第209話  月光のルンバ


「大根……長ぐ忘れでいだ名前ねえ゛~?」


 シオリは弧月に瞳を弛ませながら指を咥えるような仕草をしていた。

 自爆した足の痛みは、ドーパミンでも分泌されているのか、忘れているかのようだ。

 ギラギラと欲に滾った視線を浴び、九郎の背中に冷や汗が流れる。


(大根ってこっちに無かったのかよ!? あっただろうが!?)


 そして九郎は自分の日本語がそのまま相手に伝わっている事を忘れていた。

 九郎は野菜、果物の類が豊富なミラデルフィアで過ごしていた事で、この世界の野菜についても多くの種類を見て来ていた。

 似た形、似た色であっても味は違う事もあったが、大根によく似た野菜は大根と言えば通じていたので、てっきり同じ名前かと思っていたが、どうやら翻訳されて相手に伝わっていたらしい。


『不死』を自ら晒してしまい、動くに動けなくなってしまっていた。言葉がきっかけで奪われるのか、それとも何も必要無いのか。距離はどれほど届くのだろうか、その範囲は如何ほどなのか。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、シオリの視線に動きを止める九郎。


「ぞういえば、あなだアデグジに怯えながっだ坊やだねぇ……まざが……」


 シオリの殆んど垂れ下がった頬で見えなくなった口元が僅かに上がる。


「らいぼうじゃだっだだなんでねぇえ゛!!!」


 叫び声を上げていきなりシオリが突っ込んで来た。

 動けないとばかり思っていた膨れた肉塊が、弾丸のようなスピードで迫って来る。


「う゛えっ!!?」


 全裸で両手を広げ向かって来る太った老婆に九郎の顔は恐怖に染まる。

 生理的な嫌悪感に逃げ出したくなる。

 しかし後ろにはラムスを始め、リオもフォルテも、多くの奴隷達が倒れている。

 この場を動く事など出来ない。全員が致死の病を患っていようとも、今はまだ生きている・・・・・・・


「もう枯れてても良い頃じゃねえのかぁっ!」


 皺くちゃの弛んだ顔と、はち切れんばかりに膨らんだ躰。緑の斑点が広がり、怖気を催す恐怖に抗い九郎は両手を広げる。

 瞬間巨大なクジラが飛び跳ねたかのような、バチンと弾ける音がその場に響く。


「あどまわじにじでいだげれど……もっど早ぐにあいでじであげだらよがっだがねぇ……」

「お、俺、EDなんでっ! 遠慮しておきますぅ……」


 抱擁しようと突っ込んできたシオリに対し、開幕のプロレスラーのように両手をがっちりつかんだ九郎が引き気味に小声で返す。

 見た目の重さに対して衝撃が左程でもなかった。シオリは空中にフワフワと浮かんでいた。

 雄一の話では「空を飛ぶ魔法は無い」と言っていた筈だが、風の魔法に特化していたシオリであればこの様な芸当も出来るのだろうか。またもや嘘を吐かれた気がして、九郎は心の中で雄一に悪態を吐く。


 全裸の緑色の膨れた老婆。遠目に見れば風船に見えるのではないかと、嫌味の一つも言いたいところだが、その余裕は九郎には無い。


「ぐっ……」

「あらぁ゛~? 見だ目よりば力があるのねぇ~」


 巨大な岩でも片手で持ち上げられる程、今の九郎の力は人間離れしている。しかし老衰間近の老婆の筈のシオリの力は、九郎の想像を超えていた。


「全員に力を返した・・・訳じゃねえのかよ……」


 筋肉の千切れる音を久しぶりに聞き、顔を歪める九郎の頬に汗が流れる。

 畜産奴隷達に人の尊厳を返し、奪った力を放出したシオリだったが、多くの奴隷達は既に死んでしまっていた。

 その力までは返していなかったに違いないと、歯を食いしばりながら眉を寄せる。


「ぢゃんど全部捨でだわよおおおっ? でないどアデグジが豚以下なんがに落ぢるわげないじゃなああいっ!!!」

「んな訳ねー―がっ!!?」


 シオリの口が半月に弧を描く。同時に体に響く肩の骨が砕けた音。

 一瞬力が抜けた九郎の体を抱きすくめて、シオリがニヤリと嗤う。老衰寸前の老婆がこれ程の膂力を持っている筈がない。そう叫ぼうとした九郎の耳に鋭い痛みが走る。


(鼓膜が破れた!?)


 思った次の瞬間九郎は外へと飛び出していた。

 シオリは九郎を抱きしめたまま上空高く、硬そうな岩盤すら突き破って、髙く高く舞い上がっていた。

 その速度はロケット並み。凄まじい速度で体を風が通り過ぎる。


「全部捨てた!? 嘘ばっか吐くんじゃねえ!! 人は空を飛べねえんだよ! 風船か!」


 月の光を浴び、照らし出された裸体の悍ましさに青褪めながらも九郎は大声で叫ぶ。

 夜の砂漠は気温が低い。それに加えて上空高くに持ち上げられている。先程掻いた冷や汗は瞬く間に凍りついて背中を滑り落ちて行く。肉と脂に包まれたシオリの体格であれば寒さも感じないだろうが――そこまで考え自分も寒さに強い事を思い出し、同時に感じている悪寒の正体に顔を歪める。


「ごればアデグジ自身の力よお? あなだも魔法ぐらいば使えるでしょおう?」


 その言葉に九郎は先程の耳の痛みの答えを知る。気圧の変化は外へ飛び出す前に既にあった事を思い出す。人外の膂力を超える力の正体は風の圧力だったのだ。

 シオリはそれを示すかのように両手を広げ、今や九郎を抱きしめてはいない。しかし九郎の体はどれだけもがこうともシオリの腹から逃れ出れない。背中が凄まじい力で押さえつけられ、ズブリズブリとシオリの脂肪に体が沈む。

 

「若い肌ば良いわねえっ! おっばいずぎでじょう? まだまだピチピチよぉ?」

「そりゃピチピチじゃなくてパツパツって言うんだよっ!?!」


 シオリの何重にも重ねられた脂肪に塗りこめられるような感覚。誇張でなく「食われる」と言う単語が九郎の頭に過る。性的な意味、言葉通りの意味、両方で――。


「ざあ……あなだの誇りば何がじらあ?」


 値踏みするようなシオリの言葉。豊満すぎる裸体に埋め込まれる九郎。

 女性の胸は大好物だが、今押し付けられているのは決してそんな天国の果実では無い。沼だ。

 膨れた脂肪は泥のように不定形で、スライムよりも粘っこい。ガサガサの肌は乾いている筈なのに、皮膚には脂が纏わりつく。


(死ぬ! 死なねえケド死ぬ! 俺の心が死んじまう!)


 女好きを公言して憚らない九郎だが、本気で気が狂いそうになる。女性の胸で死ぬのは男の夢だが、これは決してそんな生易しいものでは無い。おっぱいには希望が詰まっている筈だが、目の前の乳房に詰まっているのは自堕落な生活と欲望だけだ。


「そりゃあ、この胸の中の熱い・・情熱に決まってらあっ! 『焼けチャード木杭パイル』!!!」

「あ゛、あ゛づぅぅぅううういっ!!!」


 叫んで九郎は体を炎に『変質』させる。

 ねっとりとした視線で九郎をねめつけていたシオリの絶叫が、夜空に響き渡っていた。

 この時の九郎はこれまでに無いほど冴えていた。必死だったとも言える。

 肉体も精神も貞操すらも危機感に震え、がむしゃらだった。

 着ていた服は瞬く間に燃え尽き、九郎の全身は赤く光を放つ。鼻に脂肪の焼ける匂いが香り、耳に油の爆ぜる音が響く。


「はっ! ばーさん火遊びはほどほどにしときなっ! 火傷すんぜ!?」


 空中に投げ出された九郎は中指を立てて、啖呵を切る。

 力の一端を見せてしまう事になるが、コレなら問題無い・・・・・・・・筈だ。


 アルトリアの魔法を使って自滅したシオリであれば、『ヘンシツシャ』の力は奪われても脅威とはならない。

 その結論を導き出し、九郎は体を炎に『変質』させていた。奪われた九郎側は弱体化を余儀なくされるが、『ヘンシツシャ』の力は全てが『自爆技』だ。生身の体では使える技など一つも無い。『炎』『熱』『冷気』『電撃』『圧力』『衝撃』そして『毒』。どれもが『フロウフシ』の『神の力ギフト』が無ければ使えない。


 高高度から落下し、再び体に風を受けながら、――これで自滅してくんねえかなぁ……――と淡い希望を九郎は呟く。まだ思考が『ヘンシツシャ』の『神の力ギフト』を覚えている事からも、奪われてはいないようだが……。そこまで考えたその時、九郎の体を通り過ぎていた風が止んだ。そして視界が暗転した。


☠ ☠ ☠


「クロウ!」


 目を丸くしたアルトリアが駆け寄ってくる。

 どうやら地面に激突したようだ。一瞬で攫われ全裸になって空から降って来たのだ。驚くなと言う方が無理なことだろう。

 しかし、と九郎は無い・・眉を下げる。


「なんで俺だってすぐ分かんだよっ!」


 起き上がってきょろきょろあたりを見渡すが、目当ての物は細かく砕けすぎて判別がつかない。

 アルトリアのホッとした顔を見ながら、浮かんだ疑問を喉を通さず声に出す。直ぐに自分と分かって貰えたのは嬉しい半面、複雑だ。どこで判断したのかはアルトリアの視線が物語っているが、それがどうにも腑に落ちない。


「そりゃ、毎日見てたからねっ! 形も色もばっちりさ! って、ああっ! 何で隠すのさ!」

「隠すに決まってんだろ! てか一度くらいしか見られた覚えがねえよっ!」


 股間を押さえ、がなる九郎はどこから声を出しているのだろう。きっとカクランティウスあたりははそう思ったに違いない。

 何せ首から上が無くなっているのだ。高高度から真っ逆さまに落下した九郎は、「人の頭は結構重い」ということを今頃知る事になっていた。そして、「人の頭は結構脆い」と言う事も……。


 空高くから石の床に叩きつけられた九郎の頭は木端微塵に弾け飛んでいた。


(マンガのように突き刺さったりはしなかったな……)


 それはそれで間抜けな絵面だとも思うが、今の状況のような常軌を逸した光景にはならなかっただろう。

 自身も不死であり、体の損傷に何の頓着もしていないアルトリアは気にした様子は見えないが、カクランティウスは若干引いてる感じがする。

 腕を何本も生やして見せていたが、頭部はやはりグロさの質が違うようだ。 


「どこから声を出しているのだ?」

「カクさん、俺の盲腸としゃべってたっすよねえ!?」


 時間を掛ければ飛び散った破片に集合を掛ける事も可能だが、今はその時間も惜しいと九郎は頭を『再生』させる。


「その様子から見れば、まだ奪われて・・・・はおらぬようだな……」

「ごれがら奪っであげるわよおおっ!」


 カクランティウスの安堵した声。それに重なるしゃがれた声に、九郎は慌てて頭上を見上げる。


「よぐもやっでぐれだわねえええ! 女性の肌に傷をつくるだなんで、酷いわあああああっ!!」


 再び目の前に現れたのはシオリの汗ばんだ顔。そのはち切れんばかりの裸体には、人型の火傷の痕がくっきりと残っている。通常であれば痛みでしゃべる事も出来ない筈の、大きな火傷を腹に負いながらも、シオリの表情は先と少しも変わっていない。


「うっそだろ!? 痛くねえのかよ!?」


 思わず声に出して叫んでいた。

 起死回生の一撃を浴びせた筈が、そこまでダメージを負った様子が全く見えない。

 脂肪が多すぎて気にならないのだろうか。それともシオリの顔は今は殆んど緑色だから、表情を読み取ることが出来ないだけなのか。


(――違う!)


 シオリを取り巻く風から香る腐臭。九郎はシオリの現状に気付く。

 足は骨だけになっていると言うのに、腹から胸にかけては大きな火傷を負っていると言うのに、シオリはもう痛みを感じてはいない。

 疫病の所為だろう。ラムスの執念とも言える人を腐らす疫病がシオリから痛みを奪っていた。

 掛かった時期から時間がたっていた為か、それとも元はこちらの世界の病に免疫を全く持っていないからなのか――シオリの病はこの世界の住人よりも何倍も速く進行しているようだった。

 一度全ての力を捨てた体に広がった病の猛威は、今やその体全体を緑で覆っている。


「休憩なしに第二ラウンド所望とは……元気なばーさんだぜ……」


 皮肉を口にする九郎だがその心に余裕はない。

 シオリの『神の力ギフト』があれば、一瞬で優勢が逆転する。


「大人しく天寿を全うは……してくれなさそうだな」


 酷い言葉だと口から零れた言葉に九郎は渋面する。

 目の前の人間の死を望む。九郎の信念とは相反する言葉だ。


 人の誇りを奪うと言う非道な手段で伸し上がって来ていたシオリ。しかし九郎からしてみれば、殺意を抱くほどの何かをされた訳では無い。リオやフォルテ、ラムス達は殺意を抱く十分な理由があるが、それをどこまで自分が共有してよいのかの線引きが曖昧だった。


 リオを助ける約束をした。それはフォルテの奪われた尊厳を取り戻し、彼女が笑えるようにすると言う、九郎の信念に則したものだ。自分の感じていた幸せを他に分けると言う素晴らしいものの筈だ。


 しかし今の状況はどうだ。人の死を望み、それで得られる物は何も無い。

 例えこの場でこの老婆が死んだとしても、九郎の手には何も残らない。


 自分の力が足りなかったから――責める理由ならいくらでも出てくる。こんな手を使わなくても、もっとスマートに事を進める事も出来たのではないか……。考えればきりがない。


 九郎の信念から言えば、街一つを死に足らしめたラムスの方がよっぽど悪人だ。

 それしか方法が無かった――言われても納得できるものでは無い。徐々に愛着を抱き始めていたリオも、頼りになる兄貴分だと思い始めていたチェリオも致死の病に掛かってしまった。

 奴隷の尊厳を取り戻す為――その大義名分を掲げてラムスは仲間と思い始めていた人々の命を犠牲にしたのだ。


「余計な事を考えている暇はないぞ。甘さはそれだけで罪だ。心に剣を刺せ! 信念を貫け! 守りたいものだけを見て、それ以外を切り捨てよ! 力の無い者が多くを望むと、全てを失う事になるぞ!」


 カクランティウスの激が飛んだ。思考の沼に陥りかけていた九郎は表情を引き締める。

 心を読んだかのようなカクランティウスの激に、自分の状況を思い出す。


(落ち込むのは後回しだっ! まずは現状をどうにか……し……ねえ……と……) 


 命が何より大切だと感じたばかりの九郎の背中に冷たい汗が流れていた。


「言うごどを聞ぎなざあい? 抵抗ずるど、ごの子達の命ばないわよおおお?」


 シオリの手がリオ達、奴隷に向けられていた。

 その手の周りには空気を歪ます風の槍が、何本も浮いている。


「あなだは『不死』だげれども、ごの子達はどうだろうねえ? 違うわよねえ? だっで死にぞうだものねえ!!」


 一つしかない命が何より大事だと――それだけは譲れない思いだった。信念を貫け――カクランティウスの言葉が九郎の頭に木霊する。


(『不死』で無くなったら――どうなるんだろうな……俺……)


 逆に言うと自分の命は無限にあるから――考えて来なかった。

 冷たい汗は乾いた埃に吸い込まれていった。

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