第210話  フロウフシ


「どうじだのお? 早ぐいらっじゃあい?」


 左手で手招きしながら右手を奴隷達に突き付け、シオリが満面の笑みを浮かべていた。

 ほくそ笑む顔を目にした時のような、気持ちの悪い憤りの感情が九郎の胸に湧き上がる。


「クロウっ!」


 アルトリアの言葉が制止の意味か、心配してのことなのかが判別つかないまま、九郎は何も言わずに歩き出していた。


「あなだ最近ごっち・・・に来だんでじょう? ぞうよねえぇ? 夢見だいお年頃だものねえ?」


 嘲るように九郎を見下ろしシオリはたわんだ瞳を更に細める。

 どちらの意味で言っているのか。黙ってシオリを睨みつけ、胸の中の憤りを押し殺しながら九郎は考える。

 こっち……この街に来た事を言っているのではないだろう。この世界、アクゼリートに降り立ちまだ間もないのだとシオリは言っているように思えた。人質を取られ、直ぐに相手の要求を飲もうとしている九郎を、世界の残酷さを知らない夢見がちな若者だと嘲っているのだろう。

 奴隷など人質にならないと最初から眼中になかったアルフォス達の行動を考えれば、九郎の今の行動は舌が痺れるほどに甘いに違いない。

 しかもその奴隷達はもうすぐ死ぬ、先の無い者たちばかりだ。


 その彼らを人質に取られ、要求を飲む素振りを見せた九郎の表情に、シオリは愉悦を感じているかのようだった。


「やめてっ!!! 何処かに消えてぇぇぇぇっ!!!」


 ゆっくり歩みを進める九郎の耳に悲鳴のような叫び声が届く。

 確認するまでも無く、ラムスの声だ。顔全体を悲壮で彩り、もう動かない足を投げ出し、腕だけで這いずり手を伸ばしている。

 ラムスからしてみれば当然の思いだろう。40年もの間、奴隷とされ、自分の娘を人で無くされ、望まない人の屠殺、解体をさせられてきた身だ。その膿は心を溢れ、復讐の刃となってやっと思いが遂げられる寸前だった。底辺に落ちたシオリが惨めに死んで初めてラムスの復讐は完成する。

 シオリが不死になってしまったら――ラムスの街一つを巻き込んだ復讐は泡と消えてしまう。

 

「私達は咎人」――地獄に落ちる覚悟などとうの昔に済ませていたのだろう。罪を背負い、魂の先すら放り捨てて成そうとした復讐が、九郎の甘さで無駄になる。それは充分理解していた。しかし、


 その覚悟を九郎は踏みにじる。


「これだけ人を殺して、思い通りになると思ってんじゃねえよ! アンタだってこいつと同じじゃんかよ!? 大勢の人を犠牲にして、自分だけが良い気分に浸って、そんで満足して逝こうだなんて虫が良すぎんだよ!」


 誰の好きにもさせない……皆が皆命を粗末に扱うのなら、自分はそれを全て否定してやる。心に通した信念に従い、九郎は言葉を吐き捨てる。


 人が目の前で死ぬ――それがもう見ていられなかった。何も出来ず、ただ死んで行く人々を数えきれないほど見て来た。苦しみ、言葉も無く息絶えていく人々を何人も看取った。ここ毎日、九郎の世界は『死』で溢れていた。

 人は容易く死ぬ――カクランティウスの言葉の通り、人は絶え間なく簡単に死んでいく。

 その中にあって、例え約束された死が待っていようとも、リオもフォルテもチェリオも……まだ生きている。

 その命が目の前で潰えるのが許せなかった。


「良い子ねええ、坊やあ? ざあっ! ぞの『不死』を誇りに思いなざああい?」


 シオリが手をこまねくように指を動かす。誇りに思った瞬間、奪い取ろうとしているのをもう隠そうともしていない。勝利を確信しているかのようなシオリの言葉に、九郎は両手を上げ、


「やだね!」


 舌を出して片目を瞑る。

 誰の好きにもさせない。それは目の前のシオリに対しても同様だ。人の尊厳を奪い、家畜とするような輩を『不死』になどしたら、この先どれだけの被害が出るか分かったものでは無い。


 考えた末に出した答えは、誰の要求も跳ね除け、自分の我を通す。皆が皆誰かの『死』を願うのなら、自分は誰の『死』も望まない。目の前で潰えそうになる命全てに抵抗する。

 この中で一番夢のような甘い考えを九郎は押し通すと心に決める。その為の布石は打ってあった・・・・・・


「奴隷が死んでも良いのがじらあっ! 貴方の所為で一人死んだわよおおっ!」


 肩の埃でも払うかのように、シオリは自然な動作で手を動かす。

 景色を歪ます風の槍の一本が、腕に導かれるように一人の奴隷に向かう。


「ったく……。日本人ならもうちょっと殺しに躊躇があってもいいんじゃねえのか?」


 その声はシオリが放った槍の先、奴隷の中から響いていた。


「びゃっ!?」


 シオリが驚きのままに九郎を交互に見比べる。

 一方では今先程まで話していた筈の九郎が、糸が切れた人形のように床に大きな音と共に倒れる瞬間だった。そしてもう一方では、両手を広げ胸の半ばまでを削り取られていながら、してやったりと口の端を歪める九郎の姿があった。


「やっぱおっぱいってのは、夢がいっぱい詰まってんな! スマン……リオ……。悪気は無かった。……てか女は胸をポケットか何かだと思ってんのか?」


 病に倒れた奴隷の中、九郎が立っていた。気絶したままのリオへ謝罪の言葉を呟き、若干顔を赤らめながら――。


 リオの持つ自分の欠片に移動した九郎が、シオリの攻撃を受け止めていた。初めて見る者には九郎が増えたようにしか見えないだろう。一方ではもう物言わぬ死体となった九郎がいて、その一方では体はずたずたながらも元気そうな九郎がいる。

 

「さあ、ばーさん、どうする? 人質はもう指一本触れさせねえぜ? それよか病気をどうにかする方法を考えねえか?」


 これでもう手の打ちようがないだろう。シオリの周囲には風の幕が分厚く覆っており、こちらから攻撃する手段は見当たらないが、不死身の肉壁が控えている限り彼女も手の打ちようが無い。酸素を奪うなどの攻撃も予想しているが、空気なら自分の中に腐るほど溜まっている。

 今迄見て来たシオリの風の魔法は、全てが彼女を起点にしている。奴隷達を害するには九郎をどうにかしないといけない筈だ。吹き飛ばされる事も考え、ナイフで地面に血を落としながら九郎はシオリの出方を伺う。


 人質をとるような真似をした事からも、敵対している者が戦闘中に力を誇ることはそう無いとシオリ自身が分かっていたに違いない。

 しかしシオリが力尽きるまで耐えた先に何が残るのか……。結局街一つ犠牲にしたラムスの願い通り、惨めに死に行く老婆が一人出来上がるだけだ。それよりかは病に対抗する術を考えていた方が、余程建設的だ。二人の悪人を許せない気持ちは九郎にももちろんあったが、悪人が死んでめでたしめでたしな状況では無い。

 仲間の中には植物の成長を早められるアルトリアもいる。領主であるシオリであれば、薬草の類も数多く持っている筈だ。妻を病で亡くした経験を持つカクランティウスも、きっと人より多くの病気に関する知識を持っているに違いない。殺し合いをしている暇があるのなら、少しでも命が助かる道を選ぶべきだ。


 九郎は人が一人でも助かる道を選ぶ。甘い考えであるのは分かっていたが、それでも命を大事にする道を選んでいたかった。

 しかし、見る間に損傷を再生していく九郎にシオリは嘲笑を浮かべ、


「ばっがじゃなあいっ! ぞの『神の力ギフト』おおぉ! ぞれざえあれば、アデグジば助がるじゃなああいっ!!」


 同時に何本もの風の槍を放つ。風の槍は錐のように螺旋形の渦を巻き、九郎の体に突き刺さる。

 血しぶきが上がり、体を半ば削り取られながらも、背中に抜ける槍は存在しない。少しでも九郎の体を掠めれば、即座に風に混ざった血液が全てを削り九郎の体に取り込んでいく。


「一人だけ生き残って何になるってんだよ! あんたの力だって誰かがいなけりゃ意味がねえじゃねえかっ!」


 自分だけが至高で他は有象無象。自分だけが惨めで他は妬ましい者。

 相反する二つの感情を長年繰り返していたシオリの心は、自己以外を全てを物としか見られないようにしていた。

 九郎の説得の言葉は人を物としか見られないシオリには届かない。


「ぼらぼらあっ! 凄いわねえっ! ごんなにじでも死なないなんでえっ! 誇らじぐ思わないのお?」

「無駄だっつってんだろ! もうボケがきてやがんのかっ!」


 無数の風の槍を全て体で受け止めながら、九郎は叫ぶ。

 時間が無いのなら、自分の命が惜しいのなら、それこそ戦いなど無駄でしかない。

 狂喜乱舞とでも言えそうな表情でやたらめったら風の槍を放つシオリは、既に気でも触れているかのようだ。


「クロウっ! リオ達はボクが運ぶ! 逃げよう!」

「体がおっつかねえんだ! リオ達の避難は任せたぜ!」


 アルトリアが何度も袖口から蠅の弾丸を繰り出しているが、彼女の魔法はシオリと相性が頗る悪そうだ。

 九郎を一瞬で骨とする蠅の弾丸も、風の防壁に阻まれ一瞬で跳ね除けられていた。

 九郎の言葉にアルトリアは一瞬顔を強張らせ、その後目に涙を浮かべる。


「ぐうっ……」

「カクさん、無茶すんなっ! 腕まで骨になっちまってる! ばれたら狙われる!」


 カクランティウスが何度も土の防塁を打ち立てていた。しかし土の壁は風の槍と触れると砂のように崩れていく。魔力の回復していないカクランティウスは、生命維持の部分までを使って魔法を唱えているのか、突き出した掌が徐々に骨へと変わっている。

 カクランティウスの不死性に気付かれては、また戦況が混乱する。九郎は自分の『不死』を何処かで嫌悪している部分があるから、そう易々誇りに感じることはない。しかし長く王として君臨してきたカクランティウスは、一番長く生き続ける事をある種の誇りにしていた部分がある。「民の名を覚える事こそが王の務めであり、誇り」と言っていたカクランティウスを思い出し、九郎が慌ててそれを咎める。


「問題無い! 吾輩の体はそもそも人間とは違う! 体の構造自体が違うのだから『不死』を奪われても『不死』には成り得ぬ!」


 カクランティウスの種族『吸血種ヴァンピール』は死が魔力の枯渇と言う状態に固定されているに過ぎない。人として見れば『死』と感じる状態でも、種としては死んでいない状態でしかない。植物がその大部分を焼き払われても根と僅かに残った葉っぱで生き続けるのと同じ事。そう言い放ち、再びシオリと九郎の間に土の防塁を築き始めるカクランティウス。


「じゃあ、ボクだって同じさ! 既に死んでいるボクの『不死』は奪われたって役に立たない! そもそもそれが出来るんだったら、とっくの昔にアンデッドから『不死』を奪っているはずさっ! ちょっと!?」


 アルトリアが風の槍を自分も体で受け止めようとして九郎の手に引き戻され、抗議の声をあげる。


「うっせえ! でもアルトたちは『奪われ』ちまったら最後だろうが! 俺は奪われても残る! 奪わせるつもりはねえが、保険は懸けとくべきだぜっ!」


 叫んで九郎はシオリに向かって足を踏み出す。カクランティウスの言葉もアルトリアの言葉も納得できる部分はある。しかし奪われてしまったら――その恐怖が九郎を前へと突き動かす。

 既に一度死んだ状態であるアルトリアが『不死』でなくなったら。

 体を維持する状態がやっとのカクランティウスの特性が奪われたのなら。

 そう考えると居ても立ってもおられない。


 心許無い保険ではあったが、九郎にはもう一つの『神の力ギフト』がある。

『ヘンシツシャ』――様々な事象に『慣れる』能力があれば、自分の『死』すら慣れるのではないか。完全に都合の良い解釈でしかないが、九郎はそれを無理やり心にはめ込む。

 それに『不死』を奪われても直ぐに九郎が死ぬわけでは無い。健康な状態のまま『不死』ではなくなるだけだ。その後直ぐに殺されるのか、それとも病に倒れるのかは分からないが、その瞬間九郎が死ぬわけでは無い。


 誰の『死』も否定する。九郎は最早意地になっていた。

 世界に満ちる『死』の氾濫に嫌気がさしていた。


「ずばらじいわあっ! 最高じゃなああああいっ!!!」


 シオリは唾を撒き散らしながら、腕を振り回している。最早そこに人の意思すら見られない。


(マジでボケちまってんのか?)


 攻撃を受けながら九郎は眉を顰める。

 見るからに時間は残されていなさそうなシオリが、悠長に無駄な攻撃を繰り返す意味が分からない。

 どれだけ攻撃されても治る九郎が、羨ましくて仕方が無いと、それだけしか目に入っていないかのようだ。


「あ゛……」


 九郎が疑問に思ったその時、今度はシオリがぐらりと傾いていた。


「え?」


 思わず九郎も間の抜けた声を上げる。

 絶え間なく魔法を繰り出していたシオリが、ボタリと地面に落ちていた。


「あれ?」「むう?」


 魔法を唱えようとしていたカクランティウスと、シオリと九郎の間に割って入ろうとしていたアルトリアまでもが呆けた声を上げていた。


 余りにもあっけない幕切れ。落ちたシオリは僅かに痙攣した後、ピクリとも動かなくなってしまっていた。


「お……終わったの?」


 アルトリアの何とも言えない微妙な声が微かに耳に届いていた。


 九郎自身も、シオリにこれほど時間が無かったとは思ってもいなかった。

 病の進行がこの世界の住人よりも早いとは思っていたが、シオリの命の灯火はもう燃え尽きる寸前だったようだ。九郎が人質との間に割り込んだ時点で、彼女の勝利は潰えていたのだろう。だからこそ九郎の提案も跳ね除け、自分一人が生き残る事しか考えられなかったのか。


「おいっ!? ばーさん!?」


 誰の死も望まないと心に決めたばかりなのに、敵とは言え早々に死者が出た事に九郎の心は複雑だ。

 地面に横たわったまま微動だにしないシオリに恐る恐る声を掛けるその声色は、心配そうですらあった。


「でもぉ、さっきのクロウすごかったねぇ?」


 アルトリアが頬を膨らませながら駆け寄ってきた。


「は? アルトだって変わんねえじゃん?」


 何のことだと九郎は首を傾げる。結局時間切れで終わったこの戦いの、何が凄いというのだろうか。

 自分は耐えていただけで、敵が自滅しただけに過ぎない。


「おお……まさか増えるとは……」


 カクランティウスが眉を吊り上げアルトリアに続く。そのことかと九郎は納得の表情を浮かべる。

 細胞移動はアルトリアに知られてしまえば何かと不安が大きい為、誰にも説明してこなかった。


「確かに言ってなかったスけど、カクさん俺の腕が増えるの見てたじゃないっすか。それに頭まで生やして見せたんすから、殆んど一緒っしょ?」


 これまた表情とセリフが噛み合って無いなと思いながらも、九郎は肩を竦める。


「それにあんなに攻撃受けてたのに直ぐに治っちゃうしぃ」

「あれほど強力な『神の力ギフト』とは思ってなかった。流石は『不死』だな」

「信じられない程の強靭さよね!」

「おお、驚きの強さだ」


 今度は二人がそろって眉を顰め、口々に九郎を誉めそやして来た。

 怒っているようにも見えるが、興奮しているのだろうか。カクランティウスの土の槍も跳ね除け、アルトリアの黒の魔法も風に阻まれ手を拱いていたのは横目に見ていた。

 その強力な攻撃を受けても崩れなかった強靭さは彼らの予想を超えていたのか。


「いやぁ」


 思わず九郎は頭を掻き、ふと我に返る。

 何かが変だと思ったその時、


「誇っだわねえ?」


 カクランティウスとアルトリアの声が突然しゃがれた声に変っていた。


「え?」


 振り返ると地面に落ちていたシオリの姿が蜃気楼のように歪む。


「え?」「何!?」「え?」


 瞬間、視界がやけに晴れた気がした。動くはずの無い緑の肉の塊。その目がカッと開かれた。

 手をこまねく仕草をしながら、シオリが地面に寝そべっていた。その顔に勝利を確信した笑みを浮かべて。


 九郎も、アルトリアもカクランティウスも、言葉を失い立ち尽くす。

 風の魔法の中に声を届ける魔法があった。使い所の難しい、あまり役に立たない魔法だと聞いていた。

 しかしシオリの、神に望まれてこの地に降り立った『来訪者』の魔力があれば、人の言葉を捻じ曲げ耳に届ける芸当までが出来ていた。


 シオリが地面に落ちたその時から、九郎達が話す言葉はシオリに選別され、捻じ曲げられて相手に届いていた。


「もう遅いわぁああっ!!!」


 構えを取ろうとした時にはシオリの腕は既に動いていた。構えなど意味は無く、心を切り替えなければと思った時には既に遅く、目の前で水を掻くように、僅かに腕を動かすシオリが嗤う。


「クロウ!?」「クロウ殿!!」


 アルトリアとカクランティウスの叫びが重なる。


「ああああああああああっ!!!!!」


 ラムスの悲痛な悲鳴が響く。


「あ……れ……?」


 そしてシオリの困惑の声がそれに混じっていた。


☠ ☠ ☠


「どうじでなのぉぉぉぉおおお?」


 勝利を確信したかのような笑みを浮かべていたシオリが、一瞬にして表情を焦りに変えていた。


「誇っだじゃないいいっ! 今、確がに誇っだじゃないいいいいっ!!!」


 会心のタイミングだと自賛していた。

 敵に回った者であるなら、しかも自分の能力を知られてしまっているのならば、どれだけ言葉で表そうとも心が警戒する事をシオリは予想していた。そもそもラムスに裏切られたばかりであり、猜疑心にまみれていたシオリは、簡単に九郎が言いなりになるとは最初から思っていなかった。


 しかし自分に残された時間はもう左程も無い事も自覚していた。

 体の感覚は既に腹から下が冷えたように冷たくなっている。人質と言ってももう先の無い奴隷達だ。いくら目の前の青年が甘い考えを持っていようとも、少しでも交渉が長引けば、自分の方が時間切れになってしまう。

 そもそも敵である自分に誇れと言われても、心から誇る事など出来るはずが無い。誇りとは自分が他よりも優れていると知って初めて湧き出て来るものだ。優位な立場に立つ自分から優位を感じる等、土台期待していなかった。


 だが、人は安堵した時に心の警戒を緩める。40年、様々な手を使って人々のあらゆるものを奪って来ていたシオリは、人の感情の動きを操る事に長けていた。警戒心が強く、猜疑心の強かったチェリオのような者からはなかなか『簒奪』することは出来なかったが、九郎のような単純そうな男であれば、感情を読み解く事は難しくない。

 九郎が二人に分裂した時は流石に胆を冷やしたが、もう時間の無いシオリはその事に驚く心を無理やり押し込め、自ら最後の賭けに出た。


「なんでええええ!? なんでよおおおおおっ!!!」


 勝利を確信した時ほど人の心は高揚する。自分の力を誇りに思う。遊戯で負けてやれば、直ぐに奴隷達は自分の頭脳を誇った。手練れの戦士も刺客を送り込み、それを退けた時には自身の力を誇っていた。

 勝利とは、誇りを感じさせる最高の呼び水だと長い経験からシオリは知っていた。


 だから装った。時間が無く稚拙な勝利を演出する他無かったが、それに加えて仲間の称賛まで浴びせれば――。


 音と言うものは言うなれば振動だ。振動の波長を変えてやれば操る事すら出来てしまう。

 シオリは自分の姿を圧縮した空気の壁でぼやかし、その裏で九郎の仲間の言葉をねつ造していたのだ。


 そして目論み通り、九郎、『不死』を持つであろう青年は自らの『不死』を誇りに感じた――筈だった。


「どうじでよおおお!? 誇っだじゃないいいい!!」


 シオリは半狂乱で宙を掻く。

 シオリの目には輝く宝石が赤々と眩い光を放っている。本来なら誇れば直ぐに手の中に収められた筈の力が、ここにきて何の手ごたえも見せてくれない。

 見えているのに触れない。まるで幻のようにシオリの手からすり抜けて行く。


 余裕などもう欠片も無かった。

 最後の賭けに勝ったと思った瞬間、それが泡と消えたのだ。ラムスと同じように、確信した勝利は一瞬にして絶望に変った。


 ――もう時間が無い。何としてでも手に入れなければ――


 逸る心は単純な思考しか繰り返さない。霞み始めるシオリの視界には眩い宝石しか見えていない。

 溺れたように手をばたつかせるシオリの瞳に涙が浮かぶ。


「ひぎっ……ひぁっ……あ゛あ゛あ゛……」


 口から嗚咽が漏れていた。

 死にたくない――ただその一心でもがく手は何も掴みはしない。嗚咽は途絶え、同時にシオリの手は力なく落ちる。

 

 シオリの最期の言葉は、奇しくも一度目の死を見た嗚咽と同じ響きを奏でていた。

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