のアルトリアの胸には九郎の希望が詰まっている。


「悪い悪い……。アルトの胸はいつも夢がいっぱいだよなぁ……てさ」

「もう……、嫌味かい? 今のボクはペチャンコもいいところじゃないか」


 片手をアルトリアの首に回す九郎の言葉に、アルトリアは少し眉に皺を刻んで答える。


「いや、アルトがいなけりゃ、俺は悩む事すら出来なかったからな……」


 本心からの言葉だと九郎は苦笑を返す。

 アルトリアの薬草が無ければ、今病症に臥せっている奴隷達も全滅していた。少しでも希望を見出す為にも、アルトリアが作ってくれた時間は貴重だ。彼女が体の殆んどを腐敗させその体で育てる薬草が、まさに九郎に残された一筋の蜘蛛の糸となっていた。


「それじゃぁ、その時間をさっさと収穫してよ。カクさんじゃ出来ないんだから……」

「はいはい」


 恥らう事無くアルトリアは服をはだけて後ろを向く。長い髪を書き上げる仕草は色っぽいが、覗くのは白いうなじでは無く腐敗し黒ずんだ背中であり、そこに根を張る奇怪な植物だ。病に侵された人々と同じように黒と緑に彩られたアルトリアの背中が、九郎の目には眩しく映る。

 同じように命を吸い取り、同じように育つ彼女の緑は命を繋ぐ色。

 対して病の緑は絶望を生む色。アルトリアの背中に生えた薬草を摘みながら、九郎は一人その違いに目を伏せ涙を溢す。

 九郎の命を吸い取り、アルトリアの体をボロボロにまでして育てている薬草でも、『死』を引き延ばす事しか出来ていない。

『不死者』が必死になって守った命達の『死』は、刻一刻と迫っていた。


☠ ☠ ☠


「こんな……辱め……を受けるんだったら……死んだ方が……マシだ」

「なに贅沢言ってんすか? ばーさん相手におっぴろげてたんすから、男相手でも一緒でしょーや?」


 チェリオの汚れた尻を拭きながら、九郎は取り繕った笑みを浮かべていた。

 病人の看病と言ってもその作業は多岐にわたる。食事の用意から、洗濯。薬を飲ませてその間に部屋を温め、そして体を拭いたりと多忙を極める。立つ事も儘ならなくなった奴隷達は、食事を取っても吐いたり垂れ流したりと直ぐに汚れてしまう。

 病床に臥せっている者に黴菌ばいきんの類は厳禁だ。介護されている身としては恥ずかしい気持ちもあるだろうが、耐えてもらうしか他は無い。


「せめて……あっちの薬師さんにお願いしたいねえ……」

「マゾっすか? マジで死にてえんすか? つーかそれ以上に酷い事になるっすよ?」


 チェリオの胡乱気な視線の先にアルトリアの後姿が見え、九郎は眉を顰めて言葉を返す。男の尻を拭く事など九郎も率先してしたいとは思わないが、アルトリアに男性陣の下の処理を任せるのは危険すぎる。病人相手に間違いを犯すとは思わないが、万が一彼女がチェリオ達の立派な逸物を見て発情してしまえば、今でさえ逝く寸前の彼らがたちどころに昇天してしまう。


「てか、そんだけ言えるんだったらちょっとは良くなって……」


 冗談を言える程度に回復したのかと、九郎の顔が綻んだ瞬間、再び曇って行く。

 チェリオは何とか言葉を紡げる程度でしかないのが一目瞭然だ。

 青い顔の半分まで緑の斑点が広がり、体も緑の部分が多くなってきている。その顔には死相がありありと浮き出ていた。

 この病は生きたまま人を腐らせる。最初は表面を覆うだけの緑の斑点の色が徐々に色を濃くしていけば、それは皮膚だけでなく、その中身までが腐ってきている証拠だ。それに伴い内臓やその他の器官も腐り始め、やがて腐臭を漂わすグズグズの肉塊となり死に至る。

 体力面でも人より優れていたチェリオだからこそまだこの程度で済んでいるが、壮年の奴隷達はその殆んどがもう既に亡くなっていた。


「クロウ……アルミナちゃんが……」


 せめてチェリオの前で悲壮な顔をするまいと、貼り付けた笑顔を浮かべた九郎の耳にアルトリアの落ち込んだ声が掛かる。


「分かった……。直ぐ行く」


 暗くなる声を押し殺し、九郎は短い返事を返す。

 アルトリアの呼ぶ部屋へと足を踏み入れると、そこに広がるのは腐ったドブのような匂い。

 風通しの良い部屋で、薪もふんだんに使って温められた清潔で心地良い空間が腐臭で冒されていた。

 その中央のベッドに寝かされた元美少女だった一人の少女。その顔は殆んど全てが緑に覆われ、洗ったばかりの白いシーツは黒い腐汁が再び染みを作っていた。


「あ……」


 緑の少女の口が僅かに動く。もう言葉は継げないが、意思を示す事は出来ると訴えるように、その目はどこか優しげですらあった。


「アルミナ。調子はどうだ? そろそろ俺の見立てじゃ回復に向かう筈なんだけどなぁ?」


 殊更明るい声色で九郎は片手を上げて嘘を吐く。

 見れば分かる。アルトリアもその判断を間違えてはいない。目の前の少女の命は燃え尽きる寸前だ。

 病は弱い者から蝕んで行く。それは元いた世界もアクゼリートも変わらない。

 目の前の少女がもうすぐ死んでしまう現実を、九郎は受け入れなければならない。

 必死に守った筈の命がまた一つ掌から零れ落ちるような寂寥感が九郎を襲う。しかし、それを顔に出すわけにはいかない。まるで現実を拒むかのように、九郎は少女の手を握る。

 腐敗してもう感覚は無いのかも知れないが、それでも僅かに感じる体温が少女がまだ生きている事を示していた。


「う……」

「ま、心配しねえでも直ぐに良くなるさ。でもやっぱ病気になってる時は心細いもんな? そんな時は桃缶とかが一番だよな? 葡萄とかは毎日デザートで出してただろ? 磨り潰してたから分かんねえか? 初めて食ったからどれが葡萄か分かんねえって? あの甘ずっぱい奴だよ?」


 少女が一言紡ぐ事に対して九郎は過剰なほどに饒舌に返す。

 言葉が詰まってしまえば、押さえていた感情が漏れてしまうと恐れているかのように、貼り付けた笑顔で面白可笑しく明るさを振り撒く。


「あ……」

「甘いってのが分からねえ? 仕方ねえなぁ。本当だったら全快祝いの取って置きだったんだが、味見だけだぜ? これは俺の『来訪者』の力の真髄だ! 一口口にすりゃあたちどころに病気なんて治っちまうさ。なんで今迄使わなかったかって? これはアルミナが病気に勝ちたいって思うようにする奴だからよ。ちょっと弱気になってただろ? コレを一口すりゃあ、もっと欲しいって言うに決まってるからな。欲しかったら元気になって可愛くおねだりしてくれよ? アルミナくらい別嬪だったら俺ぁすぐに落とされちまうぜ?」


 もったいつけるセリフとは真逆に、流れるような手際の良さで九郎は指を少女の口に含ませる。

 九郎の体の何処かに溜められている、残り少ない青い蜂蜜。魔力すら回復させると言われた『クリスタル・バグ』の蜜を数滴絞り出す。


「わ……」

「どうだ? うめえだろ? 欲しかったらもっと元気な顔を見せて……」


 緑に覆われた少女の顔が僅かに綻んだ気がして九郎は目を輝かせ、そして項垂れる。

 微笑んだまま少女が逝った事を冷たくなっていく手が教えていた。


「穴……掘らなきゃな……」


 貼り付けていた笑顔の仮面を外して九郎がポツリと呟く。

 末期の水の代わりに与えた甘さは彼女の死を安らかにしたのだろうか。残り少ない蜂蜜に本当に病に打ち勝つ何かがあれば良いと、最初は希望も抱いていた。

 しかし何度もベルフラム達の窮地を救って来た『クリスタル・バグ』の青い蜜も、病の特効薬とはならなかった。ただ、死に行く奴隷達の表情が少し和らいだ気がしたからこそ、九郎は死に行く者達への最期の手向けとして蜜を供していた。


「くそっ!」


 吐き捨てた言葉はどうにもならない現実にたてつき足掻く、諦めの悪い男の苛立ちの言葉として部屋の中に響いていた。

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