第167話  夢見たもの


「クロウ、おかえりなさっ! お疲れ様!」


 アルトリアは嬉しそうに微笑んで九郎を出迎えた。まるで新婚ほやほやの幼な妻のように扉の前で待ち構えていたアルトリアに、九郎は数歩後退る。花が咲いたようなアルトリアの笑顔に動揺した。

 アルトリアの格好は自ら作り出した白と黒の花嫁衣装姿だ。胸から上が純白で、下は黒。ドイツの衣装のディアンドルの裾を長くしたような装いだが、大きな胸が更に強調されているようにも思える。


「おう……ただいま」


 九郎は多少バツの悪い顔を見せながらも、それに答える。

 九郎を見上げ微笑むアルトリアがあまりに幸せそうで、花嫁を迎えに来た新郎にでもなったのかと錯覚した。

 それに加え、朝に見せていた妖艶な雰囲気と、今の子供のような満面の笑顔のギャップに思わず赤面してしまって誤魔化した形だ。

 

 九郎の格好と言えば、もちろん全裸では無く、アルトリアの父のお下がり再び貰って着こんでいる。

 簡素なシャツと丈の短い長ズボンと言う、いつもの格好に余り違いは無い。ただ新郎と言うには些かみすぼらしい。


「ほら、寒かったでしょ? 早く中に中にっ」


 扉を開けて早く中へと誘うアルトリアの背中を眺めながら、九郎は小さく肩を落とす。

 結局何も出来なかった気がしてならない。

 騎士達の襲撃も、アルトリアの父――悪霊達を祓うのも結局アルトリア一人で片付けてしまった感がある。


 ――――自分が出来た事と言えば――――


 アルトリアが父親や村人たちの怨念を祓った後、九郎は燃え盛る村の火を消し止める為に奔走していた。

 とは言え、水だけは川一本分ほど溜めこんでいる九郎だ。

 放水車宜しく大量の水を生み出し、消化に努めるのにそれほど苦労はしていない。


(はぁ……もっとスマートにカッコ良く出来ねえもんかねぇ……)


 アルトリアに見られないように九郎はそっと溜息を吐き出す。

 自分の掌を眺めてみても、使える力が限られているので無双する自分が思い描けない。

 アルトリアが『不死』と分かっていれば、騎士達相手に無双できたのだろうか。 

 毒を使えば彼らは一瞬で全滅させることも可能だっただろう。アルトリアに被害が及ばなければ出来たであろうかと一人考え、首を振る。

 もしアルトリアが『魔死霊ワイト』でなく、犯されでもしていたら自分も怒りを抑える事が出来るとは思えなかったが、ならば裸にされただけだとしたらどうだったのだろう。

 女性を辱められたのなら万死に値するとの思いはあるが、はたしてそれは本当に『死』に吊り合う罪なのだろうか。

 そもそも彼ら全てが下衆だったのかどうかも分からない。騎士として暴行を止めなかったのは罪だと感じているが、止められなかったのならそれは罪か。権力、実力、家庭……様々な要因があって従うしか手が無かった者がいても同罪と断じる事はできただろうか。

 アルトリアを押さえつけていた者達や、犯そうとしていた領主は全力で殴った。殺しても構わないと殴った筈だ。だがそれでも九郎は殴っただけだ。

 余裕も無かったし、精一杯走って何とか間に合ったから――と自分の中で幾多の言訳はできるが、あの時自分がもっと殺意を持っていれば。例えばナイフで突き刺していたのなら……そう考えると次第に眉は下がっていく。


 悪霊たちに対してもそうだ。

 九郎が本気で滅ぼそうと思っていれば、多分あの黄色い靄すら取り込めるだろう。

 修復の赤い糸『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』を使えば光すら削り取れる。

 アルトリアに父親を浄化させるという悲しみを抱かせず、自分が片を付ける事も出来た筈だ。

 だがその考えすら九郎には思い浮かばなかった。

 ただ誤解された事を謝罪し、気が済むまで弄られる事で場を収めよう……そんな甘い考えしか持っていなかった。


 その理由はアルトリアの父親がどんな悍ましい姿になっていても、一度九郎は彼を人と――自分と同類に見てしまったからだ。サクラ達やカクランティウス、アルトリアと人ならざる者達の姿を見てきた九郎は、アルトリアの父に一つの人格を見てしまっていた。

 アルトリアを狂わそうとした彼は悪――そう断じるのは容易い。だがその原因を作ったのは九郎だ。

 アルトリアが抱きしめられた事で幸せを感じ、それを妬んで彼らは現れたのだとアルトリアは言っていた。ならば嫉妬を煽った自分が悪いのでは――。


(全く……失点だらけで赤点だってのに……。うじうじ考えてもまるで答えが出て来ねえ……)


 渋面して頭を掻きむしり、九郎はもう一度肩を落とす。

 力が欲しい――これほど切実にそう思う日が訪れるとは夢にも思ってもいなかった。

 今日の出来事を一言で表せば自分の力の無さが原因に思えていた。

 騎士達を一瞬で無力化する力があれば、彼らをふん縛ってしかるべき場所へ突き出す事も出来たのではないか。

 アルトリアが捕えられた時でも一瞬で判断し、彼女を助け出せる実力が有れば、そもそも彼女は狂った振りをしなくても良かったのではないか。そしてそのままアルトリアを抱えて逃げれば……。


(そうすっと今度は親父さんが悪霊のままここに留まる事になっちまうんだよなぁ……。で、結局アルトはここに囚われたまま……)


 結局元の思考の迷路に戻って来た。

 一番良い方法はどれだったのか。選べる手立ても無いまま、最高の結末を考え、九郎は顔を顰める。


「どうしたのさ? 難しい顔して」


 顔をあげるとアルトリアが九郎の顔を覗き見ていた。

 父親を祓ったアルトリアに要らぬ気遣いをさせぬよう心がけていたのに、思考の迷路に嵌り過ぎて気付く事が遅れた。

 何から何まで締まらないと、ひそめた眉を元に戻し九郎は苦笑を浮かべる。


「なんでもねえさ。親父さんたちの墓も作ったけど、アレで良かったんか?」

「うん。ホントはもっと早くに作るべきだったんだけど……ボクが意気地なしだったから」

「亡骸が無けりゃ、墓も作れねえだろ? 今日が親父さんたちの命日さ」


 アルトリアが父親を祓った事で大量の死体が白い骨となって散っていた。

 それを集め教会の前に掘った穴に埋めて埋葬していた。

 大岩を墓標代わりに立て、傍らにアルトリアの夫……グレアモルの石像を立て掛け、アルトリアが魔法で全ての名前を刻んでいた。


 意気地がない……九郎は否定の言葉を口にしたが、実際アルトリアの言う通りだったのだろう。

 彼女が恐れたのは日常からの拒絶。そして徐々に人から離れて行く事。

 一人孤独に暮らすアルトリアは、ギリギリの線で自分を保つために村で変わらない日々を作り出していた。

 自分を襲って来た者達を操り、死者だけの村で生者を装い。

 邪悪で穢れたアンデッド――そう自嘲し悲しそうに俯いたアルトリアを九郎は抱きしめる事くらいしか出来なかった。死を振り撒く彼女は邪悪かどうか……その答えが分からなかった。

 人は誰しも生きていく限り命を奪う。それは分かっている。だが『不死』の自分達が命を奪う事は正当なのか……自分に向けても答えが出ない問いに、安易な慰めの言葉は出て来なかった。


「せめてこれからは食う分だけにしておこうぜ?」

「んー? 何それ?」


 九郎はアルトリアの頭をポンと撫で、出ない答えに折り合いをつける。

 食べなくても死なない自分達が、それすら厭えば……それはもう人では無いのではなかろうか。そんな不安が頭を過っていた。

 結局九郎もアルトリアと同じ。人であろうと人の生活を演じることを選んだ。飢えても死なない九郎であっても、人でいたい。死なない自分が人を殺す事に疑問を持っていても、全ての生命を犠牲にしない暮らしが出来るとは思えない。ならばせめて人らしく生きようと決めた九郎の言葉に、アルトリアはポカンとした後首を傾げていた。


「まあいっか! それよりクロウ! はいっ!」


 ひとしきり悩んでいたアルトリアは九郎に向きなおり両手を広げる。

 促されるままに九郎はアルトリアを抱きしめる。がんがん何かを吸い取られ、立ち眩み似た眩暈を覚える。

 今日一日、アルトリアは事ある毎に九郎に抱きしめる事をせがんでいた。

 抱きしめられれば幸せと言っていたアルトリアに、何度でも抱きしめると宣言しただけに九郎に拒否権は無い。

 ただどれだけ吸われても九郎は衰える事すらなく、逆にアルトリアを抱きしめる度に九郎のクロウが元気になる。なにせアルトリアはいろんな部分が柔らかく、2年以上禁欲生活を余儀なくされている九郎には正直劇薬だ。だが断ることも出来ないような魅力を、アルトリアはこれでもかと言う程持っている。


「ぁぁ……クロウ……あったかい……。ボク……濡れちゃう……」

「ゆ、雪の中消化活動とかしてたからな! ちょっと体拭いて来る!!」


 それに加えてアルトリアの危うい言動が常に九郎の理性に揺さぶりを掛けてくる。

 自分でも認めているだけあって、アルトリアはかなり好色だ。常にスキンシップを求め、自然な動作で胸や腰を摺り寄せてくる。思春期の中学生男子もかくや、春先の猫かと思うほどだ。

 とろんとした目つきのままに九郎に抱きつき頬を摺り寄せ、ここぞとばかりに胸を押し付けてくる。


「や~ん。待ってぇっ!」


 このままでは危ない。俺は自室に引き籠らせてもらうぜ! と心の中で死亡フラグを思い浮かべたのが悪かったのか――。九郎が踵を返すと同時にアルトリアが腰に全体重を預けてきた。


「あでっ!?」

「えへへへ……ゴメンね……」


 狼狽えていた所為もあっただろうが、それ以上に狙って押し倒された気がする。

 バランスを崩したわけでも無いのに、アルトリアのような少女一人の体重で転ぶほど九郎の体は軟では無い。

 やはり力も相当なものを持っている……疑うような目つきでアルトリアを睨むとアルトリアは視線を逸らしながら舌を出している。


(まだまだ俺の試練は続くぜぇぇぇ……。チクショョョョョォォォウ!)


 九郎はアルトリアに馬乗りにされたままゴクリと唾を飲み込む。

「ゴメンね」と言っておきながらアルトリアは全くどこうとしていない。それどころか熱の籠った眼差しで九郎をじっと見つめ、次第に頬を上気させてきている。

 アルトリアがかなり好色なのは知ってしまった。そして彼女が抱きしめられる先を望んでいる事も今朝の一件で想像できてしまう。


「ねえ……クロウ……もう夜になるね……」


 ふっとアルトリアが窓の外に視線を外す。夕闇が辺りに立ち込め、紫色の空がその色を部屋の中まで運んでいる。ホウっと胸を押さえて息を吐き、再び九郎に戻したアルトリアの瞳は、紫色が更に色濃く輝いて見えた。

 九郎に跨りじりじりと詰め寄って来るアルトリアの色気に気圧されるように、九郎は後退る。

 アルトリアを腰に乗せているので、その距離は離れようが無いのを気付けていない。

 それほどにアルトリアの放つ色気は強烈で、血液が一点に集まり思考力を奪ってくる。

 

「そ、そうだな……。今日は色々あったから……疲れたよな?」


 上擦った声で九郎が誤魔化す。ここでそんな雰囲気を醸し出されてもどうしようもないのだ。


「そうだね……早く寝たいよね? ね?」

「ま、まだ日が沈んだばっかりじゃ……」


 話題の選択を間違えたかと九郎は渋面する。同時に後ずさった方向も、何故この方向に動いてしまったのだと、背中に当たる藁のベッドの感触に青褪める。引いた血の気は驚くほど早く下がり、何故だか下で留まり続ける。

 跨っている腰の変化にアルトリアがピクリと体を震わせ、九郎に覆いかぶさるように耳元に唇を寄せ、


「ボクね……さっきから躰が火照ってしょうがないんだ……」


 囁くように熱い吐息を吐いた。告げて再び顔を上げたアルトリアの瞳がすうっと三日月型に弧を描く。夕陽の所為か色香の所為か……その瞳は今迄見た中で最高に輝いていた。

 両手で自分の両頬に触れ、同時に肘で胸を押し上げるアルトリアの九郎を見下ろす瞳は、猥らで妖しく艶やかで――――。

 九郎はだらだら汗を流す。決して暑いのではなく、どちらかと言うと寒い。冬なのだから当然だ。

 九郎はもう一度唾を飲み込み、必死に頭を巡らせる。


「か、風邪の引きはじめかもな! 裸だったもんな!? 今日は温かくして早く休めば……」


 言って阿呆かと心の中で突っ込む。話題をそらそうと考えた結果がこれでは、何の誤魔化しも出来てはいない。アルトリアは『魔死霊ワイト』――アンデッドだ。風邪など引くはずも無く、無理やり話題を変えようとした事がバレバレではないか。

 馬鹿なセリフを言い放った九郎に、アルトリアは一瞬キョトンとした表情を浮かべ、


「うん……ボク風邪かも……。頭がボーっとして、胸が苦しくって……」


 眩むような色気を孕んで、九郎の言葉に乗っかって来た。

 胸を押さえる素振りをし、熱に浮かされたように顔を赤らめ、額を九郎の額に寄せる。

 熱く籠った息を吐き出し、アルトリアが九郎の胸に顔を埋める。


「な、なら温かくして寝た方が……アルトッ!? 何で俺の服ぬがそうとしてんのかなぁ……服……足りない?」


 震える声と引きつった笑顔のまま、九郎はアルトリアに問いかける。なぜだか背中に冷や汗が流れ、九郎がブルリと体を震わせる。風邪だろうか……九郎はそんな現実逃避を始める。

 九郎の胸に顔を埋め、口で器用にシャツのボタンを外していたアルトリアが徐々に下へと下がって行く。

 マズイ――九郎の頭の中で警報が鳴り響いている。全軍撤退を命じていると言うのに、そこに居すわる者達は誰一人動こうとはしない。見上げた特攻精神である。


「ううん? ボク風邪かも知れないから温かくしなきゃ……」


 シャツの作りが荒く、3つのボタンしか無かった事が幸いした。だが押し付けられた胸の所為で、九郎の冷や汗は止まらない。

 寸での所でアルトリアが顔を上げ、今度は自ら胸元の紐を緩め始める。胸から上だけが純白のドレス。その胸元が緩められ、押さえ込まれていた質量が弾けるように露わになる。

 目の前いっぱいにひろがる凶悪な凶器。


「な、なんで言ってる事と逆の行動しようとしてんのかなぁ……なんて……」


 上擦った声で呟きながら、九郎は背中に感じた寒気の答えに行き当たる。

 あれは恐怖……。蛇に睨まれた蛙同様、逃れられない運命を知って体が恐怖に震えたのだ。

『死』から解放された九郎は、生命の根幹を成す恐怖からも解放されたと思っていた。

 事実、アルトリアの父のような悍ましい姿を目にしても、心の中に恐怖は一欠けらも生まれず、海の中で一年半以上暮らしていても、命の危機は感じた事が無かった。精々動けなくなってしまう事への煩わしさに対する嫌悪――それを恐怖と感じていたくらいか。


 だがここに来て九郎は本心から恐怖に震える。

 結末が分かっていても逃れられない。不能と罵られようが、恥をかかされたと泣かれようが、どうする事も出来ない制約。今の九郎にとって熟れた果実は全て毒。『不死者』すら殺す猛毒だ。

 求められなければならないのに、求められても手出しが出来ない。酷く歪んだ現状にクロウが顔を歪める。


「ねえ……クロウ……」


 うっとりとした視線のアルトリアの顔が近づいて来る。


「はひ……」


 脂汗を大量に流したまま九郎が答える。

 その唇を塞ぐようにアルトリアの唇が重ねられる。逃げられないよう頭を押さえ、貪るように口付けを交わしたその後、荒い息を吐いてアルトリアが強請るように九郎を見つめ――囁く。


「ボクを中から温かく……シテ?」


 襲い掛かる誘惑。逃れられない甘美な絶望。その結末は残酷だ。

 出撃を待ち望んでいた兵士達は戦場に出る事なく磨り潰される。

 クルミ割り機で叩き割られ、ニンニク絞りでミンチにされる。


「アルト……悪い……理由は……あと……で……」


 激しい痛みの中で九郎はそう告げるのが精一杯だった。

 見てるだけでも寒気がするような痛みを味わい、ブクブクと泡を吹いて白目を剥く。

 まさか言葉だけでここまでクルとは予想外だった。

 今まで立ち上がっても痛みは無く、最終ラインを突破する寸前までは何とも無かった。

 だがアルトリアの放つ色気は、言葉だけで九郎をその先へといざなってしまっていた。

 その痛みは想像の何十倍も強烈で、人は痛みに耐えきれずに死を選ぶ――それが出来たらいいなと望んでしまうくらい激しい痛み。自傷の痛みよりも遥かに強い痛みに、九郎の意識は遠のいていく。


「え? クロウっ! どうしたの!? ちょっと……! ねえってば!?」


 遠くなる意識の中でアルトリアの慌てた声が耳に響く。

 最後まで締まらない結末に自分の不甲斐無さに心の中で嘆息し、目覚めた時のアルトリアへの謝罪の言葉を考えながら九郎は意識を失っていった。


☠ ☠ ☠


「悪い……」


 九郎が目覚めたのは翌朝だった。

 これ程長い時間気絶していたのは初めてだ。

 ズボンを履き、テーブルに着いた九郎は開口一番謝罪の言葉を口にした。


「もー……突然気絶しちゃったから心配したじゃない……」


 台所の釜戸で朝食の準備をしていたアルトリアは、眉を顰めて振り向いた。

 頬を膨らまして腰に手をあて、怒ってますよとアピールして来る。


「ちゃんと訳を聞かせてよね! ボクすっごい楽しみにしてたんだから……初夜……」

「お、おう……」


 引きつった笑みを浮かべたまま、九郎は説明不足だったと頭を下げる。心の角で結婚したわけでもないのに『初夜』とは何ぞや、との冷静な突っ込みが込み上げて来るが今それを指摘しても分が悪そうだ。

 九郎は事の成り立ち――自分の正体をもう一度事細かにアルトリアに説明していく。

 自分が『来訪者』であること。そのおかげで『不死』を得たこと。『10人分の真実の愛を集めよ』との『神の指針クエスト』を課されている事。『5人に本心から抱かれたい』と思われなければ、そういった行為が出来ない事。

 九郎が最後の言葉を説明した時、アルトリアの顔はそれはもう、この世の終わりに絶望したようだった。


「すまねぇ……」

「……ボクもうヤル気満々だったのにぃ……」


 本気の悔し涙を滲ませながら、アルトリアは眉を下げがくりと項垂れていた。


「クロウって今、何人から言い寄られてるのさ……」

「……ひとり」


 テーブルに頬杖をつき、じめっとした視線で問われた九郎は正直に答える。

 またもや頭の中で赤毛の少女が飛び跳ねていたが、それは見ないふりをする。初恋は麻疹のようなものだ。偏った知識だけを与えられてきた少女の言葉を、そのまま鵜呑みにするつもりは無い。

 九郎の正体を知り、それでも抱いて欲しいと言って来たのはシルヴィアただ一人だ。


「じゃあボクを入れて二人かぁ……先は長いなぁ……」


 天井を見上げてアルトリアは再び大きな溜息を吐き出す。


「じゃあもしかしてクロウがハーブス大陸に戻りたいって言ってたのは、その人に会う為?」

「……おう」


 何だかとても居た堪れない気がしてきた。

 抱いてと求められているのに、恋人の存在を明かさねばならない。かなり酷いセリフだと苦面しながら九郎は何もかもを打ち上げる気であった。『10人分の真実の愛』を受け取らなければならないのもそうだが、当初安易に考えていたよりも、明らかに酷い男に成り下がって来ているような気がしてくる。

 ただ『英雄』になれば……顔も知らない誰かが本気で懸想してくれる――そんなアイドルじみた英雄になる予定は、厳しい現実の前に今は儚く散っている。


「じゃあすぐにでも出発しないとね? ハーブス大陸かぁ……あ、でもちょっとワクワクしてきたかも……。だってボク初めてだもん、外の世界を見るの」


 アルトリアは朝食を九郎に配りながら、口元に手をあて小さな笑みを漏らす。


「アルトも一緒に来てくれんのか?」

「当然だよ! ボクを抱きしめられる人はクロウしかいないんだよ? ボクの相手はクロウしか出来ないんだよ? 愛人でも性奴隷でもいいからさ! 駄目だって言っても着いてくから! ね? ね?」


 アルトリアの答えに九郎は引きつった笑みを浮かべる。

「もしかして自分に惚れたか?」と勘違いさせるような言動や行動のアルトリアだが、今の彼女を動かしている原動力、その全ては性への好奇心からだと気付いてしまっている。

 性に興味津々のアルトリアが唯一触れられる人間。それが九郎だっただけだ。

 ある意味身も蓋も無い消去法で選ばれた形の九郎は、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からず、頬を引くつかせる。


「待っててくれても迎えに来るぜ?」

「駄目だよ! グレアモル様達から言われた条件は『本心から抱かれたい人が5人現れる・・・』でしょ? もしその場に揃わなかったら駄目だったら大変じゃない! それにボクは一秒だって早くキミと交わりたいんだよ? デキるなら今すぐシタイんだ……あんなことやこんなこと、イヤラシイことい~ぱい!」


 自分の旅の終着点がいつ、どこにあるのかすら曖昧な九郎が、取り留めなく提案した言葉に、アルトリアは勢いよく否定を返す。そして続けられるのは、聞いてる方が赤面しそうな淫靡な欲望の数々だ。

 アルトリアは大きく両手を広げて立ち上がり、駄々漏れの欲望をうっとりとした表情で語っている。

 朝日の所為か開かれた眼が好奇心と期待で眩しく煌めいていた。


「い、いやぁ~! やっぱ米はうめえなぁ!」

「あ……ゴメ!? ボクの分の朝食一緒に配っちゃってた……。クロウの分別に作ってたんだけどボクのと同じでいいの?」


 女性が声高に語る猥談は聞いてるこっちが恥ずかしくなってくる。

 朝っぱらからする話題では無いと九郎は強引に話題を変える。

 このままアルトリアが一人盛り上がってしまい、また昨日のようなことになってしまえば笑えない。

 そう言えば、何故今朝自分は裸だったのだろうと、今更ながらに気付いてしまうがそれもあえて指摘しない方が良さそうだ。藪をつついて蛇を出す事になってはまずい。――出て来るのは九郎の蛇で、何も出来ずに頭を潰される事には変わりはない。


 九郎の突然の話題変更に面食らったのかアルトリアが、目を大きく見開く。

 昨日騎士達が持っていた糧食があったからと、麦の粥も作っていたようだ。


「ああ、こっちじゃ米はゴメって言うのか? ゴメかぁ……アルト、俺麦よりゴメの方が好きなんだけど、俺もこっち食っちゃ駄目か?」

「え? い、いや……駄目じゃないケド……。いいの?」


 九郎が申し訳なさそうに頭を掻きながらも、空になった椀を差し出す。

 呆けた様子で椀を受け取り、粥をよそうアルトリアもなんだか申し訳なさそうにしている。

 その様子から、九郎は前に食べた時は貴重なものに違いないと思っていたが、もしかしたらこの地方では米――ゴメと言うらしいが――は粟や稗よりも下に見られる食べ物なのかと思い直す。

 

「良いも悪いも、俺はこれさえありゃ、他になんもいらねえってくらい好きだぜ? ああ、うめえうめえ!」


 しかし九郎にとって米に下も上も無い。食べ慣れた食物であり、何度も夢見たものである。

 怪訝な顔で九郎を見つめるアルトリアから椀を受け取り、掻きこむように胃に収めていく。

 噛む度に広がる甘みと、程よい柔らかさが胃に染みる。


「そ、そうかい? それなら一杯作れるからおかわり……つくる?」


 涙を流さんばかりに感激した様子で咀嚼していると、アルトリアが驚きの事実を口にした。

 一杯作れるという事は腹いっぱい食えるという事で、大量にあるという事だ。


「マジかよ!? ありがてえ! 貴重なもんだと思ってたけど沢山あるんか?」

「ま、まぁ……ボクが育ててるから……」


 思わず身を乗り出した九郎に、アルトリアは頬を掻きながら視線を逸らしている。


「そうか~! アルトが作った米……いや、ゴメか~。美味い訳だよな! 特A間違いなしの味だぜ!」

「……とくえ~? 何? でも褒めてくれてるんだよね? なんだか恥ずかしいな……」


 九郎が恍惚の表情で粥を掻きこむ様子に、アルトリアは顔を赤らめ照れていた。

 アルトリアは農業従事者であるから、育てた作物を褒められるのはやはり嬉しいことなのだろう。

 チラチラと九郎を見ながら、本気で恥ずかしそうに顔を覆い、しかし嬉しそうにはにかんでいる。


「いやぁ~、マジうめえもん! 最っこ~の仕事だぜ! 畑が良いんだな、きっと!」

「もうっ! 褒めすぎだよぉ~……。でも嬉しい……。ちょっと待っててね? すぐ次のを収穫するから!」


 人との関わりが少なかった所為か、アルトリアは褒められ慣れていないようだ。

 九郎の本心からの褒め言葉に口をムズムズさせ、浮かぶ笑みを押さえようとしている。だが抑えきれない喜びにニヘラと相貌を崩し、それをニヤニヤ眺める九郎の視線に気付いて、慌てて台所の方へ向かっていく。


(あり? 収穫するって……。てかアルトの家の近くに稲なんて無かったよな?)


 2杯目の粥を平らげた九郎に小さな疑問が浮かんだ。

 

「おまたせ! どのくらい食べる? 遠慮なく言ってね?」


 その疑問の答えが出る前、アルトリアが台所から戻って来た。

 手には弦で編んだ笊のような物を持っている。


「あと2人前は食えっけど……」


 訝しんだ表情を浮かべながら九郎はアルトリアに答える。

 笊の中には何も入っておらず、アルトリアの言葉の真意を伺いかねる。


「2人前だね! うん! わかった!」


 九郎の答えにアルトリアは笑顔で答え腕の袖を捲り上げた。

 包帯でぐるぐる巻きにされたアルトリアの腕がそこにある。

 意味が分からずアルトリアの腕を見つめる九郎。


「ふふ~ん。そっかぁ……畑が良いかぁ~……」


 九郎が目を丸くして見つめる中、アルトリアはへにゃと頬を緩ませ唐突に包帯を解きはじめた。


「い!?」


 九郎が息を飲む。背筋に冷たい汗が流れる。

 包帯から顔を覗かせたのは、アルトリアの健康的な肌では無く、白く蠢く幼虫だった。

 蛆――蠅の幼虫。

 それがうぞうぞとアルトリアの腕の中を蠢いていた。白い米粒のような小さな蛆虫がアルトリアの腕を喰い犇めき合っていた。


「2人前……こんなもんかな?」


 固まる九郎に気付かず、アルトリアは独り言を呟き腕を擦る。

 バラバラと蛆が笊の中に落ちていく。


「じゃあ、直ぐ出来るからっ、待っててね? いやぁ~ん。畑が良い……だなんてっ。クロウも早くボクに種を蒔いてね!」


 輝く笑顔で投げキッスを放ちながら、アルトリアは台所へと向かって行った。


「ゴメ……ん……だったんか……な……?」


 九郎は固まったまま引きつった笑みを浮かべていた。

 昨日アルトリアが放った最初の一撃。あれは蠅だったのだろう。

 そう言えば、米を食べたことの無い外国人には、米は蛆虫に見えて気持ちが悪いとの感想を抱かれる――そんな聞きかじりの薀蓄うんちくが九郎の頭を廻っていた。

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