第196話  姉弟の再会


「フォ……ル……テ……」


 嗚咽とも悲鳴ともつかない声を溢して、リオは全てを押しのけ、その見るも悍ましい一画に走り寄っていた。

 リオは脇目もふらず四つん這いで死体を食んでいた一匹の動物に走り寄り、顔を歪めて抱きしめる。


「めぇぇぇめぇぇえ゛」


 ――一目会えば分かる――


 そう言っていたリオの言葉の通りなのだろうか。

 リオが、暴れる若い少年を抱きしめ顔を歪めるのを、九郎は苦悶の表情を浮かべて見つめていた。

 その少年――人を認識させる全てを奪われたその少年は、半獣半人の山羊の姿をしていた。上半身は人。下半身は山羊と何処か悪魔を思わせる姿。

 面影はまだ人に近い部分を残している。灰色の髪、濁った茶色の瞳。幼い目鼻立ちに僅かながらリオの面影がある。

 ただ虚ろな目にリオの姿は見えておらず、手の中の人の足に必死に齧りついていた。そして九郎には彼が人に見えない。


「あぅ……あ゛あ゛……あああ……」

「めぇぇええ゛! めぇええええ゛え゛!!」


 それは決して4年ぶりに出会った姉弟の感動的な再会ではなかった。

 食事中を邪魔された事が気に障ったのか、その少年はリオの肩に歯を突き立てようと、怒りの声を上げていた。その行動が自分を姉だと認識していない所為だと気付き、リオは声にならない声で泣く。

 少年の歯はもうボロボロなのだろうか。リオの黒い肩に咬みついているその口元からは、どちらのものとも思えない赤い血が僅かに滲んでいるだけだった。


 どう間違っても「無事で良かったな」とは言えない。

「弟と会うまでは笑う事は出来ない」――そう言っていたリオが、この状況で笑えるはずもない。

 想い描いていた最悪の結末――フォルテの死を越える状況が有る事など考えてもいなかった九郎は、目の前の光景に呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


「フォルテ……くそ……どうして……」


 肩に咬みつく少年のような何かを抱きしめながら涙を溢すリオ。優しく抱きしめられていてもその少年はリオをリオと分かることなく頻りに暴れ身をよじる。

 そして彼女の座るその場所は、姉弟の残酷な再開の空気を読むような場所でも無かった。

 

「なっ!? なんだ手前らっ! 寄って来るんじゃねえ!」


 少年を抱きしめていたリオの背中に膨れた中年くらいの男が覆いかぶさっていた。

 それを皮切りに、我も我もと数匹の男達がリオへと押し寄せていく。

 リオの嗚咽の混じった罵声が人の群れに飲み込まれる。


「っと!? 見てる場合じゃねえっ! こいつら人を食うんか!?」


 九郎は慌てて駆け寄る。人の死体を目の前で貪り食っていたのだ。

 生きている人間を襲う何かに変貌しているのかも知れない。

 九郎は焦って力任せに男どもをリオから引きはがす。その下からは少年を抱きしめ蹲ったリオの背中、そしてその背中で一匹の男が腰を振っていた。


 入っている訳では無い。犬が訳も分からず人の足で腰を振るかのように、男はリオの体に、ただこすり付けていただけだった。その姿に九郎は顔を歪めて口を覆う。「ぶーぶー」と鳴きながらヘコヘコ腰を動かす中年の男。その顔は恍惚としているが、その姿は滑稽というより憐れに映る。

 何のために――それすら考えるのも嫌になりそうだ。

 人間性を残さず奪い取られたここにいる人々。残っているのは食欲と性欲。獣の本能とでも言える、欲の残滓のみ。


「あ……あぅ……ど、どうして……」


 リオが呆然としたまま腕の中を見つめていた。背中の男を気にする素振りも見せず、大事に抱えていた筈の弟の姿に泣き顔のまま呆然としていた。

 その中では、リオの脇腹に腰を擦りつけ、同じ様に恍惚としている少年のような生き物の姿があった。

 

 余りにも悲惨なその光景にもう見ていられないと顔を背けようとした九郎は、ふと視線を向けたリオに思わず怒鳴り声を上げていた。


「てっめー! 何しようとしてやがんだっ!」

「うるせえっ! 離せっ! もう終わっちまってたんだよ! アタシの幸せも……次のアタシの幸せも……ずっとずっと……アタシ達に幸せなんか訪れるはずが無かったんだ……」


 首枷に手を掛け強引に傷付けようとしていたリオを九郎は力任せに羽交い絞めにする。

 男に抱きつかれている状況でも、リオはもう恐れる余裕すら失っていた。

 失っていると言うよりも、どうでも良くなっているかのようだった。ただ、目の前の光景を見ているのが生きる事より辛いと、リオは自ら死を選ぼうとしていた。

 自分の身を犠牲にしてもと、願っていた弟の幸せが、突然目の前で無くなっていたのだ。

 絶望――人が生きることを諦める――それは希望を断たれた時、間違いなく今の状況の事を言うのだろう。 


 リオの足元でまだ腰を擦りつけている少年のような生き物。

 泣き顔のような笑顔……以前見せたリオの悲痛の表情を見下ろし九郎は苦渋に顔を染める。

 この状況でどう言えば良いのかなんて分からない。絶望に呑まれた今の状況を見てしまえば、死んでしまった方がマシかとさえ思ってしまう。人ならざる者に姿を変えられたフォルテと、その弟の幸せだけを願って自分を傷付けていたリオ。

 姉弟の絆が強ければ強いほど、今の状況は救いの無い絶望に思えた。


 ――――しかし……。


「お前っ! 俺がこれだけ協力してやってんだぞ! 報酬の一つも寄こさねえでとんずら決めようなんざ、虫が良すぎんだろ!」

「はっ!? アタシが望んだのはフォルテの幸せだ! 悪魔のくせしてそんな事も覚えてねえのか」

「覚えてんよ! 俺が望んだのはお前の心からの笑顔だ! なのに依頼主のお前が諦めちまってどうすんだよ!? 言いだしっぺは最後まで結末を見届けてから死にやがれ!」


 九郎は諦める事をしない。どれだけ絶望的な状況下にあっても、決してそれだけはしてこなかった。

 結果的に言えばそれが幸せに繋がってばかりだったとは言えないだろう。自分の身を血に染めて守った者達に恐れられた経験も何度もある。

 しかし、それでも諦める事が出来ないのが九郎だ。無限の命と尽きることの無い時間を持つからこそ、一瞬の間に無くなってしまう命に対して、人以上に拘り、足掻き続ける。


 呆然として光を失った目で自分を見つめるリオの瞳に、九郎は怒りに似た感情をぶつける。

 胸の中ではカクランティウスの言葉がグルグルと回っていた。


 ――人は死ぬ。容易く死ぬ。大切に大切に抱え込んでいても、何もせずとも死ぬのだ――


 リオは諦め死のうとした。自分の未来に絶望し、弟の将来に絶望し、生きていてもしょうがないと思ってしまった。

 それを止めるのは自分のエゴだと分かっている。それでも九郎は自分の思いを優先させた。

 カクランティウスの言う通り、『不死者』で無い者の命など、それこそ蝋燭の炎のように容易く掻き消えてしまうものだ。

 だからこそ九郎はそれを大切だと思う。無限に湧き出るものには価値を見出せないが、ただ一つきりの儚い命には価値がある。そう考えている。


「死ぬなんざお前等には直ぐに出来るかも知れねえケドな! 俺には出来ねえんだから考えろよ! 逃げようとすんじゃねえよ! 弟が大切なら、姉ちゃんが諦めてほっぽり出すんじゃねえ!!」


 言っておきながら酷いセリフだと九郎は心の中で自嘲する。これ程傷付き弱り切った少女に対して、いったい何を言っているのか。死が最後の逃げ道だと選ぼうとしたリオに対して、その逃げ道を塞ぎ更に追い詰めるような物言い。きっと彼女には自分の事が本当に悪魔に映っているかもしれない。

 そう思いながらも、九郎は目の前で投げ出されようとした命に手を伸ばしていた。


「だけど……」

「奪われたんなら取り戻せよ! 弟のもんが奪われちまったんなら、怖い姉ちゃんが出張って取り返しても文句は言われねえだろうが!」


 可能性の事など全く考えてはいなかった。

 単純にラムスが言った『奪われた』との言葉に反応しただけだった。

 普通に考えれば、リオの足で腰を振るフォルテは狂っているとしか思えない。薬か何か……気が触れて今の状況に陥っているとしか思えなかった。常識で考えればここまで狂った人間が元に戻るとは考えにくい。

 しかしラムスの言った言葉と、シオリが『来訪者』である事が、奇しくも九郎の希望となった。


 普通では考えられない力でフォルテがこの様な姿になっているのだとしたら……。頭の中に浮かぶのは青い目で操られていた雄一の人形。『支配』され、操られていた幼い少女達の姿だった。

 彼女達が今どうなっているのかを知る術は九郎には無い。しかし決闘の際に救えなかったと後悔した思いだけは、九郎の中に深い傷跡を残していた。そしてそれは同時に九郎の中の希望でもある。

 あの時、少女達諸共雄一を殺していればと思った事も何度もある。しかし結果的に雄一を単独で殺せたことで、彼女たちは何処かで生きて、幸せを掴んでいて欲しいと願う九郎の都合のいい思い。


 それと今の状況が重なっていた。

 絶望を覚えるには充分な状況だが、雄一の『支配』も『目を傷つければ解ける』と言った抜け道があった。


「どうするってんだよ!? フォルテはもう全てを失っちまってるんだぞ! ……そして……アタシも今全てを失って……」

「まだリオも! フォルテも生きてるじゃねえか! 命は失ってねえじゃねえか! 諦めんなよ!」


 だからこそまだ諦めるのは早いと九郎は言い切る。

 諦めて来なかったからこそ、自分はまだ笑う事が出来る。アルバトーゼで暮らしている少女達も、自分の帰りを待っててくれるであろう可愛らしい年上の恋人も、九郎が諦めなかった結果、失わなかった人々だ。


「リオにはカクさんの話も、アルトの話もしただろうが!」


『不死者』は諦めが悪い。氷の中で人の通らぬ場所と知りながら、50年間助けを求めて叫び続けたカクランティウスも、山奥の村で300年抱き合える男を求め続けたアルトリアも……二人とも諦めなかったからこそ、今希望を見出しているではないか。

 自分達『不死者』に『死』と言う逃げ道は無い。だからこそ皆命に向き合い、自分の身以上に価値あるものとして見ている気がしていた。


「でも」

「五月蠅えっ!!」


 尚も頭を振ろうとしたリオの両頬を掴み、九郎はピシャリと言葉を封じる。


「お前は言ったよなあ!? 全てを差し出すってよお!? ならその命も俺のもんだ! 悪魔? 上等じゃねえか! 俺は悪魔だからよ、お前がボロボロに傷付いてたって死なせてやらねえ! 死にたいって言ったって認めてやらねえ! 絶対だ! 絶対にお前が幸せで幸せでたまんなくて、充分に幸せだったって言うまで……しわくちゃのばーちゃんになって、孫に囲まれて老衰するその直前に、笑顔で死ぬまでっ! 絶対に生き続けてもらうぜえっ!!!」


 九郎は自分で自分の言葉が酷く陳腐に聞こえていた。顔を思いっきり顰めて自信の無さを隠し、語気を強めて自分の中の不安を押し込め、口元を引き上げて自らを鼓舞するように強気を装う。

 傷付いたリオに『死』という道を選ばせない為に、使いたくも無い彼女の言葉を使って縛る。


 リオは九郎の剣幕に呑まれていた訳では無いように見えた。

『死』を選ぶと言うことは、それだけ心が追い詰められている事を意味する。

 しかし、リオは九郎を見つめ小さく、ほんの僅か顎を下へと動かした。

 それは彼女が奴隷としてしか生きておらず、絶望を何度も味わい不幸に慣れていたから。また、何も持っていない、自分の命でさえ自分の物では無いとずっと思って生きて来たため、力のある言葉に反射的に逆らえない事が関係していた。


「さて、やるこたあまず殴り込み……てもリオはここでフォルテを見てろ! こんな酷えことしやがる奴が普通な訳ねえ。様子見は俺見てえなのが一番適任……」


 ともあれリオが頷き、瞳の光が戻った事を確認して、九郎はすぐさま行動に移ろうと振り返りそのまま固まる。


「話……聞くだけ聞いて置いてけぼり?」

「何だか俺は聞かねえ方が良い気がするなぁ……」


 ラムスとチェリオがその場にいた事を、九郎はすっかり忘れていた。

 どちらもシオリの奴隷であり、九郎達が来る以前からこの屋敷に勤めていた者達だ。


「俺……あんまり手荒な真似はしたくねえんだけれどよ……」


 九郎は右手を後ろに隠しながら低く戦闘の構えを取る。

 背中で見ているリオだけは見えてしまうが、それはもうどうでもいい。背中から自分の相棒のナイフを引き出し、この後の展開に頭を巡らす。


 命の貴重さを説いておきながら、すぐさま人殺しに手を染めるつもりは毛頭ない。

 このナイフは何処まで行っても自分専用だ。指を切りつけその血を麻痺毒か睡眠毒にでも変質させてどうにかこの場を切り抜けようと考えを固めたその時、ラムスの方が先に口火を切って来た。


「どうにも奴隷らしくない奴隷ね。別にあなた達の事を告げ口する気は無いわよ? それこそ私の管轄外だもの……」


 ラムスはそう言って横のチェリオに目を向けた。

 チェリオはその視線を嫌がるように目を逸らし、ガシガシ頭を掻くと大きなため息を吐いて肩を竦める。


「はーやだやだ……。俺ってどうしてこう、運が悪いんかねえ……。俺らはその告げ口される方の人間だって―のに……。人員補充を願い出て、そっこうその日にそいつらがトラブルって……。俺なんかただでさえ後がねえってのによ……。あー怖え……アルフォスに知られたら一発でこいつらの仲間入りになっちまう……」


 顔を顰め、天井を見上げながら溢したその後、引きつった笑みを浮かべて九郎を見やる。

 そしてもう一度溜息を吐くと、九郎を呼び込むように手を仰いだ。


「とりあえず事情の説明からしてもらおうかね。ラムス、お前の部屋を借りるぞ?」

「あら? 私の部屋の場所なんて教えてたかしら?」

「新人相手に何からかおうとしてやがる。おい、リオって言ったな? その弟らしきものも連れて来て良いから黙って付いて来い!」


 有無を言わせぬ感じで、チェリオはすたすたと悍ましい牧場を抜けて更に奥へと歩いて行く。

 九郎は一瞬、このまま踵を返して逃げ出そうかと考える。迂闊だった自分を叱咤したい気持ちだったが、彼らの前で彼らの主人、シオリに対して反意が有る事を大上段に示してしまった。「奪われたものを取り返す」と声高に宣言してしまっている。


 なのにラムスとチェリオはその事自体には何の言及もしてこなかった。


(罠か……?)


 考えても今日、今出会ったばかりの者達だ。その性格も、人となりも何も知りえていない。


「あなたの質問に私は答えてあげたでしょ? なら今度は私が聞く番だわ。でもここで話すのもなんだから……ね?」


 考え込む九郎の背中をラムスの言葉が押していた。

 考えてみれば九郎の質問に答えること自体が、この屋敷ではタブーである筈だった。シオリが人間の尊厳や知性すら奪える者だと教える事は、それ自体がシオリに知られれば反意と取られてしまいかねない。

 その危険を冒して、何故自分のようなポッと出の新人の質問に答えたのか。


 理由は分からないが彼女がその言葉を言う前に浮かべた、哀愁の含んだ顔を思い出し、九郎は言葉に従う事にする。彼女は彼女なりに何か理由があったに違いない。だからこそ九郎にシオリの能力を伝えて来たのだ。


「リオ……フォルテを連れて付いて来い」


 後ろを振り返らずに九郎は短くリオに声を掛けて彼らの後を追う。

 ここから先は罠だと思いながらも踏み込む道だ。リオとフォルテ――二人を守りきる事が自分の第一だと優先順位を心に決め、取り出したナイフをずっと自分に押し当てたまま、九郎は奥へと歩き出した。

 

 冷たいナイフの感触が、唯一この人成らざる人の牧場の中で九郎を正気に保たせている気がした。

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