第170話 閑話 少女達に吹く風


 アルバトーゼの小高い丘に冷たい風が吹き降ろす。

 エーレス山脈から吹く風は万年雪の冷たさと湿気を含み、赤い髪を揺らしてアダル平原へと消えていく。

 黄金の麦の海を見下ろし、ベルフラムが髪を押さえる。

 再び訪れた冬の始まり。

 その光景を見下ろしながらベルフラムは冷たい風に、誰にも聞こえない声で囁く。


「クロウ……私……13歳になったわ……」


 愛しい人の名前を呼んだ、その小さくか細い声は、望んだ通り誰の耳に届くことなく風に運ばれ消えていった。


☠ ☠ ☠


「もうっ! 大人しくしてください!」


 今日も賑やかな浴場にレイアの困り切った声が響く。


「舐められてるのかしら?」


 ベルフラムが湯船に浸かり、子供の髪を梳かしながら首を傾げる。

 子供達を手分けして洗っているのだがレイアの担当している子はずいぶんやんちゃなようだ。

 強く言ってても余り怒っているようには見えないからかしらと、ベルフラムは苦笑する。

 クラヴィスやデンテも子供達を洗っているが、まるで流れ作業のように子供達が洗われていっているのを見るに、それだけではない気もしてくる。


 孤児院も2年目を迎え、新しく拾われた子らもずいぶんこの環境に慣れたようだ。

 基本方針をベルフラムが発案し、レイアが運営を任されているこの孤児院では、春になると子供達は巣立っていく。孤児院での生活は一年のみ……と言うより冬を越えるまでを期限としていた。

 永遠に子供達を育てられるか未定な事が理由だ。一冬越す間に孤児院では生きるすべ……飢えないすべを学び春を迎える頃には方々の職人や商人の下働きに出る事になっていた。

 ベルフラムが後継人を請け負うのだから、その出自も問われることは無いし、早くに技術を覚えればそれだけ早く生活できるようになる。

 ここでの生活を経験した者達は、皆逞しく、特に食事に関して不満を漏らす事は無くなるので結構評判は良い。普通なら下働きの彼らは爪に火を灯すような生活を余儀なくされるかも知れないが、何せ彼らはそこらじゅうで食料を得る事が出来る。少ない賃金でも食費に掛かる割合は少なく、それだけで他よりも余裕がある暮らしをする事が出来ていた。


「それにしても……」


 子供の髪を洗い終わり湯に体を沈めながらベルフラムは、眉を寄せる。

 空気を震わせるような動きと、上下左右に揺れる物体を半眼で眺めふと俯く。


「ちゃんと栄養も取ってるし……クラインから聞いたヤギの乳も飲んでるのに……」


 一人言ちりながらベルフラムはポフポフ自分の胸を揉む。

 揉むほど無いことが更にベルフラムの眉間の皺を深くしていく。


 昨年に続き今年も全く成長を見せなかった不甲斐無い胸に焦るのも仕方が無い。

 力は付いて来ているのに二の腕も腹も柔らかいままだ。


(好きな人の事を考えて揉めば大きくなるって……メイドのサリアが言ってたのに……)


 恥を忍んで尋ねてみた方法もとんと効果を表さない。

 それでもいつか来る成長を夢見て続けてはいる。しかし、最近はなんだか変な気分になって来てしまうので、戸惑いを覚えているのも確かな事だ。

 言いようの無い焦燥感とでも言えばいいのか、切ない気持ちと言えばよいのか……。

 あの感情が胸を大きくするのだろうかとベルフラムは「むう」と唸って天井を仰ぐ。


「やっぱり、お母様からして無かったから……受け継いじゃったのかしら……」


 ベルフラムは湯船の中で大きく伸びをしてそのまま目を瞑る。

 肖像画でしか知らない母に一言文句を言いたくなってきた。


「何をです?」

「はわぁっ!? な、何でも無いわよ?」


 いつのまにか他の子供達を洗い終えたクラヴィスが隣に来ていた。

 茶色の髪を纏めて肩に流し、しゃがみ込んで顔を覗くクラヴィスは美しく成長している最中だ。

 クラヴィスももう9歳。来年の夏前には10歳を迎える。獣人故に成長も早く、日々鍛えているので体も引き締まっている。なのに柔らかそうにも見えるのは彼女がまだ少女だから……との理由だけではない。少女の躰に女の魅力を加えつつあるその胸は、もうベルフラムでは逆立ちしても敵いそうにない。

 この一年の間にベルフラムとかなりの差を付ける事になったクラヴィスは、もうその話題には触れて来なくなっていた。

 あきらかに大きく育って来た自分が、全く育っていないベルフラムに何を言っても落ち込ませることを分かっているからだろう。

 その優しさが嬉しくも有り、悲しくも有るのが乙女心の複雑なところだ。


 ベルフラムの隣に腰を下ろしたクラヴィスは、静かに湯に体を沈めながらベルフラムの髪をくしけずる。

 ゆっくり優しい手つきで丁寧に頭を撫でられると、湯の心地良さも合わさって眠気が襲って来てしまう。


「ベル様の髪はいつも綺麗ですよね……。私は直ぐ広がっちゃうから、雨の日なんか大変なんですよ?」


 ゆっくりと話すクラヴィスの言葉が耳に心地よい。

 ベルフラムの焦燥をほぐしてくれるような言葉。女の魅力は胸だけじゃないと遠回しに励まそうとしてくれているのだろう。些細な事――ベルフラムにとっては重要な事だが――で気を回させてしまっている事に、主としての不甲斐無さを感じるが、それでも魅力があるとの言葉はベルフラムを元気にしてくれる。


「私はクラヴィス達のふわふわの髪も好きだけどなぁ……」


 褒められれば余裕が生まれる。他者を思い遣れるのがベルフラムの美点だ。

 ベルフラムの言葉にクラヴィスは擽ったそうに「ありがとうございます」と返して、再びベルフラムの髪をとかす作業に戻って行く。

 心地良いクラヴィスの手を頭に感じながらベルフラムは夢想する。


(遅い子なら成人を過ぎてから成長する事も有るって言うし……)


 母を知る人から母の事を聞く限りあまり望みは高くは無さそうだが、それでもベルフラムは諦めてはいない。

 自らを『諦めの悪い者』と自認するベルフラムに、諦めると言う言葉は無いのだ。

 頼りない自分の胸を叱咤するように、ベルフラムは再び胸を揉みながら体をクラヴィスへと委ねていき――――。


 フニョン


 後頭部に当たる柔らかさに、眉を下げることは止められなかった。


☠ ☠ ☠


「じゃあベル様のことよろしくね」

「あい!」


 夜の帳がおり、小雨のぱらつく外を見ながらクラヴィスは妹といつものやり取りを済ませると窓を開けた。

 真っ黒なフードを目深に被り、ナイフの位置を確認すると、音も立てずに窓から飛び降りる。

 真冬の雨は雪より冷たい。吐く息は白く濁り、暗闇に白い炎を吐いたように広がる。


(明日は雪に変わってるかな)


 肌を突き刺す冷気に僅かに身を震わせるとクラヴィスは闇の中を駆けだす。目指す先はアルバトーゼの街の北。スラムと歓楽街が合わさった街の中でも一等治安の悪い場所だ。そしてクラヴィスとデンテが生まれた場所でもあり、また嫌な思い出の詰まった場所とも言える。

 飢え、寒さ、暴力……そこにはクラヴィスが恐れる全てのものがそろっていた・・・・・・


 レミウス城下街ほど広い街では無いとは言え、アルバトーゼも大きな街だ。しかし大人で半日かかる距離を一時の間に往復しているクラヴィスにとっては、目的地までの距離など無いも同然だった。

 クラヴィスはスラムに入り、一際奥まった場所に立つあばら家の前で止まる。

 中からは下品な男達の笑い声や、陶製のカップの割れる音。そして罵声や怒声が聞こえてくる。


(相変わらずな匂い……)


 眉を顰めたままクラヴィスはためらう事無く扉を開く。

 一瞬で自分に集まる鋭い視線。剣呑な目つきと驚愕した目つきの割合は今日は7・3と言ったところか。

 部屋の中に踏み込みクラヴィスは眉を顰める。

 アルコールの匂い。すえた汗の匂い。吐しゃ物、煙草、そして良くない薬の匂いが混じった酷い匂いだ。

 何度来ても慣れないと、眉間に皺を刻みながら数歩進む。と、弾かれた様な笑い声が巻き起こった。


「ぶはははははっ! ここは子供の来るようなとこじゃねえぞぉ? なんだぁ嬢ちゃん? 花売りか?」

「まだガキじゃねえか。お前も好きだよなぁ?」

「お貴族様はもっと小さいのにも入れてるそうじゃねえか。なら俺らも味わってみてもいいじゃねえか」


 下品な物言いのからかいは、手前のテーブルに座る男達からのようだ。


(たまには違うセリフを聞いても良い気がするなぁ……)


 初めて見る顔だが、そんな事を思い浮かべたクラヴィスは、男達を無視してカウンターへ向かう。

 昨年なら自分の胸もそれほど成長していなかったから、少年に見られる事はあってもこんな下品な言葉を貰う事は少なかった。クラヴィスの主、ベルフラムは自分の胸を羨ましそうに見て来るが、クラヴィス自身は育って来た胸に左程の感情も抱いていない。どちらかと言うと戦闘の際に邪魔になってきているので煩わしいとさえ思っている。まあ、この言葉は主にとって厭味にしかならないので、決して言葉に出す事は無いが……。


「おい、嬢ちゃん。幾らだ? 俺が買ってやるよぉ」


 カウンターを目指し歩くクラヴィスの後ろから声が掛かった。

 先程クラヴィスをからかっていた男達の一人だ。

 かなり酔っぱらっているのか赤らめた顔で目をとろんとさせた男は、クラヴィスを値踏みするように眺めて酒臭い息を吐き出しくる。


「いらない」


 顔を顰めたままクラヴィスは短く答える。

 男はクラヴィスの言葉に一瞬動きを止め、その後いやらしい笑みを浮かべて片眉を上げた。


「なんでぇ? 俺が好みだったんかぁ? 金がいらねえなんて可愛いとこがっ!?」


 陶製のコップがまた割れた。

 どうにも男はクラヴィスの言葉を都合よく解釈したらしい。

 買って欲しくない、男は必要無いと言った意味の「いらない」を「タダで抱かせる」との意味に取り違えたようだ。ずいぶん幸せな思考回路をしていると、クラヴィスは倒れた男を一瞥する。

 言葉と共にクラヴィスを抱きすくめようとしてきた男は、キョトンとした顔のまま床に仰向けになり天井を眺めていた。

 何をされたのかも分からない様子で男はクラヴィスを見やる。


「酔っぱらい過ぎよ。おじさん」


 クラヴィスは薄い笑みに雪のような冷たさを混ぜてやんわり言う。

 侮蔑や嘲笑の言葉を放たないのは、何もクラヴィスが慈悲深いからでは無い。

 クラヴィスの行動理念はどこまでいっても主を中心に回っている。

 僅かな諍いの種でも自分の行動が主の不利益になってはならない――そう考えての言葉だ。

 ただこの男のように、年端も行かない自分のような子供に情欲を仄めかせてくる輩には、必要以上に嫌悪を覚えてしまう。笑みに冷たさが混じるのを止められない。

 雄一と言う自分達を最大限追い詰め、九郎と別れるきっかけを作った男がそういう趣味・・・・・・だったのだから彼女の嫌悪は根深い。


「てめえ……」


 精一杯笑みを作って諍いを避けようとしたクラヴィスだったが、そう自分の思い通りにも事は運ばない様子だ。

 一瞬の間に転ばされ、天井を見上げていた男に怒りの表情が浮かぶ。

 面倒臭いなぁ……クラヴィスが溜息を吐き身構えようとしたその時――


「おう、おめえさん初顔だな」

「ちょっと付き合えや」

「な、なんだ手前ら!?」


 ひょろ長い男と大柄な男が天井を見上げていた男を押さえつけた。

 無駄な時間をかける必要は無くなった――クラヴィスは眼だけで二人の男に会釈を返すとカウンターの椅子に腰かける。


「飲んでるだけなら何も言わねえが、仕事の邪魔するつもりなら黙っちゃいられねえからなぁ? おぉ?」

「どっかの組織のもんかぁ、おら! 歯も生えそろわねえガキにしてやろうか?」


 男達の剣呑な言葉にクラヴィスに絡んできた男は顔を青くして震えている。

 どうやらまったく状況が飲み込めていないようだ。

 クラヴィスがこの場に来るようになってからもう1年経っている。

 クラヴィスを知る者達は剣呑な視線を、知らないものは嘲りと驚きの視線を投げかけて来ていた事を男は気付かなかった様だ。


「ヤギのミルクを……バターを入れて」

「ぎゃははははっ! 子供が背伸びしてこんな場所に来るんじゃ……」

「おう? お前も初顔だなぁ? ちょっと裏まで付きあえや」


 クラヴィスがカウンター越しに符丁を通すと、また別のテーブルから嘲笑があがった。

 しかしその言葉も言い終わらぬ内に、隣の男に凄まれる結果となっている。


「今日は初顔が多いのですね」

「他領から流れてきた者達がいたようですね」


 クラヴィスが銀貨をテーブルに置きながら感想を漏らすと、店主がコップをクラヴィスの前に置きながら苦笑を浮かべた。カウンターでクラヴィスを遠巻きに眺めていた男が目を瞠る。通い慣れた感を見せるクラヴィスにも驚いているようだが、クラヴィスが差し出した銀貨の枚数にも驚いている様子だ。

 とてもミルク一杯の値段では無いのだから、驚くのも無理は無い。


(あの人も新顔? 治安が悪くならなきゃいいケド……)

 

 男を一瞥してクラヴィスは湯気の立っているコップに目もくれず、コップの下に挟まれた小さな布を広げる。

 短い間に目を走らせたクラヴィスは布を破りコップに口を付けた。


「ミラデルフィアにいたことまでは分かったのになぁ……」


 誰に聞かせるでも無く、クラヴィスはポツリと呟く。


 良い思い出など一欠けらも無いこの場所にクラヴィスが足しげく通っている理由。


 ベルフラムの思いを遂げる為にも、何よりクラヴィス自身の為にも、クラヴィスは九郎の行方を捜していた。

 当初は自ら情報を探そうとしていたが、頭の良いクラヴィスは直ぐにそれでは限界がある事に気が付く。

 いくら足に自信が有っても、ベルフラムを守ると言う責を課しながら、方々を訪ね歩くには無理がある。

 そこで考え付いたのがこの場所……ならず者たちが集う酒場での情報の収集だった。


 貴族であるベルフラムでは考え付かない方法――国に賞金を掛けられている身である九郎を捜すのに、正攻法では難しいと思ったクラヴィスは、逆にならず者達から情報を集めようと考えついた。

 ならず者たちはそれぞれ脛に傷を持つため、一か所にとどまり続ける事は余りない。他領を、国を越えて住処を変えざるを得ない。

 だからこそ情報が集まるのでは……そう考えクラヴィスは九郎の情報を買い取る依頼をこの、ならず者たちの集う酒場に出していた。店の中の新顔達が既存の客に絞められている訳は、クラヴィスが客――情報を買い取る上客であることを知っている者と知らない者の差――と言う訳だ。


 クラヴィスの考えは当たり、やっと九郎の行方を掴んだと思っていたのだが……。

 約1年半前までは確かにミラデルフィアと言う小国に滞在していたとの情報を掴む事は出来た。

 だがここ一年九郎の情報は全く上がって来ない。忽然と姿を消したかのように、人々の噂に登らなくなってしまって、クラヴィスも落胆を隠せないでいた。

 流石のクラヴィスも、九郎が現在海の底、魚に寄生して多足等脚類と生活しているとは夢にも思わない。

 ――逆に思い当たっていれば正気を疑うだろう……。


「このところ有益な情報をお渡し出来ていないようで……これは当方からの詫び……と言うところでしょうか」


 カウンターに凭れ掛かるように落胆を見せたクラヴィスに、小さな布が差し出される。

 店主からの心づけだろうか。いつも笑顔なのに全く笑っているようには見えない目の細い男をチラリと見やり、クラヴィスは布を広げる。


「他領で何か起こっている……?」


 そこに記されている情報を読み取りクラヴィスは店主を見やる。

 不可思議な人の移動。通行税の引き上げ。麦を初めとした食料の高騰。

 かなり不穏な事が記されている。


「どうも南の領地で疫病が発生したようで」


 店主はクラヴィスの視線に顔を向けず、独り言を呟くように答えてくる。


「疫病……ですか……」


 残ったミルクを眺めながらクラヴィスは眉を顰め、ひとくち口に含む。

 バターの塩気を含むミルクは、呟いた言葉と共に甘じょっぱい味を含んで喉を落ちていった。

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